吉田町の唄YOSHIDA「若者共和国の120日」
竹下内閣が「ふるさと創生基金」として自治体に1億円ずつ配布したころ、吉田町では一般関係予算の1%、7,000万円で若者にイベントを委託し、長期的に人材を育成しようと、実施主体として吉田町若者共和国を90年に発足した。
吉田町という名前にかけて当時、全国に6つあった吉田町の共通の願いということで、吉田拓郎さんから『吉田町の唄』をつくってもらった。3年間、中央のミュージシャンなどを招いてコンサートを開き、そのなかでフォークシンガーの小室等さんから『吉田町の唄』を歌ってもらった。
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今から15年ほど前の話になる。吉田町で当時の一般会計予算の1%を使って若者にイベントを委託し、長期的に人材育成しようという話になった。竹下内閣が「ふるさと創生基金」として自治体に1億円ずつ配布した頃である。当時の吉田町の一般会計が70億円、その1%の7千万円を託された。吉田町若者共和国はいろんな若者の団体の集合体で農協・商工会・地域・役所のいわゆる青年部で構成された。
イベントの企画、立案、実践を通してのひとづくりをめざしたわけだがその一環に地元の歌をつくろうというのがあった。音頭でもおけさでもない曲を同じ吉田町-吉田拓郎という吉田つながりで依頼した。中学・高校・大学と拓郎ファンでフォーククラブでギターを弾いていた私が担当になった。そして受けてくれやすくするために全国に6つ(当時)あった吉田町共通の願いということにした。実際その経費は我が吉田町しか出していない。ネット上で吉田町の唄のことがいろいろ書かれているがこれが正しい話です。
若者共和国はやはり出身団体の違いが払拭しきれないでいた。私は商工会青年部出身、7千万円は大金だが零細ながら会社を経営しており自慢じゃないがその位の借金もあるし、そう怖くはなかった。しかし地域の親睦会のサラリーマンはそうはいかない。平日昼間の仕事等もあるし、イベントをテレビ放映しようとすれば50万円とかだしてくれるスポンサーも必要になる。そういったことがほとんどこっちに廻ってくる。初代の強力な指導者が引退したあと、段々と不協和音が聞こえだすし私も口にした。
それでもみんなが少しづつ我慢し続けていったが数年前に解散した。後輩諸君、ほんとに逆風の中ご苦労様でした。
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