【5/18】田村正和さんとの思い出。・残間里江子のブログ
田村正和さんの訃報に接し、
「田村さんも逝ってしまわれたか」と、
お会いしていた頃を、
しみじみと思い出しました。
私が26歳の頃ですから、
もう40年以上も前のことになりますが、
田村正和さんと松坂慶子さんが、
出演したドラマの制作発表が神戸であり、
私は「女性自身」のグラビア担当記者として、
神戸まで取材に行きました。
取材は夕方終わったのに、
なぜか一泊することになり、
夜、制作スタッフの皆さんに、
誘っていただいて、
宿泊先のホテルのバーで、
田村さんとご一緒したのです。
(先ほど調べてみたところ、
円地文子さん原作の、
「私も燃えている」という、
読売テレビ制作のドラマだと思います)
何を隠そう(古い表現ですが)
田村正和さんは、
当時私が一番好きな俳優でした。
(最初に好きになったのは高田浩吉さんで、
小学校時代は「渡り鳥シリーズ」の小林旭さんで、
中学1年からはずっと、
田村正和さんが憧れの人でした)
神戸のバーでの田村さんは、
仕事仲間に囲まれてはいましたが、
皆さん気心の知れた間柄のようでしたし、
オフといえばオフなのに、
ドラマのシーンの中からそのまま、
抜け出て来たような方でした。
「僕は漆黒の闇の中で、
しかも全くの無音状態じゃないと、
眠れないんだよ。
一筋の光も駄目なんだ」と、
私に向かって、
まるで囁いているかのような、
抑揚のないボソボソッとした声で、
語りかけてくださった時、
私もドラマの中にいるような気がしました。
それでも私は私の顔かたちを、
いやというほど解っていましたから、
台詞のような甘い言葉をも、
冷静に聴いていました。
(私が美人だったら、
勘違いしたかも知れない、
素敵な言葉でした)
そして、
たしかに田村さんには、
「暗闇」と「無音」が似合うと、
思っていました。
今となっては、
あんなこと本当にあったのかしらと、
思うような出来事もありました。
バーでは、
田村さんはウイスキーを、
ストレートで飲んでいたので、
(飲んでいるというより、
グラスを傾けていた感じでしたが)
私も水割りを頼んだら、
田村さん自らウィスキーグラスに、
氷とウィスキーを入れて、
水を少しだけ注ぐと、
ご自分の細長い指でStirして、
くださったのです。
(「かき回す」とか「かき混ぜる」という、
感じではなく、かといってキザでもなく、
とても美しい光景だったのです)
それから、
しばらく経って、
あるテレビ局から田村さんに、
ロングインタビューをして欲しいという、
話が来たのです。
田村さんは新聞や雑誌のインタビューも、
あまりお好きではないと聞いていましたから、
テレビでのロングインタビューなど、
考えられなかったのですが、
「インタビュアが残間さんならいい」と、
おっしゃってくださったと聞いて、
心底驚きました。
でも、たとえ恥をかいても、
この機会を逃したくないとの思いから、
生意気にもお受けして、
2時間近くインタビユーをさせていただき、
特番のような形で放送されました。
その後あまりお会いすることは、
なかったのですが、
何年間か毎年京都のお漬物を、
送ってくださったり、
季節のお便りも、
いただいていました。
この数年、
表にお出にならないのも、
(引退したような噂も聞きましたが)
ご自分の美意識を、
貫かれていらっしゃるのだろうと、
思っておりました。
最期の最期まで、
「田村正和」を通されたことで、
私にとっての田村さんは、
永遠に消えることのない、
存在となりました。
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