J-POPの歴史「1980年と1981年、劇的だった80年代の幕開け」
J-POPの歴史「1980年と1981年、劇的だった80年代の幕開け」
音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出している「J-POP LEGEND FORUM」。2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語っていく。Rolling Stone Japanでは、様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本番組を記事にまとめて5週にわたりお届けする。第1回目となる今回は、1980年と1981年について深く語った重要回。
オフコース / 生まれ来る子供たちのために
こんばんは。「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、オフコース「生まれ来る子供たちのために」。1980年3月5日発売のオフコース80年代最初のシングルで、令和元年師走の僕らの心境です。
「J-POP LEGEND FORUM」、J-POPの歴史の中のさまざまな伝説を紐解いていこうという60分です。伝説のアーティスト、伝説のアルバム、伝説のライブ、そして伝説のムーブメント。ひとつのテーマ、1人のアーティストを、1ヵ月に渡って取り上げようという、最近のラジオの中では贅沢な時間の使い方をしております。当時をご存知の方には懐かしく、ご存知ない方たちには発見に満ちている、そんな時間、そんな場所になればと思っております。今月の特集は「80年代ノート」と題してお送りします。1980年から89年までの10年間。毎週、2年ごと、語ろうと思っています。
2年前の2017年の10月に「70年代ノート」という特集をお送りしたのですが、何の曲で終わったのか自分でも忘れていたので改めて調べてみたら、79年12月発売のオフコース「さよなら」で終わっていたんです。80年代最初のオフコースのシングルが、この「生まれ来る子供たちのために」でした。レコード会社は「さよなら」の後なんだから、こんな暗い歌を出さないでくれって言ったんですね。「さよなら」みたいな、みんなが泣けるバラードを作ってくれと強行に申し入れをしました。しかし小田さんが「絶対これでいく」ということで、こちらを80年代最初のシングルにしたんです。下世話に言うと、70年代は下積み期間のような日の当たらない時間が長かった。で、「さよなら」で大ブレイクした後の曲をこれにした。僕らはこういう歴史を辿りたいんだ、という音楽の願いみたいなものをこめたシングルでした。
60年代、70年代、そして80年代。いろんな10年間のタームがあるんですけど、それぞれの10年間が始まって、そして終わっていく。そうした中で、もっとも劇的だったのが、この80年代の幕開けだったのではないかと思うんですね。ロックもフォークも、いろんな新しい音楽が70年代悪戦苦闘し、なかなか市民権を得られなかった。それを少しずつ得ながら80年代になったわけです。いろんな人たちが次に行くんだと走り出した。来年は2020年で、1980年から考えると40年ですよ。80年代にデビューした人たちが続々と40周年を迎える年になってきた。それもあって、改めて80年代を辿り返してみよう。そんな企画です。J-POPが一斉に花を開いた10年です。
80年代を切り開いた人たちには2つのタイプの人たちがいました。1つはオフコースのように、70年代にデビューしたけど、なかなか思うような結果を手にできなかった人たち。もう1つは、80年代の幕開けとともに颯爽と登場した人たちですね。次の人も70年に試行錯誤を重ねていた人です。売れるためにはどうしたらいいのか? みんなで真剣に考えざるを得なかった。でも、80年の始めにはそんな悩みも逡巡も吹き飛ばしてくれました。誰もが新しい疾走を開始した1980年夏。はじめてのロサンゼルスで作りあげたアルバムです。浜田省吾さん、1980年10月発売のアルバム『Home Bound』1曲目「終わりなき疾走」。
浜田省吾 / 終わりなき疾走
去年12月は「さよなら平成、忘年会特集」ということでお送りしたんですが、今年12月の1人しゃべりゲストなしシリーズは、「あなたと僕の忘年会」と決めています。そういう企画だと思ってお楽しみいただけたらと思います。
「ヒットチャートのナンバー1幻想はもう捨てた。ロックには金で買えないものがあるんだ」。これが80年代を迎えるときの彼の心境だったんでしょう。浜田省吾さんは今年の秋、ファンクラブツアーをやっておりまして、「Welcome back to The 80s」というテーマなんですね。80年代のアルバムだけでやりますっていう。去年は70年代のアルバムだけでやったんですけど、今年は80年代、しかも前半の3枚のアルバムだけで今ツアーをやっています。いいツアーですよ。本当に楽しめます。もちろんこの曲はやるでしょうね。やらないわけがないという1曲でした。
RCサクセション / 雨あがりの夜空に
80年1月の発売。これはシングルver.ですね。RCサクセションのデビューは1970年です。「宝くじは買わない」からちょうど10年ですね。72年に出た3枚目のシングル『ぼくの好きな先生』が評判になったんですね。この後、事務所の移籍問題に巻き込まれてしまい、レコードも出せない不遇な70年代を過ごしました。70年代の終わりにCHABOさんが入って新しいロックバンドの形になり、フォークブルースの形からロックバンドになって、70年代の終わりを迎えた。79年の大晦日、「ASAKUSA NEW YEAR ROCK FESTIVAL」に出ましたね。髪の毛をツンツンに立ててステージに飛び出してきたとき、「え、RC、こうなったんだ」って思ったりしました。「雨あがりの夜空に」の発売記念ライブというのがあったんです。渋谷のライブハウス・屋根裏の4日間。これは僕、行けていないんですけど、4月に久保講堂を3日間やったんです。それは見に行きました。カメラマンの井出情児がいましたね。「お前、ここにもいるの?」と、お互い顔を見合わせてニヤっとしたという余計なことを覚えていますけどね。で、この久保講堂がライブアルバム『RHAPSODY』になって発売になりました。目に見えて時代が変わり、いろんなことが動いていく。それが70年代の終わりから80年代でした。次もそういう1人なんです。それまでなかなかツアーもできなかった状態だったけれど、この曲で、世の中に颯爽と高らかに登場した。そんな曲です。山下達郎さん。1980年3月発売。「RIDE ON TIME」。
オフコース、浜田省吾さん、RCサクセション、山下達郎さんと、いい4連発でしょ? 自分で悦に入って、好きな曲を並べているだけなんですが、70年代、達郎さんは本当に思うような結果が出なかったんです。シュガーベイブの後、ソロになってデビューアルバムをニューヨークで全部作ろうと思ったんだけどお金がなかったり、苦い想いをしながら活動していった。大阪のディスコで「BOMBER」で火がついて、彼も次が見えたという状態だったんですね。RCサクセションとオフコースはレコード会社も一緒でした。シュガーベイブと、浜田省吾さんがいたバンド・愛奴はデビューが同じ年なんですよ。ソロになったのも同じ年ですね。そして79年にようやくツアーができるようになった。同じような段階を踏んでいますね。達郎さんはこの曲がマクセル・カセット・テープのCMソングに大抜擢されて、高らかな始まり方で80年代を迎えたわけです。
これも80年2月にでました。シャネルズの「ランナウェイ」。
作詞・湯川れい子さん、作曲・井上大輔さん(元・井上忠夫さん)。この頃、みんなでよく飲みにいって、スナックでカラオケもやったんですよ。この曲もよく歌ったなあっていう記憶があります。靴墨を顔に塗っていた日本音楽史上初の黒人、マーチンさん(=鈴木雅之)がよくステージで言っていることです。アマチュア時代から、鈴木雅之さんは達郎さんと知り合いだったんですね。セコハン・レコード屋さんというのがあるでしょ? そこに手袋をして早くLPをめくっていく人がいるんです。1枚ずつタイトルとアーティストを調べて、気に入ったものをすぐに引き抜くんですね。あいついつもいるな、っていうのが達郎さんと鈴木雅之さんで、お互い顔見知りだったという関係ですね。しかも、2人は大瀧詠一ファミリーです。鈴木雅之さんは、オフコースのファンだったんです。まだメンバーがたくさんいたときのオフコースの70年代のデビュー曲「群衆の中で」をテレビで歌っているのを見て、すぐにレコード屋さんに買っている。実はガロとか、ものすごく詳しいんです。そういう面を見せるようになったのも、この数年でしょうね。シャネルズの登場で、マイナーな極地だったドゥー=ワップが茶の間に広がりました。達郎さんの中野サンプラザを観に行ったとき、ステージから「シャネルズいるか?」って言ったのがデビューした直後か前の年かな。そういう交友関係ということになりますね。続いては、80年3月発売、佐野元春さん「アンジェリーナ」。
佐野元春 / アンジェリーナ
先ほどまでは、70年代に不遇だった人たちが登場しました。そういう人たちの終わりなき疾走が始まったのが80年。シャネルズと佐野さんは80年がデビューです。つまり来年がデビュー40周年ですよ。今年11月に佐野さんの『或る秋の日』っていうアルバムが出たんですね。これが、しみじみとしたいいアルバムなんです。40周年を前にしたブレイクのようなアルバムでした。ライブを観に言ったら元気だったんですよ。お客さんもスタンディングで立たせていましたね(笑)。
佐野さんは80年のデビューなんですが、決して順風満帆だったわけではありませんでした。高校のときから音楽活動をしていて、大学では「EastWest」などコンテストにも出場していたんですけどデビューできなかったんですね。その後、ラジオ局のディレクターをやり、アメリカの取材に行ったとき、サンフランシスコの空港で知り合いのミュージシャンが旅支度をしていて、「どこ行くの?」って訊いたときに、そのミュージシャンが「東海岸でやり直すんだ」と行って旅立っていった。その「やり直す」と言う言葉に刺激されて、ラジオ局のディレクターをやめてプロのミュージシャンになるんだということでデモ曲を作って、EPIC・ソニーのプロデューサー小坂洋二さんの目に止まってデビューすることになるんです。デビューするときのインタビューの発言が格好よかったですね。「胸が張り裂けそうだったから」。こういうデビューでありました。1981年、ナイアガラ・トライアングル。佐野元春さん、杉真理さん、大瀧詠一さん。こういう人たちが世代を超えた新しいポップスの担い手として、世の中に出ていくわけですね。
1980年の年間チャート1位を御記憶でしょうか? もんた&ブラザーズの「ダンシングオールナイト」だったんです。もんたよしのりさんも、70年代に思うような活動ができなくて、関東から関西に拠点を移したりする中で、これが爆発的に売れた。そういう幕開けでもありました。1980年12月はジョン・レノンが亡くなったということもありました。殺害されました。80年という年号がいろんな意味の歴史の区切りになった。そんな年末でありました。1980年3月に発売されたのがこのアルバムです。大瀧詠一さん『ロングバケーション』。1曲目「君は天然色」。70年代の不遇比べというんですかね。誰が1番恵まれなかったかコンテストをやるとすれば、どんな人たちが出てくるでしょうね。RCは当然入ってきます。達郎さんもかなり上位にランクインするでしょう。でも1、2を争うのは、大瀧詠一さんではないでしょうか。はっぴいえんどが解散したのが1973年で、そのあと自分のレーベル・ナイアガラというのを作りました。なかなかナイアガラをレコード会社が引き受けてくれなかったんですね。なんでかっていうと、サイダーのコマーシャルというのがありまして、大瀧さんはそれをレコードにしたかった。はっぴいえんどは、ああいうバンドメンバーの完成形、それぞれの個性がぶつかり合うバンドの緊張感のある作品でしたし、松本隆さんという作詞家の世界が色濃かった。大瀧さんは、もっとカラっとした遊びのようなアルバムを自分の世界で作りたかった。CMソングというのはその中に入っていたんですね。そういう音楽をやりたいと、いろいろなレコード会社に持っていったんだけど、唯一引き受けてくれたのが、フォークのレーベルだけはやめてくれと大瀧さんが言っていた、エレックレコードだった。しかしエレックがすぐに倒産してしまって、コロムビアレコードがナイアガラを引き受けるんです。だけど、3年間で12枚のアルバムを作るという、とんでもない契約に縛られてしまったんですね。大瀧さんはコロムビアに身売りするときに、レコーディングのコンソールを1番新しいものに変えるということで頭がいっぱいで、やろうと言ったものの3年間で12枚というのがものすごく過酷な縛りになってしまい、その間、ナイアガラ以外の仕事をできなかった。唯一CMソングをやりながら、それを経営の助けにしていた10年間だったんですね。コロムビアとの契約があけて、さあ自由の身になったというときに作ったのが『ロングバケーション』だった。そういう始まり方でありました。
81年というのは、松本隆さんが作詞した曲がチャートを一色に塗りつぶすという年でありました。次の曲は81年1月に出たシングルです。南佳孝さん「スローなブギにしてくれ」。
南佳孝 / スローなブギにしてくれ
冒頭の「want you」というのは、佳孝さんのデモテープに入っていたんだよって松本さんがおっしゃっていました。片岡義男さん原作の「スローなブギにしてくれ」映画化の主題歌でありました。松本隆さんははっぴいえんどを解散した後にプロデューサーになるんですね。その最初の仕事が南佳孝さんの「摩天楼のヒロイン」だった。発売日が73年のはっぴいえんどの解散コンサートと同じ日だったんですね。はっぴいえんどの解散コンサートは、それぞれのメンバーが次になにをするかというお披露目のライブでもあったんです。大瀧さんのところには伊藤銀次さんのココナツ・バンクとか、シュガーベイブも登場している。松本隆さんのところでは佳孝さんが「摩天楼のヒロイン」を歌うというステージの構成になっていたんですね。松本さんは『摩天楼のヒロイン』のプロデュースもして、さらに作詞もした。このアルバムは今でもシティ・ミュージックの走りということで半ば伝説化――なかなかこの言葉は使いたくないんですが、いろいろな形で語られるようになっているわけで、歴史的な1枚になりましたが、当時はまったく売れなかったんですね。70年代当時は、そういうのが多いんですよ。『摩天楼のヒロイン』はレコード会社がショーボート・レーベルというところで、はっぴいえんどの事務所・風都市がトリオ・レコードと組んで新しい音楽を作ろうよと始めたレーベルなんです。当然のごとくお金がなかったり、レーベルもあまりうまくいかなくて。佳孝さんも『摩天楼のヒロイン』の後はしばらくレコードを出さない。で、76年に『忘れられた夏』というアルバムでCBSソニーから再デビューしたんですね。『忘れられた夏』は松本さんが関わってなくて、79年に出した4thアルバム『SPEAK LOW』で再開するんです。それぞれ70年代に1回いろんなことをやったんだけど思うような結果が出なくて、挫折したり低迷したり試行錯誤していて、それぞれの道を探しながら70年代後半を生きてきて再び出会えるようになった。それが80年の幕開けという時代ですね。この「スローなブギにしてくれ」はチャートは1位にならず、6位だった。これは映画と主題歌のイメージが全然違ったからで。ディレクターの高久(光雄)さんが言っていましたけど、映画が公開されたと同時にレコードの売れ行きが止まったそうで。映画は新宿の飲み屋さんの話ですからね。
松本隆さんは80年の12月に近藤真彦さんの「スニーカーぶる~す」を出しています。これが80年の年末のシングルチャートの1位、そして81年第1週の1位。つまり、80年の終わりから81年は松本隆旋風が吹き荒れた中で始まった。そんな松本隆旋風を決定づけたのがこの曲ですね。81年2月発売、寺尾聰さん「ルビーの指輪」。
寺尾聰 / ルビーの指輪
作詞・松本隆、作曲・寺尾聰。寺尾聰さんはザ・サベージ、グループ・サウンズのメンバーでした。松本さんはサベージをテレビで見て格好いいなと思っていて、寺尾さんがソロになって再び出会うことになった。そこで、はっぴいえんどをやろうと思ったと自分でも話していますね。最初の一行「くもり硝子の向うは風の街」って部分が、はっぴいえんどですね。ここだけかもしれませんが。これが年間チャートの1位ですよ。70年代の終わりに始まった、ザ・ベストテンのランキング12週間連続1位。3ヶ月間1位だったんです。今では想像できないロングヒットですね。大昔の話をしてしまうと、1950年代にジェームズ・ディーン主演の映画「エデンの東」の主題歌が、「ユア・ヒットパレード」という映画音楽がたくさん流れているラジオのランキング番組で2年間1位だったんですね。2年間が終わった後に、ずっと1位だったという永久保存みたいな形で特別待遇になった覚えがありますね。日本のポップスで12週間連続1位というのはなかなか思い当たりませんね。チャートは1年間で52週あるんですけど、1981年の年間チャートのうち、松本隆さんの書いた曲が28週間1位だった。1年の半分以上、松本隆さんの書いた曲が占めていたという年だったんですね。この28週間1位を占めた曲の中の4曲目が、80年にデビューした松田聖子さんの「白いパラソル」ですね。この話は来週になるんですけど。松本隆さんは「スニーカーぶる~す」と「ルビーの指輪」ですよ。「スニーカーぶるーす」はスニーカーですから、少年性です。「ルビーの指輪」はトレンチコートですから、大人のハードボイルドですね。ちゃんと年代別に歌を書き分けていた。これも作詞家としての度量、力量、スケールを感じさせる。
1981年。忘れてはいけないのは、パンクロックの本格的な上陸です。イギリスでは76年、77年にセックス・ピストルズが口火を切ってパンクロックが始まり、日本にちょっと遅れて入ってきた。80年にデビューしたのがアナーキーですよ。国鉄の労働者の人たちが来ているナッパ服を着て、腕に赤い腕章を巻いて、「俺たちはワークソングなんだ」「労働者ロックなんだ」という旗を掲げていました。78年にARBがデビューして、その後にザ・ロッカーズ、ルースターズ、そして大トリとして九州からTHE MODSが登場するわけですね。今日最後の曲、81年6月発売のTHE MODSのデビューアルバム『FIGHT OR FLIGHT』から「TWO PUNKS」。
THE MODS / TWO PUNKS
博多の親不孝通りにある80s FACTORYというライブハウスからTHE MODSも出てきたんですね。そして、81年にBOOWYが結成されました。RCサクセションの80年の日比谷野外音楽堂を氷室(京介)さんが観るんですね。東京に来てうまくいかなくて群馬に帰ろうかなと思っていていたときに、RCのライブを見てもう1回バンドをやるんだと布袋(寅泰)さんに電話をした。そこから始まっているわけですね。1981年にスターダストレビューもデビューしました。佐野さんとか、BOOWYとか、スタレビとかアナーキーとか、みんな「EastWest」というコンテストから出てきたんですね。忘れられないのが、81年、甲斐バンドの花園ラグビー場での野外ライブ。これはおもしろかったですね。1曲目が「破れたハートを売り物に」という曲で、客席の芝生の上に座布団が置いてあったんですよ。ライブがはじまった瞬間、1万5000人のお客さんが全員座布団を投げたんですよ。国技館の相撲の優勝のシーンみたいですよ。花園ラグビー場の夜空に座布団が舞って、最前列の人はステージに向かって投げますから、コンサートが中断しちゃったんです。で、甲斐さんが「オルタモントにはしたくないんだ」って言って、かっこうよかったな(笑)。1回中断して始まったということもありましたね。81年、アリスが活動休止して、後楽園球場でバンドとソロのライブも行いました。矢沢永吉さんがアメリカに行ったのもこの年ですね。70年代が終わって 80年代が本格化した。そんな年でした。
この番組のエンディングテーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」。まりやさんは78年のデビューで、70年代終わりの女性シンガーソングライターからアイドルに流れが変わっていく波に巻き込まれてしまった。81年に活動を休止して、82年に達郎さんと結婚するんですね。本当に端境期だったと思います。私が1番忘れられないのは、81年4月の「ニューヨーク24時間漂流コンサート」。小室等さん、吉田拓郎さん、井上陽水さん。この3人でマンハッタンを24時間ストリートコンサートをしてまわる、漂流するんだという企画です。自慢話になってしまうんですけど、これ、企画構成は僕なんですね。TBSが30周年で「何か企画書を出さない?」と言われたとき、ニューヨークに行きたいなと思い、このメンツでニューヨークに行くのはあり得ないと思って企画書を書いたら通ってしまった。これが1980年代最大の思い出かもしれませんね。ガーディズ・フォークシティというボブ・ディランが歌っていたライブハウスがあって、そこに行ったらオデッタがいて、小室さんがフォークシティのステージでオデッタと「WE SHALL OVER COME」を号泣しながら歌った。そんなシーンもありました。明け方5時に、スタテンアイランド、自由の女神に向かって船に乗ったんですね。勝手に思い出しておりますが、あなたの80年代の思い出、いかがだったでしょう? あなたと私の80年代忘年会特集ということでお送りしています。来週は82年と83年の思い出の扉を開きましょう。
Edited by StoryWriter
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