松任谷正隆「クルマとトイレ」
松任谷正隆「クルマとトイレ」 JAF Mate 2018.12
松任谷家の家系は、ほぼおなかが弱い。なにかとおなかを壊す家系である。おやじもしょっちゅうトイレに立てこもっていたし、叔父にいたっては、自分の結婚式のときにトイレから出られなかったそうだ。いったいどういう結婚式だったのか見てみたかったものである。 いやいや、他人事じゃない。そういう自分も子供の頃からおなかが弱くて、ひどく苦労した。具合が悪くなるときは必ず前兆がある。家を出るときにすでに分かるのだ。そこを雑に見過ごすと大変なことになる。通学中のことで言えば、電車に乗ってしばらくして、いわゆる「差し込み」が襲ってくる。
参ったな、で済めばことは簡単だが、差し込みのひどいやつは始末が悪い。貧血まで引き起こすのである。顔は青ざめ、脂汗だらだら、意識は朦朧とし体中の力は抜ける。何度こんな目に遭ったのか分からない。意識は朦朧としたまま、 駅のトイレを探す。トイレが間に合わない、と思ったこと数知れず。しかし、人間の底力というもの篠れないところがあって、一度として歩き○○○をしたことはない。これは自慢すべきことなのか……いや、我が家系においては自慢をしてもいいと思う。
そんなわけで僕は、松任谷家の慣例に従って日常的にトイレの個室に立てこもる。とにかく差し込みが怖いのだ。トイレから出て、数分も経たないうちにまた立てこもる。もしかして……と思うから。そこで完遂出来なかったらまた数分して立てこもる。おなかを空にしたい、の一念である。たぶん中学の頃からこうだったのではないか。大人になっても変わらないどころか、 むしろ悪化してきているかもしれない。 電車に乗らなくなったのも、きっとこの経験が大きく影響 している。他人様の前で恥をさらしたくない。だからクルマに乗るようになった。動く個室。とはいえ、おなかが悪くなるのはクルマを運転していても変わるわけはなく、何度となくぎりぎりのところまでいった。
一番危ないのは高速道路で予期せぬ大渋滞に遭うときで、 おなかのみならず、メンタルも弱い僕はすぐにここでおなかの具合が悪くなる。そしてひどいときは子供の頃と同じ、脂 汗だらだら、全身の力が抜け、意識が朦朧、である。ああ、 早く非常駐車帯にたどり着きたい。しかしそういうときに限ってクルマは全然動かない。そしてようやく非常駐車帯まで あと数メートル、というところになると、決まって差し込みが一時的に治まるのである。そして頭の中ではあの狭いエリアにクルマを止め、しゃがんでいる自分を想像するのだ。のろのろと進むクルマから「汚えなあ、あいつ 」なんて声が聞こえてくる。それだけではない。「あっ、あいつテレビで見たことあるぞ!」なんて・・・。恐ろしい。考えただけでも恐ろしいではないか。
僕の同業者でもあるTは、僕と同類のおなかが弱い仲間である。僕はこの話が好きで何度となくいろいろなコラムに書いているのだが、このテーマになったからには書かずにはいられない。 Tはある日、仕事に向かうクルマの中で差し込みに遭った。僕の恐れる高速道路の大渋滞中に、である。彼の取った行動は、クルマ好きの僕にとってなかなか真似の出来ないものだった。 辺りを見回すも、非常駐車帯はない。クルマの中を見渡す もティッシュはない。紙らしきものは、彼がこれから使おう としている譜面のみ。彼は迷うことなくズボンとパンツを下 ろし、譜面をちぎってはシートに置き、○○○をすると窓か ら捨て、ちぎっては○○○をして窓から捨て、最後には残った譜面でお尻を拭いてそれも窓から捨てた、と言う。 本当かよ、とも思うが事実らしい。おかげで仕事場に着いたとき譜面がなくて参りましたよ、わははは、と笑った。笑ってる場合じゃない、道路に捨てるなんてありえないぞ。それに、譜面と言ったって紙でしかないわけだから、多少シー トに滲みたらしく、すぐにクルマはクリーニングに出したそうだ。それでも結局は臭いがついてる気がして売っちゃいま したけどね、と言っていた。 どのくらいの値段で売りに出されたのかは分からないが、 購入者がその話を聞いたら絶対に買わなかっただろう。いや 問題はそこではない。僕はその話を聞いて以来、道路上をひ らひらと舞っている紙が怖くて仕方ない。模様がついていた りするとなおさらだ。みなさんも紙だと思って油断をしていると痛い目に遭いますよ、と言いたい。 事故こそ起こさなかったから笑い話として話せるかもしれ ないけれど、力んだ瞬間にアクセルなどを間違って踏んでいたら大変なことになっていたはず。その前に腰を浮かせた時点でそうとう危険だ。だからクルマに乗る前にはトイレに行き、おなかを空っぽにして乗るのだ。
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駅長のたたり その二
僕の友人で、音楽のアレンジャーでもある武部聡志が、 仕事に向かう途中、交通渋滞の首都高で便意を催したんだそうだ。あたりを見回して、 紙の類は、彼が書いた譜面しかなかったんだそうだ。
彼は迷うことなく、そして緊急回避帯に入ることもなく、ズボンをおろすと、譜面を1枚出してはシートの上に敷いて、用を足すと捨て、別の譜面でお尻を拭いては捨て、 と繰り返しているうちに、その日やるはずの譜面を全部、使い果たしてしまったんだそうだ。
世の中にはこんな危ないやつもいるから気をつけよう。 と同時に、高速道路を舞っている紙も、 「なんだ、 ただの紙か」 などと馬鹿にしてはいけないな、と思う。
武部聡志
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