ぼくの音楽人間カタログ・ 吉田拓郎編 ・ 山本コウタロー著
1970年の初めだったと思う。" 70年代を開くフォーク・ソング"ーーたしか、そんなテーマだったのではないだろうか、NHKの教育テレビで、フォークの連中がドッと出た番組があった。「若い広場」だったかもしれない。長谷川きよしや、南正人、ソルティーシュガーも出ていた。番組の構成者が、岡本おさみだった。彼はまだ作詞家としてデビューする前だった。その時に、初めて拓郎に会った。ーーこれが拓郎かーーそう思って見るくらい噂は聞いていた。広島からえらいパワーのあるフォークの人が出てきた。 そんな噂は耳に入っていた。でも、その時は話はしなかった。むこうも、「東京が何だ」 という不敵さを全身に漂わせていたし、こちらも、どこかで「こいつが」という身構え方をしていたのだろう。 71年の5月、日比谷の野音で"ウッドスモッグ"コンサートがあった。拓郎はミニ・バンドというバック・バンドを率いて参加した。その打ち合わせで、現在のユイ音楽工房 の社長・後藤由多加から新宿の飲み屋ガンバルニャンで正式に紹介され、話をした。とっつきにくいけれど、 一度腹を割ってしまえばとことん話し込む男ーーそんな印象があった。 ニッポン放送の深夜番組「オールナイト・ニッポン」の電話リクエストで、ぼくの曲と拓郎の曲が1位争いをしたことがあった。ぼくの曲は、もちろん「走れコウタロー」で、 拓郎の曲は「マークⅡ 」。デビューシングル「イメージの詩」のB面の曲だった。それまで1位だった渚ゆう子の「京都の恋」を、ぼくの「走れコウタロー」が抜き去って、その「走れコウタロー」を1週だけ破って1位の座についたのが「 マークⅡ」だった。
また会う時は オトナになっているだろう……というくだりが実にせつない青春のラブ・ソングで、ラジオで聞いていても、いい曲だなと思っていた。 ところが、ラジオのリクエストでは1位になったのに、音楽業界誌のヒットチャート には、ベスト10どころか、「マークⅡ」のマの字も見当たらない。何でこれが1位なんだろうと思いながらも、きっと、深夜放送を聞くような若者たちに相当の人気があるんだろうなと奇妙な納得をしていた。なにしろ、他の番組でも、他の雑誌でも、どこにも見ないのに、「オールナイト・ニッポン」だけは、堂々の第1位だったのだから。 このことを、後で拓郎に話したことがある。 「あれは何だったんだろう」と聞くと、拓郎は破顔一笑、「ヒマだったから、みんなでリクエストしまくってたんだよ、自分たちで」とうれしそうに披露してくれた。何のことはない、自分たちで、自分の曲を1位にしてしまったのだった。
"今だからいえる、タクローとコウタローのマル秘エピソード・その2"
まあ、こんないい方になるかどうかわからないが、実は、大ヒット曲「結婚しようよ」は、ぼくが歌うことになっていたのだ。いや、ホントなのです。 「結婚しようよ」を聞いたのは、どこかのホールの楽屋でのことだった。 「コウちゃん(拓郎は一時、ぼくをこう呼んでいた)、こんな曲できたんだ」
「いい曲だね」
「デュエットで出そうか」
「デュエットで?」
「歌うから覚えろよ」
ボクの髪がア肩まで伸びてェ...... と、やりとりがあった。結局、デュエットの話はそれきりになってしまったが、その時、ぼくが強硬にデュエット説を主張すれば、そうなったかもしれなかった、ということであります。 「結婚しようよ」は、画期的な曲だった。 生きざまの音楽というと、イメージが堅苦しくなってしまうが、要は自分がその時に思っていることをそのまま歌うことだといっていい。「結婚しようよ」にしても、拓郎自身が"結婚したい"と思っていた気持を、そのまま歌ってしまった歌だった。 そうやって自分の気持を歌うだけの人は少なくなかったが、作品として高い完成度を持っていた、という例は、極めて少ない。拓郎は、それをやってのけてしまった。 いわゆるタレントたち、アイドル歌手たち芸能界の人たちは、”結婚“に代表される私生活の露出を極端に嫌う。「結婚しようよ」がさわやかな印象を与えたのは、旧来の芸能界が持っていた、プライバシー、という考え方を超えた、"公私一体"のさわやかさだったのではないだろうか。それが”フォーク的“だと受けとられたからこそ、拓郎に"フォークの貴公子“というキャッチ・フレーズがついたのだろう。たしかに、ロングヘアー で、ダンガリーのシャツを着て、ジーンズというスタイルは、それまでの芸能界、歌謡界とは異質だった。フォークやロック、ヒッピーたちから始まった新しいファッションに、世間の目を向けさせるだけのパワーを持っていた。 そういう意味で,、拓郎の果たした役割は本当に大きい。 たとえば、中津川のフォークジャンボリーで歌った「人間なんて」は、言葉が先行し がちだったフォークに、リズム、ビート、それにパワーをつけ加えた。事情を知らない人のために説明をすれば、拓郎はこの時、PAがとんでしまうというハプニングの中で、マイクなしで「人間なんて」を1時間ちかく叫び続ける、という前代未聞のステージを見せたのだった。 テレビに出ないというのも、既成のマス・メディアに対して、拓郎が作ったスタイルだった。岡林信康をはじめとするフォークの人たちも、ほとんどテレビには出なかった。ただヒット曲があって、頼まれて出ないのとは質が違っていた。"オレたちはテレビでやってる歌とは違う"という、いわば土俵が違っていた。「結婚しようよ」は、フォークと歌謡曲を同じ土俵で対峙させたといっていい。だからこそ、違いが鮮明になった。
「襟裳岬」にしてもそうだった。歌謡曲にフォークシンガーが曲を提供して、それが大ヒットするという例は他になかったといっていい。”スタイル“と”生きざま“だけでなく、音楽としての力を示したことでもあった。 拓郎が切り拓いたシーンは、まだ、ある。コンサートをイベントにしてしまったというのも、彼が始めたことだろう。それまでの、ホールや会館でのコンサートに対して、何万人も集めて一晩中やるという形を提示したのも、拓郎だった。75年の"つま恋"、79年の"篠島" はその最たるものだ。音楽のパワーを、世間に対しても、認知させてしまった。
自分のプロダクションを自分で作ったのも日本では最初だったかもしれない。ましてや、 レコード会社の社長になった現役のミュージシャンは、世界にアーティストが数多くいる中でもごく少数に限られるだろう。それも、現役を引退してではない。自分の音楽活動と並行させながら、なのだから。自分のできる領域のことは、ほとんどやり尽してしまった、そんな気がしている。 拓郎は負けず嫌いだ。やるとなったら、相手に勝たないと気がすまない。いいわけをするなら最初からやるなというタイプだ。だからフォーライフの社長になった時は、背広にネクタイというスタイルで社員のボーナスの査定から、銀行の役員と接待ゴルフにいくことまでやっていた。もっとも、それが決して居心地のいい場所でなかったことは、社長を やめてからの、音楽への没頭ぶりが物語っている。それでも、そうしてまで負けたくなかったのだろう。とりあえず、とことん勝負して、できるかできないかを確かめる。 以前、こんなことがあった。"拓郎とコウタローのコンサート"というコンサートをやっていた頃のことだ。あの頃は、ぼくも、拓郎と並び称されていたのだ! ぼくも拓郎も 「パック・イン・ミュージック」をやっていた関係で、二人のコンサートを定期的に開いていた。毎回ゲストを呼んで、二人がホストになるコンサートで、かぐや姫がゲストに来た時は、南こうせつと、ぼくと拓郎の三人でフォークルの真似をしたりするコンサートだった。 その"拓郎とコウタローのコンサート"を九段会館でやったことがあった。何と、その時、拓郎は一曲も歌わなかったのだ。曲の紹介やおしゃべりはやる。でも、話をするばかりで、肝心の歌の方は一曲もやらずに、「じゃあ、これでおしまいです。サヨナラ」って 引っ込んでしまった。客は"まさかこのままおわったりしないよナ“という事態が現実 になってしまったのだからおさまらない。アンコールの手拍子が嵐のように鳴り渡り、誰一人帰ろうとしない。後藤由多加が"1曲くらい歌ったらどうだ"といっても歌わない。 本当に歌わないで終わってしまった。 あとで聞いてみた。「何で、あの時、歌わなかったんだい?」と。 拓郎はこういった。 「あの時はコウタローと勝負してたんだ」 「エ!?」 思わず絶句してしまった。拓郎のいってる意味が全くわからなかった。ぼくの中に、 「拓郎と勝負してる」つもりなど全くなかったことはいうまでもない。 「コウタローは、しゃべりがうまいってみんながいうよナ。じゃオレはどれだけしゃべれるんだろうと思って、あの日はしゃべりだけでやってみたんだ。でも正直いって、オレはしゃべりではコウタローに勝てないと思った」 というのである。そして、 「オレはもう、しゃべりではナンバー1になれないことがわかったから、もう、歌わない。ステージは、あれっきりにする」 という。思わず、拓郎の顔を見て、二、三歩後ずさりしたい心境だった。 「お主、そこまで考えていたのか」 時代劇だったら、こんなセリフが出てくるところだったろう。 そうやって、そのつど、自分の中の問題に決着をつけるために勝負する、そんな男だ。 ケンカしながら勝ってきた男だといってもいい。 「結婚しようよ」の次に「旅の宿」、その次に「おきざりにした悲しみは」と、それぞれ雰囲気の違う曲をシングルにしていったのも、一種のカタのつけ方、だったのだろう。大きい相手に,異質なものを叩きつけてケンカする、そこでのパワーを自分のものにして大きくなってきた。ぼくのように、ケンカの苦手な人間には、拓郎の火花の散らし方は、まばゆいばかりだった。 昔はよく酒を飲んでケンカした。原宿のペニーレインあたりで飲んでいると、ファンの男の子がきて話しかける。「サイン下さい」などといっているうちはいい。それが「今度のLPぼく、こう思うんです」といった話になると「なに!」と、ケンカになってしまう。酔っ払って居あわせた人と殴りあいしたなんていうのは、日常茶飯事だった。きっと、 真剣に自問自答して答を出したことに関して、わかったようにいわれるのが耐えられなかったのに違いない。それだけ拓郎の方が真剣だったのかもしれない。 最近、拓郎がケンカしたという話をあまり聞かない。真剣にケンカする相手がいなくな ってしまったのかもしれない。また、拓郎の側にも、微妙な変化が起きているのかもしれない。 "時代は拓郎を体験した!!" CBSソニー時代のベスト·アルバムに、こんなキャッチ・コピーがついていた。 拓郎が老いること、それは、ぼくらの世代、ぼくらの時代が老いることを意味している。 本人が望むと望まざるとにかかわらず、そうなってしまっている。時代を築いた者の宿命といってしまえばそれまでかもしれないが、自分がやってきたことの重ささえケンカ相手にできる男だ。彼の目はまだまだ明日を見つめている。
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