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2018/04/10

深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く④

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■吉田拓郎は喋りの天才

田家個人はその後、単発的にラジオの構成やインタビュアーをしながらも、編集者・ライタ ーとしての活動を主軸とするようになる。『タイフーン』(飛行船出版)、『レタス』(サンリオ出版)、『DO!』(徳間書店)といった雑誌の編集長を歴任し、甲斐バンド、浜田省吾、吉田拓郎などの書籍や音楽系の関連書を刊行。その物書きとしての活躍が実を結び、2000年代に入ると、構成作家ではなく、喋り手としてラジオ番組に出演するようになる。また、構成を手掛けたドキュメント番組で、民間放送連盟賞ラジオエンターテインメント部門最優秀賞を受賞。 再びラジオ界と接点が生まれた。2001年からTOKYO FMの音楽番組で喋り始め、2005年、深夜1時から放送されるbay fmの『MOZAIKU NIGHT』でパーソナリティを務めることになる。 「辞めた時は「もうこれで俺はラジオに戻らないんだろうなと思って雑誌に行き、そこから物書きになっていったわけで。でも、ラジオは好きなんですよね。時々、ラジオの構成の仕事はやってて、「やっぱりラジオは面白いな」と思ったりしながら、音楽の原稿を書いていて。 だから、またラジオに戻れて、こんな幸せなことはないと思いました。深夜番組の1回目は泣きましたね。総武線でスタジオに向かう時、本当に嬉しくて・・・・。「俺が深夜放送で喋れるんだ!」って」 物書きにもラジオで構成作家を務めた経験が活きた。一番大きな財産は「文章の読みやすさと書く速さ」だという。 「一番最初に台本を書いた時に言われたのが、「お前、これが読めるか?」って。それが大きかったです。「全然関係ないヤツが読むんだよ。こんなに文章が長かったら、読めねえよ」と言われて一番最初にそれを肝に銘じました。だから、今でも原稿は必ず自分で声に出して直接口にしないまでも、書きながら心の中で読んでいます。たぶん活字から入った物書きはそうじゃないんですよね。例えば、氷室京介さんのインタビューを原稿にすると、「読んでいると、氷室さんの声が聞こえてくるんですよ」って言われるんですよ」 未だに田家は自分がパーソナリティだと胸を張って言えないと話す。それはかつて自分が多くの人間の番組に触れてきたからだ。 「僕の中のパーソナリティは、落合さんであり、みのさんであり、土居さんであり、亀渕さんであり・・・。その人たちがどれだけ喋りのセンスがあって、機転が利いて、ギャグもできて、ラジオを支えてきたのか。ずっと目の当たりにしてきたから、僕が名乗るのはおこがましくて、皆さんと一緒には自分でまだなれていないですね。でも・・・・自分で喋る側になった時は放送作家が要らない(笑)。今の放送作家にはちょっと申し訳ないんですけど、自分で台本が書けちゃうんです。当時は台本を書いても、喋り手がその通りにやってくれず、「そうじゃないのになあ」と思うことが結構あったんですが、今は自分でやれちゃうんで、これは幸せなことだと思っています。そのぶん、自分の至らなさを痛感させられるんですけど」 喋り手と構成作家、ラジオで重要な意味を持つ両方を経験した田家が思う素晴らしいパーソ ナリティの条件とはなんだろう? 「自分の言葉を持っている人、それに尽きるかな。自分の言葉を持っていて、世の中を、客観的に、クールに、迎合しないで見ていることができる人っていうか。そして、リスナーの気持ちを察してあげられる人。上から目線にならない人っていうことだと思いますね」 具体名を聞くと、かつて番組を担当した落合恵子、みのもんたの名に続き、意外な名前が出てきた。 「吉田拓郎さんもそうですね。拓郎さんは喋りの天才ですよ。あの人は自分で喋りながら、自分で台本が書ける人なんです。自分で喋りだした時、ある程度の流れはあるにしても、その時 点の言葉は思いつきなんです。でも、その思いつきから、自分で話を作っていって、ちゃんとオチがあるという。そういう意味では、究極は永六輔さんかもしれません。4年前にインタビューさせていただいたことがあって。もう車椅子に乗っていらっしゃって、心許ない感じだっ たんですけど、マイクの前にスタンバイしたら、そこから目の色が変わって……。ちゃんと話のメリハリがあって、オチがあって、もう見事でした。頭が下がるというか、神々しいぐらいで、こういう方を"ラジオの人" って言うんだなって。

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そういう意味では, (ビート)たけしさんもそうですよ。最近で言えば、伊集院(光)さんには頑張ってもらいたいなあって思いますね。ああいう人がいると、やっぱり自分のことをパーソナリティって呼べないなあって思います」 どうしても黎明期の深夜ラジオに携わっていた人間からは、今のラジオに対してネガティブ な声が多い。しかし、田家は「これだけメディアが多様化している中で、当時のように、大手を振って世の中を歩いているみたいな、影響力のあるメディアであると思うこと自体に無理があるんだと思います」と理解を示した上で、今のラジオ界についてこう語ってくれた。 「でも、ラジオにしかできないことは当然あると思うんです。テレビでもないし、ネットでもないし、活字でもない。一対一の関係性とか、情報の温度感とか、誰かが喋っている信頼度とか、それを持っているのがラジオなんですよね。これだけ情報が氾濫している中で、物の見方を含めてすべてを整理して、一つのガイドになるような伝え方ができるのがラジオなんだろうなと。例えば、ラジオから音楽の要素は減っていますけど、有線でもなく、インターネットでもなく、ちゃんと体系立てて音楽を語ることもラジオはできるわけですから。音楽を伝えるメ ディアとしてラジオはもう一回見直される時期が来ると思っています」 コンテンツを制作する技術としてもラジオを高く評価した。 「ラジオ制作のノウハウに、改めて自分たちが自信を持つことも大事だと思います。ラジオの制作者はたぶんテレビも作れると思うんですよ。もちろんネットの番組も作れる。情報の集め方、整理の仕方、その伝え方のノウハウは一番ラジオが持っていると思うので、それを活かすのがラジオの今後の可能性なんだろうなと思いますね」 テレビ中心にシフトする同世代の構成作家が多かった中で、田家はラジオにこだわってきた。 結果的に一旦ラジオ界から離れてしまったが、思いは衰えず、今は喋り手としてもラジオにかかわっている。なぜそこまでラジオにこだわってきたのだろうか。それはテレビとの根本的な 違いが理由だった。 「テレビで音楽番組が増えた時に、実は何度か呼ばれてやったりしたんですけど、スタッフの人数もたくさんいるから、打ち合わせも多いんですよ。技術の人、照明の人、「この人たちはいったい何をしてるんだろう?」という人たちと一緒にやってて、結局番組が終わっても彼らが何者だったかわからないままだったりする。そういうテレビの作り方のむなしさを当時感じました」 しかし、ラジオは違う。「身軽なんですよ。だって、二人いればいいんですから」と田家は言う。 「ディレクターがどんな音楽が好きで、どんな女の子が好みか、全部わかっているわけでしょ。 終わったら二人で飲みに行けるわけですから。リスナーからの反応もあって、リスナーの人となりもわかるわけです。いつもこんな内容を書いてくるねとか、音楽の好みが一緒だよなとか。 そんな風に、ミニマムな形で作られていくことの楽しさ。それがラジオの醍醐味だと今でも思っています。そういう空気は聴いている人にも伝わるんだろうなと思います」 すべての取材を終えたあと、田家から「今は誰でもラジオができる時代ですよね。だから、村上さんもラジオをやったらいいんですよ。やったほうがいいです」と提案された。動揺してすぐに頷けない自分がいたが、その言葉から、編集者、構成作家、パーソナリティの間にある壁を飄々と乗り越えてきた田家の人生を感じずにはいられなかった。

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深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く③

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■学校でラジオの話題になる時代

そして、その深夜帯でも田家は構成作家を務めることになる。オールナイトニッポンは作家がいない形で始まっていたが、文化放送はラジオ本来の形を重視し、当初から作家を起用していた。田家が担当したのは「セイ!ヤング」のみのもんた、落合恵子、せんだみつおの3番組である。 「みのさんは素晴らしかったですね。あの当意即妙さ、おバカさ(笑)。おバカなんだけど知的っていう。天性の喋り手っていうのはこういう人なんだろうなって思いましたね。落合さんの魅力は言葉のセンスと、声のエロキューション (発声技術)。言い回しも含めてね。落合さんの喋りを聴いていて、「ラジオは詩なんだなあ」と思いました」 構成作家として田家は主にコーナーの企画を担当していた。 「ハガキはディレクターが選んでいて。「この時間帯にこのハガキを読む」と用意してから始めるんで、そこには僕はタッチしていないんです。ただ、コーナーと言っても、今とは意味合いが違っていて、完全に作り物のゾーンだったんですよ。110分ぐらいで、BGMを入れたり そこに台詞を入れたり。ラジオドラマっていうほどじゃないんですけど、多少脚色したりして。 それは全部台本があった。今考えれば面白いことをやってたなと思います」 現在の深夜ラジオは「フリートーク+ネタコーナー+リアルタイムのメール紹介」という形がフォーマットだが、当時の状況は異なる。メールどころかFAXもない時代、リアルタイム性は電話を繋ぐ程度だった。 「ハガキ職人」という言葉が生まれる前で、ネタコーナーの比率は低い。また反対に、音楽を流すことの重要度は今と比べものにならないほど高かった。まだCDは生まれておらず、カセットテープが音楽用として普及し始めた段階。従来の歌謡曲以外に、洋楽やフォークソングが急激に注目を集めるようになっていた。新しい楽曲に触れる機会は今に比べて圧倒的に少なく、必然的にラジオがその存在を担っていた。2時間の番組で平均して10曲程度、多い場合には20曲かける番組もあったという。曲を流す間にハガキを紹介するというのが基本的なスタイルだった。そのため、深夜ラジオの現場にはレコード会社のプロモーターが常に集まっていた。 「どこで何の曲をかけるのか。そこにもハガキとの繋がりが必要なんです。特に僕は落合さんの番組をやっていたことが大きくて、曲の前にどういう言葉で締めくくると一番効果的だったとか、こういう詩にはこういう音楽が合うとか、そういうセンスは鍛えられました。放送作家の中に詩人としても有名な川崎洋さんがいたり、谷川俊太郎さんがラジオの台本を書いたりしていたような時代だったんで、音楽選びはスタッフの腕の見せ所でした」 今と大きく違うのは、その自由度だろう。まだラジオというメディアには力があった。世の中が不安定だったゆえに、社会も大らかで、ラジオの制作現場には今ほど規制はなかった。 「今と比べると、自由度は高かったですね。その自由度の極致はニッポン放送なんでしょうけど、文化放送でもありました。僕がやっていたせんだみつおさんの「セイ!ヤング」でのことなんですけど、文化放送の地下にお風呂があったんですよ。そこに忍び込んで、泊まりの女子アナが入るのを待つっていうのをやりましたね(笑)。風呂のジャバジャバジャバジャバいう音を入れながらね。それは始末書でしたけど(笑)。でも、始末書をディレクターは勲章だと思ってくれてましたから。四谷の警察から呼び出しがくるわけですよ。「青少年に悪い影響がある」と。それで、ディレクターが制作部長に呼ばれて始末書を書くと。「もう◯枚目だよ」 ってみんな胸張って言ってましたからね。そういう面白い時代でした」 象徴である「オールナイトニッポン」では数々の伝説が生まれている。ロッキード事件が世間で騒がれていた時期に、アメリカのロッキード社に「飛行機を買いたい」と国際電話をかけ る。深夜に首相官邸に生電話する。二人のパーソナリティのうち、一方が裏番組に乱入して放送をジャックする。青山墓地で4時間の生放送をする。2時間同じ歌を歌い続ける。ウソの追悼番組を放送する。2万枚届いたハガキをスタジオ内に放り投げて、一番遠くに飛んだ人に1万円を贈呈する。1人のパーソナリティが50時間ぶっ続けで放送する。「この後に山手線の始発に乗る」と宣言し、リスナーを集めて騒動を起こす。まだ芸歴のない素人に電話して、その日にパーソナリティを担当させる。これらはすべて60-70年代の「オールナイトニッポン」で起きたことだ。 その自由度は"軟"だけでなく"硬"の方向にも影響を与えていた。前述したように、学生運動などが活発だった時代ゆえに、ラジオは真剣な議論の場でもあった。また、テレビや雑誌、 新聞などが取り上げることのない未知の情報を発信する役割もあった。 田家が編集・監修としてもかかわった『セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説』(扶桑社)で、さだまさし、泉谷しげる、清水国明が奇しくも口を揃えて当時のラジオを「今で言うインターネット」と称している。
「でもね、インターネットよりも双方向性があったと思います。それでありながら、1対1なんですね。ラジオで喋っている人と聴いている人が、この時間帯、この街の中で、この夜っていう空間の中で繋がっているという。その絆の強さは今のネットよりも強かったんじゃないで しょうか。声が聴こえてくるという確かさがありました。新しいメディアだったという意味ではネットに近いんでしょうけど、繋がり方には差があると思います。ネットを介して繋がっているという感覚が僕らにはわからないので、比較はしにくいんですけどね」 自由度の高い内容、メディアとしての新鮮さ、そこで生まれる熱。それらの影響もあって、 深夜帯の聴取率は非常に高かった。 「落合さんの「セイ!ヤング」の聴取率は9%あったと記憶してます。同時間帯にやっていた吉田拓郎さんの「パックインミュージック」は確か5%だったんです。拓郎さんはどうしても落合さんを抜けなかった。のちに僕が音楽関係の文章を書くようになって、拓郎さんといろい ろと付き合わせていただくようになったんですけど、よくその頃の話をするんですよ。何かの拍子で、「僕、落合さんのセイ!ヤングをやってたんですよ」って言ったら、「お前か!!」って (笑)。「あれがどうしても抜けなかったんだよ」って言われたことがありました。5%対9% の争いですよ」 当時の調査結果を調べるかぎり、この聴取率は全体のものではなく、年齢や性別を限定した数字だと思われる。それでも、驚異的な聴取率だ。 各番組には毎週数千通のハガキが集まり、ADの一番の仕事はハガキの整理だった。番組当日は夕方からディレクターはハガキの整理に明け暮れていたという。
「学校に行ったらみんな聴いているわけですよ。それで、「お前のハガキが読まれたな」って話題になるんですから。一番主流の、若者たちにとってマスなメディアですよね。ハガキを書く人はみんな本名で書くわけです。今と違って匿名希望という人が少数派ですよ。まあ、匿名希望だって紹介しながら本名言っちゃうっていうのがありましたけど(笑)。みんなそこで自分の名前を読まれることが学校での自慢だったわけです。"サブカルチャーというメインカル チャー"というか。若者文化のど真ん中にいる自負はありました」

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■メジャーからこぼれおちるもの

深夜の番組を担当するようになり、田家は作家としてさらにラジオという現場の面白さに魅了されていく。「だって、髪の毛長くて、ジーパンはいて、それで仕事ができて、レコードがもらえて、同期のサラリーマンよりもいいお金をもらうわけでしょ?それは楽しかったですよ。面白かったですよ」という田家が、当時の雰囲気を伝えるエピソードとしていつも語るのは文化放送で起きたぼや騒ぎについてだ。 「その頃の放送局はわりと出入りが自由だったということもあるので、犯人捜しが始まったん です。そうしたら、制作部長に呼ばれて、「お前、◯月◯日の◯時◯分、どこにいた?」って聞かれた。僕は朝のワイドから夜の「セイ!ヤング」までずっと担当していたんで、朝から晩まで文化放送にいたわけです。地下のQという喫茶店があったので、「そこで台本を書いてましたよ」って話したんですけど、「見たヤツいるか?」と。「マスターがいましたよ」って説明
したら、やっと放免されて。その時は何のことかわからなかったんですけど、ディレクターに 「ボヤがあったの知ってるよな。その時に真っ先に名前が挙がったのはお前なんだよ」って言 われて(笑)。髪の毛は長いし、風体は怪しいし、昔は新宿で雑誌を作っていましたから、アイツは新宿のフーテンだったんだろ?」って。外の妙な連中と付き合いがあって、自由に出入りできるヤツだからって真っ先に名前が挙がったらしいんです。でもまあ、それでも大きな顔をして仕事ができたわけですからね。面白い場所だなと思いましたよ(笑)」 田家は「セイ!ヤング」の他にも、『みのもんたのワイド・No.1』、『三ツ矢フォークメイツ』、 『落合恵子のサウンドフォーク』などを担当した。ラジオの全盛期と言っても過言ではない70年代前半に味わった構成作家の楽しさを問うと、「ゴーストライター」という言葉が飛び出した。 「いろんなタイプの番組があったんで、いろんなタイプの作り方ができたのは面白かったです。 パーソナリティになりきって台本を書くわけです。僕は放送作家をやりながら、ゴーストライターとして何冊か本を作っているんですけど、放送作家とゴーストライターがイコールだったんですよ。今はゴーストライターって良くないもの、決して褒められた存在じゃないって言われてますけど、言葉で演技するという部分は放送作家も同じだと思ったんですよね。落合さんの時には女性言葉で書くわけでしょ。男性アナウンサーに書く時はそれなりに襟を正して書いたり。言葉でいろんな人間になれるのは放送作家の一番の醍醐味でしたね。脚本家よりも、もっといろいろなケースがあるわけですから、その都度、自分がいろんな人になるという楽しみがありました」

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しかし、同時に構成作家の難しさにも直面する。それは田家がこの仕事を辞めることに繋がっていく。「才能やセンスのなさを感じたんです。なんで俺はこんなにギャグが書けないんだろうって。 大学の頃に落語研究会にいたとか、放送研究会にいたとか、お笑い芸人をやってたとか、そういう人がいるわけです。でも、僕は編集者からなったので、ラジオの構成作家として求められるそういう部分がうまくできなかった。それと、ミュージシャンと番組をやると、みんな喋りがうまいんで、「自分の存在に意味があるんだろうか?」って感じて。それも辞めることになったいくつかの原因の一つですね。例えば、さだまさしさんの番組には構成作家っていらないんですよ。そういう現場についた時、「俺はここで何をやってんだろう?」って思い始めて」 田家が構成作家を辞めたのは78年のこと。この頃になると、深夜ラジオは再び転換期を迎 えていた当初のアナウンサー中心のスタイルは限界を迎え、有名タレントなどの名前が連なるようになってきた。 「深夜ラジオがメジャーになっていったんですよ。それまではテレビに出ない人が喋っていた。 彼らは若者たちの中ではメインカルチャーでも、世の中的にはサブカルチャーだったんです。 テレビで放送されていないような音楽が流れていたし、「俺たちが新しい時代を作っているん だ」って思えてたんですけど、深夜放送がメジャーになっていった。これはなんの他意もないんですけど、郷ひろみさんとか、桜田淳子さんとか西城秀樹さんとかがやるようになるんで 「台本を書け」と言われるんですけど、そういう人たちの台本のほうが大変なんですよね。 それでも続けていたんですけど、「俺はこういうことがやりたかったんだっけ?」と思い始めて、これだったら、テレビ番組をやっている既成の放送作家が担当すればいいんじゃないかと考えて、番組から引いたというのが大きかったですね」 「オールナイトニッポン」は73年からタレントを起用する路線にシフト。構成作家もつくようになり、笑福亭鶴光、タモリ、所ジョージ、南こうせつ、吉田拓郎、イルカ、稲川淳二らバラエティ豊かなパーソナリティが生まれ、構成作家の重要性も強まっていく。「セイ!ヤン グ」や「パックインミュージック」でもタレントが増えていくが、どちらも80年代前半に番組が終了となり、うまく転換期を乗り越えた「オールナイトニッポン」ひとり勝ちの状態となっていく。

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深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く②

深夜のラジオっ子 村上謙三久

テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く

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■テレビに出れない人でも活躍できる
思ってもいない提案を受けた田家だったが、「面白そうだ」と構成作家としての活動をスタートさせる。その後、75年に『ザ・ヴィレッジ』は終刊。それからは専業の構成作家となった。 「実際にやれるかどうかわかりませんよね。当時はわりと自由に入れたんで、夜中に制作の部屋に忍び込むんです。ディレクターの机に台本が積んであるでしょ? それをかっぱらってきて(笑)。ああ、こうやって書くのかと。それを見様見真似で始めたら、結構仕事が来るようになったのが始まりですね」 最初に担当したのは71年に文化放送でスタートした『はしだのりひこのビューティフル・ノンノ』。月~金に放送される10分間の帯番組だった。その後、音楽番組などを手掛け、素人同然の状況から必死に実績を積んでいく。
「最初はネタの仕込み方にしても何の素養もなかったわけで、本屋に行って、俳句歳時記を買ったり、雑学事典を揃えたり、それなりに努力はしました。何でもやらなきゃいけないから、それこそコントも書かなきゃいけなかったんです。でも、ただの編集者だったから、コントな んて書いたことがない。アメリカのブラックジョーク集なんかを買ってきて、見様見真似でやってました」 何の経験もない中で、田家は台本のタイプが三つに分類できることに気づいたという。 「一つ目はいわゆるワイド番組のように、流れや話の展開といった"枠を書く仕事"二つ目は、"データを集める仕事"。音楽番組が多かったんで、曲についてのデータを書いていました。 三つ目は"一字一句原稿を書く"という形。落合恵子さんなんかは完全にこの読みの原稿だったんです。コントなんかも一字一句書くことですよね。この三つを全部やってたから、それは 鍛えられました」 だが、田家本人はその異色な出自ゆえに、自分自身が構成作家だという自覚をなかなか持てなかった。 「気がついたらいろんな仕事が来るようになっただけだから、構成作家になったという実感がなかったんですよ。「なりたい」と言ったわけでも、「やらしてくれ」と言ったわけでもないし、 言われたことを言われたまま見様見真似で書いていたら、それが仕事になってしまった。やっと自分の仕事を意識するようになったのは放送作家協会に入ろうと思った時ですね。73、74年かな。20代半ばを過ぎて、自分が何者かという証しが欲しくなったんですよ。名刺に入れるようなある種の肩書きを入れたくなって」

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テレビの急激な普及もあり、構成作家の立場も転換期にあった。田家はそんな状況をどう見ていたのだろうか? 「構成作家にはいくつか流れがありました。奥山コーシンさんは文化放送でたくさん番組をやられていましたけど、青島幸男さんの系列で。萩本欽一さんの放送作家集団・パジャマ党や永六輔さんがやってた放送作家集団もありました。ちゃんとそういう中に先輩後輩があって、事務所に入っている人もいました。で、その人たちはテレビもやっていたんです。でも僕は始まり方が編集者崩れで、たまたまプロデューサーに声をかけられて始めたんで、ラジオだけをずっとやってたんですよ。先輩もいなければ、師匠もいないっていうはぐれ者みたいな始まり方でした(笑)」 田家も「テレビは儲かるよ」と声をかけられたこともあるが、フォーク・ロック系の音楽番組を中心に最大時で13番組を担当していたため、「俺はラジオでいいよ」と思うようになっていた。 この頃、ラジオ番組の構成作家が作詞家になるという現象が起きていた。田家と同時期に文化放送で構成作家をやっていた喜多條忠はかぐや姫の名曲『神田川』の作詞を担当。ニッポン放送で活躍していた岡本おさみは吉田拓郎と組むようになり、後に森進一の『襟裳岬』を生み出す。この現象も今のラジオから考えると想像つかないことだ。 「僕と喜多條忠さんは同じ時期に文化放送で台本を書いてたんです。彼は歌謡曲の番組をやっていて、僕は夜の番組ばかりで、フォーク・ロック系でした。ここが断絶していて、歌謡曲の番組班はメジャーな芸能界、夜班は若者文化みたいな感じだったんです。僕も喜多條さんを「アイツは歌謡曲だろ? 芸能界だろ?」みたいに見てたんですけど、ある時に彼が「僕の詞 がレコードになったんだよ」って持ってきたのが、フォークソングの『神田川』だった(笑)。 そんな風に放送作家で作詞をやるというのが流行り始めて、僕もやらないかと言われたことがあったんですけど、その時は「俺はラジオを守るよ」みたいなことを言った記憶がありますね。 それは自分に自信がなかったこともあるんでしょうけど、「なんでみんなラジオから離れていくんだ?」っていう思いがこだわりとしてありました」

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田家が構成作家になったのと時を同じくして、深夜ラジオは急速に支持を集め、大きなムーブメントを作っていく。 「ラジオ局のアナウンサー、パーソナリティがスターになる時代が来ましたから、それは深夜放送の黄金期ですね。文化放送では土居さんを筆頭に、みの(もんた)さん、落合さん、ニッポン放送では亀渕(昭信)さん。ミュージシャンも深夜放送で喋ることでメジャーになってい きました。谷村新司しかり、はしだのりひこしかり、吉田拓郎しかり、南こうせつ、山本コウタローもそうでしょ。みんなテレビに出られない人たちだったんですよ。テレビとラジオは、 明らかに断絶していました。テレビは芸能界の利権が張り巡らされていた。反対にラジオはまだ海のものとも山のものともわからない、でも歌も面白いし、喋りもうまいっていう人たちが出ている感じはありました。あの頃の深夜放送は、まだ何者でもない人たちがいろんなことを 面白がれる場にはなってましたね」

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深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く①

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深夜のラジオっ子 村上謙三久 

テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く

1970年代、深夜ラジオは若者から熱狂的な支持を集めた。当時はインターネットどころか携帯電話も存在しない時代。テレビはまだ1家に1台が基本で、深夜のテレビ放送は早い時 間で終了していた。24時間営業のコンビニエンスストアやファミリーレストランもなく、レンタルビデオ店もない。若者が真夜中にできることは限られていた。そんな状況にラジオが合致したのだ。
深夜ラジオの人気が定着した71年、この章の主役。田家秀樹はラジオの構成作家になった。 かかわっていた深夜番組は文化放送の「セイ!ヤング」。まだアナウンサーがパーソナリティ として活躍していた時期で、落合恵子やみのもんたの番組を担当していた。 落合恵子はこの時代の深夜ラジオを代表する女性パーソナリティだろう。レモンちゃんの愛称で親しまれ、その語り口が多くのリスナーから愛された。のちにアナウンサーから作家に転身し、たくさんの著書・訳書を発表。現在はテレビの情報番組でコメンテーターも務めている。 みのもんたは当時まだ文化放送のアナウンサーだったが、のちにテレビ司会者としてその才能が開花。『午後は◯◯おもいッきりテレビ』(日本テレビ)、『みのもんたの朝ズバッ!』(TBS)と平日の帯番組で活躍することになる。 当時の深夜ラジオが持つ意味合いは今とまったく違う。今のリスナーが想像できないようなこの時代の状況を、社会情勢と合わせながら見ていこう。

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■すでにメディアミックスがはじまった

「構成作家になった経緯ですか? もう成り行きですよ(笑)」。その言葉の通り、田家が構成作家になるまでの道のりは異色だ。 田家は69年に大学を卒業。就職試験は軒並み落ちてしまい、働き口もなく途方にくれていた。そこで、声をかけられ、新たに創刊されたタウン誌『新宿プレイマップ』の編集者となっ た。この創刊には文化放送がかかわっている。 「当時、丸の内に都庁があったんですが、その都庁を新宿に誘致しようという街の機運があって、若者の街として新宿をPRしようという流れがあったんです(91年に移転)。それをたきつけていたのが文化放送だったんですよ。テレビにメディアの主役の座を奪われて、ラジオを 聴く人が少なくなっていた。そんな時に、ラジオを活性化させるためのいくつかのプロジェクトが始まるんです。その1つが深夜放送なんですが、もう1つがタウンプロジェクト・・・いわゆるベンチャーだったんですよ。文化放送は四谷にあって、新宿が近かったですからね。文化放送は新宿が新しい街に脱皮する機運を捉えて、メディアポリス宣言をぶち上げたんです。つまり、街はメディアである、と」 この宣言を受けて、新宿の各商店街、百貨店、文化放送が手を組み、新宿PR委員会が設立される。委員長には紀伊國屋書店の田辺茂一が就任。その活動の一環として『新宿プレイマプ』が創刊した。
60年代の新宿を現在の状況から想像するのは難しいだろう。今の近代的な街並みが完全に 整う前の話である。淀橋浄水場が65年まで稼働していたため、西口は閑散としていた。その跡地の開発計画として新宿新都心構想が生まれ、メディアポリス宣言に繋がる。 新宿は若者文化の中心だった。アングラな音楽や芝居、映画、ファッション、そこに政治的な思想も絡まり、異常な熱量を帯びていた。新宿二丁目がかつての赤線地帯からゲイタウンに 変貌していったのもこの頃である。 60年代後半は学生運動が盛んな時期。大学闘争やベトナム戦争の反戦運動などが展開されたが、新宿もその舞台となった。5000人以上の反戦デモ隊が新宿駅になだれ込み、暴動を起こして機動隊と激突し、約700人の逮捕者が出た「新宿騒乱事件」。地下西口広場に集ま り、反戦的なフォークソングを歌いながら集会を行う数千人の若者を機動隊が鎮圧した「西口フォークゲリラ事件」。現在の新宿とはかけ離れた騒動が巻き起こっている。今、試しに現場を歩いてもそんな空気はまったくないが、それが当たり前だった時代に『新宿プレイマップ』 は生まれた。

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混沌とした新宿の空気を切り取った『新宿プレイマップ』は、若者から大きな反響を集めた。 現在のタウン誌文化の先駆けとも言えるこの雑誌は、街自体にとどまらず、新宿に巻き起こる様々なカルチャーを紹介。創刊号にはヌード写真まで掲載された。 しかし、そんな新たな新宿の文化を恥部と捉え、もっと健全で綺麗な街にしたいという商店街側の意向とぶつかり、編集部は板挟みになっていく。田家はそんな状況に嫌気が差すようになった。
「そんな時に、「セイ!ヤング」の雑誌を作りたいという話が文化放送から出てきたんです。 すでに「オールナイトニッポン」には『ビバ ヤング』という機関誌があったんですね(68年9月創刊 常に5万部が完売していたという TBSラジオでも『パックニュース』を発刊していた)。ラジオの番組が活字メディアを持つという一種のメディアミックスが始まっていて、「セ イ!ヤング」でもそういうものがほしいと。で、実際に誰が作るのかという話になったので、 僕が企画を出したら、それが通って。そこでフリーになって、『ザ・ヴィレッジ』を作ることになりました」 田家自身も大学時代に土居まさるの深夜ラジオを聴き、衝撃を受けていた。40年に『ザ・ヴィレッジ』は創刊。田家は取材・執筆を担当し、タブロイド判8ページの月刊紙面をデザイナーによる二人体制で制作していく。
その過程で再び田家に転機が訪れる。「セイ!ヤング」のチーフプロデューサー・駒井勝か ら「お前、ラジオの台本を書く気あるか?」と声をかけられたのだ。 「番組の雑誌を作っているから、「セイ!ヤング」の制作部にはいつも出入りしていたんですよ。そこには放送作家がいっぱいいました。最初は「あの人たちは何をやっているんだろ う?」と思ってたんですが、徐々に台本を書く人なんだと認識するようになりました。でもね、 実はわりとバカにしてた(笑)。「"放送作家“という言葉は何なんだ?」と思って。学生運動 世代ですから、どちらかというと僕は活字人間の部類なんです。作家に対して憧れはあったし、 凄い人なんだという気持ちはありました。だから、"放送“という言葉に引っ掛かって、これは何なんだと」

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