カテゴリー「エレックの時代Ⅱ萩原克己」の記事

2018/04/05

エレックの時代Ⅱ萩原克己 ②

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エレックレコードの第1弾は浅沼が持ち込んだ土居まさるのレコード、4曲入り17センチLP『カレンダー』であった。1969年4月に通販のみのスタイルで発売したところ、土居自身がディスクジョッキーを務めるラジオ番組から火が点いて数万枚を超えるヒットとなり、シングルカットしたLPタイトルの『カレンダー』も8万枚という当時としてはスマッシュヒットといえる売上げ枚数を記録した。 船出は順調だったエレックレコードだが土居に続くミュージシャンがおらず、順風満帆という訳にはいかなかったが、それでも音楽好きの若者の間でエレックレコードは知る人ぞ知る的な存在になっていた。 しかし俺たちマックスはその社名を耳にしたことがある程度で、どういう会社なのか皆目見当もっかない。そんな状態のまま、俺たちは事務所を訪ねたのである。
新宿御苑と四谷三丁目の間の喫茶店「葵」の二階に、そのレコード会社、エレックレコードは事務所を構えて いた。 「マックス、紹介するよ。彼が電話で言ってたちょっと気になるフォークシンガーの吉田拓郎だ。 (当時はひらがなでよしだたくろうと表記していた)」 それが吉田拓郎との出会いだった。横にはマネージャーの服塚と、拓郎が所属していた広島フォーク村の村長 である伊藤明夫がついており、浅沼は拓郎のプロデューサーを担当していたのだ。 吉田拓郎についてここであれこれ書くのは、この本を読んでくれるような読者には野暮の骨頂というものだから、あえて詳しく触れはしないが、当時ヤマハのイベントで全国を渡り歩いていた浅沼が広島で目をつけた音楽集団、広島フォーク村の音楽面におけるリーダー的存在だったのは有名な話で、すでにいくつかの全国レベルの大会で自身のバンドを率いて入賞を繰り返し、ヤマハライトミュージックでも俺たちが優勝した1968年の全国大会にザ・ダウンタウンズなるバンド名で出場しており、その才能にほれ込んだ浅沼がすでに地元の会社に就職していた拓郎を口説き落として上京させただけに、浅沼、いや、エレックレコードにとっていわば"秘密兵器"的な存在だったのだ。浅沼のプロデュースに自然と力が入るのも無理はない。そして、そんなエレックレコード期待の新人アーティストのバックを、無名の俺たちマックスに担当させてくれるというのだから、願ってもない話であった。
たいした話もしないままその日の顔合せと打合せはお開きになり、1970年5月、今はなき六本木ソニースタジオでアルバム「青春の詩」のレコーディングが始まった。吉田拓郎が24歳で、俺が21歳のときであった。 r青春の詩」よしだたくろう1970年10月発売
A面 ①青春の詩 ②とっぽい男のバラード ③やせっぽちのブルース ④のら犬のブルース ⑤男の子女の娘 ⑥兄ちゃんが赤くなった
B面 ①雪 ②灰色の世界I③俺 ④こうき心 ⑤今日までそして明日から ⑥イメージの詩

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A面がマックス、B面がギタリストの沢田俊吾の演奏とアレンジで制作された1曲ずつ拓郎とアレンジの打ち合せをしながら仕上げていく。5曲を3、4時間で仕上げた記憶がある。まだ2チャンネルの時代だった。その頃のレコーディングはレコード会社専属のミュージシャンや、当時日本ではまだ珍しかった"スタジオミュージシャン"が台頭し始めた時代であった。ミュージシャンもフルバンド出身のジャズミュージシャンが多く、ロックミュージシャンやバンドによる音作りなどほとんどない時代だったから、拓郎と俺たちマックスによる共同作業は、ある種パイオニア的な試みだったといえるだろう。ちなみに、六本木ソニースタジオの正式オープン は翌年の1971年であり、この時期はまだレコーディングスタジオが本稼動する前に必要な"ローリング"、いわば試運転の時期だった。多分スタジオ代の関係で、本稼動前のその安価な時期に使わせてもらったのだろう。
パイオニアだけに資金は潤沢ではなかったのだ。
コンソールルームの片隅で、セーラー服を着た可愛い女の子がソファに座っていた。のちにエレックレコードから歌手デビューする中沢厚子であった。『青春の詩』ではA面の5曲目、『男の子女の娘』で拓郎とデュエットしていた。多分この頃は17歳くらいだったと思う。
このレコーディングを境に、吉田拓郎のバックミュージシャンとしての活動が始まった。彼の後について日本全国いろんなところを回った。今でこそフォークの神様といわれる吉田拓郎だが、東京と地元の広島はまだしも、この頃はよほどのファンでもない限り地方で彼の名前を知る人は多くはなかったから、プロモーションツアーというよりは、ほとんど"ドサ回り"に近い旅だった。

記憶に残っているのが、群馬県の草津温泉でのエピソードである。文化放送の主催する「ライオン・フォーク・ヴィレッジ」の公開録音であった。今でも団塊の世代の記憶に残るフォーセインツの『小さな日記』は、あの頃のカレッジフォークの大ヒット曲だが、そのフォーセインツの前座を務めたのがその日の拓郎であった。 草津に着き、こちらが会場です、と案内された先は、なんと温泉ホテルの和室ではないか。部屋の奥に目をやると、床の間のようなスペースがあり、そこがステージになっている。温泉芸者ならぬ"温泉フォーク"である。やれやれと思いながら器材のセッティングを始めるのだが、普通のステージでは演奏中バスドラム(通称 ベードラ)が動かないようにその前にストッパーを付けるのに、ここだと下が畳なのでそれが出来ない。仕方がないのでそのままでステージを始めいつものように叩くと、その勢いでベードラが少しずつ前にズレていく。
「オイオイ、俺らチンドン屋じゃないんだから。ロックバンドなんだぜ。畳の上はやめてくれよ」 と内心毒づくけれど、ペーペーのバックバンドは文句をいえる立場ではない 1曲終わるたびに俺はベードラを手前に引き寄せるなんてことを繰り返していた。この手の話は当時いくらでもあった。
拓郎の家に泊めてもらい、手作り?のボンカレーをご馳走になったことがある。多分翌日プロモーションツアーで、早朝の列車でどこかまた地方へ行くことになっていたのだろう。ただでさえミュージシャンは朝が弱い上にマックスは全員横浜市在住だ。早起きは非常に辛く厳しいということになり、当時高円寺のマンションに住んでいた拓郎に頼み込んで一夜の宿を借り、おまけにフォークの神様に食事まで作ってもらいご馳走になったのである。

-抜粋終-

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エレックの時代Ⅱ萩原克己①  

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エレックレコードの時代Ⅱ

エレックレコードの精霊たち編

【拓郎関連一部抜粋】

2004年2月、かつて日本の音楽史に確かなひとつの時代を築いたレコード会社が30年余の時を経てレーベル会社(CDやレコードなどを製品化・商品化する権利を有する会社)として復活した。社名もロゴマークも昔のままの、少しノスタルジックな再出発だったが、ともすれば一時代を築いて解散したバンドの復活のような、甘き伝説の再生に見做されがちなこの復活劇の陰で動いた連中には、センチメンタルな感情などかけらもなかった。 「俺たちがやろうとしているのは、年食って疲れ果てたオヤジたちが、昔を懐かしがろうと集まる同窓会じゃあねえんだから」 じゃあなぜレーベルを立ち上げたんだと訊かれると、この連中ときたら、「音楽を聴く者に、人と人が信じることの大切さを教えるために、俺たちが自分自身の手で育て上げるミュージシャンに:まだ見ぬ大バコの1万人を妄想する前に、目の前の10人を感動させろ"と教えるために立ち上げたんだ」と、尻の青い若僧のような台詞を喜んで吐く。

そんな男たち。

そのなかに、新生エレックレコード株式会社代表取締役社長、萩原克己、すなわちこの俺もいたのだ。

俺は1949年に横浜で生まれ、4歳上の兄・暁の影響で幼い頃から音楽、それも洋楽を聴くようになり、いつしか聴く側からプレイする側へと移っていった。 その兄が武蔵工業大学2年の20歳のときに、ザ・チェッカーズというグループサウンズのバンドを,結成した。 メンバーは、リードギターの兄、 萩原暁。サイドギターの輿石秀之は、後に大石吾郎と名乗りコッキーポップの名ディスクジョッキーになる。ベースの島英二は、いわずと知れたGSを代表するバンド、ワイルドワンズのメンバーで、ドラムの島雄一は後にレコード会社ワーナーパイオニアのミキサーになる。その島雄一がドラムを買ったとき、兄は母にその保証人になってくれるよう頼み込んだのだが、後にバンドはあえなく解散、気がつくと六畳の俺と兄の部屋にはしっかりと陣取ったドラムがあった。 すると兄はどういう訳か母に、 「克己はドラムが好きみたいだし、このドラムを克己にやらせたらいいと思うのだけど」 と吹き込み、それならばと母は形だけの保証人から、毎月俺のために月賦代金を支払うはめになったのである。 あの頃は、だれもがエレキギターに憧れていた時代である。センターに立つことが少ないベースや、ましていつもバンドの一番後ろが定位置のドラムに自分から走る奴などいなかった。たしかに俺は中学生の頃に少しプラスバンドで小太鼓をやっていたことはあったが。光沢が眩しいエレキギターを見るにつけ、 「なにが悲しくて俺は、こんな持ち運びに不便で弾き語りも出来ない楽器をやらなくちゃいけないんだ」 と兄を恨んだものだ。 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ある日兄はその頃流行っていた英国リバプールサウンドのデーブ クラーク5というグループのリーダー、デーブクラークが、ドラムをプレイしながらカッコ良く"DO YOU LOVE ME?,と歌うLPを俺に聞かせて、 「克己、お前もこうなれるんだ」 とうそぶいたのだ。 「ドラムでもボーカルをとれる!」

高校生とはいえ、俺もまだ純真だったのだ(?)。その言葉に騙されて、ひたすらドラム道を邁進していったの はいうまでもない。もっとも今思うと、俺をドラムと出逢わせてくれた兄と母には正直感謝している。なぜなら、 あのとき母が保証人にならなければ、兄貴の甘い囁きにヨロメかなければ、今の俺はきっとなかったのだから。 俺が高校二年のときに、兄がまた新しいバンドを結成した。名付けて「マックス」。今度のメンバーは、リー ドギターの兄・暁を筆頭に,ボーカル木村良二、サイドギター青木秀夫、ベース山口剛、そしてドラムがこの俺 という五人編成で兄貴以外は全員高校生というバンドだった。山口も、俺も、青木、木村も程度の低い「ヨタ 高,横浜低脳児クラブ」と世間ではいわれている高校であった。 マックスは,その頃まだ横浜や横須賀にあった米軍基地を回るバンドになり、ワンステージ1 00人ぐらいの 小さなパーティーから三00人クラスのものまで、週三回から四回のステージをこなすようになっていった。 もっともステージといっても頭に必ずストリップが入るような類のものだったが、女の裸と音楽、これが兵士に はいちばんウケた。俺たちの演奏に合わせて四、五人のストリップガールが前を隠して踊るのだが、なにせ相手 はベトナム帰りのネイビーやマリーン、戦場で想像を絶する地獄を見てきた連中である。そういう猛者たちの目 の前でストリップを演じたらどういうことになるかぐらいは、高校二年でストリップのバックバンドをやってい る俺たちにも火を見るよりも明らかだった。案の定20人ぐらいの兵士がズボンを脱いでステージに駆け上って くるのである。それをMPが制止している間にストリッパーがキャーキャー言って楽屋に逃げ戻る。興奮冷めや らぬ兵士が怒りの形相で絶叫する。 「へーイ、ボーイ、ミュージックスタート!」

ヤマハ音楽振興会の主催でその前年の1967年から始まったこのコンテストは、プロを目指すアマチュアミュージシャンの登竜門として赤い鳥やオフコースらを輩出して、日本の音楽史上に残るパイオニア的な存在と なり、後年「ヤマハポピュラーソングコンテスト」と名称を変えてからの栄光の軌跡はいうまでもない。40年代後半から80年代前半に青春時代を過ごした人ならだれでも、通称クポプコ,と呼ばれたこのコンテストの 名前を一度は耳にしたことがあるだろう。 数千もの作品が集まるテープ審査、そこで選ばれたものが次に進む県大会と関東甲信越大会、そしてさらに それに勝ち残ったものだけが立つことを許される最後のステージ、それが全国大会だ。会場は東京の渋谷公会 堂、現在のC. C. Lemonホールだ。萩原暁(ギター)、萩原克己(ドラム)、山口剛(ベース)、木村良二 (ボーカル)、青木秀夫(サイドギター)、五人組の俺たちマックスは、ようやくここまでたどり着いたのだった。 審査員は、委員長のヤマハ社長の川上源一郎を筆頭に、音楽評論家の中村とうよう、作曲家の服部克久と福田 一郎、作曲,編曲家でピアニストの前田憲男、そして当時日本音楽院というギター通信教育会社社長兼講師で、 後に俺の人生に大いなる影響を与えることになる浅沼勇という、当時としては錚々たる面々であった。 音楽には自信があったが、所詮は横浜生まれの世間知らずで度胸の良さだけが自慢の若僧である。表面では全 国大会のステージに立って当り前と強気のフリをしていたが、内心は緊張しない訳がない。無我夢中で「孤独の 叫び」と「グロリア」の二曲を演奏し終えた。 やるだけのことはやった。ステージを降りると心地よい脱力感が俺らを襲ったが、いよいよ結果発表となると、 再びまた訳のわからない緊張感が訪れた。 そして結果発表を告げるMCの声が会場内に響きわたった。

発表します。第二回ヤマハライトミュージックコンテスト、全国大会。ボーカルグループサウンド部門第1位 は、マックス!」 「やった、ロックで俺ら1位だよ!」 一生の中で純粋に喜べたことは数えるほどしかないが、その数少ない記憶のひとつがこのヤマハライトミュー ジックコンテストでの優勝だった。

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めでたく優勝したマックスだったが、当時のライトミュージックコンテストには、後のポプコンのような優勝イコール即メジャーデビューというレールはまだ敷かれておらず、せいぜい全国各地で行われるライトミュージックコンテストの地方大会やヤマハが主催するイベントにゲストバンドとして呼ばれて演奏するくらいが関の山だった。当時ヤマハは地方コンテストを星の数ほど開催していたが、そういう類の地方都市のコンテストにゲストとして出演した程度で、相変わらずバーやクラブでの演奏が続いていた。

ちなみにミュージシャンの世界も人種は関係ないのである。ただ格好いいか、上手いかにつきる。

「ヤマハライトミュージックコンテスト」の審査員の中で、俺たちマックスの最大の理解者であったのは、前述したように、当時日本音楽院というギター通信教育会社社長兼講師の浅沼勇だった。大会優勝後、ことあるごとにヤマハ主催のイベントにマックスを呼んでくれたのが浅沼だったのだ。 多分1970年の春だったと思う。ある日、その浅沼勇から連絡があった。なんでもひょんなことから通販を 主体としたレコード会社の専務になったという。 「エレックレコード」 それがそのレコード会社の社名だった。
「ちょっと気になるフォークシンガーがいるんだけど、レコーディングを手伝ってくれないかな」 「ありがとうございます。ぜひやらせてもらいます」 でさ、マックスは印税とギャラとどっちがいい? こっちはどちらでもいいよ」 「もちろん、ギャラです! 印税は結構です。必ずギャラでお願い致します」 「オーケー、わかった。じゃあ今度事務所に来てよ」
エレックレコード。
1969年に永野譲、浅沼勇らによって設立されたエレックレコードは、成り立ちからしてユニークというか成り行きというか普通ではなかった。 そもそもエレックレコードは永野が社長を勤めていたエレック社という出版社が母体だった。エレック社は オーディオ関係の雑誌を出版していたのだが、あるとき取引先の朝日ソノラマから請け負ったソノシート付きの教則本が大当たりした。売れたはいいが同時に読者から作曲に関する問合せが殺到し始めた。朝日ソノラマの親会社はあの朝日新聞である。朝日としては読者からの多数の問合せになしの礫というのでは大新聞社の沽券に関わるので、朝日ソノラマに事態の打開を指示、困り果てた朝日ソノラマがエレック社に相談したところ、ここで永野が閃いた。 「では作詞や作曲の通信講座を作り、問い合せを寄こした読者に、キミの希望や悩みはこの講座が解決する、ということにするのはどうです?」 永野の発案は成功して、問合せをしてきた読者は相次いでその通信講座を受講するようになった。
これでメデタシメデタシといかないのが面白いところで、今度は"講座で学んだ知識を実践・発表する場、優秀作品を発表する場としてレコードを出してほしい"というまた新たな要望が寄せられるようになった。あわてた永野らは大手レコード会社に相談するが、もちろん海のものとも山のものともわからないアマチュアの作品をレコード化するような太っ腹の会社などある訳がない。次々と断られ続けると、ここでまた永野が閃いた。 「どこも受けてくれないのなら、自分たちでレコードを出してしまえばいいじゃないか」 ということでエレック社は自主制作を決意したのである。ここで永野に続いてもう一人のキーマンが登場する。 浅沼勇である。 その頃日本音楽院というギターの通信教育会社の社長を務めていた浅沼は、エレック社が自主レコードの制作を始めたという話を聞きつけ、これはなにか面白いことが出来そうだと直感した。母校である立教大学の後輩で当時文化放送の人気ディスクジョッキーだった土居まさるに歌を歌わせて、それをレコード化するという企 画を温めていた浅沼は、この企画をエレックに持ち込みエレック社の自主レコード制作に関わるようになり、やがて永野、そして浅沼ら五人によってエレックレコードという新しいレコード会社が誕生することになった、と いう訳である。

つづく

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