エレックの時代Ⅱ萩原克己 ②
エレックレコードの第1弾は浅沼が持ち込んだ土居まさるのレコード、4曲入り17センチLP『カレンダー』であった。1969年4月に通販のみのスタイルで発売したところ、土居自身がディスクジョッキーを務めるラジオ番組から火が点いて数万枚を超えるヒットとなり、シングルカットしたLPタイトルの『カレンダー』も8万枚という当時としてはスマッシュヒットといえる売上げ枚数を記録した。 船出は順調だったエレックレコードだが土居に続くミュージシャンがおらず、順風満帆という訳にはいかなかったが、それでも音楽好きの若者の間でエレックレコードは知る人ぞ知る的な存在になっていた。 しかし俺たちマックスはその社名を耳にしたことがある程度で、どういう会社なのか皆目見当もっかない。そんな状態のまま、俺たちは事務所を訪ねたのである。
新宿御苑と四谷三丁目の間の喫茶店「葵」の二階に、そのレコード会社、エレックレコードは事務所を構えて いた。 「マックス、紹介するよ。彼が電話で言ってたちょっと気になるフォークシンガーの吉田拓郎だ。 (当時はひらがなでよしだたくろうと表記していた)」 それが吉田拓郎との出会いだった。横にはマネージャーの服塚と、拓郎が所属していた広島フォーク村の村長 である伊藤明夫がついており、浅沼は拓郎のプロデューサーを担当していたのだ。 吉田拓郎についてここであれこれ書くのは、この本を読んでくれるような読者には野暮の骨頂というものだから、あえて詳しく触れはしないが、当時ヤマハのイベントで全国を渡り歩いていた浅沼が広島で目をつけた音楽集団、広島フォーク村の音楽面におけるリーダー的存在だったのは有名な話で、すでにいくつかの全国レベルの大会で自身のバンドを率いて入賞を繰り返し、ヤマハライトミュージックでも俺たちが優勝した1968年の全国大会にザ・ダウンタウンズなるバンド名で出場しており、その才能にほれ込んだ浅沼がすでに地元の会社に就職していた拓郎を口説き落として上京させただけに、浅沼、いや、エレックレコードにとっていわば"秘密兵器"的な存在だったのだ。浅沼のプロデュースに自然と力が入るのも無理はない。そして、そんなエレックレコード期待の新人アーティストのバックを、無名の俺たちマックスに担当させてくれるというのだから、願ってもない話であった。
たいした話もしないままその日の顔合せと打合せはお開きになり、1970年5月、今はなき六本木ソニースタジオでアルバム「青春の詩」のレコーディングが始まった。吉田拓郎が24歳で、俺が21歳のときであった。 r青春の詩」よしだたくろう1970年10月発売
A面 ①青春の詩 ②とっぽい男のバラード ③やせっぽちのブルース ④のら犬のブルース ⑤男の子女の娘 ⑥兄ちゃんが赤くなった
B面 ①雪 ②灰色の世界I③俺 ④こうき心 ⑤今日までそして明日から ⑥イメージの詩
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A面がマックス、B面がギタリストの沢田俊吾の演奏とアレンジで制作された1曲ずつ拓郎とアレンジの打ち合せをしながら仕上げていく。5曲を3、4時間で仕上げた記憶がある。まだ2チャンネルの時代だった。その頃のレコーディングはレコード会社専属のミュージシャンや、当時日本ではまだ珍しかった"スタジオミュージシャン"が台頭し始めた時代であった。ミュージシャンもフルバンド出身のジャズミュージシャンが多く、ロックミュージシャンやバンドによる音作りなどほとんどない時代だったから、拓郎と俺たちマックスによる共同作業は、ある種パイオニア的な試みだったといえるだろう。ちなみに、六本木ソニースタジオの正式オープン は翌年の1971年であり、この時期はまだレコーディングスタジオが本稼動する前に必要な"ローリング"、いわば試運転の時期だった。多分スタジオ代の関係で、本稼動前のその安価な時期に使わせてもらったのだろう。
パイオニアだけに資金は潤沢ではなかったのだ。
コンソールルームの片隅で、セーラー服を着た可愛い女の子がソファに座っていた。のちにエレックレコードから歌手デビューする中沢厚子であった。『青春の詩』ではA面の5曲目、『男の子女の娘』で拓郎とデュエットしていた。多分この頃は17歳くらいだったと思う。
このレコーディングを境に、吉田拓郎のバックミュージシャンとしての活動が始まった。彼の後について日本全国いろんなところを回った。今でこそフォークの神様といわれる吉田拓郎だが、東京と地元の広島はまだしも、この頃はよほどのファンでもない限り地方で彼の名前を知る人は多くはなかったから、プロモーションツアーというよりは、ほとんど"ドサ回り"に近い旅だった。
記憶に残っているのが、群馬県の草津温泉でのエピソードである。文化放送の主催する「ライオン・フォーク・ヴィレッジ」の公開録音であった。今でも団塊の世代の記憶に残るフォーセインツの『小さな日記』は、あの頃のカレッジフォークの大ヒット曲だが、そのフォーセインツの前座を務めたのがその日の拓郎であった。 草津に着き、こちらが会場です、と案内された先は、なんと温泉ホテルの和室ではないか。部屋の奥に目をやると、床の間のようなスペースがあり、そこがステージになっている。温泉芸者ならぬ"温泉フォーク"である。やれやれと思いながら器材のセッティングを始めるのだが、普通のステージでは演奏中バスドラム(通称 ベードラ)が動かないようにその前にストッパーを付けるのに、ここだと下が畳なのでそれが出来ない。仕方がないのでそのままでステージを始めいつものように叩くと、その勢いでベードラが少しずつ前にズレていく。
「オイオイ、俺らチンドン屋じゃないんだから。ロックバンドなんだぜ。畳の上はやめてくれよ」 と内心毒づくけれど、ペーペーのバックバンドは文句をいえる立場ではない 1曲終わるたびに俺はベードラを手前に引き寄せるなんてことを繰り返していた。この手の話は当時いくらでもあった。
拓郎の家に泊めてもらい、手作り?のボンカレーをご馳走になったことがある。多分翌日プロモーションツアーで、早朝の列車でどこかまた地方へ行くことになっていたのだろう。ただでさえミュージシャンは朝が弱い上にマックスは全員横浜市在住だ。早起きは非常に辛く厳しいということになり、当時高円寺のマンションに住んでいた拓郎に頼み込んで一夜の宿を借り、おまけにフォークの神様に食事まで作ってもらいご馳走になったのである。
-抜粋終-
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