亀渕さんの愛聴歌は拓郎のファイト! 文化放送くにまるジャパンゲスト亀渕昭信さん・吉田拓郎ファイト!ON AIR
亀渕さんの愛聴歌は拓郎のファイト!
文化放送くにまるジャパンゲスト亀渕昭信さん・吉田拓郎ファイト!ON AIR
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一部抜粋
■サラリーマンだからできた大イベント
サラリーマン人生では、ラジオの仕事と関連して仲間たちと様々なイベントに関わることができました。 強く記憶に残っているもののひとつは、1985(昭和60)年、はじめて国立競技場を使って開かれた「ALL TOGETHER NOW」という音楽祭です。大成功に終わ り、ラジオと音楽が切っても切れない関係であるということを改めて証明した非常に意義のあるものでした。 実はこの大イベントを成功に導いてくれた仕事を、僕はテレビという異業種を通じてしています。1979(昭和54)年の大晦日、フジテレビでオンエアされた「スーパージャム」という音楽番組がそれにあたります。これはちょっとばかり辛い経験でもありました。 その頃、我らが石田達郎さんがニッポン放送と関係の深いフジテレビの役員になり、まさに国民的番組だったNHK紅白歌合戦の牙城をなんとか切り崩そうとしていました。そして企画されたのが、若者に人気のニューミュージックの番組を作って紅白にぶつけるというものでした。それもナマ放送で。 当時若者たちに大変な人気だったニューミュージックのアーティストたちは、テレビを嫌っていました。テレビのスタッフが自分たちの音楽をわかってくれないと思っていたからです。 実際、テレビのディレクターからの出演依頼は、「テレビに出してやる」「歌の只数は2分半以内にしてくれ」というように上から目線のものが多く、自分たちの歌を大事にするフォークやロックのアーティストたちからテレビは愛されていませんでした。 ですからテレビには彼らとのパイプがありません。でもラジオはそんなニューミュージックと呼ばれる音楽をずっと応援してきましたから太いパイプがあります。そこで、石田さんが「おい、ラジオのオメーラ(お前ら・・・石田さんの口癖でした)ちょっと手伝え」 ということになったのです。 しかし、ラジオの我々は「新しい音楽と一生懸命良い関係を築いてきたのに、なぜテレビのために働かなければならないんだ。大晦日といえば、家族と一緒にこたつでミカンでしょ」と反発しました。 狭量と言えば、狭量ですが、その頃のテレビは、「アーティストを育てる」ということをしていませんでした。ですから、「もし我々ラジオが一生懸命出演交渉してうまくいっても、番組の視聴率が悪かったら、そのあとテレビは鼻も引っかけないだろうな」という気持ちがあったのです。 しかし、最終的には「業務命令」ということで、我々ラジオのスタッフはミュージシャンたちのブッキングに奔走することになりました。この辺もサラリーマンのチームワークです。一度決まったらがんばってやります。結果、松山千春、吉田拓郎、松任谷由実、イルカ、五輪真弓たちが力を貸してくれました。 足寄感銘を受けたこともありました。厳寒の北海道、足寄公民館から何台もの無線中継車を札幌までつないで、マイクロウェーブで東京までナマ放送を送出したフジテレビとフジ系列の技術者のみなさんの努力。テレビの圧倒的なパワーに、ただただビックリでした。 しかし、結局、視聴率的にはまったく紅白には歯が立たず惨敗。しかし数年後、このときのブッキング(出演交渉)の経験を最大限に生かす機会が訪れました。それが前述したユニセフの国際青年年に関連して行われた音楽イベントです。
今日はポピュラー音楽評論家、ディスクジョッキー、
元・ニッポン放送社長の亀渕昭信さんをお迎えしました!
1942年、北海道生まれ。
早稲田大学を卒業後、1964年にニッポン放送に入社。
番組制作部に配属されディレクターとして番組を制作。
1966年から1年間のアメリカ留学を経たのち、
およそ4年間オールナイトニッポンのパーソナリティーを担当。
社員パーソナリティーとして人気を博す。
その後はおもに編成業務を務められ、
1999年ニッポン放送代表取締役社長に就任。
2008年に退任されるまで、アルバイト時代を含めニッポン放送一筋44年。
現在はポピュラー音楽評論家、ラジオDJに加え、本も出版。
先月発売された最新刊「サラリーマンの力」が話題に。
今日はニッポン放送に入ったきっかけや、アメリカ留学でのエピソード、
そして亀渕さんによる選曲で音楽をお送りしました。
11時代にはSu凸ko D凹koiとのトークも!
亀渕昭信さんの新刊「サラリーマンの力」は集英社・インターナショナル新書から
700円+税で絶賛発売中です。帯は吉田拓郎さんが書かれています。
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