まだ「新宿解放区」が実感出来た時代 - 田中秋夫が語る
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田中秋夫氏について触れる部分 0分34秒 - 0分35秒
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何年か前の話になるが、新宿区三栄町にある新宿歴史博物館で開催された写真展「新宿・昭和40年代~熱き時代の新宿風景」を見に行ったことがあった。
今、あの時代が若い世代に注目されはじめているという。
その時、同会場でノンフィクション作家で音楽評論家としても活躍している田家秀樹君の講演が行われた
「昭和40年代の新宿と若者文化」と題した講演は彼の仕事の出発点だったタウン誌「新宿プレイマップ」を中心に話が展開されたと記憶している。
【新宿とラジオと】
新宿とラジオと
彼との出会いはこの雑誌が創刊される直前の1969年3月頃だった。
当時ラジオ各局は東京オリンピック後のラジオ不況に苦しんでいたが、当時、四谷にあった文化放送はその状況を打開する為に開発部を新設し、社内各部署からユニークな人物が集められ新規事業を次々に打ち出していった。
その第1弾が先輩K氏(故人)の発案による「新宿メディアポリス宣言」だった。
「街をメディア化する」という発想から文化放送が新宿区にあるデパートと商店街に呼びかけて紀伊国屋書店の田辺茂一さんを委員長とする「新宿PR委員会」を組織した。
具体策として新宿駅東口にサテライトスタジオを開設し生放送を実施する他、新人歌手の登竜門となる「新宿音楽祭」を開催することなどを打ち出した。その一環としてPR誌を創刊することを決め、さっそく社内に準備室が用意された。その編集スタッフに応募してきたのが若き日の田家君である。
その年、新宿西口の地下「広場」は連日のフォーク集会が機動隊に排除され「通路」に変えられた。一方東口は若い藝術家が集うサブカルチャーの拠点でもあった。
アングラ演劇、ジャズ喫茶、ロック、フォーク等のライブハウス、サイケ調のゴーゴークラブ等、当時台頭し始めた若者文化のすべてが新宿に集まっていた。
「新宿プレイマップ」と命名された創刊号の巻頭は野坂昭如氏と矢崎泰久氏の対談「焼け跡派のジュク望郷」だった。
やがてこの雑誌はサブカルチャー志向の編集方針が話題となり若者たちに支持されていった。当時新進気鋭の演劇人、作家、イラストレーター、写真家たちが毎号誌面を飾った。
しかし、その編集方針が「街の健全化」を志向する新宿PR委員会のメンバーと次第に対立するようになり、あえなく3年ほどで廃刊という運命を辿る。その結果、田家君は文化放送が新たに創刊する深夜番組「セイ!ヤング」の機関誌編集を担当することになった。
彼はタイトルを「ザ・ビレッジ」と命名し「深夜は若者の解放区」という編集方針を掲げ、時にはヌード写真を掲載するなど大胆な誌面で物議をかもすこともあった。しかし「ザ・ビレッジ」は深夜放送ブームに乗ってリスナーの若者たちに圧倒的に支持された。 彼はこの編集に携わる他、放送作家としても活躍し始める。彼の構成は制作者たちに好評で、多くのレギュラー番組を担当していた。私も彼が構成を担当した音楽ドキュメンタリー番組で連盟賞の最優秀賞をはじめ賞を数回受賞した経験がある。
やがて彼は吉田拓郎、中島みゆき等アーチストのライフストーリーを次々に発表する他、新聞連載の「70年代ノート」等ノンフィクション作家としても注目されるようになっていった。
現在はラジオの音楽DJとして活躍する一方、音楽評論家として日本レコード大賞の審査員も務めている。
昭和が終わり、平成になった。その平成も、あと1年4ヶ月で終わるが、あの頃、ゴールデン街で飲み明かした頃の光景は脳裏に焼き付いている。まだ「新宿解放区」が実感出来た時代だった。
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田中秋夫プロフィル
1940年生まれ。一般社団法人放送人の会・理事。元FM NACK5常務取締役。
1964年、文化放送にアナウンサーとして入局、その後、制作部に。「セイ!ヤング」や「ミスDJリクエストパレード」など深夜番組の開発に尽力し、ラジオ界での名物ディレクターとして知られる。1990年にFM NACK5に制作責任者として転籍。ラジオ番組のコンクールでは「浦和ロック伝説」「イムジン河2001」「中津川フォークジャンボリー」等で日本民間放送連盟賞受賞。
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