拓郎に対する歓声――正直に言って、この歓声こそが拓郎というアーティストの存在を独自のものにしている、と私は思っています。もちろん他のどのアーティストにもそれなりの歓声はあります。しかしながら、拓郎に対するそれとは根本的に“質”が違うのです。
拓郎が登場して1曲目はいきなり「春だったね」から始まりました。2曲目は「やせっぽちのブルース」、3曲目は「マークⅡ」、そして4曲目が「落陽」。「落陽」が始まった瞬間、コンサートはいきなりアンコールのような盛りあがり、いうならのっけからコンサートはもう全力疾走です。このあたりの盛りあげかたがまさに拓郎の拓郎たる所以なのです。
序盤から“歓声”を聞きながら私はこの歓声のことを考えていました。この歓声はどこから生まれてきているのかと……。それは拓郎の歌は私たちにとって単なるヒット曲でもなければ、よくある青春時代に流れていたBGMでもないということです。では何か?というと、私たちひとりひとりの人生におけるテーマソングではないか、ということです。拓郎の歌は、少なくとも私にとっては、私の人生を決定づけた歌です。そうです。私は拓郎の歌によって〈人生〉が変わってしまったのです。その意味においては、拓郎の歌こそが私の人生のまさにテーマソングなのです。
もう40数年も前のことになりますが、私と違って、拓郎はフォークを歌うという行為によって、何かをつかもうとしているようでした。少なくとも私にはそう思えたのです。そのとき、拓郎こそ、私にとっての人生の指針ではないかと思いました。拓郎との出会いで、私は拓郎のように行動を起こさなければならないと決心しました。私の“青春の風”が拓郎と共鳴して反応を起こし騒いだのです。それからすぐに大学を中退しました。二十歳のことでした。つまり、私は拓郎に刺激を受け、触発され、跳んだということです。しかしながら、思い通りにはいきませんでした。情熱に突き動かされるがまま、歌手、作詞家、イベンター(コンサートの主催者)にチャレンジしましたが、いずれも失敗してしまいました。それでも、私はあきらめませんでした。何かをしたい、という思いは消え去ることがなかったからです。
そんなある日のこと、アルバイトの帰りに、私は下北沢駅前にある書店に入りました。何か面白い本はないものかと物色していると、フォークの神様“岡林信康”特集という活字が目に飛び込んできたので手に取ると、それはフォーク専門の音楽誌『新譜ジャーナル』でした。さっそく買い求め、近くの喫茶店で岡林特集を読んでいると無性に腹が立ってきました。なんだこの記事は、こんなことしか書けないのか。こんなのだったら、私の方がよっぽどましだ。そんな思いが沸き上がってきました。これでもプロか?そう吐き捨てると、私はその場で思いのたけを文字にしていました。書き上げた論文にメッセージを添えて、『新譜ジャーナル』編集長宛に郵送しました。結果的に、この投稿が私に幸運を呼び込むことになるのです。
投稿して一週間ほど経った頃「会いたい」という連絡が来ました。指定された日に編集部を訪ねると、T編集長から「音楽評論家としてやってみないか。やってみる気があるのだったら全面的にバック・アップする」という申し出がありました。チャンスだ、と思った。「ぜひやらせて下さい」――この一言で私の人生は決まったのです
拓郎の歌によって私の人生が変わってしまったのです。これは私の個人的〈拓郎経験〉ですが、拓郎ファンにはひとりずつにこのような〈拓郎経験〉があるのです。だからこそ、拓郎の歌は単なるヒット曲ではなく、それぞれにとっては〈人生を変えた歌〉であり、つまるところ、自分の人生における〈テーマソング〉なのです。そんなそれぞれの熱い想いが凝縮されて爆発したのが拓郎に対する〈歓声〉なのであり、この熱い〈歓声〉があるかぎり吉田拓郎は不滅なのです。
コンサートはMCを入れながら進んだがいい感じで聴くことができました。1曲目の「春だったね」から本編ラスト曲の「流星」まで18曲、そしてアンコールは「ある雨の日の情景」「WOO BABY」「悲しいのは」「人生を語らず」の4曲。どの曲を取っても思い入れは深く、また、じっくりと聴けたので充足感に満ちていました。それと特筆すべきはこの他にまさに〈スペシャル・ライブ〉があったということです。9曲目「ジャスト・ア・RONIN」10曲目「いつでも」を歌い終わった後、拓郎はボブ・ディランの話をしてからなんと「風に吹かれて」をギターの弾き語りで歌ったのです。ディランがノーベル文学賞を受賞して拓郎が何と言うのか?固唾を飲んで見守っているタイムリーな時期に遭遇できるとはラッキー以外の何物でもありません。受賞に関しては直接語ることはありませんでしたが、「風に吹かれて」をフルコーラスで歌ったことにディランに対する拓郎のリスペクトを感じないではいられませんでした。