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2009/02/12

落陽 / 旅に唄あり 岡本おさみ

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落陽

その老人は小さな雑貨屋を経営しているのだが、いくどか倒産した。今はなんとか小金がたまり、余生だけは食いつなげそうだ。奥さんは亡くなり、子供たちは大きくなってもう家に寄りつかない。孤り飯を炊き、洗濯し、そして唯一の道楽だったヘラ鮒釣りに古ぼけた自転車をこぎながらやってくるのだった。

鹿島川の支流、高崎川はタナゴ釣りでにぎわうが、その上流、鹿島川とまじわるあたりで、秋から冬にかけて 中型のヘラが数多くでる。水面には木片がゆっくり流れているが底ではかなりの速さで流れている。冬、鮒は身をかたくして鈍く動かないが,ここは流れで水温があがっているのか、回遊しているようだ。川巾は狭い。六、七米だろう。が,、川辺りには高い土手があり,秋から吹きはじめる荒い風を防いでくれる。鹿島の本流や印旛沼の水路などに風が吹くと、ここに逃げてきて中型をあげて楽しんでいたが、丁寧に釣り座をかえて釣るうちに、 魚の濃いことがわかった。 流れがあるので,おもりべたで食い上がるのを待つ。ポイントよりやや上流から浮子を流すと、トップの長いそれはゆっくり起きあがり、おもりが底につくと、流れに傾むきながら停止する。ヨセのバラケを繰りかえしうちこみ、モゾッと軽いけはいがみえるころ、老人は自転車をえっちら踏みながらやってくる。 足音をたてぬよう老人は土手を下りてきて、並んで釣る。そうしてぼそぼそと話しながら昼を少しまわるころまで一緒に居る。

向こう岸を女学生たちが駆けてゆく。体育の授業なのだろう。紺やオレンジ色のスポーツ・ シャツを着て上流から声をかけながら走ってくる。ショート・パンツからすらりと伸びた長い脚が、眼の上のあたりを駆けぬけてゆくのがまぶしい。 女の子というのはどうして、あんなに軀が重たそうなんだろう。足の早い娘たちが駆けぬけたあとで、あえぎあえぎ、遅い娘たちがやってくる。意志だけは前進するように胸をまえにだし、お尻は後に、アヒルのようなか っこうで、顔をまっ赤にして駆けてゆく。 ぼんやり釣りながら見ている。それは決ってそろそろ竿を納める時刻で、アタリも遠のいているので、寒さでこわばった肩をほぐしながら見ている。

「若いってのはいいねぇ」と老人が言う。

「ぼくなどはまだ若いのに釣りなどしてていいんでしょうかね」

「いや、好きなことは仕方ないですよ」

釣れる時刻をすぎると、釣り談議になる。まあ近況報告といったところだ。印旛沼周辺にはいくつか鮒の濃いポイントがある。新川は大和田駅から歩いて二十分ほど、鯉が多い。中央水路ではいちど冬に橋の下で尺上を二十六枚あげたことがあるが、年がかわるごとに不調になった。沼の浅瀬はやはり春の釣り場だろう。たとえば、あるポイントは身の丈ほどのヨシが茂っている。鎌でヨシを切り、釣り座をひらく。竿はごく短いもの。ハリス は1本で十センチほどの短かさにする。鎌ではらったヨシが残っているので、ハリは二、三十本用意する。水深は約三十センチ。ヨシの根に垂らす。アタリがきたら一気に引き抜く。そのためには穂先の固いほうがよく、胴調子のやわらかいものだと大型は竿のしなった分だけ根のまわりで抵抗し、からんでしまう。ヨシのなくなるあ たりから急なかけあがりになっていて、鮒は急に浅瀬にあがってくるので水面にそのけはいがわかる。ヘラが集まると、そのけはいで鯉があつまってくる。ヨシの浅場は鮒をおしのける鯉の動きでさわがしくなる。ヘラは鯉に席をゆずり深場に逃げてしまう。鯉は力がめっぽう強い。釣れてもヨシにからむ。だから釣り座はふたつひら いて鯉が来たらとなりの釣り座に移るようにする。 野鯉を釣りたいがまだ作戦中だ。餌には「センキュウ」という薬品がよいとの噂がある。酒のカスを加えるのもよいとされる。市売品のネリ餌は誰でも手にはいる。だからそれに何を加えてネルかが釣り師の苦労するところだ。

北海道の釣り師栗沢さんは、蜂蜜がよいといっていた。サツマイモ (生のもの)に浅く切りこみをいれ、その切りこみに、蜂蜜をたっぷりたらし、強い紙でくるむ。(紙は印刷インクの匂いがにじむものはいけない)熱湯でゆがき、ふけたらとりだしてエサ大に切る。餌に香水をふる、という説もあるが、ためしたことがない。なにに してもやっかいで、うたのことばを作るよりやっかいだ。

「北海道なんてのは釣れるかね」と老人が尋ねる。

「ええ、川釣りじゃあ、日本でいちばんの大物が、日本でいちばん沢山釣れるとこですよ」栗沢さんにつれて歩 いてもらった標津川など道東での釣りの想い出を話すと、老人は「もっと若かったらなあ」と深い溜息をつくの だった。

北海道はいつも東に足が向く。釣り好きの老人は平凡な人生をやがて終えようとしているけれど、平凡も波瀾もくたばるときの気持や、老いぼれたときの気持に、そう差はないのかも知れない。ちっぽけな、汚れた水をながめていると、透明だった北の川を懐かしくおもいだす。そしてこうして釣り好きの老人と話していると、今、 思いだすだけで懐かしくなる、ある老人とのめぐり会いがおもいだされるのだった。 襟裳から苫小牧に出て、何だか列車に乗るのもあきたし、時刻表をみてると、フェリーが仙台まで出てるらし い。フェリーに乗ることを決めて、苫小牧をぶらつくことにした。

苫小牧駅まえの通りをまっすぐ。商店街をふらつき、本屋に何げなく入ると、立ち読みしているフーテン風な老人が眼についた。こぎれいな本屋で店の者は迷惑そうだ。客だって近づかないようにしている。何を読んでいるのか? 近づいてみると、政治評論のやっかいな雑誌で、それをひびわれた黒い指でめくりながら眼をくっつ けるようにしてひろい読みしている。東京でなら、この種の男はみかけるけれど、苫小牧なので好奇心でいっぱ いになった。老人は本屋をでると、ふらふら商店街をあるき、小さな公園のベンチに横になった。ぼくも座った。 そして少しずつ話すようになった。

酒飲み屋の並ぶ、裏通りをくぐって、暗闇に足を踏みだすと、裸電球が灯いた電柱をめあてに歩き、その一軒家につれてこられた。一見してカタギさんが足を踏みいれるところじゃない。 「あんたは黙って見てりやいい」と老人はぽつんとつぶやき、ぼくを二階につれていってくれた。 チンチロリン、はもう始まっていた。チンチロリン、とは一種のサイコロ博打である。 三個のサイコロを、コップに入れて振り、伏せる。出た目三つのうち二個が同じ数である場、,残りひとつの 目で勝負する。たとえば、二, 二、六なら六が勝負。ゾロ目、といって三個とも同じ数の目なら、最も強いところはトランプと同じで、役もあるけれどここでは書かない。 部屋は殺気でいっぱいだった。

太った中年の男はパンツいっちょうであぐらをかき、汗の匂いをまきちらしている。 ひとりは飲み屋の、若だんな、といった風で、右肩に傷がある。ただひとりワイシャツのネクタイをゆるめた眼鏡の男は顎がながくて気合いというものがなく、化粧品のセールスマン風だ。こういう場に足を染める感じじ ゃないが、神経質な眉で、博打に病んでしまうタイプだ。○○鉄鋼のタオルを首にまいた男は、負けるたびに、そのタオルで首をしめ、「ああ死ぬ、死ぬ」と叫ぶ。

老人は,そういう場所を一度見てみたいというぼくを気づかってか、壁によりかかってタバコを吸っている。 あと三人ほど若者が居て、気合いはあるが金はなさそうで、負けが込むと、財布をはたいて帰っていった。

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「おじいさんは入らんのですか」とたずねると、その声がきこえたらしく、中年男が、にやっと笑って「じいさ ん、金を払ってからにしなよ」と言い、「自殺でもされちゃあたまらん」などと誰かが言い、皆が笑った。 「若いもんが死なしてもくれん」などとじいさんはつぶやいたが、男たちの冗談を気にした様子もなく微笑している。余生をかけても払いきれないほどの借金があるらしい。

その夜は、博打あけのその部屋で、じいさんとゴロ寝した。翌朝目覚めて、寝タバコをふかしていると老人が眼をさました。それで寝ころがって天井を見ている老人と、伏せて座ぶとんの枕にひじをたてたぼくとの奇妙な話ということになった。いろいろたずねてみたい好奇心に駆られていた。ここで別れたら、もう一生会えないかも知れないと思えたからだ。素人のアナウンサーといった質問になったことが恥ずかしいが、そのときは仙台行きフェリーの時刻が気になりはじめていて気がせいていたのだった。

「今、どうして食べてるんですか」

「ルンペンですよ」

「どんなきっかけでルンペンになられました。昔の職は?」

「あんたは文章を書いていらっしゃいますが、私も昔はそういうことを志しておりました」

「小説、ですか」

「昔の話ですからね。評論ですよ」

「どんな評論ですか」

「それはもう捨てましたから。アカだと言われて追われました」

「戦争中ですね」

「息子は戦争で殺されましたよ」

「お名前をうかがっていませんが」

「名などありません。評論家をめざしたころもありましたが、書く気持を失くしましたから」

「御家族は?」

「忘れましたよ」

「結婚は」

「しました」

「奥さんは」

「逃げてしまいました」

「ルンペン生活は書かれなくなってからですか」

「絶望、っていうんですか、そういう時期もあったようですが、ルンペンの生活はいちばんいいですよ」

「戦争に協力したくないからですね」

「それも昔のことです」

「今でも本は読まれますか」

「本屋で立ち読みしますが、臭くてきらわれますから、ほとんど本屋にもゆきません」

「ルンペン生活からみて、どんな印象をもたれますか」

「みなさん生活が豊かで、幸せそうです」

「そんなふうにみえるわけですか」

「食べることには不満のない生活を送っている人の文ですよ」

およそ、こんなふうなやりとりだったと思う。老人は名の出た人ではないけれど無名のまま意志を通してきたらしいのだ。文のひとつも世に出ないまま日本を流れ歩いて、店の人に嫌われながら、今もどこかの飲み屋のすみの方で、冷や酒をちびちびやっているような気もする。借金にしばられていたけれど、しぼられても金はないのだから命さえなくさなければ博打場からたたき出されることがあっても、失うむものは何もないのだ。

「これもってゆきますか」

老人は少年のような顔をして、古いサイコロを二個ぼくにくれた。

「二個ですか、これじゃあチンチロリンは、できませんね」

「あなたは博打で勝てる柄じゃありません。だから二個にしました」

「やるな、ってことですね」

「そうです」

「御親切に」

「サイコロだけはやらないほうがいいですよ。帰りの船から海に捨てなさい」

「そうします」

しぼったばかりの夕陽の赤が

水平線からもれている

苫小牧発、仙台行フェリー

あのじいさんときたら

わざわざ見送ってくれたよ

おまけにテープをひろってね

女の子みたいにさ

みやげにもらったサイコロふたつ

手の中で振ればまたふりだしに

戾る旅に陽が沈んでゆく

 

女や酒よりサイコロ好きで

フーテン暮しのあのじいさん

あんたこそが正直者さ

この国ときたら賭けるものなどないさ

だからこうして漂うだけ

みやげにもらったサイコロふたつ

手の中で振ればまたふりだしに

戻る旅に陽が沈んでゆく

サイコロころがしあり金なくし

すってんてんのあのじいさん

どこかで会おう生きていてくれ

ろくでなしの男たち身をもちくずしちまった

男の話をきかせてよ

サイコロころがして

みやげにもらったサイコロふたつ

手の中で振ればまたふりだしに

戾る旅に陽が沈んでゆく

(落陽)

フーテン暮しの男では、もうひとり気にしている人がいる。その男は国電津田沼駅に住みついている。まだ話 したことはないけれど、津田沼駅をとおりすぎるたびに何が気になる。苫小牧で会った老人のことが強烈な印象なので気になるのかも知れない。

徹夜マージャンがあけて、午前五時。タクシーをひろうまえに夜明けの写真を撮りたくて,「あの辺三筒にはうまくやられたなあ。四筒、五筒と落として、一、 二、三の三色ねらい。四筒がドラだけにうまくやられた」などと頭の中で印象に残ったパイの並びを思い出しながら、歩道橋を渡ってゆくと、手ぼうきを持って歩道橋を掃除している人がいる。駅の人も大変だなあ、すごく熱心だなあ。こんな夜明けに駅舎ではないのに掃除とはねえ、と思って、見ると津田沼駅に住みついている、あのフーテン暮しのおじさんだった。また、雨の日の夜明け(というとロマンチックだが実はこれも徹夜マージャンあけで遊びがえりである)タクシーに乗ろうと、おじさんのいつも座っている前を通りかかると、おじさんは壁に寄りかかって眠っていた。また、夜明けにタクシー乗り場にでかけると、始発電車待ちの運転手さん達は、タクシーのなかで眠っている。ドアー・ウインドウをたたいて起こすのも安眠妨害のような気がする。昨日は徹夜で運転してつかのまの仮眠をむさぼっているのかもしれない。始発電車が来るまでのんびり待ってようか、などと思っていると、フーテンのおじさんがぼくを見つけた。「眠ってるのかな」おじさんは車のなかを覗き込み、運転手さんが眠ってるのを見つけると「お客さんだよ」ウインドウをこぶしでコツコツ軽くたたいて、起こしてくれた。「どうも」礼を言うと、おじさんは黙ってまた定住の小さな椅子にゆっくり腰をおろした。パタンとドアーが自動で閉まった。おじさんは眼を閉じて、もうぼくを見てはいなかった。

気づくと釣り糸は水に垂らしたままで老人とぼくは釣るより話に夢中になっていたらしい。「しばらくみかけないと思ったら、あんたはそんな長い旅にでてなすったんか。その博打うちのおじさんに較べたら私なんかは平凡な人生だったって気がしますね」 老人は思いなおしたようにネリ餌をつけて軽く竿を振った。白い餌はゆっくり水に落ちていく。で、ぼくも竿を振りなおし、竿かけに置くと煙草に火をつけた。そうして幾歳月あとに老いた自分を想像しながら、おそらく自分は自転車をこぎながら、好きな釣り場で浮子を見つめているだろうと思った.。

( 終 )

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