ある珈琲店の外の見える窓ぎわの席にふたりの男が座っている。 「こういう風に外の見えるところが好きなんですよ。これも一種の胎内願望なんだろうねJ 少し年配の男が言うと, 「ぼくの書く歌詞でもそうなんです。ガラス越しに見えた街景とか、列車の窓から見た田舎とか、風景と自分の 間に何か境界線を引いていないと安心できないような気がするんです」と若い方がこたえた。 二人が会って話したら、このような会話になるのではないかと想像するのだが、年配の方は、詩人の渡辺武信 氏であり、若い方が松本隆。元はっぴいえんどのドラマーで、うたのことばを書いている男だ。 松本隆に限らず、ぼくらは喫茶店にはいると、なぜか窓ぎわの席に座り、そのわずかに切り取られた空間から、 ガラス越しに行きかう人を見る習慣が身についているのに気づく。ガラス越しに見る風景は、行きかう人のなに げない歩行としぐさであったり、向かいのビルに働くサラリーマンであったり、女の子のきれいにのびた脚であったり、さまざまだが、その繰り返し動くものにわずかにやすらぎを覚えるとはいえ、それらはもう見慣れた、ありふれた風景であり、色彩も匂いも動きさえ静止し、死んだ風景としかうつらないことがほとんどだ。
松本隆は東京生まれである。
「アスファルトがめくれて土が見えると、そこにぼくの幼年時代が見えてくる」と彼は言う。
山陰の田舎で十八歳まで育ったぼくと、松本隆。都市と田舎の違い幼年時代をすごした二人が話したことがある。
岡本 ある新聞に「風街ろまん」について書いたんだけれど、都会でのみ育った人の幼年時代ってのが田舎育ちのぼくには見えないわけです。田舎っていうと、いやな習慣とかがあるから、もっと素朴に、たとえば自然、と言ってみますけど、幼年時代を田舎ですごし街に出た人はある時期、自然に向かって逃げる。都会で過ごした人 は、あるなつかしさにひたる、と大きく分けてみたんだけれども、ぼくの場合、自然とかいうものは、十八歳まであるから、かなり強烈な体験としてあるわけですね。そしてその田舎は、風景としてではなくて、暮しとして あるんです。はっぴぃえんどのレコードを聴いて思ったのは、田舎をとらえてゆく場合、旅行者のあるいは風景 としてとらえている。ぼくが田舎に帰るというのは、暮すということであるわけですね。田舎で暮せるという安 心感があるんです。だから、もし風景としてとらえても松本くんのような静止した風景にはならないんじゃない かとも思ったんです。はっぴぃえんどの場合は、田舎を見てゆくという感じに近いと思えるんですね。
松本 ぼくの場合、田舎に関しては、そこでは絶対に暮せない、はいってゆけない、はいってゆけないってのは、 田舎の方がぼくらを拒否しているし、ぼくらも田舎を拒否してるところでいくつか詞を書いてます。
岡本 たとえば。
松本「夏なんです」とか、ですね。そしてぼくの場合、実は岡本さんの幼年期の体験に近いものもあって、というのはうちのおやじとおふくろに田舎があるんです。おふくろの田舎ってのは群馬県の小さな温泉町なんです。 で、夏になると、そんなところでひと夏を過ごしてたんです。だから夏の記憶ってのは、どういうわけか、山の 中で、春、秋、冬の記憶ってのは東京なんですね。「夏なんです」のなかにあるんだけれど、今、そこに行ったとしても、やっぱりだめなんですよね。拒否されてるような気がしてね。そこもすでに東京化して来てしまったし、歓楽街のようなのが、ひどく俗悪になって来たし、その当時は遊び場で、旅館の中に勝手にはいって行って、客の来てない部屋にはいったりも出来たんです。お風呂も好きな時に好きな風呂にはいりに行ったりしてね。当時の遊び友達ってのが十人近くいるんですが、今はその人たちも、そこには全然いなくなってしまったんです。そこはもう歓楽温泉町になってしまってるから、そのへんが田舎に対して、こちらが拒否したり、あちらも拒否し てるように思えるんです。
岡本 ぼくが「夏なんです」を聴いて感じたのは、ぼくの田舎から、さらに三十分余り行ったところにある、島根県安来市に今もあるお寺を思い出したんです。松並木がずっと続いてるところに、静かなお寺があって、真夏に行ったときに人はだれもいなくて、蝉 の鳴き声だけがあって、ジリジリと暑いんだけれども、妙に静かすぎてね。しかしそのそばに川があるとすれば、ぼくの場合、その川で遊んでしまうし、動いているものを書くだろうと思うんです。松本くんの場合、そこに立ってる、 見てるという詞だから、ぼくとはっきりちがうんだなと思ったのです。
松本 「風街ろまん」というLPは全体がトータルなイメージとして、時の螺旋階段を駆けのぼりながら、幼年時代の記憶ってのを、振りかえるんじゃなくて、先に進んで行ったらそこに戾ってしまったというところで創ってしまったんです。「風を集めて」ってのは都市の中での夏であり、「夏なんです」ってのは田舎の中での夏なんですね。だから田舎の白い畦道で、奴らがビー玉はじいてる、の奴らってのは、おそらく自分自身で、幼年時代は自分自身が田舎にはいりこめていて、許容されていたのに、それを見ているのは現在旅行者としての自分でしかない。だいたいそんなような意識で書いたんですけれどもね。もうひとつは「静止した風景」ってのは、岡本さんが·はっぴぃえんどのソング ブックに書かれた、その通りですが、三面あるんですね。三面ってのは、三 面とも場所が違って、状態も違ってるんだけれども、ぼくが描きたかったのは、三枚の絵で、美術館の中で絵の 前をとおりすぎてゆくように、とおりすぎながら、それをストップ モーションでとらえてゆくというやり方で すね。「日傘くるくる/ぼくはたいくつ」っていうのはとおりすぎる。自分がまわってるような感じですね。さつきの松の並木の寺のシーンとしてるような静止した状態ですね。自分はやはり心は乱れてると思うんですけれどね。
岡本 松本くん自身の位置はすると……。
松本 動きますね。
岡本 ぼくの中に巣食ってる日々の暮しの慰安ってのは、その動くってことにつきまとうものなんですけどもね。 ぼくの場合田舎への興味は、働いてる人ですね。長谷川きよしと知り合ってから、ぼくの中に変化が起きたと思うんだけれど、見えない人を前にして、ことばを彼のために書くという立場にいると、何を書いていいのか、はじめわからないんですね。そのわからないという状態がもう数年続いているんだけれども、結局風景ではなく、 比喻ではなく、ってことですね。日常会話は別として改まって書くとなると、やはり風景ではなく、ですよね。 だから彼との話の中ではごく自然に話しながら、気を配らず話しながら、会話として、風景ではなく……になりきれない。ぼくはずいぶんらくに彼と作業にはいれるんだけれど、まだまだですね。しかしそのことは、ぼくの 中でいろんな分裂をたえず起こしていて、未だにうたことばから一切風景を取り切れればと、こだわってます。 その点で、見てる立場であっても、そこで働いてる暮してる人のほうから生のことばを吐きださせるというやり 方ですね。しかし、それがどこまで長谷川くんの中で存在感を持っているのか、という確認には、遠いわけです ね。今度「森が燃えている」という新曲を彼と創るんだけれども、それはまあ、思い切って風景であるわけです。 抽象化されたね。しかし風景を書いても風景ではなくと考えてるわけで、そこで松本くんとぼくは正反対のこと を考えてるんでしょうね。しかし比喩ではなくってのはとてもつらくて、削ってゆくとなにもなくなるんです。 彼がたとえば少し楽しくなれた状態の時に、すばやく「たのしいのも/まんざらすてたもんじゃない」ってリフを持つことばを書くとかね。だから彼のことばへの可能性は「直情的」であること、それだと思っていますね。 つまり人間の吐きだす、直情的な吐きことばに彼への可能性をみつけようと、ぼくは思ってるんですけど、まだ はたせていません。直情的なことばってのは、一方ではすぐ前に限界があるようにも思えるし、大きい可能性が あるようでもあるし、だからぼくはもっと親身になって、彼のうたことばをさぐらなけりゃぁいけないんですけどもね。
松本 まるっきり反対ですね。ぼくは吐き捨てをどんどん切り捨ててきたし、音ってのは自分の内側にあって、そういうものを絵にしたかった。歌ってのは歌手がいて観客がいて、伝える人がいて、聴く人がいる。それが歌 のいちばんの可能性であるわけだけれども、そういうことをちょっと書いてみようかな、という気が1枚目の 「はっぴいえんど」を創ったあとでしました。で誰かから誰かに伝える、というんじゃなくて、誰かと誰かをそ 「そのままくるんじゃうような、人間と人間のまわりを風景がとりまいているような、その中に人間関係がすっぽりはまりこんでいる。ぼくに限っていえば、そういう表現の方が、人間関係のみをとり出すよりも、もっと遠いと ころまで行けるんじゃないか、ただそれだけなんですけれどもね。そしてもうひとつは、ロック・ビートっていうのにのせて、直情的にゆくと 、まるっきりあるがままになってしまう。意味だけってことにね。行間が欲しいわけです。そのへんを音をからませながら、出してみたかったし、「風街ろまん」ってレコードはそれは創れたと思うんです。レコード1枚以上の付録が結果的には創り得たんじゃないか、と思うんです。
岡本 1枚目の「ゆでめん」はその直情の部分と半々でしょう。
松本 ええ、半々ですね。迷ってるっていうかね。
岡本「春よ来い」「いらいら」なんかが、そうですね。作品としては「かくれんぼ」がいちばんよかったと思う んですが。
松本 ぼくもそう思ってます。
岡本 「かくれんぼ」のような感じの延長でLPが1枚できたら、いいでしょうね。
松本 「かくれんぼ」は馬子唄みたいだっていわれました(笑)
岡本 へえ、誰から(笑)。
松本 あの当時、ちょうど結婚する前で、かなり入り乱れていて、迷うことが多くて、あの詞を創ったんですけれど。
岡本 ええ、あれは正直に感じが出ている詞ですよね。ぽつんとほおりこまれた「嘘が一片」なんて生の語彙な どにね。
松本 結局「嘘が一片」といっても仕方がないんですよね。
岡本 あの一言に何かドキッとするものを感じましたけども。
松本 あのなかで書けたのは「雪景色は外なのです。なかでふたりは隠れん坊」のところです。自我がふたつあって、その間の緊張関係なり、ゆるしあうみたいなところがあって、ゆるしあうことしかないんじゃないか、ゆるしあえるには共通した風景の中にいることがいちばんゆるしあえる。もうひとつは自我を抱擁 するもっと大きな力の存在があって、それが存在しないと、むきだしの自我と自我とが喧嘩になるしかないんで す。
岡本 松本くんの男と女、夫婦っていうのはとても緊張してるんですね。ぼくの場合、ぼくらの場合といってもいいけれど、九年くらいつき合って、会ってたのは三ヵ月ほどってことなんです。結婚までにね(笑)。それも相手は山陰にいて、ぼくは東京という距離の中にいたから、ある共通した風景、ひとつの陽溜りとか、ひとつの場 所とかに巫りながら育ったものじゃない。向こうは向こうで僻地の先生をやり、僕の生活とちがったところで何かを広げてたし、ぼくはぼくなりであったし。だから確認とかってのはいつでもある距離があったそれはい いことじゃない かと思う。愛するから会わない方がいいようにね。少し暮らしたり少しつきあえばお互いに何もかも見えてしまうからね。愛ってのは確認しあい始めると、こわれ始めてる。だからそういういやなものが見え始めると、お互いにいちど落としてくるし、落とすにはいろいろあるだろうけれど、ぼくらは少し離れてみる、かな。男でもそうじゃないかな、仕事でも,、いやになったらとにかく一度離れる。それでもくっついてるっての は、あきらめ、だな。離れるってことはいいことですよ。また戾れるために離れるってのかな。
松本 ぼくらやっぱり原体験がないんですね。体験がないんならとりあえず風景でもみつけてやろう。
岡本 言ってしまうと軽くなるけど。
松本 わりあい真剣に考えていて、幼年時代の記憶ってのはふとよみがえることがありますよね。ある場面だけがぽっとよみがえって、それがとても印象的である、というふうにね。そういうものは、のんべんだらりと生活 している中で一条の光のようで、それをつかまえたいな、と思うんです。で、よくわからないんですけど、目の 前に光が落ちるってのは頭で考えながら作ってるんじゃなくて、遠いところにあるものが見えるような気がする し、それが自分の心の中のいちばん深いところじゃないか、って気もするんです。そのへんを音とことばと結びつけながら作りたかった。
岡本 そのあと、そのみえてくるところは。
松本 今のところないんですよね。はっぴいえんどで共通していた、共鳴する部分ってのは「春よ来い」とかあのあたりはすごく共鳴できる部分だったんですけどもね。
岡本 ぼくはそのことについて、確か「ある貧しさゆえ」とかって書いたけど(笑)、貧しさゆえってのは、あるひとつの空間のなかに、みんながいられたってことなんでしょうけれども。
松本 グループってのはひとつの空間で、すごく強いものがあるから、破綻してゆくときには逆に作用して、すごい力で反撥しあうんです。なんでもないことでね。 岡本 そういう破綻ってのが起こるのは、思考より日常からだと思うんですよ。一日一日ってのは平凡なようで、やっぱり何もなくすぎてるわけじゃなくって、たとえばある人が結婚する、なんていうあたりまえのささいなことから何か変わってゆく。
松本 エピソードって奴に弱いですよね(笑)。噂で、あいつがなにをやったってきくと、もうそんなことする奴 とは(笑)。あいつが何をしたっていうと、その程度の奴なのかって言うね。
岡本 ぼくは考えるって緊張状態ってのは、ひじょうにもろいと思います。
松本 持続しなきゃぁならんかな、とも思うんです。一瞬光が落ちてあとは闇でも、また光が落ちるのを待っていればね。落ちるまでじっと見つめてる。夕暮れの風景などじっと見続けていて、ほんの一瞬ですよね、きれいだなって思うのは。そういうことってのはひとつの快楽だと思うんですよね。待ってるのも快楽だし、その瞬間を楽しむのも快楽だし、その残像も快楽だと思うんですよね。そういうことを最近感じてるんですけれども。
岡本 松本くんの場合、音化するところまでつきあいたいから、すると音を出してくれるグループも作らなきゃ いかんし、また作ってしまうと、そこで崩壊してしまうってこともあるだろうし、キツイな。またLP一枚でそこも終わるんじゃないかな(笑)。
松本 しんどいけれど,、一度しかない人生だから、お金もうけただけじゃ済まない部分があるから仕方ない.
岡本 松本くんの場合、愛なら愛のとらえ方にしても、精神的ですよね。
松本 ぼくは男女の愛ってのは、キリストの愛と同じだと思うんです。ぼくはキリスト教徒ではないけれど、イエスというか、あの人が好きなんですね。
岡本 困ったな。ぼくは宗教的なのはぜんぜんだめなんです。
松本 自我じゃなくって、自我をつつむようなものが欲しいんです。宗教だったらいちばん幸せになれるんだろうけれども、宗教じゃあないんですよね。つつみこんでくれるからといって自我は捨てられないわけですよ。
岡本 祈り、なのかな。
松本 いろんな宗派があって、その時代時代で変わって来てるんだけども、屈折してるし、道徳や儀式や偶像と結びついた感じもあって、そんなところはやはり耐えられないけど、あの時代に生きた、神と人間がちょうど交錯したしたようなところに立っていた人間ってのは、やっぱりあの人だったと思うんです。だから愛情があるんですね、その人は。愛情がある宗教ってのはそのへんで共感するし、そういうものと男女の愛ってのは実は同じ次元にあるんじゃないかなと。
岡本 うーん。ぼくはきっと松本くんに比べ生臭いんだろうね(笑)
松本 だからどんどん生臭さを切っちゃう。きれいなものが好きなんです。イルミネーションというか。だから最近ソウルをきいてるんですけどもね。今のソウルってのは一昔前とは別に、まったくきれいになってるでしょう。ぼくは、1967~68年、リズム&ブルースですごして、そのつぎカントリーをやって、ウェストコーストのロックとかをとおってきたんですけど、掘り下げていけばカントリーとかブルーグラスとかに行っちゃうわけですね。それは耐えられないところがあって、やっぱりおかしいんですよね。今ここでブルーグラスをやるとね。
岡本 ええ、それは松本くんの中にある、田舎へ対する拒否反応と似てる、体質的なものじゃないかと思う。
松本 憧れとして田舎をみつめるってのは、わかるんですけどね。疑問があったわけですよ。入りこめなかったし、そういう反動ってのは、逆にいちばん都会的ですしね。ピカピカきれいに磨かれたようなジェラルミンとか、 そのへんにね。やっぱり都市に執着してるのかな、岡本さんが山陰に執着するように。
岡本 山陰って湿気の多い街なんですよね。山陰だからね。夏はいやなんですよ。しかしそれ以外は好きだから、いやな夏だけは北海道がいい(笑)。
松本 ぜいたくなんですね(笑)。
岡本 だから今いる千葉と山陰と北海道ってふうに考えてみると、東京ってものはぼくの中からいつのまにか、すっぽり抜けてしまった。東京っていちど外に出てから見ると耐えられなくなる。
松本 耐えられないんですけどね。離れられないわけです。
岡本 それは離れたとき、他に帰るところがないからなんでしょうね。いろんな女に惚れたあとで、みんな終わ ったあとで、帰ってゆくのは本妻だった、というふうにさ(笑)。
松本 本妻はないんです(笑)。
岡本 そこなんでしょうね。田舎の本妻があるかないかって奴でね。
松本 やっぱり自分の生まれた場所がないってのは、これほど不安なことはなくって、ぼくの場合道路になって るんですよね。そして今は如月音楽事務所ができている(笑)
岡本 そりゃ奇縁だ(笑)。
松本 マンションですからね。ひじょうにいやですね。いったりすると(笑)
岡本 畳に対してはどうですが、体質的に。
松本 違和感はないんですけどもね。うまいつくりだな(笑) と思ったり、狭い場所をいちばんうまく使えるな、って。昔の人は頭がいい(笑)。椅子がいらなくて、座ぶとんがあればよくって、座ぶとんはかさねればいい。 ふとんも押入れからひっぱり出して敷く。片づければなにもなくなる。
岡本 ぼくの場合、あそこに洋間のある家ができたっていうと、珍しくてね(笑)。新築の家ができるたびに、洋間のある家がまわりでふえてゆくのを物珍しげに見て来た記憶がある。ぼくは畳に座ると落ち着くけれど。
松本 ぼくは腰がいたくなります(笑)。
「襟裳岬」にはどこか田舎の匂いがする"という人がいた。そうかも知れない。松本隆との対談を読みかえしてみるとうなづけるのである。
街のはずれの背のびした路地を
散歩してたら
汚点だらけの靄ごしに
起きぬけの露面電車が
海を渡るのが見えたんです
それでぼくも
風をあつめて風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を
(「風をあつめて」詞·松本隆)
松本隆から年賀状がきた。 横浜に引っ越したとあり、,短い文が添えてあった。
「これでやっと東京への旅行者になれました」
終