矢島賢さんお別れの会
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【 あんまり好きじゃなかったですから。“今日おもしろかったな”
っていう程度でしたね。】
Q 琵琶法師のおじいさまの影響はどこかにあったりします?
A どっかでそういう影響を受けちゃったのかなとは思いますけど。
音楽を受け取るのが感情なんですよね。だから感情的なギターを
スタジオでも弾いていましたよ。ちょっと譜面に合わせないみたいなね。
そういうのが喜ぱれてよく呼ばれたのかもしれないですね。だから音色
が大事になってきて、必然的に機材が大事になってきて。よくスタジオ
に行くと、こっちから逆に指定しましたもんね。コンプレッサーはどれくらい、
アタックはこれくらいにしてみたいな。
Q 当時の歌謡曲には歌手の意志は入っていたんですか?
A 入っていないです。南沙織や郷ひろみ君のデビューの頃は、レコード
会社に戦略みたいのがあって、まず営業でこの子はこう売り出していこ
うっていう方向がある。その路線上で、アレンジャーやサウンドはこういう
人を集めたほうがいいっていう戦略ができていたんです。そのうちだんだ
んミュージシャンの力が強くなってきて、クロスオーバーやフュージョン
といわれる時代になってくると、もうグチャグチャになってきていました。
昔(70年代前半~中盤)のほうが、レコードを売ることに関しては戦略的
ではありました。プロデューサーも、今でいうサウンド · プロデューサー
という感じではなくて、もっと大きなプロデュース。アーティストをどう
やって育てていこうかとか、そういうような大きなビジョンでプロデュース
していたと思います。
Q 参加した楽曲がヒットした実感はあリましたか?
A 当時自分が弾いたものがヒットした実感は全然なくてね。とにかく毎日
スタジオに入っていたから、あんまリテレビも見ない。ラジオも聞かない。
音楽を聴いているのは,輸入盤屋でかかっているのを聴くくらいだった
ので、あんまりわかってなかったですね。
Q サンプル盤は送られてこないんですか?
A 送られてこなかったですよ。送られてきたらもういっぱいたまっている
と思うんですけど。だんだん、スタジオ · ミュージシャンもジャケットにクレ
ジットされるくらいから、「この間のアルバムです」ってもらったりということ
はありましたけど、それ以前はほとんどなかったです。
Q それについて疑問は?
A あんまり好きじゃなかったですからね。洋楽でジミ ー ・ぺイジや
ジェフ・ベックを聴いているので「どうしてこんな演歌っぽい曲やらない
といけないの」っていう思いもあって。「ああ、終わった」って。
「今日おもしろかったな」っていう程度でしたね。
Q 愛着という感じでもなかった?
A 愛着はあんまりなかった。「おかげさまでヒットしました」って言われる
ことはありましたけど、「ああ、良かったですね。ところで何でしたっけ」
みたしいな(笑)。
Q クレジットがないことについては?
A 過ぎたことは考えないっていうか。それよりもスタジオのセッションに
行って、ギターがいい音していたりとか、いいフレーズ弾けたりとか、そう
いうことのほうが楽しかったですね。
Q 音作りについては、矢島さんに任されていたんですか?
A アレンジャーが指定してくるのは、歪むか歪まないか、あとはコーラス
がかかっているかっていう程度で、プレイヤーに任されていました。その
中で、当時流行っていた音色を出してくれる人が呼ばれるという感じでし
たね。「少女A」の頃だったら、スティーヴ ・ルカサーのような音色に近い
人が呼ばれるという。
Q 自分の音を出すっていう考え方はありました?
A 他の方がどうかわからないですけど、僕はいつも自分がー番いいと
思う音を出していました。だから自分ならではの音色が多かったと思い
ますよ。時代とともに音も変わってくるのでその時でー番いい音を出す
ということを、機材を追求したりしてやっていましたから。だから、こういう
感じの音って言われて音作りをしたことは、ほとんどなかったですね。
Q 音作りへのこだわりは強かった。
A それはもちろん。
Q 大村憲司さんや鈴木茂さんなどと参加されているコンピレーション ·
アルバム「NEWYORKJ(78年)では、レス ・ポールとストラトとムスタング
を使っていますね。中ジャケに記されています。
A ムスタングは、たぶんソロで使ったと思います。
Q このアルバムの参加の経緯はどんな感じでした?
A こういう企画があるんだけど、1曲作ってもらえませんかっていう
感じでした。
Q 最後に、ソロ願望はなかったんですか?
A 一応、矢島賢&ヴィジョンズで「リアライズ」を1枚やりましたけど、
あんまり強くはなかったです。スタジオの仕事がそれなりにクリエイ
ティブな作業だったので、それまでワガママな仕事の仕方をしていま
したから、「こんなのなんで俺に弾かせるの?」って言ったりとか。仕事
だからやらなきゃいけないはずなのにね(笑)。だから、それほどスト
レスもたまらずに每日楽しくやっていましたよ。
( 終)
矢島さんのご冥福をお祈り致します。
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90年代初期 (撮影 : 田村仁 )
Q エフェクターもいろいろ試しました?
A エフェクター · ブックに載るほど使いました。MXRの全製品であるとか、
エレクトロ · ハーモニックスの製品もほとんど使ったり。ただ、こういう仕事
だとあまり使えないものもありましたけどね。マエストロのリングモジュレ
ーターとか。これは使えないでしょうって。とりあえず新しもの好きだった
です(笑)。
Q フェアライトIIを導入したのは?
A ワーナーパイオニアでソロ · アルバム「リアライズ」(82年)を作った時に、
よせばいいのにサラウンドで作っちゃったんですよ。ミックスダウンする時に、
ものすごく時間かかって。途中でもうやめてほしいって言われてやめなけれ
ばいけないほど時間かかっちゃったんですけど。これは自分の望みどおり
のことをやるならスタジオ持ってないとダメかなと思って、自分のスタジオを
持つようになったのがきっかけでした。
Q ー番忙しい時期のスケジュールの込み具合は?
A 朝10時がー番早い時間でそのまま空きがなくて夜中の3時とか。これ、
たまにじゃなくて、そういうー日わりと多かったですよ。
Q それが毎日続くんですか?
A そう、毎日。だからもうなんだかわらないみたいな。いつご飯食べたら
いいのみたいな。誰のレコーディングなのかもわからない。まず本人が
来て歌わない。曲のタイトルは書いてあるんだけど、あえてこっちが追求
しないから。
Q それは何歳ぐらいの時ですか?
A 22歳ぐらいから30歳ぐらいまではずっとそういう生活でしたね。オフは
、レコードメーカーが休みの時。8月のお盆の時と暮れくらいですか。
Q 70年代は1曲どれくらいで録っていたんですか?
A 1時間以内で録り終わっていました。
Q 初見で、1時間で録っちゃうんですよね。それも全員が。
A そうです。必然的にそんな凝ったことはないですけどね。当然、僕らの
場合は1曲1時間ですから、アルバム1枚1日って平気でやっていました。
Q 矢島さんの世代と矢島さん以降の世代ではレコーテディング方法の
違いが大きそうですね。
A そうですね。コンソール · ルームの中に制作スタッフとスたジオ · ミュー
ジシャンがいるわけですけど、会話をすることがほとんどなかったですから。
一緒に作っているっていう感覚はほとんどなかったです。僕らのあとの時代、
今君や松原君の時代では和気あいあいで、ディレクター にしてもミュージ
シャンにしても、一緒にお茶を飲んだりだして、「こうしようよ」っていう話を決
めたりすると思うんですけど、僕たちの場合は「行って弾いてお疲れ様」って
いう。だから鍛えられたってのもあったし、そういう中で自分が歌謡曲とは
システムの違うニューミュージック関係の仕事に呼ばれていくと、和気あい
あいとしていて「こっちのほうが音楽だよね」って思ったりしていました。
そういった意味では、歌謡曲はスピードはありましたけどね。
Q ニューミュージックのアーティストのレコーディングのほうが楽しかった
ですか?
A 楽しかったですよね。変な言い方なんですけど、ギターパートがギター
パートでいられるっていうか。さっきの1時間1曲のぺースの時だと、たぶん
これはこういうふうにギター弾いて欲しいんだけど、こういうコード進行だと
無理だよなっていうのがほとんど毎日あって。ニューミュージックのアー
ティストだと、そこはある程度理解されている部分があって、ちゃんと音楽
ができるなっていうのがありました。
( 続く )
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Q 80年には篠塚満由美さんの「Turning Point」に井上鑑さん、
クマ原田さん、リチャード · べイリー(元ゴンザレス、ジェフ · ベック。
後にインコグニート)と参加、同じメンバーで竹下景子さんの「私の
中の女たち」(80年)にも参加しています。
A これはたぶん、井上鑑君にそいう話が行って、当時鑑君ともよく
ー緒に仕事をしていたんで、呼ばれた感じです。行ったらドラムが
リチャード · べイリーだっていう感じだった。ベイリーは、あんまり
譜面を読めなかったから、「そこはあと4小節あるから」とか、そう
いうノリで録音していました。
Q 中森明菜さんの「少女A」(82年)もクレジットがありませんが
矢島さんですか?
A これも僕が弾いていますね。
Q アレンジでのギターは、書き譜が多かったですか?それとも
ほとんどアドリブですか?
A 半々くらいです。書き譜であっても、ギター・プレイヤーが書いた
譜面じゃないから、自然なフレースじゃないって変えちゃう場合も
ありますね。「少女A」の間奏はアドリブです。
Q TOM★CATの「ふられ気分でRock’n’Roll」(84年)なんかでも
弾かれています?
A 弾いていますね。
Q TOM★CATのバンドのメンバーは演奏していないんですか?
A やってないですね。あとは,チエッカーズでも弾いています。
誰なのか知らずに、呼ばれて入って「ギター弾いて下さい」って言
われて。ダビングなんですけどね。6曲くらいまとめて録って,
「何なんだろうなこれは」って思って、あとでチエッカーズって
わかったんですよ(笑)。
Q 河合奈保子さんの「さよなら物語」(84年)は?
A これもやっていますよ。マキ(夫人でキーボーディストの矢島マキ。
旧姓は田代マキ、現在は嶋マキ) がキーボードを弾いて,オケは
フェアライトで打ちこんで、ギターは僕で。ほかは誰も弾いていません。
Q 堀ちえみさんの「ジャックナイフの夏」(86年) も矢島さんのギター
ですか?
A そうですね。80年代の初めくらいにフェアライ卜llを買って、その
あとフェアライトⅢも導入したんですよ。これはフェアライトで打ち込んで、
そのあとギターを弾いてといった作業でした。
( 略 )
Q 美空ひばりさんともレコーディングされたんですか?
A やったことあります。最後のアルバム「川の流れのように
~不死烏パートⅡ~」(88年)はやっています。
Q 石川さゆりさんとの共演のきっかけは?
A たまたま知り合いのプロデューサーがやっていたんで、
「ちょっとー回手伝ってくれ」って言われて。「できるかな俺に演歌」
って思ったんですけど、入ってみたら,あまり演歌じゃなかった(笑)。
歌が上手なのはあたり前なんですけど、エネルギーがあるんですよ。
【 朝10時から始めてそのまま夜中の3時までとか。そういうー日は
わりと多かったですよ。】
Q 年代ごとの使用ギターはどんな感じですか? テスコのあとが
ストラトですか?
A そのあいだにモズライトがあります。
Q アマチュアの頃ですか?
A そうですね。アマチュアの頃に月賦で買って。たぶん64年頃かな。
出来が悪くて反っちゃってダメになって。それからES-175になったん
ですよ。とりあえず仕事にしたいと思っていたんで、ある方に話をし
たら「いろんなことをできたほうがいい」って言われて。「まずジャズだな」
って言われて、ジャズだったらこういうギターかなって思って、神田商会
に行って買ったんです。
Q スタジオ · ミュージシャンになってからは?
A 最初がストラトですね。ストラト弾いていてボリュームをもっと出したい
と思ってハムバッキングになって。その頃からスタジオの仕事がくるよう
になって、レス · ポールになってその次にSGになったんです。SGは何本
か使いましたね。3ピックアップのものとか。しばらくしてハムバッキングの
テレキャスターのシンラインになって。あれはなかなかいい音していました
けど。それで、またレス · ポールかな。いろいろ使ってみたんですけど、
335も使ってみたし、345も。ムスタングはだいぶあとですかね。
Q アンプについては?
A 当時は、スタジオ・レンタルのアンプなんかなかったので、全部自分
で運ぶしかなくてね。アンプを何台も運ぶわけにはいかなくて。当然持ち
運べる量も限られてしまうので、その中でなんとか自分の音を出すのが
毎日戦いでしたね。当時はツイン · リバーブ、いわゆる通常売っている
銀パネです。でも、イマイチ気に入らなくて。ブラックフェイスのほうが音
がよかったんですよ。それで、たまたま成毛滋が使っていたブラック
フェイスを譲ってもらって、それをしばらく使っていました。そのあと、
高中正義と同時期くらいにブギーを使い出しましたね。そして、
マーシャルJCM800、ブギー。フェンダーのチャンプとデラックスが
いっも車に置いてあってケース・バイ · ケースで使い分けていました。
Q アンプを持ち込んで音作りですか?
A うん。でも時間がなかなかなくて。ギターって、実はいい音させるの
に時間がかかるので。マイクの角度とかもね。スタジオの仕事では、
それとの戦いでした。
Q 譜面を咀嚼する時間と音色を作る時間が必要だった。
A そうですね。それを瞬時にやれないとね。あとでゆっくリダビング
っていう状況ではなかったですから。とりあえずその場で、完璧にで
きないといけないというのがあったんで。
Q 時代ごとに新しい機材がいろいろ出てきましたが、その都度興味
を持ちました?
A 「Guitar Player」って雑誌を、時どき輸入本員に行って買ったんで
すけど、だんだん機材を紹介するべージが増えてきて、よくチェック
していたんですよ。今はなくなったけど、渋谷にヤマハがあって、
そこで載っていた機材を見かけると買って、そのままその日の
セッションで使うことも多かったです。
( 続く )
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Q ところで、アリスでも弾かれていましたよね。
A あの頃はアリスが流行っていましたね。「遠くで汽笛を聞きながら」は
僕が弾いています。ツアーもやったりしました。
Q ツアーに出たのはアリス以外では?
A 吉田拓郎、長渕剛ですかね。
95年
Q 杉田二部さんのッアーもやられていたようです。
A ああ,やりました。あと、チャゲ&飛鳥は、田園コロシアムでのライブ
をやったことがありますけど。
Q 沢田研二さんの「思い切リ気障な人生」(77年) では、水谷さんと
ー緒に参加されていますね。
A 参加したのは覚えているんですけど、たぶん、あんまリ弾いてない
と思うんですよ。ジュリーは(井上) 堯之さんが多かったと思います。
あとは、もしかすると松木恒秀君がやっているかもしれない。沢田研二
さんの曲で、東海林修さんがアレンジをしてぃる曲は、わりと松木君
がギターを弾いていたことが多かった気がします。
Q 山口百惠さんの「ロックンロール · ウィドウ」(80 年)は矢島さんで
すね。また、クレジットはないですが、「プレイバックpart2」も矢島さん
ですよね?
A はい、そうです。この頃だったら、僕か芳野藤丸君がよく弾いて
いました。
Q その頃の機材は?
A ラインが流行リ始めの時もあったんですけど、「ロックンロール ·
ウィドウ」が収録されているアルバム「メビウス · ゲームj(80年)に関
しては全部ライン録りなんですよ。グルーヴチューブが出していた
プリアンプと、ダン · アームストロングのコンプと、ボスのディストー
ション · OD-1でほとんど作っていました。
Q ほとんどエフェクターは使わなかったんですか?
A そうですね。ほとんどアンプに近い状況でした。
Q ギターは当時はレス · ポールですか?
A 59年のレス · ポールですね。
Q 「ロックンロール · ウィドウ」も59年で弾いている珂能性はあります?
A あったかもしれないですね。でも今は手放してしまってもうないです、
なんか音が枯れすぎちゃってダメになっちゃった。
Q スタジオで活躍したギターはそのギターが多いですか?
A ですね。
Q 今、59年レス · ポールって致千万円のものもあると言われてい
ますよ。
A えっ、そ人なになっちゃったんですか。初めてニューヨークに行った
時にちょうどレッド · ツェッペリンが流行リ始めの頃で。ニューヨークの
楽器屋でレス · ポールの58年かな。それが置いてあって、2,000ドル
(当時72万円)でしたけどね、その時は(笑)。
Q キャノンボールの頃からストラトはあまり使わなかったんですか?
A 使うこともありましたけれども、なかなか当たりのストラトに出会う
ことがなくて。本当にシングルコイルの音が欲しい時に使っていたくら
いで、あえて思い出のあるストラトっていうのがないですね。ハムバッ
キングのほうが愛着がありました。
Q レス · ポールは何本くらいお持ちだったんですか?
A 当時はいっぱいありましたよ。いいコンディションのものが欲しいって
いうので、探していくうちに手元に4本5本集まってくる。そんな感じでした
ね。使うのはー本でしたけどね。
Q チャゲ&飛鳥のデビューシングル「ひとり咲き」(78年)も矢島さんですか?
A あれは藤丸くんです。名ソロですよね。
Q 同じ時代のスタジオ · ギタリスト同士だと音が似てくることがあ
るんですかね。
A 機材も似た機材というか、いいものを選んでいくとそこにいっちゃう
っていうこともあるし,聴いてる音楽も似たものを聴いているみたいな。
ある程度近くなることはあったと思います。
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Q 郷ひろみさんではどの曲に参加されたんですか?
A 彼のデビュー曲の「男の子女の子」(72年)とか。たぶん僕が仕事で
弾いて,初めてヒットした曲です。
Q ひろみさんがカバーしたゲイリー · ムーアの「パリの散歩道」の日本
語バージョンの「愛しい他人」(83年)のギターも矢島さんですか?
A それも僕がやっています。
Q 筒美京平さんの作曲した曲では、よく弾かれていました。
A よく呼ぱれていましたね。僕以外には,水谷(公生)さんも呼ばていま
した。あと、ちょっと時代がたつと、今剛や松原正樹が呼ばれるように
なったんだと思います。
Q 京平さん以外でよくお仕事されたアレンジャーは?
A 船山基紀さんや萩田光雄さんとの仕事も多かったです。
Q スタジオ · ワークの初期には、ジャズ · ドラマーの石川晶さんの石川
晶&カウントバッフローズにも参加されていましたね。
A はい、いました。僕の前に水谷公生さんがいて。カウントバッファローズ
という名前になったのはもしかしたら僕が入ったくらいからかもしれません。
その前は、ゲンチャーズといっていて、そのころ水谷さんがやっていて、
彼のスタジオ · ワークが忙しくなっちゃったので僕にバトンタッチして。
それで、カウントバッファローズにもしばらく参加していました。
Q その後、柳田ヒロ · グループに参加されて、吉田拓郎(当時:よしだたくろう)
さんのバックなどをやります。
A 柳田ヒロと、チト河内と、後藤次利と僕ですね。拓郎は「伽草子」(73年)
や「今はまだ人生を語らず(74年)なんかでギター弾いていますね。
Q ガロの「GARO LIVE(73年)でも、柳田ヒロ · グループでやられて
いますね。
A あの頃は六本木の香み屋かなんかでみんな騒いでいて。キャンティ
とかブレッドとかあったんですけど,「今度ライブやるんだけど来て」みたい
な感じで呼ばれました(笑)。当時は今のように理路整然として仕事になって
いるわけじゃなくて、呑んでいて盛リ上がって仕事になっちゃうのが多
かったです。
Q ガロでは、トミー(日高富明)さんも,マーク(堀内護)さんもリード · ギター
を弾いていましたが、ギターの弾き分けはどうなっていたんですか?
A あの頃はいい加減だから<全員で弾いちゃうみたいな(笑)。あとでなん
とかしてみたいな感じでした。
Q 70年中盤頃からは野口五郎さんのバックも担当されましたが、
きっかけは?
A ある日本人とマネージャーから電話がかかってきて、六本木かなんか
の中華料理屋に呼ばれて、「バックをやっていただきたいんですけど」って
話があって。歌謡曲の仕事の仕方を当時は「巡業」と言っていましたから、
「えっ、巡業に出るんですか」って。「ちょっと待ってください」って言ったん
ですけど、押し切られてしまって(笑)。彼もギターが好きなので、僕の
ギターを気に入ってくれていたみたいで。
Q いつ頃からですか?
A 「針葉樹」(76年)の3年くらい前かなと思うんですけど · · · 。
Q バック · バンドのGORO SPECIAL BANDとしてもアルバムを1枚
(「GORO SPECIAL BAND」(79年)リリースしていますが、バック · バンド
がリリースするのは珍しいですよね。
A これはね,五郎君がドラム叩きたくてしょうがなかったんですよ(笑)
(ギターとドラムで野口五郎も演奏)。この頃は京平さんの弟さんの
渡辺有三さんががディレクターだったんです。
(続く)
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【長渕剛はー緒にやっていておもしろかった。こっちが全開でギターを
弾いても負けないから。】
Q スタジオ · ワークとして、矢島さんのクレジットのあるー番古いレコードは
井上陽水が72年にリリースした「陽水IIセンチメンタル」ですが、それ以前で
参加していた作品はありますか?
A 天地真理(71年デビュー)、南沙織(71年デビュー)、郷ひろみ(72年デビュー)、
桜田淳子(73 年デビュー)はその前でしたっけ。その辺でも実はギターを弾いて
いるんですよ。あと、ドリフやっていましたよ。「8時だョ!全員集合」のステージで。
キャノンボールを作ったんだけど、最初はそんなに忙しくないわけですよ。
それでたまたま新音楽会っていう会社があって、そこから行ってくんない?って
言われて、週にー回行っていました。
Q 岡本章生とゲイスターズ(「8時だョ!全員集合」の専属バンドで、日本の5大
ビッグ · バンドのひとつ)のメンバーだったんですか?
A メンバーではなくて、サポート参加のような感じでしたね。
Q 南沙織さんはいっ頃からやりましたか?
A 最初の頃からやっていたと思うんですけど、「傷つく世代」(73年)は、
エリック · クラプトン(デレク · アンド · ザ · ドミノス)の「いとしのレイラ」だなと
思って弾いた記憶があります。当時のアレンジャーや作曲家も洋楽をもち
ろん聰いていて、僕らもやっぱり洋楽を聰いていて。弾いていると、「ああ,
あの曲にインスパイアされたな」とかなんとなくわかるんですよ。似たよう
なものを聴いているけだから。当時アメリカで流行っている音楽や機材を、
日本の音楽産業全体が追い求めていた時代だったんで。なので、よりそう
いう流行に対応できるミュージシャンがスタジオに呼ばれる機会が多かった
んだと思います。
(続く)
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矢島 賢さんロングインタビュー 2
Q 最初はカントリーのギタリストを目指していたんですか?
A ローディになる時に野口さんとひとつ約束があって、「何も教えないよ」
って言う。「知りたけれぱ自分で勉強しなさいよ」っていうスタンスだったん
ですよ。幸い、僕あんまリカントリー好きじゃなかったんで(笑)。たまたま
いろいろな出会いの中で野口さんと出合って、彼の口一ディになることに
なったので、もともとカントリーのギタリストを目指してということではなかっ
たです。
Q キャノンボール時代には、シングル「夜の紋章のなかで」(71年)をリリース
していますが、キャンプ回りがおもな仕事だったんですね。
A そうですね。一応レコード出しているんですけど、それは縁起ものみた
いで、ちゃんとやってなかったというか(笑)。やっぱりベースキャンプの
演奏のほうが主だったんです。北は稚内の最先端のキャンプでやったり
とか、岩国でやったりとか、もちろん立川とか。戦争が多かったので、全盛
でしたからね。それで、バンドでいろんなキャンプを回っていたんですけど、
将校クラブっていうのがあって,そこは男だけだとよくなくて。じゃあ,ゲスト ·
ボーカルを頼もうっていうので五輪真弓さんにお願いして歌ってもらってい
ました。だから本当にいろんなものやりましたよ。R&B、カントリー、もちろん
ジミへンとかあの辺もやりましたね。だから、そこではすごくいい勉強にな
りましたよ。
Q キャノンボールからスタジオ・ワークへ移行したきっかけは?
A 野口さんのローディをやっていた時に、もう業界の中にいましたから。
その時に、コーディネーターや、メーカーのディレクターに知リ合いが自然
とできたんです。その時に譜面が読めたほうがいいっていうアドバイスを
もらって、とにかく必死になって譜面を勉強しました。なので、キャノンボー
ルの時にはもう譜面が読めたんですよ。それで「譜面も読めるんならスタ
ジオやらないか」って声かけてもらって。
Q 自然とバンドからスタジオ · ワークへ移行したと。
A そうです。でも、当時のスタジオ · ミュージシャンって、自分たちがやりた
いこととは違うというか、みんなあまりやりたがっていなかったんですよ。
でも行くとお金がもらえて、好きなアンプやエフェクターを買ったりできる
んで(笑)。半分嫌だけど、半分好きなことにお金をつぎ込めるからって
スタートした感じです。
Q 一番初めのスタジオ · ワークは覚えていますか?
A どこのメーカーか覚えてないんですけど、着物のメーカーのコマー
シャルだった記憶がありますね。なんで自分が呼ばれるのかわからな
いけど,「とにかく音を歪ませて下さい」って言われてね。「着物なのに
なんだろうな」って思いながらやったのが一番初めての仕事でした。
なんだかよくわかんないですけど(笑)。
Q その当時使ってぃたギターやアンプは何ですか?
A ストラトと、ビンテージじゃなかったけどレス · ポールを使っていました。
アンプはツイン · リバーブでしたね。ツイン · リバーブはツマミ全開でも音
が小さかったので、本当はマーシャルが欲しかったんですけど、当時は
高くてね(笑)。当時で45万円くらいしていましたから。とても手が出なくて、
仕方がないからツイン・リバーブに、エクステンションのスピーカー付けて、
ツマミはとにかくフルテンみたいな感じで弾いていました。レス・ポールを
使うことが多くなるんですが、音色うんぬんよりも、ストラトだとシングル
コイルなのでどうしてもパワーがないじゃないですか。ハムバッキング
のほうが音が大きいからみたいな理由でギターを選んでました。
(続く)
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Guitar magazine 2013年11月
矢島 賢さんロングインタビュー 1
インタビュー・文・コラム ガモウユウイチ 撮影 植田山月
1970年代や80年代の邦楽を聰いてきた世代なら無意識のうちに
彼の演奏を耳にしてぃることだろう。
山口百恵、沢田研二,井上陽水,吉田拓郎,オフコース,アリス,
南沙織,野口五郎,西城秀樹,郷ひろみ,桜田淳子,天地真理,
太田裕美,長渕剛,チャゲ&飛鳥,松田聖子,河合奈保子,
近藤真彦,中森明菜,チエッカーズなど,時代を代表するアーティスト
のレコードで印象的なギターを弾いていたのが矢島賢だった。
1970年代や1980年代といえば,歌謡曲やニュー・ミュージックの黄金期。
いわば、日本のポピュラー・ミュージックの全盛期の屋台骨を第一線
で支え続けてきたギタリストでありながら、裏方であるためその実態
はあまり知られていない。今改めて、彼のプレイやサウンド · メイキング
に注目して当時の歌謡曲やニューミュージックを聰き直してみれば、
海外の音楽にも負けないほどのスキルとオリジナリティを持っていた
ことを実感できるだろう。
【スタジオ · ミージシャンってみんなあまりやりたがっていなかったんですよ。】
Q もともとの音楽的ルーツを教えて下さい。
A 生まれは1950年,群馬県前橋市です。ちょっと変わっていたかもしれ
ないけど、祖父が琵琶法師だったんですよ。
Q 弾いてぃるのを見ました?
A もちろん。ちっちゃい頃は怖いなと思いなと思いました。
自分の音楽のスタートは中学三年くらいにベンチャーズの
ノーキー・エドワーズに関心を持ったのが初めです。それですぐさま、
テスコのギターとグヤトーンのアンプとエフェクターを買ってね。
Q 当時はどんなエフェクターがあったんですか?
A ハニーっていうメーカーのファズとか、モズライ卜が出していた
ファズライトっていうファズがありました。他には、新栄電機のユニヴァイブ
や、ハニ一のハニービーっていうビブラート ·・エフェクターとファズと
トレモロが一緒になっている、小さなラック式のマルチ・エフェクター
のようなものがあって、それを使っていました。
Q 当時はどんな活動をされていたんですか?
A ダンスパーティというか、クリスマスの時にパーティをやったり、当時
エレキ合戦みたいなコンテストがあって、片っ端から出場してコンテスト
荒らしをしてみたりとか(笑)。
Q その後、キャノンボールでデビューされますが、どういった経緯で?
A 高校を卒業して、とりあえず前橋にはいたくないっていう思いがあって。
たまたまツテをたどっていったらカントリーのギタリストである野口武義氏
に出会って、彼のもとを訪ねて。うちのおふくろが、「一年間だったら
面倒見てあげる」っていう約束してくれて東京に出てきたんです。
そこから板橋の四量半のアパートに住んで。自分にとってはー年って
いうリミットがありましたからね、もう必死でしたよ。それで、野口氏
のもとでー年問ローディをやっていたんです。そこでいろいろなことを
教えてもらったりしてー年くらいたった時に、バンドを組まないかって
いう話があって。在日米軍の横田基地や立川のクラブで演奏する
バンドが必要なんだけど、やらないかってのがあって始めたのが
キャノンボールだったんです。
(続く)
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