吉田拓郎詩集 BANKARA
武道館のステージで、「酒と女と、ぼくはでたらめに生きてます。真面目に生きるのなんてつまらない。」 と拓郎が叫んだ時、ぼくの後の男が「その通りだ。」と合いの手を入れた。もしも拓郎が「人間は真面目に生きなきゃだめだ。」と叫んでも、その青年は「その通りだ。」とどなるだろう。つまり意味なんてどうでもいいんだ。拓郎が叫ぶという行為そのものに価値があるような気がする。
- 松本隆 -
解説
(祭りの端境期) - わたしの拓郎ノート
'69年、東大安田講堂が陥落した年、私は仙台に住む十七歳の高校生だった。
雪の季節が終わりを告げるころから、毎週土曜日の午後、市内にある勾当台公園で開かれていた反戦フォーク集会に通うようになった。
芝生の上に坐りながらジョーン・バエズの「勝利をわれらに」を歌い、セクトに入っている学生たちの激論やアジ演説をBGMに聴いてすごした。吉田拓郎は、まだデビューすらしていなかった。
翌'70年。欠席、遅刻、早退を繰り返しつつ、遅ればせながら徐々に“ゼンキョートー”なるものに目ざめていった。街頭デモに何回か参加し、校内でも先頭に立ってカゲキな運動を おこした。学習会やらビラ刷りに忙しいお兄様方とのわけのわからない議論に疲れ、女友達と夜更けてラーメンを食べに行くのがささやかな楽しみだった。
同年六月。街頭デモに出てケガをした。怖かった。自分たちのやっていることは、もしか するとものすごいことなのではないか、と思った。このころ、よく、不安や自己矛盾を隠すために、高田渡の『自衛隊に入ろう』を好んで口ずさんでいた。ゲバルト娘をもって嘆いていた父も珍しくこの歌だけは面白い、と言ってほめた(今でも父は、思い出してはこの歌を 歌う)。
同年八月。ゼンキョートーの同志と恋におちた。二人で大袈裟に「革命か、恋か」などと悩んだのもこの時期だった。
彼は、あるセクトに入っていて、北海道へオルグ活動のために出発することになっていた。 行くか行かぬかで悩み、結局、彼は行くのを断わった。そのことをきっかけに、私も少しずつ運動から離れた。呆っ気ない”敗北宣言“だった。
同年十一月、三島由紀夫自殺。むさぼるようにニュースを見た後、頭痛がして寝てしまった。もう、考えるということが苦痛だった。
翌'71年。 浪人して地元の予備校に通った。とりたてて楽しいことは何もなかった。クラスメートの何人かは、三里塚闘争に出かけて行って、時折、誇らしげに白い包帯をからだに巻きながら講義に出て来た。
朝、出かける時に寒くて編み上げブーツが必要になった季節、友人が自殺した。原因不明。 元来、私はデリケートな体質なので、精神面の萎縮が肉体に響き、体調を崩した。暗い冬だった。
'72年、大学入学。東京は暖かく、サクラが満開で人々はどことなくカッコよかった。私は日当りがいいだけが取り得の、部屋代八千五百円也の四畳半に住み、「明るいキャンパスラ イフ」を表向き心がけながら、意識とどんどんかけ離れていく現実を冷笑して過ごした。
同年夏。大学の仲間たちと能登へ旅した。少し歩くと蛇が出て来そうな小さな村の民宿でキンチョー蚊取線香の煙が漂う中、私たちはもの想いに浸りながら、拓郎の「旅の宿」ばかり歌っていた。私の、拓郎との最初の出会いだった。
中空に月が出ていた。上弦の月だったかどうかは思い出せない。能登はもう、夏の終わりだった。
誰かが酔っ払って「拓郎には思想性がなさすぎる」と、ムズカシイことを言い始めた。別の1人が、苦労して買って来た"剣菱“の冷やを紙コップでグイッと飲みほし、「パカヤロー」と静かに言った。 「だからいいんじゃネェかよ」
- この何ということのない会話を聞いていて、私は何故か、自分の中でひとつの時代が終わり、別の時代が始まったことを知らされた。おかしな言い方になるが、衝動的な時間であった。
私にとって何かとてつもなく烈しいものを通り過ぎてきたあとのひとときのもの悲しい時期と、次に始まる新しい祭りとのギリギリの端境期であったのだろうと思う。そこに吉田拓郎がいた。古くなったもの、過ぎてきたものに対する一抹の未練を覚えつつ、それでも”意味"とか"概念“とか”思想“とかいったものにいさぎよく訣別して、「二人で買った/緑 のシャツを/ぼくのおうちの/ベランダに/並べて干そう」などとヌケヌケと歌ってそれが実によく似合う若者。それが拓郎だった。 「わたしは今日まで生きてみました/時にはだれかをあざ笑って/時にはだれかにおびや かされて/わたしは今日まで生きてみました/そして今わたしは思っています/明日からも こうして生きていくだろうと」と歌う彼も「いっしょになれないからといって/愛していなかったなんて言うのは/とても困るんだ/こっちを向いてくれ」と歌う彼も、みんな新しい時代、新しい風俗へ移行する若者たちの心に素直に響いてきた。
たとえて言うならば、吉田拓郎は、時代の怒号と喧騒のあとににじみ出るようにして生ま れた、時代と時代を結ぶ若き熱血漢だったのだと思う。
アーティストというものは、本人が意識するしないに関わらず、時代の代弁者になるところがある。よ拓郎の『結婚しようよ』が流行った時、岡林信康のファンだった某ゼンキョートー活動家が「日和見の歌だ!!」と憤慨していたことがあった。しかし後になって大失恋をした彼は、新宿の飲み屋で拓郎の『祭りのあと』を聞きながら泣いた。
祭りのあとの淋しさは
死んだ女にくれてやろう
祭りのあとの淋しさは
死んだ男にくれてやろう
もう怨むまい、もう怨むのはよそう
今宵の酒に酔いしれて
これは吉田拓郎の歌の中でも私のもっとも好きな歌である。恥と未熟さばかりさらした青春の一時期が次の祭りに向けて終わりを告げた時、吉田拓郎は私や私の仲間たちに淡々とこの歌を歌ってくれた。 それからも私の中で祭りは何度か終わり、再び何度か始まった。三十代に入った現在は何度目の祭りなのだろう。心が老いない限り、祭りは続く。拓郎の歌も生き続ける。
小池真理子
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