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2017/09/04

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(1)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(2)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(3)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(4)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(5)

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2006/12/30

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(5)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(5)

●80年代のメイン・テーマって何だったんだと思います?
吉田 それは、僕にはテーマはなかったよ。きっと。 僕のテーマは70年代で全部終わった。テーマにしたことはやり尽くしてて、80年代に入る頃からテーマとかっていうものは、なくなってるんだよね。たぶん90年代、21世紀というか、そこまでは生きていないかもしれないけど、テーマやテーマみたいなもの、目標とか、そういうものをかかげることはないと思うけどね。僕は吉田拓郎っていう人を外から見るのがすごい好きなんだけど、第三者的に吉田拓郎っていう人を見た時に、もう、拓郎さんにはそういうことをさせたくないという気がしてるのね。拓郎さんは好きにやんなさいっていう、一人の拓郎ファンとしてあなたにもうテーマは似合わないって言ってあげたいくらいの気分だから、今。それはたぶん80年代を迎える頃からテーマはいらない。好きにやりぁいいじゃないっていう感じが強いなぁ。80年代は80年代でテーマ持ってた人は持ってると思うんだ。それは、きっと、僕以外の人でしょう。少なくとも。
●それは空白ということでもないわけでしょ。
吉田 空白ねぇ。でも、現実に生きてるわけだし、少しは動いてるわけだから、空白とは言えないよね。 僕のように、テーマを持たない以上は、心の底で何かハプニングを待っている感じなんだよね。それこそリクルートの「人間なんて」じゃないけど、あれはハプニングだよ、僕にとっちゃ。
●85年につま恋でアルフィーとか浜田省吾とかを集めて3回目のオールナイト・イベントをやったのは、自分でハプニングを作った。
吉田 そうです。間違いないですよ。
●あの年は、尾崎が大阪球場やったりした年で、転換点としては象徴的な年だった。
吉田 うん。ただ、僕は80年代を生きたって意識が全然ないから、わかんないけど、アルフィーとか。 あいつらあるんじゃないの。80年代だったんじゃない。70年代ないと思うよ。
●85年以降、コンピューターと取り組んでたでしょう。今度のLPで、それが形になってると思う。
吉田 できたね。まぁ、これで完成されたから、もういいよ。機械片づけようかと思うくらいだから (笑) おそらく打ち込みは全て知り尽くしてるね。 音楽に関していえば、コンピューター音楽のいけるところいけないところいい所と悪い所とか、だいたい把握したから、つきあってはいくだろうけど、深くつきあいはしないかもしれないな。知っていて損はないし、知らないのはまずいよやっぱ。今後、音楽作る時に参考にはなると思うよ。
●そういう意味で客観的に見て、80年代の音楽っていうのは、どう変わったという。
吉田 ここ10年は、とにかく音楽のジャンルが広まってきたというのがあるよね。デビューして、成功した人の見てると、バンドなんだけど、キャラクターが違うよね。ソリストはあんまり変わんないなと思うけど、バンドはいろんな音楽をめざしてるなっていうのは、気持ちいいことだよ。素晴らしいと思うし。だから、音楽の底辺が広がっていくということでは、80年代ってすごくいい時代だったんじゃない。 70年代って、フォーク、これしかないとか(笑)  そういう意固地なものがないから非常にいいと思うし。音楽をめざすっていうことからすると、80年代ってすごい財産だったんじゃないのかな、70年代は、まぁ、創成期だから、いろんな人が苦労して作りあげたけど、それはそれで一応、糸口は作ったということではあるけれど、80年代にそれは本当に開花してるんじゃない。非常にうまく。底辺は広がってるよね。ただ、イカ天なんかみてると、そうかなと思う時あるけどね。でも、それこそレベッカやTMや、 興味持って見てる人たちの音楽ってしっかりしてるし、方向もしっかりしてるでしょ。やってることもしっかりしてるし。それでいて違う音楽じゃない。 そこがいいよね。それはうれしいもんね。音楽は1個じゃないんだからっていうのは、ずっと言ってることだしね。いろんな音楽があって、その中でファンは好きなものを選べばいいってことだから。僕だってファンの頃はそうだったんだからね。70年代みたいに。音楽はこうじゃなきゃっていうのは息苦しくて。(笑) あの想いをしないで済むっていうのは幸せじゃないかと思うよ。
●で、そういう80年代を経て、90年代をこういうふうに生きたいという・・・。
吉田 そうですねぇ。まぁ、僕はそうは思ってなかったけど、結果的に80年代の10年間、あっというまに過ぎちゃって、何かダラダラしながらあっというまに過ぎちゃって、でも80年代に、吉田拓郎っていう人は、やっぱりいたなと思う。消えるかなとは思ってたんだけど、なんか、いた。(笑)
●消えると思った・・・。
吉田 うん。だってめまぐるしかったからね。この80年代入る頃っていうのは、たぶんいろんなもの追い越していって、70年代にあったことを全部カキ消していくだろうと思ったのね。あっというまに、だから70年代に生きた奴らってほとんどみんな終っちゃうっていう。忘れられちゃうと思ったよ。過去になると。で、イメージとして、70年代に起きたことって、過去の出来事にされやすいものなんだ。どっちかっていうと。学生運動にしても、さっきの話じゃないけど、死語になっちゃいそうなことなんだけど。でも、吉田拓郎っていう人は、いたような気がするんだよね。それは、素直に喜んで、若い人たちが好むと好まざるにかかわらず、いるぞっていってやろうと、90年代もとりあえずいようと思うな。 いるってことは、結構、王道だと思ったんだね。
●90年代の夢って聞かれたらどうします?
吉田 音楽的な?
●音楽も、プライベートも含めて。
吉田 それは・・・2人の子持ちになってることでしょうね。なんとしても 2人ぐらいは子供がいて、パパおかえりって言われる。あれじゃないかな。(笑)  雰囲気的にね。仕事から疲れて帰ってきて、パパおかえりだよ。(笑) それがないと、詩が浮かばない。 (笑)
●ツアーのアンコールでも最後に歌ってきたけど、 アルバムの最後の「俺を許してくれ」っていうタイトルの曲がありますよね。
吉田 うん。
●あの"許してくれ"というニュアンスというのは
吉田 だいたい"申し訳ないっていう人生"っていう感じがあるんだよね。僕の中に、すまんっていうのが。わがままを通すこととか意地をはったりすることとか、自分をまげないで生きたいっていう願望とか、だいたい人の犠牲の上に立ってるよ。誰かを犠牲にしたり、踏み台にしてることは間違いないわけ、ただ、それは、やっぱり僕の生き方として、その場でゴメン、俺こういうことしたいからゴメンなっていうわけにいかないのよ。だいぶ月日がたってからあん時ゴメンねってパターンだから。そうすると、いやあ勘弁っていうのが一杯あるわけ。さっき言った70年代は悔いがないくらいやることをやったわけで、結構、踏み台にしてるんだよ、いろんなことを。で、今、言えるんですよ。すごく今日の話は王道で終わりたいんだけど。王道つき抜けるためには、やっぱり犠牲がいる。わがまま通すためにはやむをえないですよね。そのことはもう、すまんっていうしかない。正直言って年齢ですよ。こういうことを言えるようになったっていう。カドが取れて、自分の中でね。本当のことが話せるようになってるって気がするの。
●今度のツアーで、70年代のなつかしい古い曲をやってたでしょ。
吉田 それはね、ミック・ジャガーがインタビューで、ツアーやるたんびに選曲で苦しむって言ってたのね。わかる、それはって思って。(笑) 俺、ドメスティックだけど、わかる。選曲つらいわ。(笑) 今度、何歌えばいいのって、歌う方は、僕としてはアキてるわけ。全部古い曲は、20年やってると、数が多すぎて本気で悩むよね。古い曲をやった方がいいのか、新しい曲がいいのか。で、今回だけは、思い切りなつかしがって、それから90年代にいこう。(笑) 思ってたより楽しくできた感じはするよ。
● 90年代に"いる"イメージってあるわけですか。
吉田 今日は、長い話になったけど、アマチュアの頃から音楽やってたわけでしょ。他に能力がなくて、音楽に多少の能力があった。何度か音楽を捨てようと思ったし、音楽はいらないとも思ったけど、音楽は避けて通れないですよね。だから、何をやるかわからないし、他の世界に飛び込んでいくかもしれないけど、音楽を避けて他のことをやろうっていう意識は、もう絶対になくなるだろうね。

吉田拓郎の89年から90年にかけてのツアー「89- 90人間なんて」は、吉田拓郎というアーティストの存在をまざまざと見せつけたコンサートだった。この10数年、ステージで歌ったことのない70年代初期の曲を、シーケンサーを使い、デジタルなサウンドにアレンジして聞かせたかと思うと、30分間、生ギター1本であれだけビート感の出せるボーカリストはいまだに見たことがない。元オフコースの松尾一彦と清水仁を加えたバンドは、ショー・アップされた演奏を聞かせ、最新アルバム『176.5』の曲も披露されていった。 そこには、音楽のジャンルや、曲のタイプや、楽器の進歩などさまざまな要素を呑み込んだ吉田拓郎 という一人のアーティストがいた。

「43歳になって全国ツアーやってるのなんて俺くらいだよ」 90年代へーーー。 客席には、20年分の青春があった。

(終)

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吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(4)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(4)

●レコード会社まで作っちゃたわけだし。
吉田 エライこと始めちやったと思ったよね。陽水はポリドールのままで、俺もSONYでいれば良かったものをって思ったもんね。今だったらレコード会社なんて誰でもできるけど、あの当時、歌手がレコード会社作るなんてなかったわけだから。リスクが大きすぎた気もするよね。
●夢もあったわけでしょ。
吉田 ありましたよね。CBS・ソニーにいたり、陽水がポリドールにいたり、みんなメジャーの中にいたわけでしょ。で、不満があるわけですよ。もっと自由に歌を作りたいとか自由にレコード出したい とか。(笑) あれは歌っちゃいかんとか。そういう規制をはずしたいとか、そういうことを話しあってるうちに、じゃ自分たちで作るしかないって。でも作ったら余計大変だったけど。(笑)
●それは、自分たちのやりたいことをやるというのが先だった。それとも、既成のレコード会社を越えるということだった。
吉田 両方じゃないですか。自分たちでやりたいことをやって、なおかつメジャーを越すんだっていう、 王道の王道を行っちゃえ、やるならNO1だよって。 でも、井上さんにしても小室さん(小室等)にしても泉谷さん(泉谷しげる)にしても、どっか不器用なんで、めったに徒党なんて組めない奴が一緒にやろうなんてことは、よほどのことがないとですよ。 それこそ、清水の舞台からとびおりるつもりでやったから、夢は相当大きかったわけ。でも、会社の1スターじゃなくて、会社を皆負うっていうことだから、営業とは何か、販促とは何か、宣伝とは何かって、やっていくんだから、大変ですよ。じゃ俺、電話1本ひいてくれとかいいだすわけだし、泉谷はベッド入れてくれとか言ってたけどね。(笑)
●でも、70年代は、いろんなことやったなあっていう感じですよね。
吉田 すごかったよね。今はどういう時代か自分じや語れないけど、あの時代は、何か世の中の方がヤレヤレって言ってるような気がしたね。 で、もうやることがないじゃないかっていう。そういうことって、そんなことが人間にあるわけって 思う人もいるかもしれないけど、男にはあってね。 僕の中ではやりたいことをやり尽くしたっていうのがあった。何となく終わったっていう感じだったなあ。それこそ、世界ツアーの夢は見ないで終わっちゃったけど。ドメスティックにはあったんだ。ザ・バンドを呼んで日本で一緒にやるっていう話が決まってたのね。
●東京競馬場でやるといってた。
吉田 うん。東京競馬場もそうで、日本中6か所押さえたよ。曲も決まってアレンジも考えてた。で後 藤からロスから電話かかってきて、あした契約するからって言ってたのに、次の日、ロビー・ロバートソンが行かねえっつうんだよ。(笑) 何だって言ったら、ディランがツアーやるんでそっち行くって言ってる。(笑) そりゃ勝てないと思ったんだよね。本家本元だし。しゃくだからそれを見にいかなきゃって見に行って。あれはすごかったなぁ。これがツアーっていうものかって。
●世界は遠い。
吉田 うん。世界は俺にはないって思ったな。あの時。でもこの10年間はたいしたことしてないっていう気分なんなんだよね。やっぱり70年代の方がすごかったから思い入れがあったね。70年代が終わるという意識はすごくあった。僕は80年代の10年間、個人的には、さほど動いてないから。淡々と90年代 が来るんだけどさ、80年代に相当やった人にはある んじゃないかな。
● 70年代が終わる時、80年代はどういう時代になるだろうって思ってました?
吉田 80年代に入ったら本当に音楽やんなきゃって。 でも、確かに何やっていいかはわかんなかったんだよね。覚えてるのは、とにかくエラく長くやってるなぁって気がしてた。今考えりゃもっと長くなっちゃうけど。(笑)

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吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(3)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(3)

●全国ツアーっていう形の最初だったでしょ。
吉田 そうですね。いなかったね。自分だけでバンドから照明からPAとか全部入れてパッケージでやった人はいなかったね、やっぱり新しいこと、他人がやっていないことをやるのは気持ちいいし。そういうことをみんな探してたよ。アレはやってる、コレはやってないとか。アメリカの話なんかきいてると、ディランもツアーやってるんだ。とか思うとそれやるしかないって。
●ビートルズもやってた、アレだ。
吉田 そうそう。アレだっていう。みんなでパッケージ組んで旅するらしい。それ、やんなきゃって言ってたもん。
●誰もやってなかったことがすごい。
吉田 なかったからねぇ。演歌の人は、やってたかもしれないけどね。
●ツアーというより地方巡業。(笑)
吉田 生意気な言い方だけど、全国ツアーやって客入る人いなかったんです。だからってそんなにマスコミに登場したりするわけじゃないからね。若いコたちは知ってるけど、年上の人は知らないですよ ね。僕たちはその頃25、26歳で、30歳以上の人は知らないよね。だって地方行くと夜なんかみんなでキャバレーとか行ってたけど、わからなかったもんね。 誰も。変わったスターだよね。キャバレー行って遊んでたんだよ。(笑)
●テレビに出ないというのも拓郎さんから始まった。売れても出ない。出なくても売れる。
吉田 あれはねえ。いきさつも全部記憶にないけど (笑) 作戦だったのは間違いないですよ。後藤(後藤由多加、現フォーライフ・レコード社長)とふたりで、夜、飲みに行って酒飲みながら、さあ、これからどうやってこの音楽業界に新しい風を吹き込むかって朝まで何日も議論するわけ。で、後藤の戦略として"逆流のコミュニケーション"というのは使える。だからこれまでのマスコミの姿勢とか何かを逆手にとっちゃえばいいんだっていうわけ。俺もそれはありだと思ったの、例として、当時、藤圭子っていうヒトが「圭子の夢は夜ひらく」っていう曲をブラウン管を通じてものすごくヒットさせてた。 じゃあ、あの人の言ってることやってることを全部否定するという、作戦としてね。まず、テレビに出な い、コンサート中心にやっていく。現場でファンと交流しながらやっていく、マスコミの取材もなるべくうけない。音楽誌もよくチェックしないとたいしたこと書かないとか (笑) 女性誌は絶対ホントのこと書いてくんないとか。頭から決めてたね。女性誌の取材とかいうと、ハナからバカにして"勝手に載せて"とか言ってた。気分悪かったと思うけどね。 みんな(笑)
●生意気の極地。(笑)
吉田 そうだろうねぇ。でも、そうやって始まった以上、途中から変えられない。(笑) "すいませんでした"なんて言えない。(笑)
●でも、それを押し通す方が大変でしょう。
吉田 相手が既成の概念をしみ込ませて立ち振る舞っている業界人ですからね。テレビ局やラジオ局にはすごくてね。ツラかったねぇ。わかってもらうまでは、まず、高飛車、"使ってやる" "出してやる" "出演さしてやるんだ"、"歌わしてやるんだ"それから、"取材してやるんだ"という意識ね。こっちは"出てやる"、"歌ってやる"、だから当然ケンカになるよね (笑) あいつら生意気だ、になるよね。少なくとも"お願いします"とか"オハヨーゴザイマス" なんて言わないから"お疲れ様でした"も言わない(笑) 初めて海外旅行した時に、ロンドンだったんだけど、女性誌とか、その手の取材がロンドンの空港にいて、日本人のカメラマンがパチパチ撮ってたわけ。 で、俺、ツカツカと行って、"バカヤロー勝手に撮んな、このヤロー"って言ったら、むこうも"バカヤローいつもお前たちをこうやって扱ってやってんだよ、俺たちは"って"ロンドン初めてか"って俺に言うから、"初めてだ"って言ったら、"ロンドンっていうのは、いつもこうなんだバカ"って。ものすごいんだ。芸能人は"やってもらってるんだ"みたいな気分になっちゃうよね。
●今もそうやってるんじゃないかなぁ。
吉田 いるだろうね。そういうの。
●でも、殴りあいにならない。
吉田 なるなる。なんだとーって、なりますよ。
●創成期という感じなんでしょうね。いろんな意味で。
吉田 そうだね。いろんな意味でのね。だから自分たちで曲を作っていくっていう音楽の創成期ですよね。雑誌にしてもそうだし。レコード業界、ラジオ、テレビ・電波も含んだマスコミの全てが始まった時期だよね。若者文化というもの自体がね。
●なつかしいと思います?
吉田 いやぁ、よく言われるんですよ。"拓郎さんとか70年代生きた人って、あの時代に帰りたいでしょ"って、めっそうもないって言うんだよ。帰りたくないよ、絶対に。あのファッション、あの時代に帰りたいとは思わないもんね。あの絞りのTシャツなんか、絶対に着たいと思わない。 (笑)
●でも、今の子供たちにわかるかなぁ。(笑)
吉田 貧乏じゃなきゃいけないみたいな風潮あったよねぇ。現代だったら信じられないだろうね。雲泥の差だよ。お金持ちのカッコしてるだけで怒られたよ、あの頃、家出る時なるべく汚いカッコして。(笑) あれ、不思議だったなぁ。本当に貧乏が良かったんだよなぁ。
●聞いている人も貧しかったのかもしれない。
吉田 あ、親近感みたいなのかな。いつも言ってたんだけどね。ボブ・ディランは豪邸に住んでるじゃないかとか。あれはアメリカの話だとか、日本では貧乏でなきゃいかんとか。(笑) 何だかよくわかんなかったね。フォーク・ソングっていうのは。何か"あーしちゃいかん"というのが多かったねぇ。まっぴらだったよ俺、あんなの。(笑)
●夢はビートルズなのに。(笑)
吉田 でも、本当に、東京に出てきて7~8年の間 に全部やったよ。僕の視界の中では、テレビは別にして、やってないことはないと思うけどね。
●プロにもなって、1位にもなって、全国ツアーもやって。
吉田 お金も入ったし。欲しい車も買ったし、カミさんももらった。(笑) 車はね、最初、ジャガー買ったの。いきなり。クルマ屋の前で。すげぇかわいいクルマだなぁと思って、これくださいって言って。 ハッ? ていうから、僕んちそこですからすぐ持ってきて下さいって買っちゃったんだよね(笑) 当時500万円くらいじゃないの。72、73年に買ってんだよね。
●そりゃ、すごい。(笑)
吉田 すごいですよ。だって、当時、俺が住んでいた柿の木坂の家なんてビックリするよ。すごい豪邸に住んでたもん。今の方がつつましいですよ。(笑)
●矢沢永吉がロールス·ロイスで煙草買いに行くって言ってたことがあったけど。
吉田 いいな。それでも煙草買いに行くなよな(笑) でも、ジャガー買って、そのまんま乗ってない。これは乗りにくいって、シビック買ったっていう。変わってるね。(笑)

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吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(2)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(2)

●体、大きかった。
吉田 ヒョローっとね。背高いけど、やせぎすでサ。 今から考えらんないモヤシみたいな体つきだった。
●今度のアルバムのタイトル『176.5』って、身長でしょ?
吉田 うん。大学の時から身長はのびてないみたいよ。身長は短くなってるっていう噂もある。(笑)
●でも、その頃の米軍キャンプって、ベトナム戦争の最中でしょ。 60年代の後半で。
吉田 そう。すごいっすよ。あれは演奏した人間でないとわからないけど、白黒ショーっていってた。
●ヒワイな意味じゃなくて (笑)
吉田 白人と黒人のことね。すごいんだ、対立が。 黒人の好きなリズム&ブルースとかやると、黒人がドーッと入ってきて白人は出てっちゃうし、ビーチボーイズなんかやると、また白人がドーッと入ってきて黒人は出てっちゃうの。こっちは楽しくてサ。
●赤あげて、白あげて、みたいで。(笑)
吉田 白黒ショーって言ってた。(笑)
●曲はどんなのを。
吉田 あの頃だから、スペンサー・デイヴィス・グループとかのコピーやってましたね。やっぱりリズム&ブルースじゃないかな、俺の音楽は。ダウンタウンズのリード・ボーカルの奴がサム・クックとか好きで。上手かったよ。オーティス・レディングとか。
●リード·ギター?
吉田 僕、リード・ギター。(笑)
●オリジナルをやるようになったきっかけというのは何だったんですか?
吉田 夏に海水浴場かなんかで演奏してくれっていうのがあって、そのうちに親衛隊がついてきてて、親衛隊の娘たちが、ビートルズは自分で曲作るのに、ダウンタウンズは、自分で作れないからダメだとか言うようになって発奮してサ。ロックでオリジナルやらないのは、もうモテない。(笑)で、つたない詩で一曲作ったのが最初。
●どんな曲だったという。
吉田 ダウンタウンズのヒット曲だったんですけどね。「好きになったよ、女の子」っていう。(笑) 元のメロディーは「たどり着いたらいつも雨降り」なんですけどね。あのメロディーで詩が違うの、全然。 それでライト・ミュージック・コンテストに優勝したんです。中国、四国地方は優勝するんだけど、東京に来ると落っこちちゃう。3回出たんだけどね。 でも、当時はホラ、生意気だから、今でも落ちた奴っていうのはそう思うんだろうけど、俺たちも言ってたよね。審査員に目がないんだよ。(笑)
●今のアマチュアの人たちと状況は違ってたでしょうね。
吉田 圧倒的に違うのは、とにかく、一杯いるよね、今。メチャクチャ多いでしょ。で、メチャクチャ多いのに、オリジナリティなくて、みんな同じことやってるっていうのがすごいよねえ。僕たちの時代、絶体、違うことやんなかったらうけないの。同じことやってたんじゃ全然ダメなんだよね。アマチュアでも絶対に同じことしないって思ってた。今、"イカ天"とか見てると、同じだしね。ま、僕たちの頃、歌うグループも少なかったしね。
●バンドでプロになろうとはした。
吉田 ソロは嫌だったのね。プロになるのならバンド、だって、ビートルズなんだから。(笑) バンドで渡辺プロとか行ったけど、相手にしてもらえなかった(笑)
●それはコネがあって。
吉田 コネはなかったんだけど、東京の歯科大学に行ってる奴がいたから、そいつが場所を調べておいて、前もって、広島から出てきたんですが、何時頃行きますから、とか言ってサ。で、チャーリィ・石黒サンが出てきてくれて、一応話はしたんだけど、その後全然。
●オリジナル曲ばかり。
吉田 テープにオリジナルを20曲くらい入れて、聴いてくれて渡したんだけどサ、聴いてもらえなかったんだろうね、やっぱり。田舎者は相手にしてくれなかったっていう。
●どんな恰好して行ったという。
吉田 覚えてないなあ。ま、でも長髪だったですよ。 みんな。とにかくビートルズですから。(笑)絶対。 世界一うまいと思ってたのね。世界だよ。日本じゃない (笑) 広島にいて世界に通用するバンドだと思ってた。東京に行ったこともないのにサ。広島でやってるだけなんだけど、世界に通用するって思ってたもんね。リード・ボーカルには、お前のそのフィーリング、世界一じゃないかとか。(笑)
●その時、"成功"っていうのは、何をさしてたんですか。
吉田 全部ビートルズだよね。(笑)  あれは成功ってもんだもん。世界ツアーをやる、とか思ってた。(笑)
●その頃って、GSの全盛期でしょ。 GSに対してはどう思ってたんですか。
吉田 グループ・サウンズっていうのは、位置づけとして低かったですよね。申しわけないけど、僕らの意識の中ではバカにしてきたね。やってる音楽が下手だったとか。オリジナルの曲で、いい曲があるとかっていっても、それは作曲家が作ってたわけでしょ。どっちかというと。スパイダースがたまオリジナルやってみても、それ以外は、だいたい自分たちのバンドで作らないで作曲家が作ってましたしね。それは、アメリカン・ポップスの昔のヒット・ソング作りと同じシステムだと思ったし。でも、申し訳ないけど、なにより、演奏が下手だと思った。
●あいつらなら、勝てる。
吉田 勝てるっていうより、勝ってる(笑) だって、世界一なんだから。(笑) あいつら東京でエラソーな顔してるけど、俺ら世界一なんだから。(笑) あんなもん、俺たちがナベプロ行ったら、もう、(笑) すぐデビューするもんだって決めてたからね。(笑)  広島の女の子たちにも、半年たったら、俺たちデビューしてるからって言ってた。とんでもない話だよね。甘くなかったですよ。(笑)
●卒業はした。
吉田 した。一応大学は、東京でもうやってたから、2年遅れたけど。大卒。(笑) ナベプロ行った時、みんな大学生だったから、大学も大事だ。学歴も尊重だとか言って、これでダメならあきらめようぜっていう約束があったから解散したんだけどね。
●音楽で喰えるなんていうことも考えられない時代だったという。
吉田 そうねぇ。テレビでザ・ヒット・パレードとか見てたけど、あれなんかスターは出てきても、音楽やってる、音楽で喰ってるっていう感じしなかったものね。スターっていっても小さいし。僕らの夢はビートルズだったわけだから。(笑) 世界をかけめぐるっていうね。あそこまでいかないとスターじゃないって (笑) それどころか、結局東京でデビューすることの方がえらいおおごとだったけどね(笑)
●子供の頃からそういう夢想家だったんですか。世界を夢みてるみたいな。(笑)
吉田 いやぁ、ないっすよ。そんなもんは。とにかくビートルズが、何ていうのかな、妄想家にしたてあげたんですよ。みんな夢見たもん。あんなふうにアメリカの女の子をキャアキャア言わせてみせるって。(笑) 本気だったから。信じられないけどね。高校の頃なんか授業中、仲間だけで、小説書いてんの。 小説っていったってつたないんだけど。それは、本当にビートルズみたいに世界を席巻する小説なわけよ。お前の話、面白えとか読みあったりして、夢は世界だったんだよねぇ。

吉田拓郎のデビューは、エレック・レコードという会社だった。モチロン、今はもう倒産してしまって存在しない。'75年にシュガー・ベイブのデビューLPをリリースして、3か月後に消滅した。メジャーなレコード会社ではない。当時フォーク・ソン グと呼ばれていた音楽に、メジャーなレコード会社は見向きもしなかった。つまり、誰も売れると思わなかったのだ。髪の毛の長い、汚らしいヒッピーまがいの若者・・・そんな連中のやっているわけのわからない音楽、としか見られていなかった。
時代だった。
拓郎がデビューすることになったいきさつも、まさに、そんな中だった。 彼らが作っていた広島フォーク村に、東京から上智大学の学生運動をやっているメンバーが訪ねてくる。"全共闘"と呼ばれた60年代後半から70年代にかけて日本中の大学をおおった学生運動の波の中のことだ。
"逆流のコミュニケーション"
それが彼らのキャッチフレーズで彼らは「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を作った。 メジャーなレコード会社がフォーク・ソングを手がけるようになるのは、吉田拓郎からだ。'72年1月 にCBS・ソニーが発売した「結婚しようよ」は、ヒット・チャートの2位にランキングされる"大ヒ ット曲“になる。CBS・ソニーの1枚目のLP『元気です。』は、'72年のLPチャートに14週1位にランキングされた。連続13週である。そして、そのことで、拓郎はフォーク・コンサートの会場で、”帰れ帰れ 裏切者“のバ声をあびることになる。

吉田 何か、全然死語だね。(笑) 死語。ホントに過去のことになっちゃったね。学生運動って何だったんだとか。でも、俺は広大(広島大学)じゃなかったから、学生運動に直接たずさわっていたわけじゃないけどね。外から見てたけど、すっげえなあ、広島大学はって思ってた。
●時計台が燃えたりしてたんでしょ。
吉田 そう。それ横目に見ながら広島商大に通ってた。(笑) 何だうちの大学は、とか思いながら同い年で同じ学生なのに、むこうはすごいことやってるのに、うちは平穏な大学だなあとか、つまんねぇとこ入ったなって思ったもん。あっちは燃えるもんがあっていいなと思った。そうなると。俺は結局、音楽しかなかったし。広大の理工学部だったかな、学部祭に呼ばれて歌ったもん。「イメージの詩」を。終わってから自己批判させられたよ。(笑) どういうつもりでこの歌を作ったんですか? とか聞かれて。 恋の歌っていうニュアンスで作ったって言ったら、 そんな歌うたってる場合か、とか言われた。(笑)
●広島フォーク村は、どうやって。
吉田 俺は途中から呼ばれたんだけど、僕ら広島でやってる奴らから見ると、やっぱり大阪と東京がメインで、でも、広島は広島のオリジナリティを追究したりしてて、でも、固まってなかったんだよね。それが固まったらパワーになるんじゃないかっていう。ただ、広島でオリジナルやってるの僕くらいだったから。デッカイ面してるのは。(笑) おこがましいんだけど、広島でサ、人気あったの、僕って、(笑) それが良くなかったんだけどね。調子にのって。(笑) オレ、すげぇうけるなとか。(笑) たとえば、河合楽器なんだけど、ギター教室やってくんないかって言われて、俺、ギター我流ですよ、とかいって。我流でもいいから、君のギターをみんなやりたがってるって、我流のギター教えるんだよ。(笑) で、50、60人習いに来て。お金入るわけ。音楽って趣味で我流で始めてアマチュアなのにお金になる。これはおいしい。(笑) たぶんビートルズでも思ったと思うよ。少しでも近づいたんだよね、ビートルズに。音楽は おいしいって。 (笑)
●で、レコード デビュー。
吉田 なにしろ、エレック・レコードですからねえ (笑) 明日のことがわからないっていう会社だからね。通信販売の会社だったから。その前、上智の、学生運動に敗れた連中が運動を停止したくないっていうんで、マスコミの場で、逆流のコミュニケーションっていうテーゼで何かやろうって、で、音楽が不可欠だろうって、日本中探して歩いていたんだね、たまたま広島に来てフォーク村に遊びに来て、お前たちやんないかって声かけられて。俺たち何のことか全然わからなかったけど、ま、レコードになるんならいいや. (笑)そのテープをエレック・レコ ードが買いとったわけ、でも、そんなこと僕たちに関係ないから、広島に帰ってたら、エレックから「イメージの詩」がシングルで出たわけ。俺、広島のレコード屋で、エ? 出てんのって聞いたら、ひどいの。(笑) 長いのを短かく切ってあって、編集が下手で、リズムが裏になったりグジャグジャなの。(笑) で、東京のエレックに電話してひどいじゃないですか、こんなの恥ずかしいよ、俺、とか言ったら、文句あるならやり直しに来いって。(笑) で、やり直してレコードになった。
●無茶苦茶といえば無茶苦茶。 (笑)
吉田 でも一応レコード・デビューだからやった、みたいな気もあったし。ま、はめられたんだけど(笑)
●世界の第一歩だ。(笑)
吉田 世界の第一歩がレコードの配送から始まってるからねぇ。(笑) 情けなかったなぁ、あれだって社員なんだからね。
●月給制?
吉田 月給なんだなぁ。印税じゃないんだよ。印税知らなかったもん。本当に。知ったのって、エレックやめてCBS・ソニーに引っぱられて。その時、お前、エレックってどうなってるんだって聞かれて、わかんないけど、給料は結構もらってたよ(笑) 給料分くらいちょうだいって言ったんだけど笑われて。 (笑) お前、それで満足してんのかって言うから、暮らしていくには十分だし、ボーナスももらったんだとかって言ったら、お前ボーナスもらってんのか。(笑) うん。俺、社員だったからって言ったら、 また笑われて。(笑) そうじゃないんだって印税の説明されたの。
●月給っていくらだったの。
吉田 3万5、6千円。うん。大卒だから一応。(笑) 大卒初任給。(笑) それで、月給3万5、6千円なのに、俺は世界に通用すると思ってたからかどうか知らないよ(笑) 家賃3万5千円のマンションに住んでた。(笑)
●どうやって暮らしてたんですか(笑)
吉田 よねぇ。(笑) ずーと前借りがたまってて部屋代はずーっと前借り。(笑) でもさあ、金なんていくら借金したって、俺は、今に、億かせぐ予定だから構わねえや。(笑) エレックの社長なんか、やっぱり金のなる木だと思ってたんじゃないかな。2年目かなんかにボーナスに10万円くれたんだよ。で、僕にとったら、当時の1万円札10枚ってすっごい金ですよ。これは大事にしなくちゃって。でも、貯金しなくちゃっていう発想がなくてサ、家においてマンションのカーテンに洗濯ばさみで10枚吊るして毎晩見ながら一枚ずつ使ってくの。で、最後の2枚ぐらいのときに、ヤバイと思って初めて貯金したの。世界をめざすにしては、ちょっと悲しい話だったけど (笑) でも、それでも、何ていうのかなぁ。ブロっていうのかなぁ。印税じゃなくて給料なんだけど、一応レコード出してるし、ファンレターもちょこちょこ来るようになってたし。ラジオで流れたり。快感はあったよね。
●で、「結婚しようよ」になる。
吉田 不思議な時代だったよねぇ。(笑) いきなり、帰れ!帰れ!だもの。(笑) 自分では何だかわからないですよ。歌わせてもらえないんだから。(笑) どこだったか町の名前は忘れたけど、関東地方の近郊でやった時、あがた森魚や高田渡が出てて、僕が最初だったんですよ。で、ステージに出ていったらいきなり帰れ!帰れ!ですからね。歌わないで帰ってきましたよ。(笑) そしたら、俺が帰ったらそいつらもほとんど帰ったんだって、じゃ何だ、俺のこと歌わせないために来てるのかって。(笑)
●鮮明に覚えてる?
吉田 覚えてるなぁ、一番ひどかったのは、金沢の卯辰山っていう相撲場があるんですけど、そこのステージが土俵の部分に作ってあるわけ。客席の方が高くて、すりばちみたいな底にステージがあるのに、客席から一斉にアキカンとか飛んでくるから、逃げられないんだよ。(笑) 珍しいコンサートだった (笑)
●「結婚しようよ」は歌ってました?
吉田 歌えないよ。それからは怖いもの。(笑) 75年のつま恋が初めてですよ。あの時だってもし、5万人が一斉に騒ぎだしたらどうしようと思って恐る恐るでしたよね。イントロが始まったら客席がワッと湧いたんで、ああ、大丈夫だったって。(笑)
●フォークの貴公子っていう呼ばれ方はどうだったんですか?
吉田 最高でしょう。(笑) これ以上の称号はない。 あのね、本当にプリンスだった頃の笑い話だけどね。 青森に行ったんですよ。まあ、会場は、ほとんど女の子。男はいないんだから、だから2000人くらいの女の子がグァーッと入ってキャアキャア言ってるでしよう。ハッキリ言ってフォーク・ソングのス テージじゃないですよ。アイドルのステージ。(笑) 俺は郷ひろみよりすごいんじゃないかと思ってた (笑) で、キャアキャア言って、全部終わるでしょ。 "また来るぜ"とか言って。楽屋から出ていくと、 旅館まで女の子がダーッと並んで列を作ってくれて るの。
●旅館まで!
吉田 旅館までつながってんの。会場から。何キロ もありますよ。そこをずーっと綺麗に女の子が列になってる。そこを通っていけば旅館に着くわけです (笑) マネージャーは、「拓郎、裏口は女の子が一杯 いるからヤバイ。表から帰ろう」。でも、俺はそっちを通りたいの。(笑) 結局、手を振りながら旅館まで行ったの覚えてるけどね。あんな気分いいことないよ。(笑) あれ気分悪いっていう人いたら、変だよ。 王道じゃない、それ。

 

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吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(1)

Pachi00

構成・文 田家秀樹

いろんな音楽が開花して、80年代はいい時代だったよね。とりあえず90年代もいようと思う。『いること』が王者なんだよ。

90年代へ----。
ラストバッター、最後に登場するのは、大御所。 吉田拓郎。

1946年4月5日生まれ、今、43歳。 エ~ウチのお父さんとおんなじィ。
きっと、そういっている十代の読者もいるに違いない。少なくとも、30代~40代にかけての世代で、吉田拓郎の曲を知らないという人はいないに違いない。もし、"ウチのお父さんとおんなじ"という読者は、お父さんに「吉田拓郎の曲、知ってる?」と聞いてみると面白いかもしれない。突然押入れや物置の中からギターをとりだして、歌い始めたりするかもしれない。 吉田拓郎のデビューは1970年の4月である。 デビュー・アルバムには「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』というタイトルがついていた。 70年代の始まり。そんなタイトルは、新しい時代の幕開けにふさわしい高らかな若さに溢れていた。 70年代は、吉田拓郎とともにあった。彼が動くところ、新しい時代の舞台が作られていった。 簡単なことをあげてみる。今でこそ、あたり前になった、いくつものできごとやものごと。その多くが、日本では吉田拓郎が始めたものだったといってもいい。たとえば、"シンガーソングライター"という言 葉だ。吉田拓郎が、さっそうと登場する前には、そんな言葉すらなかった。たとえば、"ツアー"というスタイルを日本で最初に行ったのが彼だった。 "全国ツアー"などというスタイルは、なかったのだから。"野外イベント"や"オールナイト・コンサート" などもしかりである。70年代に、彼が起爆剤となり、道を拓いていったいくつものことが、今、あたり前になっている。 そして、89年。テレビから、吉田拓郎の曲が、ひんぱんに流れてきた。「夏休み」「今日までそして明日から」渡辺美里は「どうしてこんなに悲しいんだろう」を歌い、氷室京介は「たどりついたらいつも雨降り」を歌っている。そして、あの、とらばーゆのCMで使われている「人間なんて」・・・・。あの原曲が、吉田拓郎のものだということを知らない人の方が多いという話を聞いた。
'72年に発売された4枚目のアルバムが「人間なんて」というタイトルだった。 '71年、中津川の全日本フォーク・ジャンボリーで、ギター1本で2時間、叫び続けた曲であり、'75年のつま恋の5万人オールナイト・ライブ'79年の篠島のアイランド・オールナイト・コンサートの夜明けのフィナーレでの熱狂の大合唱と、この曲にまつわる"伝説"は、70年代のドラマそのものだった。
'89年11月21日から90年1月10日まで、彼は"89-90"というツアーに出た。ツアータイトルは「人間なんて」だった 80年代には一度も歌われることのなかった「人間なんて」が、90年代を前に、新たな詩で歌われていった。
●ツアー・タイトルが何と「人間なんて」だった。
吉田 そうだね。ま、僕の意志じゃなかったんだけど。ハメられたっていう(笑) テレビみてたりして、いいコマーシャルだなって思ったりしてたわけ。面白い曲だな。誰が作ったんだろうという感じで。(笑) 僕にとってあれはヒット曲かもしれない。だったら歌うべきだと素直に思えるようになったのね。
●80年代が終わるという、区切り、みたいな意味はあった。
吉田 そんな意味は特にはない。そんなのないけど、でも考えてみれば、本当に89年で終わりなんだね。 早かったな、80年代って。(笑) '79年に篠島だったんだよね。80年代って、どんな年になるんだろう、とか言いながら、ダラーッと入って来ちゃって、ダラーッとしてたんだけど、早かったなァ(笑)
●'79年頃に何考えてたか、思いだせます?
吉田 あの頃はねぇ、確か、70年代の後半はサボリがちだったんで、80年代に入ったらやろう、と思ってたんだけど、やんなかったねぇ。(笑)
●今日は、時代を逆のぼりながら訊いていこうと思ってるんですけど、'69年頃の記憶っていうと、また違うでしょ。
吉田 記憶にないくらい。(笑) 60年代って記憶にないんだよね。70年代の前半、東京に来て4~5年っていうのは、すごく覚えているんだ。夕べもバンドの奴らと話してたんだけど、だいたい、そこら辺の話なのね。東京に来て、わかり易く言うと成功するまでっていうのが結構覚えててサ、成功した後っていうのが、あんまり記憶ないね。金銭的にも経済的にも、得ちゃった後って。お金もなかったけど、探ってる時代が一番面白かったみたいね。すごく鮮烈に覚えてるからね。
●成功する前っていうと、どの辺から。
吉田 アマチュアから、ずっとつながってて東京に出てきて、エレック・レコードで、社員やりながらレコード作ったりとかしていた頃とかね。
●アマチュアの頃の記憶ってどのくらいから始まります?
吉田 高校じゃないかねえ。初めてみんなでバンド 作って演奏したりとか。その中のひとりが作曲してて、カッコいいなと思ったりしててサ。
●ダウンタウンズといってたアマチュア・バンド。
吉田 そう。このあいだ大阪でダウンタウンズの同窓会っていうのがあってサ。みんなすごかったよ (笑)すっごいおじさんなんだ。やっぱり。(笑)
●それは、そうでしょう。(笑)
吉田 俺、やっぱり浮いているなぁと思ったりしたんだけど、でも、よく覚えてるもんねぇ、みんな。 当時のことって、米軍キャンプでやった時のこととか、あん時、お前がもうちょっと頑張れば、とか言って。(笑)音楽の夢ってあったんだよね、みんな。ビートルズになるって思ってたから。(笑)俺が今、こうやって音楽で生活してるでしょ。みんな素直にうらやましいって言うもの。お前みたいになりたかったんだ、俺たちって。
●高校の時が、最初のバンドですか?
吉田 高校には、そういうクラブはなかったんだけど、校長とか、教頭に言って、特別に軽音楽愛好会っていうの作らせてくれって。
●創立メンバー。
吉田 そう。その頃だもん。ボブ・ディランとか聞いたの。
●それまでは。
吉田 やっぱり60年代のやつ。アメリカン・ポップ ス。プレスリーとか、ニール・セダカとか、デル・シャノンとか、そういうの聞いて。あの番組、何て言ったっけ。帆足まり子のやってた番組。
●S盤アワー。
吉田 S盤アワーとか、東京の番組をエア・チェッ クしてた。ラジオでリクエストしたりとかね。読まれたらうれしかったよね。広島の西霞、吉田拓郎さんのリクエストの「可愛いベビー」とか、やった!って。 (笑)
●ういういしい。(笑)
吉田 圧倒的に聞く側の人間だったからね。自分でやる側にまわるなんて、全然思ってなかったよね。
●兄弟の影響があったとか。
吉田 兄貴がピアノやってたから。ジャズの。立教に行ってたんだけど、学校から、東京から帰るたんびに、演奏してる写真とか女の子一杯連れてる写真とか持ってくるわけ。バンドやってるとこんなふうになるわけ? とかそういう憧れあったもんねぇ。東京でバンドやってるともてるんだ。とか(笑) でも、やっぱりビートルズじゃないかな。プロになってみようなんていう気にさせたのは。プレスリーとかコピーしてたら、突然出てきて。で、話聞いたら4人の若者だって。しかもみんな音楽の勉強もしてない。我流でやってるとか。いろいろ入ってくるでしょ。ビートルズの何が良かったかって、僕たちにもできるっていう気にさせてくれたことが一番大きかったよね。 全てが刺激的だったからね。ファッションから音楽から、とにかく全てが最高だったからね。これをやんない手はないと思ったよ。
●ギター持つ恰好までマネした。
吉田 そうそうそう。足の開き方とか、タイコなんかもリンゴのって低いとこに置いて叩いたりするでしょ。そういう座り方させたり、髪型も真似たり。 顔は似てないんだけどね。(笑)なりきってた。同じギター手に入れたり、エピフォンとか。ボックスってアンプは手に入んなかったけど。ギターとかは手に入れてたね。リッケンバッカーは手に入らなかったけど。
●その時は何を使ってたんですか。
吉田 グヤトーン。(笑)グヤトーンのリッケンバッカーモデルっていうのがあったの。ドリフターズも使ってたけどね。高木ブーさんが使ってるの見てビックリしたもん。やめてくれっていいたくなった (笑)
●米軍キャンプで演ってたのは高校?
吉田 いや、大学。
●広島商大。
吉田 大学行ってからだよね。人前でホントにやるようになったの。"ビア・ガーデン"とかあの頃だと、ゴーゴー・クラブっていってたけど。(笑) DISCO。
●大学の時って応援団だったんでしょ。
吉田 そう。(笑) 応援団に入っていたんだけどね。 大学入ったときにロックやりたくて、そういうクラブ探したんだけど、カントリー&ウエスタンしかないわけ。エレキギター使うクラブが。で、そのカ ントリー&ウエスタンのクラブに入ろうと思って一年生の入学式の日に、入部手続きしに行ったら、手前が応援団の部室だったんだよ。その前通んなきゃいけないし。前通ったら、いきなり、"いい体してんな、お前"とか言われて。(笑) いい体してないのに。いきなり応援団入れられちやったわけ。俺、となりのクラブ入りたいんですよって言ったんだけど、入れてやるからウチも入れって(笑)

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