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2020年2月

2020/02/24

「URC50thBEST 青春の遺産」 50年前の若者たちの「どう生きるか」タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

「URC50thBEST 青春の遺産」 50年前の若者たちの「どう生きるか」タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
田家秀樹

「URC」という言葉でピンと来る人はまずいないだろう。音楽ファンの中でも70年代に関心のある人以外は馴染がないに違いない。1969年に発足した日本で最初の大規模なインディーズレーベルの名前だ。正式名称を「UNDER GROUND RECORD CLUB」。「アングラ・レコード・クラブ」ともいわれた。その頭文字をとって「URC」となった。
とは云うものの、そこに所属していたアーティストやバンドの名前を見れば、印象が変わってくるはずだ。アイウエオ順にあげてゆくと、五つの赤い風船、遠藤賢司、岡林信康、加川良、金延幸子、斎藤哲夫、シバ、高田渡、ザ・ディランⅡ、友部正人、はっぴいえんど、早川義夫、ザ・フォーククルセダーズ、中川五郎、三上寛、柳田ヒロ、休みの国、などである。
「URC」は知らなくても70年代に少しでも関心のある人なら一度は聞いたことのある名前ばかりだろう。
そういうアーティストが所属していたレーベルが、去年、50周年を迎えた。
「1969年」も「2019年」も同じ土俵
2020年2月19日、50周年記念の第一弾として3枚組ベストアルバムが発売になる。前述のアーティストの曲が51周年にちなんで51曲が収録された三枚組。そのタイトルはこうだ。
「青春の遺産」ーーー。
URCが発足するきっかけは、前述のアーティストの作品がメジャーなレコード会社から発売出来なかったことだ。最も大きかったのは68年に発売される予定だったザ・フォーククルセダーズの「イムジン河」が政治的な理由で発売中止になったことがある。
自分たちが歌いたい歌がメジャーで出せないのなら、そこに頼らずに世の中に送り出すために作った自主制作販売組織。69年2月の第一回配布シングルは「イムジン河」。歌っていたのは訳詞の松山猛とアマチュア時代のフォークルのメンバー。ディレクターは、プロになったフォークルの北山修。つまり「イムジン河」のリベンジだった。
ただ、会員制自主販売組織として始まったものの、入会希望者が殺到、8月からは全国のレコード店と直接販売契約を結ぶようになった。今のインディーズの形である。
そこから50年が経った。
今、なぜURCなのか。
二つの理由がある。
一つは、音楽の聴き方の変化だ。
配信の普及は、音楽から「新旧」という概念を取り払った。若い聞き手にとっては「1969年」も「2019年」も同じ土俵と言っていいのだと思う。自分の知らない曲は全て「新曲」という受け止め方。同時に、ジャンルや時代に対しての先入観や偏見のなさだ。
二つ目は、震災以降、音楽の「役割」が変わってきたことがある。音楽だけではない。若者たちの意識と言っていいだろう。
2011年3月11日の東日本大震災は彼らの「人生観」を大きく変えたのではないだろうか。音楽関係者やミュージシャンでもそうだ。音楽に何が出来るか、自分と社会との関係について考えざるを得なくなった。
去年、80年以上前に発売された吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」の漫画がベストセラーになったのも、そうした状況の反映なのだと思う。
そういう人たちに、50年前のURCの音楽がどう聞かれるか。彼らに知ってほしい、ということが最大の意図と言っていい。
それはURCだけではない。
60年代から70年代にかけてのフォークやロックの曲には大きな特徴がある。
それは「個人的」なことだ。自分の喜怒哀楽。日記のような身の回りのことや古い友人にあてた手紙。同人誌に乗せるような実験的な詩、世の中に向けた激しいメッセージもある。「商業主義」を意識しない、ということは、「定石」や「定型」がない。どれもその人にしか作れない、その人にしか歌えないものばかりだ。
更に、である。
これが何よりも重要なことなのだが、誰もが若かった。10代の終わりから20代の前半。最も多感な年齢に書かれた歌ばかりだ。DISC3の最後、アルバム51曲目の「私たちの望むものは」は、岡林信康が23才の時に書いたものだった。
「自分たちの歌がない」
音楽から「時代」が消えた、と書いた。
でも、「歌は世に連れ」というように、その時代の歌には、その時々の世相は色濃く反映している。
URCが発足した1969年は戦後史の転換点だった。1月に東大安田講堂が陥落し、全国の大学・高校に展開されていた学園闘争が終息、8月に岐阜県中津川市の椛の湖畔で「第一回全日本フォークジャンボリー」が行われた。アメリカでウッドストックが行われる一週間前だ。政治から音楽へ、という流れが始まった年だ。行き場を失った若者たちの「自分たちの歌がない」という不満が、「自分の歌を」という新しい動きにつながって行った。
つまり、URCの音楽は、50年前の若者たちの「どう生きるか」という模索の産物でもあった。
URC50th三枚組「青春の遺産」はそれぞれのDISCに選曲のテーマがある。DISC1は「人生と暮らしの歌」、DISC2が「旅と街の歌」、DISC3が「愛と平和の歌」だ。
DISC1に収められている、日本語のロックの元祖・はっぴいえんどの「春よ来い」は、バンドを組んだばかりの当時の彼らのドロップアウトの歌だ。加川良の「下宿屋」は、裸電球の下宿屋での仲間とのことを歌っている。その登場人物の一人でもある高田渡は、「豊かさとは何か」を問い続けた詩人だ。彼らが問いかけたことが、今の若者たちにどう響くか。斎藤哲夫の「悩み多き者よ」は、今の受験生にこそ聞いてほしいと思う。
DISC2の「旅と街の歌」は、ヒッチハイクで旅をしながら歌っていた「旅の詩人」・友部正人の「まちは裸ですわりこんでいる」で始まっている。全国が東京化してゆくことへの怨念のような、青森出身の三上寛の「青森県北津軽郡東京村」は今の日本の姿だろう。大人になるための第一歩が旅に出ること、というのは50年前も今も変わらないはずだ。DISC3の「愛と平和の歌」は、「戦争と愛の歌」と言い換えることも出来る。「戦争を知らない子供たち」が歌った「愛と戦争」はまさに21世紀の歌だ。
時代は変わる。歌った人は逝ってしまう。でも、歌は残って行く。50年前の若者たちの「どう生きるか」という歌が、令和の若者たちにどう届くか。
URC50周年。ここに収録されている人たちの多くがすでに鬼籍に入ってしまった。「遺産」というタイトルがついているのは、そういう理由もある。
青春は短い。でも、そこでの喜怒哀楽は永遠なのかもしれない。

 

 

 

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2020/02/22

TYIS4月より、「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」の出演が決まりました。

TYIS 4月より、「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」の出演が決まりました。
詳細が決まり次第、お知らせ致します

 

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2020.2.21吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD

2020.2.21吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD
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2020/02/20

153-0051 ・ ありがとう

153-0051 ・ ありがとう

 

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2020/02/16

MUSIC FAIR - 2月22日土曜日夜6時 2020年アニバーサリーセレクション

MUSIC FAIR - 2月22日土曜日夜6時 2020年アニバーサリーセレクション

 

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2020/02/12

153-0051・拓郎作詞ではない歌たち

153-0051・拓郎作詞ではない歌たち

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2020/02/11

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第33話・水谷豊

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第33話

2020/02/10 に公開
今回もテーマは水谷豊さん。当時の担当ディレクター池田雅彦さんから、お話しを伺います。



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2020/02/09

音楽と契約した男 瀬尾一三 瀬尾 一三とうちゃこ

音楽と契約した男 瀬尾一三 瀬尾 一三とうちゃこ

 

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2020/02/08

153-0051 ・ 心が・・

153-0051 ・ 心が・・

 

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2020/02/06

153-005・で・・どう?

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2014.7.6AMラジオ・由紀さおり「巨匠・吉田拓郎」・「ルーム・ライト(室内灯)」を語る

2014.7.6AMラジオ・由紀さおり「巨匠・吉田拓郎」を語る




😃吉田拓郎に由紀さおりが初めて会った日の思い出。今でも忘れられない一言は…


―[クリスのお宝箱]―
(由紀さおり編)


アナログ盤、CD、DVDなど約2万枚以上。さらに雑誌やポスター、グッズ、珍品なども所有し(現在も収集中)、アーティストからも認められるほどの大の音楽ファンのクリス松村が、MCを務める『ミュージック・モア』で秘蔵のコレクションからとっておきの1枚を披露!
今回の『ミュージック・モア』のゲストは、デビュー50周年を迎えられた「由紀さおり」さんです。
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私が最初に買った由紀さおりさんのレコードは、これ!
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『ふらりふられて』(1976年発売)です。宇崎竜童さんとの第一弾の曲で、その翌年、第二弾『う・ふ・ふ』を発売されました。


💓長年の夢だった吉田拓郎にやっと会えた!


由紀さおりさんのヒット曲のなかで忘れてはならないのが、『ルーム・ライト』や『両国橋』といった吉田拓郎さんの作品です。
「1969年の『夜明けのスキャット』から50年が経ちますが、『ルーム・ライト』は、私にとってのルーツのような曲かなと思うんです。コンサートでは必ずと言っていいほど、歌っています。でも吉田拓郎さんには、ずっと会えなかったんです。1981年に出した『両国橋』でも会っていません」と由紀さおりさん。



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『ルーム・ライト』は1973年、『両国橋』は1981年の発売。狭い業界なのに、お二人はお会いしたことがなかったんですね。
「それが、7、8年前にお会いすることができたんですよ。飯田久彦(※)さんに、『会ったことないのよ』と言ったら、よく食事をしているから、ちょっと連絡してみようか、と電話してくださって……。かまやつひろしさんも加わっていただいて4人で食事をしました」



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💓今でも忘れられない吉田拓郎の言葉とは?
「私にとって吉田拓郎さんにお会いするのは、長年の夢でした。それが実現したとき、私から拓郎さんに、こう話しかけました。『拓郎さんの歌を、長く歌わせていただいています』と。すると拓郎さんがこうおっしゃってくれたんです。『この曲は、もう僕の歌ではなく、由紀さんの歌ですよ』と。うれしかったですね。この曲を歌い続けてきてよかったと思いました」



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デビュー50周年を迎えて、さらにこれから「50年の挑戦」をしていきたいとおっしゃる由紀さおりさん。最新アルバム『BIGINNING ~あなたにとって~』は、プロデューサーに亀田誠治さんを迎え、アンジェラ・アキさん、いきものがかりの水野良樹さん、ハナレグミの永積崇さんなどの書き下ろし作品を歌った、まさに「50年の挑戦」をテーマにしたアルバムです。
アルバムの表題曲となっているアンジェラ・アキさん作詞作曲の『あなたにとって』は、とても素敵な作品です。
「アンジェラ・アキさんにスケールの大きな曲を作っていただきました。ヒット曲が出ない時代ですが、コンサートでは、必ずこの歌をお客様と一緒に歌っているんですよ」
番組のスタジオライブでは、『う・ふ・ふ』と、アンジェラ・アキさん作詞作曲『あなたにとって』を披露していただきました。また、今回の放送では重大発表が! どうぞ、2月8日放送の番組をご覧ください。



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(※)飯田久彦。歌手で音楽プロデューサー。1961年『悲しき街角』でデビュー。『ルイジアナ・ママ』が大ヒットし、一躍アイドルになる。その後、ディレクターに転身し、ピンクレディーなどを担当し大ヒットさせる。


 


 


 


 


 


 


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2020/02/05

月刊牧村 夏期ゼミ#2 『東京から世界へ』その1 PA界の先駆者'チョーさん'・自腹で吉田拓郎のツアーに参加

月刊牧村 夏期ゼミ#2 『東京から世界へ』その1 - 山下達郎、竹内まりや、YMO等のサウンドエンジニアにしてPA界の先駆者'チョーさん'

 

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2019年7月7日(日)ROCK CAFE LOFT is your room
【講師】牧村憲一
【ゲスト】長曽我部久
70年代後期より山下達郎、竹内まりや、YMO等のサウンドエンジニアにしてPA界の先駆者、長曽我部‘チョーさん’久氏を迎えての夏期ゼミを開催します。連続3回の予定です。70年代の音創りに秘話なんて全くいりません。本当のことが驚きの連続だったのです。(文責・牧村憲一)
愛奴のメンバーとの出会いは広島の楽器店
長曽我部:どうも、こんにちは。よろしくお願いします。
牧村:チョーさんは山下達郎、竹内まりや双方の独身時代のメイン・エンジニアを担当されていました。そもそも広島出身で、70年代の広島と言えばあの方(吉田拓郎)。そして当時のバッキングは愛奴で、浜田省吾が在籍していました。まずは1曲聴いてから話に入りましょう。
──愛奴「二人の夏」
長曽我部:もともと僕は音楽の仕事をやろうと思っていたわけではなくて、10代の頃、写真を撮っていたんですね。17歳の時にカメラマンを目指して広島から上京したんですが、いろいろあって挫折して、また広島に戻ったんです。広島市内のライト・ミュージック専門の楽器屋でアルバイトを始めて、そこに浜田省吾くんがドラムを叩いていた愛奴のメンバーが来てくれてたんです。広島には吉田拓郎さんを輩出した広島フォーク村という、フォーク愛好者のコミューンのようなものがあって、愛奴はそこに参加していました。僕自身は、広島フォーク村には参加していませんでしたが。その楽器屋でしばらく働いた後、ちょっときっかけがあって二度目の上京をするんですが、それとほぼ同じ時期に愛奴が上京して拓郎さんのバックをやることになったんです。拓郎さんがアメリカでボブ・ディランとザ・バンドのライブを観て、自分もザ・バンドのようなバック・バンドが欲しいと思ったそうで。それで拓郎さんが指名したのが愛奴だったのです。

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■自腹で吉田拓郎のツアーに参加
牧村:拓郎がアメリカで、ボブ・ディランとザ・バンドを観る前の話だと思います。ユイ音楽工房の後藤由多加さんが拓郎の要請もあって、ザ・バンドをバックにツアーができないかとアメリカへ交渉に行ったんです。マネージャーの返答は、ザ・バンドのスケジュールはディランで一杯になっていると。代わりのメンバーを紹介しようと出た候補がポコだったんです。
長曽我部:その話は初めて聞きました。
牧村:後藤さんがその時断らず、ポコが受けてくれて拓郎のバックをやっていたらどうなったんだろうと思いますね。ですので愛奴はポコの代わりですね(笑)。
長曽我部:ダジャレじゃないんですが、当時の僕は愛奴のメンバー5人と経堂で共同生活していたんです(笑)。愛奴は自分たちの周りに、彼らの味方がいないことが心細かったみたいで。2DKのマンションに男5人が押し込められて、給料も安く生活もギリギリだったわけですから。それで「チョーさん、一緒に同行してもらえないか? マネージャーとして」って。引き受けることにしたんですが、アルバイトで稼いだお金で、自腹でツアーに参加しました。ギャラも交通費も出ないし、ホテルも取ってもらえない状況だったけど、当時の拓郎さんはスタッフを含めて多人数でツアーをやっていましたから、メンバーの部屋に潜り込んだりして凌いでいました。メンバーにフロントに電話してもらって、寒いから毛布を一枚持ってきてもらったりして。そのうちツアー・スタッフの重鎮の方に「お前、面白いな。拓郎さんのマネージャーに話してやるから、正式な形でツアーへ来い」と言われまして。ギャラは出ませんでしたけど、いわゆるアゴ・アシ・マクラは出してもらえるようになったんです。

牧村:渋谷(高行)くん、本当に気が利かないなあ(笑)。それは置いといて、拓郎は拓郎なりに愛奴を可愛がり、ライブのプログラムの中に愛奴コーナーを設けたんですよね。
長曽我部:そうなんです。拓郎さんのワンマン・ツアーにもかかわらず、途中で3曲くらい愛奴だけで演奏する時間をいただいたんです。
牧村:当時の観客が会場で録音した愛奴のライブ音源があります。一本のマイクに顔を付き合わせるようにしてコーラスをしているので音は酷い状態なんですが、愛奴の演奏をワンコーラスだけ聴いてみましょう。
長曽我部:実はこれ、僕も初めて聴きます。ちょっとドキドキしますね。
──愛奴「二人の夏」(ライブ音源)
■愛奴はロフトによく応援してもらった
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▲1976年8月のロフトのスケジュール。愛奴は荻窪ロフトの常連だった。
牧村:愛奴のライブは、楽器演奏もコーラスも含めてのバランスを取らなくちゃいけない。1974年当時はまだそういうスタイルが理解されませんでしたね。
長曽我部:その通りです。拓郎さんのツアーは、約2年くらいやらせてもらったのかな。その後、愛奴をデビューさせようという動きがユイの中であったんですが、それは拓郎さんがプロデュースするのが条件としてあったんです。拓郎さんには「結婚しようよ」みたいなポップな曲もありましたけど、基本的にフォークソングとしてのメッセージ性をすごく大事にされていた方だし、かなり尖った部分が前に出ていたんです。片や愛奴のほうはアメリカン・ポップスにかなり影響を受けていたこともあって、明るく楽しい音楽をやりたがっていました。それで結局、拓郎さんのプロデュースを断っちゃったんです。で、ユイをクビになりまして、共同生活をしていたマンションからも即刻出て行かなくちゃならない。僕らとしては、この状態を何とかしようということで、広島フォーク村の2代目村長だった方がCBS・ソニーの邦楽の制作ディレクターだったので、その方を頼ることにしたんです。結果として1975年5月にCBS・ソニーからデビューすることが決まったんです。
牧村:CBS・ソニーの邦楽には拓郎も在籍していて、金子マリ&バックスバニー、四人囃子、センチメンタル・シティ・ロマンスは洋楽のレーベルからリリースしたんですね。同じCBS・ソニーの中で両部門が争っているところがあって、ギクシャクした感じはありました。ところが愛奴とセンチメンタル・シティ・ロマンス、そしてシュガー・ベイブはそんなことはなく、それぞれいい関係でしたね。
長曽我部:そうなんです。3組とも1975年にデビューしていますし。当時、関西では上田正樹とサウス・トゥ・サウスやウエスト・ロード・ブルース・バンドといった本物のソウルやロックを志向するバンドがいた中で、その3組はいわゆるシティ・ポップを前面に押し出していました。たとえば日比谷の野音でロック・フェスティバルにその3組が出ると、とにかくボロクソに言われるわけですよ。生卵は飛んでくるわ、トマトは飛んでくるわといった有様で(笑)。「お前らみたいな軟弱なロックは帰れ!」と言われたり、そういう時代だったんです。ロフトでは愛奴とシュガー・ベイブでジョイント・ライブをやったり、その3組がそれぞれ、組み合わせを変えながら出させてもらいました。当時、下北沢ロフトでバイトをしていた原田さんは特に応援してくださった方で、のちにソニー・ミュージックアーティスツの社長になったんですよね。
牧村:ゴーレムこと原田公一さんですね。ユニコーンのマネージャー。
長曽我部:奥田民生くんのソロのプロデューサーでもありましたね。
牧村:今日は「二人の夏」ばかりかけていますが、これからかけるのも「二人の夏」なんです(笑)。今度は声を聴けば分かる「二人の夏」です。
長曽我部:ちょっと補足します。少し話が飛びますが、僕がのちにエンジニアとして独り立ちして、山下達郎くんのツアーに同行します。そのきっかけになったのが、荻窪ロフトでの愛奴とシュガー・ベイブのジョイント・ライブだったんです。こんな音源が世の中に出ていますので聴いてみてください。
──山下達郎「二人の夏」(ライブ音源):〜アコギのイントロで「二人の夏」が披露される〜
マネージャーからPAエンジニアへ転身
牧村:この音源は、『TATSURO YAMASHITA Sings SUGAR BABE』というシュガー・ベイブ解散後20周年を記念して行なわれた1994年のコンサートなんです。これまでも山下くんの番組で流れたり、シングルのカップリングに収録されたりしています。あらためて、チョーさんと山下くんの出会いの話を聞かせてください。
長曽我部:僕がまだ愛奴のマネージャーをやっていた時代、当時の売れないバンドのスタッフというのは何でも屋でした。ライブハウスにお邪魔すると、音はもちろん照明や楽器のセットアップまで何でもやらなくちゃいけなかった。僕はたまたま中学時代からアマチュア無線をやったり、電機のほうを少しかじっていたものですから、愛奴のライブを重ねていくうちに音をミックスすることが楽しくなったんです。もしかしたら自分に向いてるかな? と思い始めた頃だったんですね。

 

牧村:それまでにPAに興味を持ったり、自分が音に関わる仕事に就くのを想像したり、望みを持つことはあったんですか?
長曽我部:それはライブをやっていく中で、ミキシング・コンソールを触っていると楽しいなとか、そういうのがきっかけでしたね。19歳くらいかな、ハタチちょっと前だったと思います。さっきも話したように、愛奴とシュガー・ベイブがジョイント・ライブをやるみたいなことをしょっちゅうやっていたし、愛奴もシュガー・ベイブも解散した年が一緒で、浜田くんも山下くんも同じタイミングでソロになったんです。浜田くんはソロになりたいからと愛奴が解散する前に脱退したので、彼とはそこで一旦縁が切れたんですけど、そんな頃にソロになった山下くんから「チョーさん、PAを手伝ってくれないか?」と声がかかったんです。彼は僕が愛奴でミックスしていた音を聴いていたので。シュガー・ベイブも大ブレイクしたバンドじゃなかったし、山下くんもソロとしての知名度がまだまだの頃です。
牧村:シュガー・ベイブのファースト・アルバム『SONGS』は、レコード会社の経営状態が悪かったせいもあるけれど、リリース当初2,000枚くらいでした。それが現実だったんです。
長曽我部:こうして40年以上経って振り返って、愛奴やシュガー・ベイブやセンチメンタル・シティ・ロマンスといったバンドがあの時代を担っていたのをあらためて実感しますね。今やっとそう実感できる良い時代になったとしみじみ思うし、当時はどちらかと言えば世の中に受け入れられているとは言えなかったので。
牧村:観客から石を投げられたのは冗談じゃないですからね。
──さて、今回は始まりの始まりです。チョーさんとの対話は、これからが本番です(牧村)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第32話テーマ水谷豊「カリフォルニア・コネクション」

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ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第32話テーマ水谷豊「カリフォルニア・コネクション」
2020/02/03 に公開
今回もテーマは水谷豊さん。当時の担当ディレクター池田雅彦さんから、
あのビックヒット「カリフォルニア・コネクション」の話しを伺います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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梓みちよさんを偲んで 梓みちよメランコリーを語る・喜多條忠メランコリーを語る(ラジオ)

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梓みちよメランコリーを語る・ニッポン放送

 

喜多條忠メランコリーを語る・FM NACK5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020/02/04

153-0051 ・ ミーティング

153-0051 ・ ミーティング

 

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梓みちよさんが死去 音楽評論家の田家秀樹氏「明るくて色っぽい歌声が印象的でした」

梓みちよさんが死去 音楽評論家の田家秀樹氏「明るくて色っぽい歌声が印象的でした」

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大ヒット曲「こんにちは赤ちゃん」や「二人でお酒を」などで知られる歌手の梓みちよ(あずさ・みちよ、本名林美千代=はやし・みちよ)さんが死去していたことが、3日分かった。76歳。福岡市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。
1月29日午後、梓さんのマネジャーが出演番組の打ち合わせのため東京都内の自宅を訪ねたところ、亡くなっている梓さんを発見したという。
宝塚音楽学校在学中にオーディションに合格し、1962年に歌手デビュー。「はじめまして わたしがママよ」と優しく歌った「こんにちは赤ちゃん」は63年、NHKの番組「夢であいましょう」で披露して大反響を呼んだ。
NHK紅白歌合戦に63年から7年連続で出場し、74年には、床にあぐらをかいて歌った「二人でお酒を」が大ヒットした。70年代には「新婚さんいらっしゃい!」のアシスタントを務めるなど、バラエティー番組でも親しまれた。
他のヒット曲に「淋しがりや」「よろしかったら」などがある。

音楽評論家の田家秀樹さんの話
「『こんにちは赤ちゃん』が日本レコード大賞を受賞した時、『童謡だ』とバッシングがありましたが、これは新しい歌なんだと感じました。(そのB面曲だった)『いつもの小道で』に表れているように1960年代は健康的な日本の青春を歌う人。それが大人の歌を歌うように変わっていき、『二人でお酒を』や吉田拓郎が作曲した『メランコリー』では大人の女の粋を見せてくれた。明るくて色っぽい歌声が印象的でした」

 

 

 

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2020/02/03

153-0051 ・ むつかしいな・・

153-0051 ・ むつかしいな・・

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