J-POPの歴史「1984年と1985年、ニューミュージックから新世代へ」田家秀樹
J-POPの歴史「1984年と1985年、ニューミュージックから新世代へ」田家秀樹
音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語るスペシャルマンス。様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本特集を、5週にわたり記事にまとめてお届け。第3回目となる今回は、ニューミュージックから次の世代へバトンタッチが行われた、1984年と1985年。
こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、吉田拓郎さん「明日に向って走れ」。1985年7月27日から28日にかけて静岡県掛川市のヤマハリゾートつま恋で開かれた「ONE LAST NIGHT IN つま恋」のライブver.ですね。オリジナルは76年のアルバム『明日に向って走れ』。今日の前テーマはこの曲です。
今週は84年と85年。中間点。劇的な年でした。その中でも、劇的さを作り出した双璧の1つが吉田拓郎さんのイベント「ONE LAST NIGHT IN つま恋」です。拓郎さんにとっては、1975年以来2度目のつま恋でのオールナイト。79年に愛知県の篠島で「アイランド・コンサート・イン篠島」というオールナイトをやったんですが、それを入れると3回目です。この日は開演が7月27日の午後5時、終演が7月28日の午前7時。すごいでしょ? 75年につま恋のオープニングで不滅の名文句「朝までやるよ」と口にしましたが、この日は朝になってもやっていた。こんなことやる人いない、という感じでした。
先週が82年83年編で、そのときに70年代が終わったと申し上げました。だけど、先週も先々週も70年代最大の巨人・拓郎さんの名前は出てこなかったでしょ? 79年に篠島でオールナイトコンサートを終えたあと、80年代をどう迎えるか、いろいろ考えているように見えたんですね。例えば、古い歌はもう歌わないと宣言した。そういう中で、80年の12月8日にジョン・レノンが亡くなったんです。御年40歳でした。80年代に入った拓郎さんが口癖のように言っていたのが、ジョン・レノンが死んだ40までは歌う。当時拓郎さんはインタビューで「俺のやることはもうないんだ。すべてやり尽くしたんだ。この気持ちはお前らに話しても絶対にわかってもらえない」と言っていたんですね。その中でのモチベーションが、ジョン・レノンが死んだ年まではやる、だったんです。
85年夏というのは、拓郎さん30代最後の年でした。70年代の幕を引くんだというふうに言っていましたね。自分で開けた時代を自分の手で閉じる。拓郎さんのバックバンドだった浜田省吾さんがいた愛奴、かぐや姫や猫の再結成、関わったミュージシャンたちが一堂に集まっての一夜の祭り。拓郎引退という噂が飛び交ったりしましたね。そういう85年のお祭り。
さっき双璧と申し上げましたが、もう一つが直前6月15日、国立競技場が初めて音楽のイベントに使われた日がありました。「ALL TOGETHER NOW」。それまでは、芝生が痛むからコンサートには使わせないと言っていた国立競技場が初めて使わせてくれた。主催が民間放送連盟だったんです。特にラジオ委員会というのがあって、そこが放送局を全部束ねていたので、国立競技場もいやとは言えなかった。そういうイベントで、司会が拓郎さんだったんです。そのテーマ曲をお送りします。松任谷由実・小田和正・財津和夫、3人で「今だから」。
松任谷由実・小田和正・財津和夫 / 今だから
この曲は聴いたことがないという方が多いんじゃないでしょうか。これ、CDになってないんです。アナログ盤からお送りしているのでちょっとノイズがお耳に入ったりするかもしれません。「ALL TOGETHER NOW」、出演者すごかったですね。吉田拓郎、オフコース、チューリップ、松任谷由実、サディスティック・ユミ・バンドーーユーミンが入りましたからね。そしてサザンオールスターズ、佐野元春、ラッツ&スター、チェッカーズ、アン・ルイス、白井貴子、南こうせつ、イルカ、さだまさし、武田鉄矢――彼はラジオ体操をやりました。そして、はっぴいえんどが12年ぶりの再結成だったんですね。70年代の世代から80年代世代へのバトンタッチという世紀の豪華イベントでした。もう一つ、旗印があったんです。国際青年年。民間放送連盟が全部集まって主催することと、世界の青年の祭典なんだという事がお役所をウンと言わせました。こういうイベント、もうないんですかね。
84年1月発売、2枚目のシングル、チェッカーズ「涙のリクエスト」
チェッカーズ / 涙のリクエスト
フミヤが語った「週刊明星からディクショナリーまで」の真意
先ほどお話しした「ALL TOGETHER NOW」で、チューリップのピックアップメンバーのステージでピアノの中から登場したのがチェッカーズだったと思います。福岡県久留米市出身のドゥーワップグループ。81年の「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」のジュニア部門、最優秀ジュニア部門。高校生が2人いたんですね。83年に「ギザギザハートの子守唄」でデビューしたんですが、自分たちの音楽性に対して、これは演歌っぽくて嫌だっていうことで拒否した。その話は有名ですね。
80年代のはじめは、松田聖子さんをはじめいわゆる、女性のアイドルがどっと出てきたときで、80年代はいわゆるたのきんトリオー田原俊彦、近藤真彦、そういう3年B組金八先生出身というのが男性アイドルの1つの新しい流れだった。そんな中、チェッカーズはどこにでも出てきたんですね。初めて取材したのが85年の3枚目のアルバム『毎日!! チェッカーズ』のときだったんですけど、そのときの印象がすごく強かった。彼らは週刊明星から、芸能史から、テレビから全部出ていました。アイドルなんだけど、アイドルじゃない。音楽の理屈理論、イメージ、情熱、すべて持っているんですね。僕らはこういう音楽をやりたいんです。でもアイドル扱い全然構わないんですっていうのが、とっても新しい感じがしました。フミヤ(藤井郁弥)さんの当時の口癖がありまして「週刊明星からディクショナリーまで」。1番柔らかいところから1番硬いところまで俺たちは出て行くんだよという、そういうグループでありました。
さて、次の人たちも「ALL TOGETHER NOW」組ですね。
THE ALFEE / 星空のディスタンス
THE ALFEEの17枚目のシングルですね。ALFEEは、デビューしたとき、再デビューしたとき、「星空のディスタンス」を出しているときと、表記が少しずつ変わっているんですね。で、THE ALFEEになっています。再デビューして、これは15枚目のシングルなんですよ。そんなに時間がかかっていたんだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、70年代の不遇でレコードも出せなくて、かまやつひろしさんや研ナオコさんのバックをやっていた。82年に再デビューして、そこからここまでさらに10枚以上のシングルを出し、前作の「メリーアン」で爆発した。ここで、今でも必ずステージで歌うという代表曲が出来上がったんですね。作詞が高橋研さんと高見沢俊彦さんの共作です。もともとの詞は、「燃え上がる! 愛のレジスタンス」だったそうです。でも高見沢さんがどうしても「燃え上がる」は客観的すぎるから、「燃え上がれ」にしてくれと変えたというエピソードがありますね。
THE ALFEEもそうですけど、この頃のアーティストを支えていたのが音楽雑誌でした。みんなテレビにあまり出ませんでしたし、芸能誌からもあまり取材を受けなかった。チェッカーズは別ですけど、みんなラジオと雑誌だったんですね。THE ALFEEは新譜ジャーナルとGBが多かった。84年に新しく創刊したのがPATi・PATiです。GBという雑誌は77年に創刊して、中島みゆきさんとかオフコースとか、フォーク系のアーティストは割と出ていたんですね。チェッカーズがデビューしたとき、GBはチェッカーズをやらないと言ったんです。「これはアイドルだから僕らはやらない」と。それに反発してソニーマガジンズで「チェッカーズいいじゃん」って言っている編集長・吾郷輝樹さんが、俺自分で作るからと始めたのがPATi・PATiなんです。チェッカーズ、尾崎豊、吉川晃司で1年間持たせた。それが創刊当時ですね。吉川晃司さんは84年2月に「モニカ」でデビューして、大判の写真メインの音楽雑誌の全盛期というのが来るんです。GBはTHE ALFEEもそうですけど、彼らの前からこの人たちが看板でした。
オフコース活動再開シングル、84年4月に発売になりました。「君が、嘘を、ついた」
オフコース / 君が、嘘を、ついた
80年代になっても健在だった「ライブの拓郎」「アルバムの陽水」
小田和正さん、清水仁さん、松尾一彦さん、大間ジローさん、4人のバンドの音ですね。81年に武道館10日間コンサートがありました。そのあと、鈴木康博さんが抜けて、こういうメンバーになったんですね。活動再開を決めるまでの間について、小田さんがインタビューで言っていたのは「僕はダンボだった」というセリフ。ダンボって、ディズニーの映画がありましたね。耳の大きいゾウさん・ダンボは自分が窓から飛べるのか飛べないのかってずっと悩んでいる時間があったわけですけど、小田さんは、この4人のメンバーで空を飛べるんだろうかとずっと考えていた。そして84年4月に出た『君が、嘘を、ついた』で活動を再開したんですね。
84年6月にアルバム『The Best Year of My Life』というのが出ました。我が人生、最良の年というタイトルですね。自分の最も素晴らしい年なんだというタイトルのアルバム、翌年85年の4月から再開のツアーが始まりました。初日、覚えてますね。千葉県文化会館。まだ桜が咲いていたな。開演1時間くらい前に会場にいったら、もうお客さんがあふれていて、オフコース4人になってどんなステージをやるんだろうって不安の入り混じった緊張感というのがとても初々しかった。懐かしい思い出です。
井上陽水 / いっそセレナーデ
84年の12月に出た『9.5カラット』、セルフカバーアルバムですね。アルバムチャートは1位、そして陽水さんにとっては『氷の世界』以来2作目のミリオンセラーアルバムでした。70年代にもミリオンセラーを出して、80年代になってもそれだけの実績を残した。セルフカバーアルバムが1位になった前例というのがありました。拓郎さんの『ぷらいべえと』なんですよ。70年代、拓郎・陽水の時代と言われましたが、この2人は80年代になっても健在でありますね。ライブの拓郎、アルバムの陽水。この年のレコード大賞アルバム大賞がこの『9.5カラット』なんですね。カバーアルバムが大賞をとったのはこれが初めてです。シングルチャートのほうでは、84年11月に中森明菜さん「飾りじゃないのよ涙は」が1位になっている。
84年には安全地帯の「恋の予感」も出ました。安全地帯はもともと陽水さんのバックを担当していたバンドなわけで、陽水さんが詞も書いたりしていました。安全地帯は85年6月に出た玉置浩二さんが詞曲を書いている「悲しみにさよなら」が大ヒットして、年間チャートの9位になったんですね。この年の年間チャートおもしろいんです。1位のチェッカーズ「ジュリアに傷心」、2位が中森明菜さん「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」、3位が小林明子さんの「恋におちて -Fall in love-」、4位C-C-B「Romanticが止まらない」、5位もチェッカーズ「あの娘とスキャンダル」、6位中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」、7位も明菜さん「SAND BEIGE -砂漠へ-」、そして8位もチェッカーズ「俺たちのロカビリーナイト」、9位が安全地帯「悲しみにさよなら」で、10位が松田聖子さんの「天使のウィンク」なんです。ニューミュージク、ポップス、ロック系のチャートなんですね。先週、83年のチャートに演歌がたくさんあったという話をしましたけど、激変していく80年代だったんですね。
85年にはもうひとつ劇的なシーンがありました。尾崎豊さんが大阪球場でライブをやったんです。尾崎さんの曲をお聴きいただきます。85年1月に発売になった「卒業」。
尾崎豊 / 卒業
尾崎豊、衝撃的なホールコンサート初日
先週、尾崎さんの「街の風景」をお聴きいただきましたが、あの曲が1曲目だったアルバム『17歳の地図』が、いわゆるレコード会社が決めた最低出荷枚数にも満たない、本当に数が少ないイニシャルだったんですね。でも、84年8月に日比谷野外音楽堂で「アトミックカフェ・ミュージック・フェス’84」という反核コンサートがありました。浜田省吾さんとか、加藤登紀子さんなんかも出ていたんですが、このライブで尾崎さんがPAから飛び降りて骨折したんです。この噂が業界、そして若い人たちの間を駆け巡りまして、尾崎何者? となって、改めて『17歳の地図』がみんなに訊かれるようになった。そして85年3月に2枚目のアルバム『回帰線』が出たんです。これが初登場1位だった。劇的でしたね。
ホールコンサートも始まりました。日本青年館が初日だったんですけど、これが衝撃だったんですね。こんなコンサートをやる若者は初めてみた。何が衝撃だったかって、エンターテイメントという言葉では語れない、自分の中のモヤモヤした何か、衝動、苦しみ、悩みとかを全部叩きつけて塗りたくっているようなステージだった。ステージを這いずり回り、転がりまわり、みたいな。妙な言い方ですけど、そのときに彼は長生きしないなって漠然と思いました。8月25日に大阪球場で10代のシンガーソングライター初めての大阪球場コンサートというのがありました。その前に、週刊朝日という週刊誌で今の音楽シーンを語るみたいな座談会があったんですね。残間里江子さんや山本コウタローさんとかの中に僕も入れてもらって、尾崎ってどうなのって話をコウタローさんが振った。そのとき、朝日新聞の写真部に尾崎豊の写真がなかったんです。つまり、大人は全然知らなかったという例ですね。尾崎さんについては来年1月3日から16日までドキュメンタリーが公開されます。『尾崎豊を探して』。尾崎を撮り続けていた映像監督・佐藤輝さんの未発表、95分のドキュメンタリーです。
85年夏というのは、本当に劇的な移り変わりの年でした。拓郎さんのつま恋があって拓郎引退という噂があって、萩原健一さんがよみうりランドでライブをやって、しばらく萩原さんは音楽から離れる。で、大阪球場で尾崎さんがこういう劇的なライブを行った。2つの終わりと1つの始まりっていう原稿を、僕は『噂の真相』に書いた覚えがあります。
85年6月1日発売、BOØWY の1stシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」。
BOØWY / ホンキー・トンキー・クレイジー
故・佐久間正英氏とBOØWY の出会い
いやぁ、かっこいいですね。85年6月1日発売、BOØWY の1stシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」。アルバムが6月21日に出た『BOØWY』ですね。東芝EMI発売。「ホンキー・トンキー・クレイジー」が出て、アルバム『BOØWY』の間に、あの「ALL TOGETHER NOW」がありました。国立競技場でニューミュージックから次の世代にというバトンタッチの式典が行われているとき、それを横目に、このアルバムとシングルが出たんですね。プロデューサーが佐久間正英さん、レコーディングがベルリンハンザ・スタジオ。もともと徳間ジャパンとビクターでリリースしていたので、決してインディーズではないんですけど、いわゆるメジャーデビュー的な感覚は東芝EMIからですね。そして、プロデューサーに起用された佐久間正英さんが「BOØWYをお願いします」と言われたときに1つ条件を出した。佐久間さんはこの条件を出せばきっと断ることができるだろうということで、ベルリンのハンザスタジオに行きたいと言ったら、「いいですよ」と言われてしまったんです。佐久間さんはここからBOØWY、そして氷室さんとずっと関わることになっていきます。
ここから70年代のはっぴいえんどの重めなウェストコースト風なドラム、ベースのリズムから、ハネるような、布袋さんの足が見えるようなビートに変わっていったんですね。縦ノリのビートバンド。そしてBOØWYも音楽雑誌ですよ。PATi・PATiでしたね。BOØWY があまりにも売れたために、PATi・PATiからBOØWYメインのロック雑誌というのが生まれました。PATi-PATi ROCK’ N’ ROLL。このあとぐらいからアマチュアバンドのコンテストになると、出場者の大半がBOØWYを演奏し、審査員がまたBOØWYかよと呆れた顔をする。そういう時代が来るわけです。世代交代とバンドブーム。その間の中で生まれた名曲です。
サザンオールスターズ / メロディ
いやぁ、屈指の名曲。もしサザンで1曲好きな曲を挙げてくれと言われたら、僕はこれを挙げるかもしれない。この曲が入ったアルバムは9月13日に出た『KAMAKURA』ですね。当初6月の発売だった。そして7月からツアーをやることも決まっていた。でも、レコーディングが延びて全部キャンセルになって、9月発売になりました。曲が増えすぎてしまったんですね。2枚組になりました。レコーディングが終わってテープが工場に届いたのは発売の20日前だった。レコーディング時間数1800時間。なんでそんなに時間がかかったかというと、デジタル化ですよ。いわゆるサンプラーとかデジタルシンセとかドラムマシーンとか新しい機材がたくさん出てきて、それを使いこないたりしているうちに、これだったらもっといろいろなことができるねみたいなことで、どんどん時間が経ってしまった。そういうレコーディングでした。
アルバムの1曲目は「Computer Children」でしたらからね。デビュー当時のサザンオールスターズはアメリカ南部のロックンロールバンド的な、ちょっと肉体派的な若者たちだったんですが、それを卒業しました。そういうコンピューターを扱ったアルバムの中で、シングルカットされたのが、この「メロディ」ですよ。音楽で1番肝心なのはメロディなんだ。彼らの気概みたいなものが伝わってくる、そんな曲だと思いますね。アルバムの中に「吉田拓郎の唄」というのがありましたね。お前の歌が俺を悪くしたっていう。拓郎さん引退という噂を受け取めて、彼らはこういう送る歌を書いたりしました。国民待望の2枚組。国民的ロックバンドという呼び方は最近よく使いますけど、僕はこのサザンの『KAMAKURA』で初めて見た気がしますね。
REBECCA / Maybe Tomorrow
85年11月に発売になった4枚目のアルバム『REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜』の最後の曲ですね。このアルバムの1ヶ月前10月にシングル『フレンズ』が出たんですね。この『フレンズ』が女の子を直撃しました。当時、少女漫画の中に1番たくさん歌詞とかグループ名が吹き出しなんかで出てきたのがREBECCAでしょう。アルバム『REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜』はバンド史上初めてのミリオンセラーアルバム。BOØWY が翌年にミリオンを出すんですけど、BOØWY より一足早かったんですね。男子を直撃したBOØWY と、女子をロックの虜にしたREBECCA。NOKKOさんの書く歌詞と、土橋安騎夫さんのヨーロピアンなちょっとしめった霞がかかったようなメロディがアメリカのシンディ・ローパーなんかとちょっと違う日本的なガールズロックを作りましたね。
85年12月に彼らが初めて渋谷公会堂でライブをやって、そのライブ映像が去年DVDになって、今年完全版が発売になりました。このREBECCAの渋公のライブは素晴らしいですよ。NOKKOさんが何かに乗り移ったかのような、本当に必死な、私の人生はここ変わる、このために私は生きてきたんだ、ここで死んでもいいんだみたいな、そういうパフォーマンスなんですね。今年、89年の東京ドーム、BLONDSAURUSのライブ映像作品も出ましたけど、こちらは完成されたREBECCA。この変わり方が実に劇的で、今見ても当時のライブはこういうライブだったんだってことがよくわかって、貴重な映像であります。
「J-POP LEGEND FORUM」
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。いやあ、今日おかけした曲、いかがでしょうね。みんないい曲だったなあって、聴きながら忘年会気分になって、お酒を飲みたいなと思ったりしました。でも1人でこういう曲を聴いてお酒を飲んでいると悪酔いするんですね。あまりにもいろいろなことを思い出しすぎたり、切なくなったり、愛おしい年だったなと思ったりすると、お酒から抜けられなくなります。
さっき話しましたが、音楽雑誌がいっぱいありましたね。PATi・PATi、新譜ジャーナル、GB、B・PASS、音楽専科、ベストヒット、ARENA37、僕よく書いたのはPATi・PATi、新譜ジャーナル、GB、ベストヒット、B・PASSかな。どこでどのアーティストを書いたかいまだに覚えています。編集長の顔も思い浮かびます。PATi・PATi吾郷さん、新譜ジャーナル大越正実さん、GB塚本忠夫さん、ベストヒット飯名さん。B・PASS小松さん、みんな元気かなって思ったりする年の瀬でありますね。僕は70年代、最初は編集者で、その後、放送作家だったりしました。そして雑誌編集者にまた戻って音楽だけ書くようになったのが83年。尾崎豊さんが出てきて、彼がステージで、俺は教室でカセットテープを聴いていて、先生はやめろと言ったけど俺はやめなかったんだ。やめないでブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウンや浜田省吾や佐野元春を聴いていたんだと叫んでいた。「Scrambling Rock’n’Roll」ですよ。それを聴いて、俺もまだやることがあるなと思ったんですね。こういう世代に何かが伝えられたら、僕は音楽の周辺にいて自分も楽しくやれるし、やれることがみつけられるなと思ったりしました。あの時代の音楽雑誌は本当に懐かしいです。自分の人生1番楽しかった。1番印象深かったのは何年かと言われたら、1985年だったなというふうに今改めて思いながら今週はお別れしようと思います。
来週は86年、87年。やっぱり楽しい2年間でした。
サザンもユーミンも、これから先、いろいろな形で出てきます。あなたと私の忘年会。来週も楽しませていただけたらと。お前が1番楽しんでいるだろうと? そんな時間でもありますが(笑)。
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