FM NACK5 拓郎・幸ちゃん THE ALFEEは拓郎の命の恩人1990 10 10 ON AIR
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J-POPの歴史「1986年と1987年、新しい扉が開いたロック元年」 田家秀樹
音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語るスペシャルマンス。様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本特集を、5週にわたり記事にまとめてお届け。第4回目となる今回は、新しい扉が開きロック元年と言われた、1986年と1987年。
こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、1986年9月に発売になったTHE ALFEEのシングル「ROCKDOM-風に吹かれて-」。86年11月に出たアルバム『AGES』からお聴きいただいています。ROCKDOMという言葉は、ロックそしてフリーダムという2つの言葉から作った高見沢(俊彦)さんの造語ですね。アルバムタイトルの『AGES』というのは、世代とか時代、そういう意味があります。彼らにとっては初めてのコンセプトアルバムでした。今日の前テーマはこの曲です。先週、80年代の中間点を過ぎました。そこからさらに新しい世界、新しい扉が開いていった。そんな2年間です。
どんな新しい扉が開いたかといいますと、1つはライブですね。ロックのコンサートが一気に大規模化しました。先週初めて国立競技場がコンサートに使われた「ALL TOGETHER NOW」の話をしましたね。そして吉田拓郎さんがつま恋で3回目のオールナイトをやった。その両方のライブに登場していたのが、このTHE ALFEEです。で、THE ALFEEが86年の8月3日、東京湾のベイエリアで行なった野外コンサートが「TOKYO BAY AREA」。史上初めての10万人コンサートだったんですね。アンコールで初めて披露されたのが、「ROCKDOM-風に吹かれて-」でした。俺たちの時代を忘れないで。1969年のことをそう歌っています。
70年代はみんな自分のことで精一杯で、自分たちの時代がどうなっているとか、自分たちの青春を次の下の世代にどう歌うか全然余裕がなくて必死だったわけですね。でも80年代に入って、みんなそれぞれ花が開いて余裕もできて、自分たちの青春ーー60年代70年代のことを今の若い人たちに向けてこんなふうに歌いたいという想いが出てきた。この歌もそんな1曲です。10万人という数を初めてみたのがこのコンサートですよ。すごかったですね。フラットな会場でしたので、1番後ろにいると、はるか先にステージがあったという記憶があります。今だから明かしますが、帰りが混雑しそうだなとアンコール最後まで待たないで、これを聴きながら帰った覚えがあります(笑)。80年代後半、見たことのないコンサートが次々に行われた時期でした。
そんな時代の主役の1組をご紹介します。HOUND DOG、1986年8月発売「ROCKS」。
HOUND DOG / ROCKS
HOUND DOGの功績とは?
ヴォーカル大友康平さん、ギター八島順一さん、西山毅さん、キーボード蓑輪単志さん、ベース鮫島秀樹さん、ドラムブッチャー(橋本章司)さん、日本のロックの大衆化、広がりの上で、HOUND DOGの功績は大きかったですね。86年から88年にかけて彼らはツアー「Bloods LIVE Concert Tour 1986-1988」を行いました。足掛け3年、203本ですよ。すごかったです。1年中どこか旅をしてライブをやっていましたね。
85年、86年に西武球場がありました。大阪球場もやりましたね。そして武道館を15日間やったんですよ。これはおもしろかったですよ。僕らは取材陣でしたから、行けた日、行けなかった日で星取表を作ったんです。「俺、8勝7敗」とか「俺、6勝9敗」とか、そういうことをみんなでおもしろがっていました。僕は8勝7敗でした(笑)。ツアーの間に伝説のイベント「BEAT CHILD」がありました。「広島ピースコンサート」もあったんですね。HOUND DOG、拳を振り上げるロックの形を作りましたね。87年ロック元年と呼ばれました。HOUND DOG、残念でしたね。1番見せてはいけないものを見せて終わってしまった。そんな感じです。
尾崎豊 / Freeze Moon
1985年11月28日に発売になった3枚目のアルバム『壊れた扉から』の中に入っていました。この発売日は10代最後の日でした。11月14日、15日に代々木のオリンピックプール第一体育館、いまの国立第一競技場で「LAST TEENAGE APPEARANCE」というライブがありました。10代最後のライブでした。この曲の、なんだったんだこんな暮らし、なんだったんだこのリズム、っていうところが衝撃的でした。自分の歌の中で自己否定してしまう。すごいなと思った記憶があります。代々木の「LAST TEENAGE APPEARANCE」の打ち上げのシーンが鮮烈でした。彼は「音楽業界に革命を起こします」って言ったんです。19歳ですよ。彼の純粋な気持ちがその後、いろんな形で彼が裏切られたと思う場面が出てきたり、いろんなことで猜疑心にかられたりすることがあの結末につながっていってしまうんですけど、このときの尾崎さんは本当に純粋だったと思います。
先週、大阪球場の話をしました。その中で話し損ねたことがあるんです。大阪球場でのライブが終わりました。大阪球場は70年代に西城秀樹さんがやっていましたけど、尾崎さんはデビューしてから最速の、そしてシンガーソングライターとして、もっとも若い球場ライブだったんですね。周りは「よかったよかった」と盛り上がっているんですけど、関係者控え室というか通路のようなところにみんな集まっての打ち上げで、尾崎さんも缶ビールを持って、1人歩み出ていきなり缶ビールを頭からかけて「ミュージシャンはどれだけ歌えば幸せになるんでしょうか」と言ったんです。この話、僕は尾崎さんのことを話すときには触れるようにしてるんですけど、こういう青年は初めて見たという感じがありましたね。ライブにお祭りごとを求めていないんだな、この人はっていう。
「LAST TEENAGE APPEARANCE」の後、86年の1月1日に福岡国際センターでライブをやって、そのあと活動休止してNYに渡ってしまうんです。80年代半ば、NYは劇的な街でしたね。次のバンドもNYに縁の深かったバンドです。86年に解散しました。甲斐バンド、武道館の解散コンサートのライブアルバム『THE 甲斐バンド FINAL CONCERT "PARTY"』から「ラブ・マイナス・ゼロ」。
甲斐バンド、解散コンサートの裏側
「ラブ・マイナス・ゼロ」は、85年に出たオリジナルアルバム『ラブ・マイナス・ゼロ』のタイトル曲ですね。ニューヨーク三部作と言われた3作目です。この3枚の中では1番洗練されているいいアルバムでしたね。「ラブ・マイナス・ゼロ」という言葉は、ボブ・ディランの曲のタイトルにもありますけど、当時のメディアは、自分も含めて、そういう音楽的な評価がちゃんと出来ていなかったとちょっと胸が痛いところもあります。甲斐バンドというと、いまだに「HERO」と言われるものに、甲斐さんは忸怩たるものがあるだろうなと思いながら見ております。
86年3月に最後のアルバム『REPEAT & FADE』が出たんですね。これは2枚組で、メンバー4人がそれぞれ片面ずつをプロデュースするっていう、本当にこれからそれぞれ別の道をゆくことを表したいいアルバムでしたね。で、86年6月23日から武道館5日間解散コンサート『PARTY』をやりました。解散コンサートなんだけどパーティっていう、彼のスタイリッシュな、ちょっと気取ったというんでしょうか、お涙頂戴にならない一つのお手本になったような解散コンサートでしたね。この3日後に黒澤明さんのプライベートスタジオ、黒澤フィルムスタジオでオールスタンディングのシークレットギグというのを行なったんです。これもお客さんに正装で来てくれっていうライブだったんですよ。スタイリッシュでしたね。ゲストに中島みゆきさんと吉川晃司さんが出ました。みゆきさんと甲斐さんが「港から来た女」という曲を一緒にやりました。
甲斐バンドの解散がありました。そして、シークレットギグが終わりました。その2日後が、初めてのBOØWYの武道館だったんですよ。86年は3月に『JUST A HERO』が出て、11月にミリオンセラーアルバム『BEAT EMOTION』が出る。甲斐バンドからBOØWYに流れていった。時代の変わり目に立ち会ったという感覚がすごくありました。甲斐バンドはどこか60年代70年代のウェストコーストだとか、イギリスのロックバンドのビートに影響されているんですけど、BOØWYはそういう感じが一切なかった。ポストパンクになった、ニューウェイブになった、うわー時代が変わった、ビートが変わったというふうに思いました。
今月ずっとそうなんですが、とてもプライベートな80年代なので、登場している人たちがあまり代わり映えしないというと変なんですけど、テレビでいっぱい歌っていた人とか、誰もが知っているヒット曲とは違うひとつの流れになっているのですが、それはご了承ください。ということで86年夏といえば、このアルバムなんです。1986年9月に発売になりました。浜田省吾さん『J.BOY』から「八月の歌」。
さっきNYの話をしましたけど、『J.BOY』のレコーディングは日本で行われて、ミックスダウンはロサンゼルスで行われました。エンジニアがグレッグ・ラダニーさんという、ジャクソン・ブラウンをずっとやっていた人なんです。アルバムは2枚組で、C面に彼のデビュー曲の「路地裏の少年」を軸に70年代の青春をそこに織り込んだ。「路地裏の少年」は、ライブではもっと長いサイズで歌っていたんですね。それをフルコーラスで、まんま入れたんです。そこに未発表だった「遠くへ - 1973年・春・20才」という当時の大学のキャンパスの様子を歌った歌を交えました。でも、1曲目が「A NEW STYLE WAR」。新しい戦争です。今の時代の歌。1986年の時代をに踏まえながら自分たちが過ごしてきた青春を改めてそこに織り込んだアルバムになっています。で、このアルバムが初めて1位になり、5週間1位を記録しました。
浜田さんは広島出身です。被爆二世です。8月になると広島はいろいろな語られ方をしている。常に被害者と書かれることに対しての、広島の人のいろいろな想いがある。日本は戦争の加害者でもあったわけで、広島を被害者という扱いだけでいいのか、そんなことをこの歌の中にも込めているんですね。ロックで戦争を扱っている。80年代に入ってから、そういうメッセージソングが歌われるようになった。この「八月の歌」は、戦争っていうのは加害者と被害者常に両方いて、誰にもどちらの面もあるんだということを歌っている。そういう意味では、とっても画期的な歌だなと思った記憶があります。
また、グレッグ・ラダニーという人はジャクソン・ブラウンをやっていたので、「路地裏の少年」のロングバージョンが流れたときに、ジャクソンの「Lawyers in Love」みたいだなと言ったんです。「Lawyers in Love」っていうのは、ジャクソン・ブラウンの当時の比較的新しい曲だったんですけど、僕らは「路地裏の少年」のほうが先なんだけどな、とはっきり思っておりました(笑)。
中村あゆみ / ONE HEART
中村あゆみの取材で向かったニューヨークでの体験
1986年12月に出たミニアルバム『Holly-Night』の先行シングルが「ONE HEART」ですね。先週、1985年を語ったとき、人生で1番忘れられない1年だったと言いましたけど、実はもう1年ありまして。85年、86年というのがワンセットみたいなところがあるんですね。なんでかというと、これも私ごとですが、86年に40歳になりました。40歳というのは、拓郎さんがひとつの目安にしていたり、70年代に音楽を好きだった人間にとって特別な年齢だったんですね。達郎さんも、インタビューで「40歳になったら現役なんかやっていなくて、レコード会社の部長さんとか裏方で収まっているんだろうな」って、よく話していたんですけど、40をどう迎えるかっていうのがあったんです。僕は40歳になるとき、NYに中村あゆみさんの取材で行くことになった。そしたら、成田空港で尾崎豊さんに会ったんですね。ちょうど帰国していて、またNYに帰るときで、同じ便だった。彼が「オーマイガー」ってアメリカ人みたいに両手を広げて「どこに行くの?」「あゆみちゃんの取材に行くんだ」「じゃあ向こうで会おうよ」っていう会話があって向こうに着きました。
あゆみさんのアルバムのスタジオに入って壁にかかっているゴールドディスクを見て心臓が止まりそうになりました。ジョン・レノンの『ダブルファンタジー』をレコーディングしたスタジオだったんです。エンジニアが『ダブルファンタジー』のアシスタントディレクターだった。インタビューが終わって雑談になって、トム・ペナンツイオという人に1980年12月8日の話を聞かせてくれないかと言ったんです。そしたら彼が「君がいま座っているその椅子にジョンはずっと座っていて、冗談ばかり言っていたんだよ」と。そのあと「じゃあな」ってジョンがスタジオを出て帰って行った何分後かに、そこのテレビのニュースでジョンが死んだと流れていた。ジョン、またこんな冗談を……って言っていたら本当だった、という話を聞いたんです。俺はジョン・レノンが死ぬ直前までいたスタジオで40歳を迎えているんだと思ったときに、人目をはばからず泣いてしまいましたね。
このとき、NYに中島みゆきさんが甲斐よしひろさんのプロデュースのアルバムで来ていたんです。さらにSIONもレコーディングで来てた。SIONと一緒だったのが、この「J-POP LEGEND FORUM」プロデューサーだった加藤与佐雄さんだったんです。与佐雄さんは尾崎さんのラジオ番組「誰かのクラクション」のディレクターでしたから、彼と一緒に尾崎のところに行こうよと言って、尾崎さんが住んでいたアパートに行ったんです。で、尾崎さんが、あゆみちゃんを紹介してよって言いうんで、イーストビレッジの朝までやっているバーに行きました。あゆみさんと尾崎さんが2人で話し込んでいるのを、あゆみさんのマネージャーと僕は遠くで見ているという、そういう夜でした。自分が関わったり、好きだったアーティストたちが偶然にもNYにいて、そこで自分の40才の誕生日を迎えている。音楽に関わっていて本当によかった、自分が間違ってなかったと初めて思えたのがその時でした。帰りの飛行機が燃料不足でアンカレッジに緊急着陸したときはこのまま落ちるんじゃないかと思いました。そのときに中島みゆきさんが作業していたアルバムからお聴きいただきます。
1986年11月発売、中島みゆきさんのアルバム『36.5℃』から「やまねこ」。
プロデュースが、甲斐よしひろさん。ミックスダウンがNYで行われました。ファンの間で、86年当時のみゆきさんは、姫御乱心と言われています。彼らにすればなんでそんなにロックに行きたがるんだろうと思っていた時期なんですね。外国人のエンジニアを起用したり、いろんな試みをしていた時期です。それを一通り経験して瀬尾(一三)さんと出会って、組むようになるのが88年。来週の話ですね。そういう意味ではみんなロックを意識せざるを得なかったという時代でした。「ウィ・アー・ザ・ワールド」があったり、「ライブエイド」があったり、それまでの70年代のロックとは違う新しい意味をそこに求めようとしていました。デジタルの時代になって、スタジオも変わり、レコーディングの方法も全然変わり、それまでの音とはガラリと変わってしまったんですね。そういう音楽を取り込まないと時代から取り残されるんではないか、遅れるんじゃないかということを、みゆきさんは真剣に考えていた。
87年は、ロック元年というふうに言われたんです。もちろんそれまでずっとあったんですけど、ここから新しい何かが始まるとみんなが思っていた。ロックに意味を求めるようになったんですね。それまでと違うロックが俺たちで作れるんじゃないか。その一つが87年の夏に広島で行われた「ピースコンサート」。被爆者支援、10年がかりで養護施設を立て直そうというはっきりした目標があって、それに向けてみんなでお金を集めようという、チャリティコンサートの中では日本であまりなかった形ですね。さらにこれをみんなで提唱した事務所が大同団結していた。マザーエンタープライズ、ハートランド、ジャグラー、ユイ音楽工房、キティミュージックという業界の大手がみんな集まってこれを成功させようとしたんですね。どんなアーティストがいたかというと、マザーエンタープライズはHOUND DOGに尾崎豊、RED WARRIORS、THE STREET SLIDERS、ハートランドには佐野元春さん白井貴子さんがいました。そして若きヒロインがこの人でした。
86年6月発売。年間チャート5位。渡辺美里さん「My Revolution」。
渡辺美里 / My Revolution
伝説のオールナイトイベント「BEAT CHILD」
さっき事務所の紹介の話が途中で終わっちゃいましたけど、ジャグラーはTHE BLUE HEARTS。そしてユイ音楽工房はBOØWYですね。キティエンタープライズからは安全地帯が広島ピースコンサートに出ていましたね。ピースコンサートのフィナーレで美里さんが歌っているとき、後ろに尾崎さんが回り込んで美里さんを抱え上げたというシーンがありました。美里さんは「やめてやめて」とバタバタしながら慌てていた。そんな微笑ましいシーンもありました。それが87年ですね。
美里さんは「My Revolution」がヒットした86年から西武球場のライブを始めたんですね。20年間やりましたよ。世界的に多分あまり例がないでしょうね。そんな87年のハイライトが、8月23日からオールナイトで熊本県阿蘇山の山中、アスペクタという野外劇場で行われた「BEAT CHILD」ですよ。名付けたのが佐野元春さんですね。出演者は、佐野元春さん、白井貴子さん、渡辺美里さん、岡村靖幸さん、HOUND DOG、尾崎豊さん、RED WARRIORS、THE STREET SLIDERS、THE BLUE HEARTS、BOØWY。お客さんが6万7千人です。そして、豪雨だったんですよ。時間降水量70ミリ。山の斜面で何の雨を遮るものもない。そこが濁流と化したんですね。客席が濁流に飲まれて、低体温症で気を失ったお客さんが流されてくるっていう本当に戦場のようなライブだった。
1000人以上が救急車で運ばれましたね。警察がいたんですけど、主催者に続けてくれっていったんです。なんでかというと、斜面の両脇は渓流ですよ。中止してしまって行き場を失ってしまったお客さんがこの谷に飲まれたら死人が出るみたいな感じになってしまって、朝までライブをやってくれと。限界状況ギリギリの中でのライブが続きましたね。一晩中コンサートが続いた最後が佐野さんだったんですね。明け方、客席に湯気が雲のように立ち上っているんです。それはお客さんの体温、湯気だった。今の夏フェスの反面教師でしょうね。それもひとつの新しい波の象徴的な場面だった。そういう新しい波はライブだけではなくて、レコード会社にも形になって現れました。エピックソニーというのがそういう会社ですね。
TM NETWORK / Get Wild
1987年4月に発売になりましたTM NETWORK「Get Wild」。TMのデビューは84年ですね。シングル「金曜日のライオン (Take it to the Lucky)」、そしてアルバムは『RAINBOW RAINBOW』。ずっとお話してきたように、大規模なライブがたくさん行われて、本当にライブシーンが盛り上がった中、彼らはライブをやらない。そういうデビューだったんです。今のライブの機材とか環境では自分たちの音楽は再現できないといっていました。彼らが掲げていたのは、「FANKS」という旗です。パンクとファンク・ミュージックのファンクと音楽ファンのファン、その3つを掛け合わせた造語ですね。小室哲哉さんも造語作りの名人でしたね。
TM NETWORKもエピックでした。エピック、いっぱいいましたよ。佐野元春さん、鈴木雅之さん、渡辺美里さん、TM NETWORK、大沢誉志幸さん、バービーボーイズ、大江千里さん、さらにTHE MODS、みんなエピックですよ。70年代にURCとか、エレックとか、ベルウッドっていうインディーズ系のレーベルがありましたけど、エピックはソニーという大メジャーの中でのロックに特化したレーベルですからね。影響力は70年代のそういうレーベルの比ではありませんでしたね。
TM NETWORKは、コンピュータを使ったダンスミュージックという意味で新しい流れでした。その前にYMOがあって、とっても実験的な形で幕を閉じた。それを継承する形で大衆的なポップミュージックの中に花を咲かせた。これはTMの功績ですね。ただ、年間チャートとかヒットチャートでは、今日ずっとお話してきたような人たちはあまり登場してきていないんです。やっぱり86年87年のシングルチャートはテレビにたくさん出てくる人や演歌や歌謡曲の人たちが頑張っていましたね。86年は桑田さんのソロのKUWATA BANDが「BAN BAN BAN」で4位に入ったりもしている。健闘している人たちもいました。中森明菜さんなんかは、特に87年、そういう中に4曲入れていましたからね。で、87年は桑田佳祐さんが初めてソロで活動を始める。そういう年でもありました。
さて、この87年の年間チャート、「Get Wild」の上にいたのが次の人たちなんですが、このライブの話をしましょう。
BOØWY / Dreamin’
BOØWYの渋公ライブで起きた「ロック史上、劇的な瞬間」
1987年12月24日、BOØWYの渋谷公会堂、アンコール最後の曲「Dreamin’」です。BOØWYは9月に6枚目のアルバム『PSYCHOPATH』を出して、9月16日からツアーに出ていました。ツアーが始まったときから、ひょっとして解散するんじゃないか、という噂がずっと流れていて、ツアーファイナルを迎えてしまったんですね。渋谷公会堂、中で何かが起きているということで集まったお客さん1000人ぐらいが中に入ろうとして渋公の正面玄関が割れたという、そういう出来事がありましたね。実は、このコンサートを僕は見ていないんです。見ていないっていうよりも、見せてもらえなかったと言ったほうが正しいかもしれません。お声がかからなかった。僕はこの日、RCサクセションの武道館。BOØWYは自分たちのインディーズの事務所から始めていてるバンドですから、最初から関わっていた人たちでやりたいというある種誓いみたいなものがあった。僕はちょっと歳が上でしたし、甲斐バンドとか浜田省吾さんとか、そういう人たちを書く機会が多かった。土屋さんというマネージャーがいました。のちに「氷室がソロになるので、これからよろしくおねがいします」とLAST GIGSの後に連絡をくれるんですが、そのとき土屋さんに「俺、渋公見てないんだけどいいのかな」って言ったら、「いやいいんです。田家さんはおじさんだと思っていましたからお呼びしませんでした」ってはっきり言われました。「これからはそういう人たちともお付き合いしたいのでよろしくお願いします」と。BOØWYはそういうバンドでした。
ロック史上、劇的な瞬間っていうのはたくさんありますが、これは映画になっていますしコンプリート版も出ました。こんなに男が泣かされる場面を僕は知りません。アンコールがはじまって、客席も固唾をのんでいる中で氷室さんが口を開きます。その時に、氷室さんは何度も布袋さんのほうを見るんです。「お前、本当にいいのか?」って感じで見るんですけど、布袋さんがその目をそらすんです。これはぜひ映像でご覧ください。今見ても泣きます。その翌日、新聞に解散が発表されるんですね。88年4月4日5日の東京ドームが最後のLAST GIGSになるわけです。その話は来週。
「J-POP LEGEND FORUM」
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。個人的なと最初にも申し上げましたが、かなりどころじゃないですね(笑)。まったく個人的な80年代グラフィティ。まあ、80年代ノートですからね。取材したり、ライブを見たり、インタビューしたり、気になっていたり、そういう人たちの話が中心になっております。
冒頭で80年代が開花期と言いました。開花期そして転換期でもあった。鈴木雅之さんがソロになってデビューしたり、久保田利伸さんがデビューしたのもこの頃です。そうやって花を開いたいくつもの新しいジャンルの音楽の中にファンクという言葉がありました。ファンクっていうのは、70年代には日本のロックの中ではほとんど使われてこなかった。そういう音楽をやっている人たちがいなかったんですね。久保田さんがデビューしたとき、松任谷由実さんが言った言葉があったんですけど、「山下くんが10年かかったところを3年でやった」と。久保田利伸さんの登場によってファンクという言葉が誰でもが使えるようになった、音楽をイメージできるようになった。そういう存在でしたね。89年にFM802が開局したときに、ファンキーミュージックステーションというふうに使っていたんですね。90年かな、大阪のスポーツニッポンで「平成バンド天国」って連載を書いたことがありまして、802の今の社長の栗花落光さんにお話を伺ったことがあったんです。「ファンクってどういう意味ですか?」って聞いたら、彼が「ごっつええやんってことですよ」と言っていて。いやあ、いい答えだなと思った記憶があります。802の開局も、来週ですね。
怒涛の80年代。来週は最終週、88年、89年。昭和も終わります。
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2月10日には瀬尾にとって初の書籍「音楽と契約した男 瀬尾一三」が発売されることも決定した。本書は、1969年に音楽活動を始めてから現在までのキャリアをまとめたもので、編曲手法やアーティストコミュニケーションにまつわるインタビューなども掲載。さらに、萩田光雄、松任谷正隆、山下達郎、亀田誠治との対談、吉田拓郎、中島みゆき、中村中による寄稿文も収録される。
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ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第27話
とうとう初代社長・小室等さん登場!拓郎、陽水、泉谷、そして小室さんが参加した幻の名盤「クリスマス」を語ります。
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J-POPの歴史「1984年と1985年、ニューミュージックから新世代へ」田家秀樹
音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語るスペシャルマンス。様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本特集を、5週にわたり記事にまとめてお届け。第3回目となる今回は、ニューミュージックから次の世代へバトンタッチが行われた、1984年と1985年。
こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、吉田拓郎さん「明日に向って走れ」。1985年7月27日から28日にかけて静岡県掛川市のヤマハリゾートつま恋で開かれた「ONE LAST NIGHT IN つま恋」のライブver.ですね。オリジナルは76年のアルバム『明日に向って走れ』。今日の前テーマはこの曲です。
今週は84年と85年。中間点。劇的な年でした。その中でも、劇的さを作り出した双璧の1つが吉田拓郎さんのイベント「ONE LAST NIGHT IN つま恋」です。拓郎さんにとっては、1975年以来2度目のつま恋でのオールナイト。79年に愛知県の篠島で「アイランド・コンサート・イン篠島」というオールナイトをやったんですが、それを入れると3回目です。この日は開演が7月27日の午後5時、終演が7月28日の午前7時。すごいでしょ? 75年につま恋のオープニングで不滅の名文句「朝までやるよ」と口にしましたが、この日は朝になってもやっていた。こんなことやる人いない、という感じでした。
先週が82年83年編で、そのときに70年代が終わったと申し上げました。だけど、先週も先々週も70年代最大の巨人・拓郎さんの名前は出てこなかったでしょ? 79年に篠島でオールナイトコンサートを終えたあと、80年代をどう迎えるか、いろいろ考えているように見えたんですね。例えば、古い歌はもう歌わないと宣言した。そういう中で、80年の12月8日にジョン・レノンが亡くなったんです。御年40歳でした。80年代に入った拓郎さんが口癖のように言っていたのが、ジョン・レノンが死んだ40までは歌う。当時拓郎さんはインタビューで「俺のやることはもうないんだ。すべてやり尽くしたんだ。この気持ちはお前らに話しても絶対にわかってもらえない」と言っていたんですね。その中でのモチベーションが、ジョン・レノンが死んだ年まではやる、だったんです。
85年夏というのは、拓郎さん30代最後の年でした。70年代の幕を引くんだというふうに言っていましたね。自分で開けた時代を自分の手で閉じる。拓郎さんのバックバンドだった浜田省吾さんがいた愛奴、かぐや姫や猫の再結成、関わったミュージシャンたちが一堂に集まっての一夜の祭り。拓郎引退という噂が飛び交ったりしましたね。そういう85年のお祭り。
さっき双璧と申し上げましたが、もう一つが直前6月15日、国立競技場が初めて音楽のイベントに使われた日がありました。「ALL TOGETHER NOW」。それまでは、芝生が痛むからコンサートには使わせないと言っていた国立競技場が初めて使わせてくれた。主催が民間放送連盟だったんです。特にラジオ委員会というのがあって、そこが放送局を全部束ねていたので、国立競技場もいやとは言えなかった。そういうイベントで、司会が拓郎さんだったんです。そのテーマ曲をお送りします。松任谷由実・小田和正・財津和夫、3人で「今だから」。
松任谷由実・小田和正・財津和夫 / 今だから
この曲は聴いたことがないという方が多いんじゃないでしょうか。これ、CDになってないんです。アナログ盤からお送りしているのでちょっとノイズがお耳に入ったりするかもしれません。「ALL TOGETHER NOW」、出演者すごかったですね。吉田拓郎、オフコース、チューリップ、松任谷由実、サディスティック・ユミ・バンドーーユーミンが入りましたからね。そしてサザンオールスターズ、佐野元春、ラッツ&スター、チェッカーズ、アン・ルイス、白井貴子、南こうせつ、イルカ、さだまさし、武田鉄矢――彼はラジオ体操をやりました。そして、はっぴいえんどが12年ぶりの再結成だったんですね。70年代の世代から80年代世代へのバトンタッチという世紀の豪華イベントでした。もう一つ、旗印があったんです。国際青年年。民間放送連盟が全部集まって主催することと、世界の青年の祭典なんだという事がお役所をウンと言わせました。こういうイベント、もうないんですかね。
84年1月発売、2枚目のシングル、チェッカーズ「涙のリクエスト」
チェッカーズ / 涙のリクエスト
フミヤが語った「週刊明星からディクショナリーまで」の真意
先ほどお話しした「ALL TOGETHER NOW」で、チューリップのピックアップメンバーのステージでピアノの中から登場したのがチェッカーズだったと思います。福岡県久留米市出身のドゥーワップグループ。81年の「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」のジュニア部門、最優秀ジュニア部門。高校生が2人いたんですね。83年に「ギザギザハートの子守唄」でデビューしたんですが、自分たちの音楽性に対して、これは演歌っぽくて嫌だっていうことで拒否した。その話は有名ですね。
80年代のはじめは、松田聖子さんをはじめいわゆる、女性のアイドルがどっと出てきたときで、80年代はいわゆるたのきんトリオー田原俊彦、近藤真彦、そういう3年B組金八先生出身というのが男性アイドルの1つの新しい流れだった。そんな中、チェッカーズはどこにでも出てきたんですね。初めて取材したのが85年の3枚目のアルバム『毎日!! チェッカーズ』のときだったんですけど、そのときの印象がすごく強かった。彼らは週刊明星から、芸能史から、テレビから全部出ていました。アイドルなんだけど、アイドルじゃない。音楽の理屈理論、イメージ、情熱、すべて持っているんですね。僕らはこういう音楽をやりたいんです。でもアイドル扱い全然構わないんですっていうのが、とっても新しい感じがしました。フミヤ(藤井郁弥)さんの当時の口癖がありまして「週刊明星からディクショナリーまで」。1番柔らかいところから1番硬いところまで俺たちは出て行くんだよという、そういうグループでありました。
さて、次の人たちも「ALL TOGETHER NOW」組ですね。
THE ALFEE / 星空のディスタンス
THE ALFEEの17枚目のシングルですね。ALFEEは、デビューしたとき、再デビューしたとき、「星空のディスタンス」を出しているときと、表記が少しずつ変わっているんですね。で、THE ALFEEになっています。再デビューして、これは15枚目のシングルなんですよ。そんなに時間がかかっていたんだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、70年代の不遇でレコードも出せなくて、かまやつひろしさんや研ナオコさんのバックをやっていた。82年に再デビューして、そこからここまでさらに10枚以上のシングルを出し、前作の「メリーアン」で爆発した。ここで、今でも必ずステージで歌うという代表曲が出来上がったんですね。作詞が高橋研さんと高見沢俊彦さんの共作です。もともとの詞は、「燃え上がる! 愛のレジスタンス」だったそうです。でも高見沢さんがどうしても「燃え上がる」は客観的すぎるから、「燃え上がれ」にしてくれと変えたというエピソードがありますね。
THE ALFEEもそうですけど、この頃のアーティストを支えていたのが音楽雑誌でした。みんなテレビにあまり出ませんでしたし、芸能誌からもあまり取材を受けなかった。チェッカーズは別ですけど、みんなラジオと雑誌だったんですね。THE ALFEEは新譜ジャーナルとGBが多かった。84年に新しく創刊したのがPATi・PATiです。GBという雑誌は77年に創刊して、中島みゆきさんとかオフコースとか、フォーク系のアーティストは割と出ていたんですね。チェッカーズがデビューしたとき、GBはチェッカーズをやらないと言ったんです。「これはアイドルだから僕らはやらない」と。それに反発してソニーマガジンズで「チェッカーズいいじゃん」って言っている編集長・吾郷輝樹さんが、俺自分で作るからと始めたのがPATi・PATiなんです。チェッカーズ、尾崎豊、吉川晃司で1年間持たせた。それが創刊当時ですね。吉川晃司さんは84年2月に「モニカ」でデビューして、大判の写真メインの音楽雑誌の全盛期というのが来るんです。GBはTHE ALFEEもそうですけど、彼らの前からこの人たちが看板でした。
オフコース活動再開シングル、84年4月に発売になりました。「君が、嘘を、ついた」
オフコース / 君が、嘘を、ついた
80年代になっても健在だった「ライブの拓郎」「アルバムの陽水」
小田和正さん、清水仁さん、松尾一彦さん、大間ジローさん、4人のバンドの音ですね。81年に武道館10日間コンサートがありました。そのあと、鈴木康博さんが抜けて、こういうメンバーになったんですね。活動再開を決めるまでの間について、小田さんがインタビューで言っていたのは「僕はダンボだった」というセリフ。ダンボって、ディズニーの映画がありましたね。耳の大きいゾウさん・ダンボは自分が窓から飛べるのか飛べないのかってずっと悩んでいる時間があったわけですけど、小田さんは、この4人のメンバーで空を飛べるんだろうかとずっと考えていた。そして84年4月に出た『君が、嘘を、ついた』で活動を再開したんですね。
84年6月にアルバム『The Best Year of My Life』というのが出ました。我が人生、最良の年というタイトルですね。自分の最も素晴らしい年なんだというタイトルのアルバム、翌年85年の4月から再開のツアーが始まりました。初日、覚えてますね。千葉県文化会館。まだ桜が咲いていたな。開演1時間くらい前に会場にいったら、もうお客さんがあふれていて、オフコース4人になってどんなステージをやるんだろうって不安の入り混じった緊張感というのがとても初々しかった。懐かしい思い出です。
井上陽水 / いっそセレナーデ
84年の12月に出た『9.5カラット』、セルフカバーアルバムですね。アルバムチャートは1位、そして陽水さんにとっては『氷の世界』以来2作目のミリオンセラーアルバムでした。70年代にもミリオンセラーを出して、80年代になってもそれだけの実績を残した。セルフカバーアルバムが1位になった前例というのがありました。拓郎さんの『ぷらいべえと』なんですよ。70年代、拓郎・陽水の時代と言われましたが、この2人は80年代になっても健在でありますね。ライブの拓郎、アルバムの陽水。この年のレコード大賞アルバム大賞がこの『9.5カラット』なんですね。カバーアルバムが大賞をとったのはこれが初めてです。シングルチャートのほうでは、84年11月に中森明菜さん「飾りじゃないのよ涙は」が1位になっている。
84年には安全地帯の「恋の予感」も出ました。安全地帯はもともと陽水さんのバックを担当していたバンドなわけで、陽水さんが詞も書いたりしていました。安全地帯は85年6月に出た玉置浩二さんが詞曲を書いている「悲しみにさよなら」が大ヒットして、年間チャートの9位になったんですね。この年の年間チャートおもしろいんです。1位のチェッカーズ「ジュリアに傷心」、2位が中森明菜さん「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」、3位が小林明子さんの「恋におちて -Fall in love-」、4位C-C-B「Romanticが止まらない」、5位もチェッカーズ「あの娘とスキャンダル」、6位中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」、7位も明菜さん「SAND BEIGE -砂漠へ-」、そして8位もチェッカーズ「俺たちのロカビリーナイト」、9位が安全地帯「悲しみにさよなら」で、10位が松田聖子さんの「天使のウィンク」なんです。ニューミュージク、ポップス、ロック系のチャートなんですね。先週、83年のチャートに演歌がたくさんあったという話をしましたけど、激変していく80年代だったんですね。
85年にはもうひとつ劇的なシーンがありました。尾崎豊さんが大阪球場でライブをやったんです。尾崎さんの曲をお聴きいただきます。85年1月に発売になった「卒業」。
尾崎豊 / 卒業
尾崎豊、衝撃的なホールコンサート初日
先週、尾崎さんの「街の風景」をお聴きいただきましたが、あの曲が1曲目だったアルバム『17歳の地図』が、いわゆるレコード会社が決めた最低出荷枚数にも満たない、本当に数が少ないイニシャルだったんですね。でも、84年8月に日比谷野外音楽堂で「アトミックカフェ・ミュージック・フェス’84」という反核コンサートがありました。浜田省吾さんとか、加藤登紀子さんなんかも出ていたんですが、このライブで尾崎さんがPAから飛び降りて骨折したんです。この噂が業界、そして若い人たちの間を駆け巡りまして、尾崎何者? となって、改めて『17歳の地図』がみんなに訊かれるようになった。そして85年3月に2枚目のアルバム『回帰線』が出たんです。これが初登場1位だった。劇的でしたね。
ホールコンサートも始まりました。日本青年館が初日だったんですけど、これが衝撃だったんですね。こんなコンサートをやる若者は初めてみた。何が衝撃だったかって、エンターテイメントという言葉では語れない、自分の中のモヤモヤした何か、衝動、苦しみ、悩みとかを全部叩きつけて塗りたくっているようなステージだった。ステージを這いずり回り、転がりまわり、みたいな。妙な言い方ですけど、そのときに彼は長生きしないなって漠然と思いました。8月25日に大阪球場で10代のシンガーソングライター初めての大阪球場コンサートというのがありました。その前に、週刊朝日という週刊誌で今の音楽シーンを語るみたいな座談会があったんですね。残間里江子さんや山本コウタローさんとかの中に僕も入れてもらって、尾崎ってどうなのって話をコウタローさんが振った。そのとき、朝日新聞の写真部に尾崎豊の写真がなかったんです。つまり、大人は全然知らなかったという例ですね。尾崎さんについては来年1月3日から16日までドキュメンタリーが公開されます。『尾崎豊を探して』。尾崎を撮り続けていた映像監督・佐藤輝さんの未発表、95分のドキュメンタリーです。
85年夏というのは、本当に劇的な移り変わりの年でした。拓郎さんのつま恋があって拓郎引退という噂があって、萩原健一さんがよみうりランドでライブをやって、しばらく萩原さんは音楽から離れる。で、大阪球場で尾崎さんがこういう劇的なライブを行った。2つの終わりと1つの始まりっていう原稿を、僕は『噂の真相』に書いた覚えがあります。
85年6月1日発売、BOØWY の1stシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」。
BOØWY / ホンキー・トンキー・クレイジー
故・佐久間正英氏とBOØWY の出会い
いやぁ、かっこいいですね。85年6月1日発売、BOØWY の1stシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」。アルバムが6月21日に出た『BOØWY』ですね。東芝EMI発売。「ホンキー・トンキー・クレイジー」が出て、アルバム『BOØWY』の間に、あの「ALL TOGETHER NOW」がありました。国立競技場でニューミュージックから次の世代にというバトンタッチの式典が行われているとき、それを横目に、このアルバムとシングルが出たんですね。プロデューサーが佐久間正英さん、レコーディングがベルリンハンザ・スタジオ。もともと徳間ジャパンとビクターでリリースしていたので、決してインディーズではないんですけど、いわゆるメジャーデビュー的な感覚は東芝EMIからですね。そして、プロデューサーに起用された佐久間正英さんが「BOØWYをお願いします」と言われたときに1つ条件を出した。佐久間さんはこの条件を出せばきっと断ることができるだろうということで、ベルリンのハンザスタジオに行きたいと言ったら、「いいですよ」と言われてしまったんです。佐久間さんはここからBOØWY、そして氷室さんとずっと関わることになっていきます。
ここから70年代のはっぴいえんどの重めなウェストコースト風なドラム、ベースのリズムから、ハネるような、布袋さんの足が見えるようなビートに変わっていったんですね。縦ノリのビートバンド。そしてBOØWYも音楽雑誌ですよ。PATi・PATiでしたね。BOØWY があまりにも売れたために、PATi・PATiからBOØWYメインのロック雑誌というのが生まれました。PATi-PATi ROCK’ N’ ROLL。このあとぐらいからアマチュアバンドのコンテストになると、出場者の大半がBOØWYを演奏し、審査員がまたBOØWYかよと呆れた顔をする。そういう時代が来るわけです。世代交代とバンドブーム。その間の中で生まれた名曲です。
サザンオールスターズ / メロディ
いやぁ、屈指の名曲。もしサザンで1曲好きな曲を挙げてくれと言われたら、僕はこれを挙げるかもしれない。この曲が入ったアルバムは9月13日に出た『KAMAKURA』ですね。当初6月の発売だった。そして7月からツアーをやることも決まっていた。でも、レコーディングが延びて全部キャンセルになって、9月発売になりました。曲が増えすぎてしまったんですね。2枚組になりました。レコーディングが終わってテープが工場に届いたのは発売の20日前だった。レコーディング時間数1800時間。なんでそんなに時間がかかったかというと、デジタル化ですよ。いわゆるサンプラーとかデジタルシンセとかドラムマシーンとか新しい機材がたくさん出てきて、それを使いこないたりしているうちに、これだったらもっといろいろなことができるねみたいなことで、どんどん時間が経ってしまった。そういうレコーディングでした。
アルバムの1曲目は「Computer Children」でしたらからね。デビュー当時のサザンオールスターズはアメリカ南部のロックンロールバンド的な、ちょっと肉体派的な若者たちだったんですが、それを卒業しました。そういうコンピューターを扱ったアルバムの中で、シングルカットされたのが、この「メロディ」ですよ。音楽で1番肝心なのはメロディなんだ。彼らの気概みたいなものが伝わってくる、そんな曲だと思いますね。アルバムの中に「吉田拓郎の唄」というのがありましたね。お前の歌が俺を悪くしたっていう。拓郎さん引退という噂を受け取めて、彼らはこういう送る歌を書いたりしました。国民待望の2枚組。国民的ロックバンドという呼び方は最近よく使いますけど、僕はこのサザンの『KAMAKURA』で初めて見た気がしますね。
REBECCA / Maybe Tomorrow
85年11月に発売になった4枚目のアルバム『REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜』の最後の曲ですね。このアルバムの1ヶ月前10月にシングル『フレンズ』が出たんですね。この『フレンズ』が女の子を直撃しました。当時、少女漫画の中に1番たくさん歌詞とかグループ名が吹き出しなんかで出てきたのがREBECCAでしょう。アルバム『REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜』はバンド史上初めてのミリオンセラーアルバム。BOØWY が翌年にミリオンを出すんですけど、BOØWY より一足早かったんですね。男子を直撃したBOØWY と、女子をロックの虜にしたREBECCA。NOKKOさんの書く歌詞と、土橋安騎夫さんのヨーロピアンなちょっとしめった霞がかかったようなメロディがアメリカのシンディ・ローパーなんかとちょっと違う日本的なガールズロックを作りましたね。
85年12月に彼らが初めて渋谷公会堂でライブをやって、そのライブ映像が去年DVDになって、今年完全版が発売になりました。このREBECCAの渋公のライブは素晴らしいですよ。NOKKOさんが何かに乗り移ったかのような、本当に必死な、私の人生はここ変わる、このために私は生きてきたんだ、ここで死んでもいいんだみたいな、そういうパフォーマンスなんですね。今年、89年の東京ドーム、BLONDSAURUSのライブ映像作品も出ましたけど、こちらは完成されたREBECCA。この変わり方が実に劇的で、今見ても当時のライブはこういうライブだったんだってことがよくわかって、貴重な映像であります。
「J-POP LEGEND FORUM」
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。いやあ、今日おかけした曲、いかがでしょうね。みんないい曲だったなあって、聴きながら忘年会気分になって、お酒を飲みたいなと思ったりしました。でも1人でこういう曲を聴いてお酒を飲んでいると悪酔いするんですね。あまりにもいろいろなことを思い出しすぎたり、切なくなったり、愛おしい年だったなと思ったりすると、お酒から抜けられなくなります。
さっき話しましたが、音楽雑誌がいっぱいありましたね。PATi・PATi、新譜ジャーナル、GB、B・PASS、音楽専科、ベストヒット、ARENA37、僕よく書いたのはPATi・PATi、新譜ジャーナル、GB、ベストヒット、B・PASSかな。どこでどのアーティストを書いたかいまだに覚えています。編集長の顔も思い浮かびます。PATi・PATi吾郷さん、新譜ジャーナル大越正実さん、GB塚本忠夫さん、ベストヒット飯名さん。B・PASS小松さん、みんな元気かなって思ったりする年の瀬でありますね。僕は70年代、最初は編集者で、その後、放送作家だったりしました。そして雑誌編集者にまた戻って音楽だけ書くようになったのが83年。尾崎豊さんが出てきて、彼がステージで、俺は教室でカセットテープを聴いていて、先生はやめろと言ったけど俺はやめなかったんだ。やめないでブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウンや浜田省吾や佐野元春を聴いていたんだと叫んでいた。「Scrambling Rock’n’Roll」ですよ。それを聴いて、俺もまだやることがあるなと思ったんですね。こういう世代に何かが伝えられたら、僕は音楽の周辺にいて自分も楽しくやれるし、やれることがみつけられるなと思ったりしました。あの時代の音楽雑誌は本当に懐かしいです。自分の人生1番楽しかった。1番印象深かったのは何年かと言われたら、1985年だったなというふうに今改めて思いながら今週はお別れしようと思います。
来週は86年、87年。やっぱり楽しい2年間でした。
サザンもユーミンも、これから先、いろいろな形で出てきます。あなたと私の忘年会。来週も楽しませていただけたらと。お前が1番楽しんでいるだろうと? そんな時間でもありますが(笑)。
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J-POPの歴史「1980年と1981年、劇的だった80年代の幕開け」
音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出している「J-POP LEGEND FORUM」。2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語っていく。Rolling Stone Japanでは、様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本番組を記事にまとめて5週にわたりお届けする。第1回目となる今回は、1980年と1981年について深く語った重要回。
オフコース / 生まれ来る子供たちのために
こんばんは。「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、オフコース「生まれ来る子供たちのために」。1980年3月5日発売のオフコース80年代最初のシングルで、令和元年師走の僕らの心境です。
「J-POP LEGEND FORUM」、J-POPの歴史の中のさまざまな伝説を紐解いていこうという60分です。伝説のアーティスト、伝説のアルバム、伝説のライブ、そして伝説のムーブメント。ひとつのテーマ、1人のアーティストを、1ヵ月に渡って取り上げようという、最近のラジオの中では贅沢な時間の使い方をしております。当時をご存知の方には懐かしく、ご存知ない方たちには発見に満ちている、そんな時間、そんな場所になればと思っております。今月の特集は「80年代ノート」と題してお送りします。1980年から89年までの10年間。毎週、2年ごと、語ろうと思っています。
2年前の2017年の10月に「70年代ノート」という特集をお送りしたのですが、何の曲で終わったのか自分でも忘れていたので改めて調べてみたら、79年12月発売のオフコース「さよなら」で終わっていたんです。80年代最初のオフコースのシングルが、この「生まれ来る子供たちのために」でした。レコード会社は「さよなら」の後なんだから、こんな暗い歌を出さないでくれって言ったんですね。「さよなら」みたいな、みんなが泣けるバラードを作ってくれと強行に申し入れをしました。しかし小田さんが「絶対これでいく」ということで、こちらを80年代最初のシングルにしたんです。下世話に言うと、70年代は下積み期間のような日の当たらない時間が長かった。で、「さよなら」で大ブレイクした後の曲をこれにした。僕らはこういう歴史を辿りたいんだ、という音楽の願いみたいなものをこめたシングルでした。
60年代、70年代、そして80年代。いろんな10年間のタームがあるんですけど、それぞれの10年間が始まって、そして終わっていく。そうした中で、もっとも劇的だったのが、この80年代の幕開けだったのではないかと思うんですね。ロックもフォークも、いろんな新しい音楽が70年代悪戦苦闘し、なかなか市民権を得られなかった。それを少しずつ得ながら80年代になったわけです。いろんな人たちが次に行くんだと走り出した。来年は2020年で、1980年から考えると40年ですよ。80年代にデビューした人たちが続々と40周年を迎える年になってきた。それもあって、改めて80年代を辿り返してみよう。そんな企画です。J-POPが一斉に花を開いた10年です。
80年代を切り開いた人たちには2つのタイプの人たちがいました。1つはオフコースのように、70年代にデビューしたけど、なかなか思うような結果を手にできなかった人たち。もう1つは、80年代の幕開けとともに颯爽と登場した人たちですね。次の人も70年に試行錯誤を重ねていた人です。売れるためにはどうしたらいいのか? みんなで真剣に考えざるを得なかった。でも、80年の始めにはそんな悩みも逡巡も吹き飛ばしてくれました。誰もが新しい疾走を開始した1980年夏。はじめてのロサンゼルスで作りあげたアルバムです。浜田省吾さん、1980年10月発売のアルバム『Home Bound』1曲目「終わりなき疾走」。
浜田省吾 / 終わりなき疾走
去年12月は「さよなら平成、忘年会特集」ということでお送りしたんですが、今年12月の1人しゃべりゲストなしシリーズは、「あなたと僕の忘年会」と決めています。そういう企画だと思ってお楽しみいただけたらと思います。
「ヒットチャートのナンバー1幻想はもう捨てた。ロックには金で買えないものがあるんだ」。これが80年代を迎えるときの彼の心境だったんでしょう。浜田省吾さんは今年の秋、ファンクラブツアーをやっておりまして、「Welcome back to The 80s」というテーマなんですね。80年代のアルバムだけでやりますっていう。去年は70年代のアルバムだけでやったんですけど、今年は80年代、しかも前半の3枚のアルバムだけで今ツアーをやっています。いいツアーですよ。本当に楽しめます。もちろんこの曲はやるでしょうね。やらないわけがないという1曲でした。
RCサクセション / 雨あがりの夜空に
80年1月の発売。これはシングルver.ですね。RCサクセションのデビューは1970年です。「宝くじは買わない」からちょうど10年ですね。72年に出た3枚目のシングル『ぼくの好きな先生』が評判になったんですね。この後、事務所の移籍問題に巻き込まれてしまい、レコードも出せない不遇な70年代を過ごしました。70年代の終わりにCHABOさんが入って新しいロックバンドの形になり、フォークブルースの形からロックバンドになって、70年代の終わりを迎えた。79年の大晦日、「ASAKUSA NEW YEAR ROCK FESTIVAL」に出ましたね。髪の毛をツンツンに立ててステージに飛び出してきたとき、「え、RC、こうなったんだ」って思ったりしました。「雨あがりの夜空に」の発売記念ライブというのがあったんです。渋谷のライブハウス・屋根裏の4日間。これは僕、行けていないんですけど、4月に久保講堂を3日間やったんです。それは見に行きました。カメラマンの井出情児がいましたね。「お前、ここにもいるの?」と、お互い顔を見合わせてニヤっとしたという余計なことを覚えていますけどね。で、この久保講堂がライブアルバム『RHAPSODY』になって発売になりました。目に見えて時代が変わり、いろんなことが動いていく。それが70年代の終わりから80年代でした。次もそういう1人なんです。それまでなかなかツアーもできなかった状態だったけれど、この曲で、世の中に颯爽と高らかに登場した。そんな曲です。山下達郎さん。1980年3月発売。「RIDE ON TIME」。
オフコース、浜田省吾さん、RCサクセション、山下達郎さんと、いい4連発でしょ? 自分で悦に入って、好きな曲を並べているだけなんですが、70年代、達郎さんは本当に思うような結果が出なかったんです。シュガーベイブの後、ソロになってデビューアルバムをニューヨークで全部作ろうと思ったんだけどお金がなかったり、苦い想いをしながら活動していった。大阪のディスコで「BOMBER」で火がついて、彼も次が見えたという状態だったんですね。RCサクセションとオフコースはレコード会社も一緒でした。シュガーベイブと、浜田省吾さんがいたバンド・愛奴はデビューが同じ年なんですよ。ソロになったのも同じ年ですね。そして79年にようやくツアーができるようになった。同じような段階を踏んでいますね。達郎さんはこの曲がマクセル・カセット・テープのCMソングに大抜擢されて、高らかな始まり方で80年代を迎えたわけです。
これも80年2月にでました。シャネルズの「ランナウェイ」。
作詞・湯川れい子さん、作曲・井上大輔さん(元・井上忠夫さん)。この頃、みんなでよく飲みにいって、スナックでカラオケもやったんですよ。この曲もよく歌ったなあっていう記憶があります。靴墨を顔に塗っていた日本音楽史上初の黒人、マーチンさん(=鈴木雅之)がよくステージで言っていることです。アマチュア時代から、鈴木雅之さんは達郎さんと知り合いだったんですね。セコハン・レコード屋さんというのがあるでしょ? そこに手袋をして早くLPをめくっていく人がいるんです。1枚ずつタイトルとアーティストを調べて、気に入ったものをすぐに引き抜くんですね。あいついつもいるな、っていうのが達郎さんと鈴木雅之さんで、お互い顔見知りだったという関係ですね。しかも、2人は大瀧詠一ファミリーです。鈴木雅之さんは、オフコースのファンだったんです。まだメンバーがたくさんいたときのオフコースの70年代のデビュー曲「群衆の中で」をテレビで歌っているのを見て、すぐにレコード屋さんに買っている。実はガロとか、ものすごく詳しいんです。そういう面を見せるようになったのも、この数年でしょうね。シャネルズの登場で、マイナーな極地だったドゥー=ワップが茶の間に広がりました。達郎さんの中野サンプラザを観に行ったとき、ステージから「シャネルズいるか?」って言ったのがデビューした直後か前の年かな。そういう交友関係ということになりますね。続いては、80年3月発売、佐野元春さん「アンジェリーナ」。
佐野元春 / アンジェリーナ
先ほどまでは、70年代に不遇だった人たちが登場しました。そういう人たちの終わりなき疾走が始まったのが80年。シャネルズと佐野さんは80年がデビューです。つまり来年がデビュー40周年ですよ。今年11月に佐野さんの『或る秋の日』っていうアルバムが出たんですね。これが、しみじみとしたいいアルバムなんです。40周年を前にしたブレイクのようなアルバムでした。ライブを観に言ったら元気だったんですよ。お客さんもスタンディングで立たせていましたね(笑)。
佐野さんは80年のデビューなんですが、決して順風満帆だったわけではありませんでした。高校のときから音楽活動をしていて、大学では「EastWest」などコンテストにも出場していたんですけどデビューできなかったんですね。その後、ラジオ局のディレクターをやり、アメリカの取材に行ったとき、サンフランシスコの空港で知り合いのミュージシャンが旅支度をしていて、「どこ行くの?」って訊いたときに、そのミュージシャンが「東海岸でやり直すんだ」と行って旅立っていった。その「やり直す」と言う言葉に刺激されて、ラジオ局のディレクターをやめてプロのミュージシャンになるんだということでデモ曲を作って、EPIC・ソニーのプロデューサー小坂洋二さんの目に止まってデビューすることになるんです。デビューするときのインタビューの発言が格好よかったですね。「胸が張り裂けそうだったから」。こういうデビューでありました。1981年、ナイアガラ・トライアングル。佐野元春さん、杉真理さん、大瀧詠一さん。こういう人たちが世代を超えた新しいポップスの担い手として、世の中に出ていくわけですね。
1980年の年間チャート1位を御記憶でしょうか? もんた&ブラザーズの「ダンシングオールナイト」だったんです。もんたよしのりさんも、70年代に思うような活動ができなくて、関東から関西に拠点を移したりする中で、これが爆発的に売れた。そういう幕開けでもありました。1980年12月はジョン・レノンが亡くなったということもありました。殺害されました。80年という年号がいろんな意味の歴史の区切りになった。そんな年末でありました。1980年3月に発売されたのがこのアルバムです。大瀧詠一さん『ロングバケーション』。1曲目「君は天然色」。70年代の不遇比べというんですかね。誰が1番恵まれなかったかコンテストをやるとすれば、どんな人たちが出てくるでしょうね。RCは当然入ってきます。達郎さんもかなり上位にランクインするでしょう。でも1、2を争うのは、大瀧詠一さんではないでしょうか。はっぴいえんどが解散したのが1973年で、そのあと自分のレーベル・ナイアガラというのを作りました。なかなかナイアガラをレコード会社が引き受けてくれなかったんですね。なんでかっていうと、サイダーのコマーシャルというのがありまして、大瀧さんはそれをレコードにしたかった。はっぴいえんどは、ああいうバンドメンバーの完成形、それぞれの個性がぶつかり合うバンドの緊張感のある作品でしたし、松本隆さんという作詞家の世界が色濃かった。大瀧さんは、もっとカラっとした遊びのようなアルバムを自分の世界で作りたかった。CMソングというのはその中に入っていたんですね。そういう音楽をやりたいと、いろいろなレコード会社に持っていったんだけど、唯一引き受けてくれたのが、フォークのレーベルだけはやめてくれと大瀧さんが言っていた、エレックレコードだった。しかしエレックがすぐに倒産してしまって、コロムビアレコードがナイアガラを引き受けるんです。だけど、3年間で12枚のアルバムを作るという、とんでもない契約に縛られてしまったんですね。大瀧さんはコロムビアに身売りするときに、レコーディングのコンソールを1番新しいものに変えるということで頭がいっぱいで、やろうと言ったものの3年間で12枚というのがものすごく過酷な縛りになってしまい、その間、ナイアガラ以外の仕事をできなかった。唯一CMソングをやりながら、それを経営の助けにしていた10年間だったんですね。コロムビアとの契約があけて、さあ自由の身になったというときに作ったのが『ロングバケーション』だった。そういう始まり方でありました。
81年というのは、松本隆さんが作詞した曲がチャートを一色に塗りつぶすという年でありました。次の曲は81年1月に出たシングルです。南佳孝さん「スローなブギにしてくれ」。
南佳孝 / スローなブギにしてくれ
冒頭の「want you」というのは、佳孝さんのデモテープに入っていたんだよって松本さんがおっしゃっていました。片岡義男さん原作の「スローなブギにしてくれ」映画化の主題歌でありました。松本隆さんははっぴいえんどを解散した後にプロデューサーになるんですね。その最初の仕事が南佳孝さんの「摩天楼のヒロイン」だった。発売日が73年のはっぴいえんどの解散コンサートと同じ日だったんですね。はっぴいえんどの解散コンサートは、それぞれのメンバーが次になにをするかというお披露目のライブでもあったんです。大瀧さんのところには伊藤銀次さんのココナツ・バンクとか、シュガーベイブも登場している。松本隆さんのところでは佳孝さんが「摩天楼のヒロイン」を歌うというステージの構成になっていたんですね。松本さんは『摩天楼のヒロイン』のプロデュースもして、さらに作詞もした。このアルバムは今でもシティ・ミュージックの走りということで半ば伝説化――なかなかこの言葉は使いたくないんですが、いろいろな形で語られるようになっているわけで、歴史的な1枚になりましたが、当時はまったく売れなかったんですね。70年代当時は、そういうのが多いんですよ。『摩天楼のヒロイン』はレコード会社がショーボート・レーベルというところで、はっぴいえんどの事務所・風都市がトリオ・レコードと組んで新しい音楽を作ろうよと始めたレーベルなんです。当然のごとくお金がなかったり、レーベルもあまりうまくいかなくて。佳孝さんも『摩天楼のヒロイン』の後はしばらくレコードを出さない。で、76年に『忘れられた夏』というアルバムでCBSソニーから再デビューしたんですね。『忘れられた夏』は松本さんが関わってなくて、79年に出した4thアルバム『SPEAK LOW』で再開するんです。それぞれ70年代に1回いろんなことをやったんだけど思うような結果が出なくて、挫折したり低迷したり試行錯誤していて、それぞれの道を探しながら70年代後半を生きてきて再び出会えるようになった。それが80年の幕開けという時代ですね。この「スローなブギにしてくれ」はチャートは1位にならず、6位だった。これは映画と主題歌のイメージが全然違ったからで。ディレクターの高久(光雄)さんが言っていましたけど、映画が公開されたと同時にレコードの売れ行きが止まったそうで。映画は新宿の飲み屋さんの話ですからね。
松本隆さんは80年の12月に近藤真彦さんの「スニーカーぶる~す」を出しています。これが80年の年末のシングルチャートの1位、そして81年第1週の1位。つまり、80年の終わりから81年は松本隆旋風が吹き荒れた中で始まった。そんな松本隆旋風を決定づけたのがこの曲ですね。81年2月発売、寺尾聰さん「ルビーの指輪」。
寺尾聰 / ルビーの指輪
作詞・松本隆、作曲・寺尾聰。寺尾聰さんはザ・サベージ、グループ・サウンズのメンバーでした。松本さんはサベージをテレビで見て格好いいなと思っていて、寺尾さんがソロになって再び出会うことになった。そこで、はっぴいえんどをやろうと思ったと自分でも話していますね。最初の一行「くもり硝子の向うは風の街」って部分が、はっぴいえんどですね。ここだけかもしれませんが。これが年間チャートの1位ですよ。70年代の終わりに始まった、ザ・ベストテンのランキング12週間連続1位。3ヶ月間1位だったんです。今では想像できないロングヒットですね。大昔の話をしてしまうと、1950年代にジェームズ・ディーン主演の映画「エデンの東」の主題歌が、「ユア・ヒットパレード」という映画音楽がたくさん流れているラジオのランキング番組で2年間1位だったんですね。2年間が終わった後に、ずっと1位だったという永久保存みたいな形で特別待遇になった覚えがありますね。日本のポップスで12週間連続1位というのはなかなか思い当たりませんね。チャートは1年間で52週あるんですけど、1981年の年間チャートのうち、松本隆さんの書いた曲が28週間1位だった。1年の半分以上、松本隆さんの書いた曲が占めていたという年だったんですね。この28週間1位を占めた曲の中の4曲目が、80年にデビューした松田聖子さんの「白いパラソル」ですね。この話は来週になるんですけど。松本隆さんは「スニーカーぶる~す」と「ルビーの指輪」ですよ。「スニーカーぶるーす」はスニーカーですから、少年性です。「ルビーの指輪」はトレンチコートですから、大人のハードボイルドですね。ちゃんと年代別に歌を書き分けていた。これも作詞家としての度量、力量、スケールを感じさせる。
1981年。忘れてはいけないのは、パンクロックの本格的な上陸です。イギリスでは76年、77年にセックス・ピストルズが口火を切ってパンクロックが始まり、日本にちょっと遅れて入ってきた。80年にデビューしたのがアナーキーですよ。国鉄の労働者の人たちが来ているナッパ服を着て、腕に赤い腕章を巻いて、「俺たちはワークソングなんだ」「労働者ロックなんだ」という旗を掲げていました。78年にARBがデビューして、その後にザ・ロッカーズ、ルースターズ、そして大トリとして九州からTHE MODSが登場するわけですね。今日最後の曲、81年6月発売のTHE MODSのデビューアルバム『FIGHT OR FLIGHT』から「TWO PUNKS」。
THE MODS / TWO PUNKS
博多の親不孝通りにある80s FACTORYというライブハウスからTHE MODSも出てきたんですね。そして、81年にBOOWYが結成されました。RCサクセションの80年の日比谷野外音楽堂を氷室(京介)さんが観るんですね。東京に来てうまくいかなくて群馬に帰ろうかなと思っていていたときに、RCのライブを見てもう1回バンドをやるんだと布袋(寅泰)さんに電話をした。そこから始まっているわけですね。1981年にスターダストレビューもデビューしました。佐野さんとか、BOOWYとか、スタレビとかアナーキーとか、みんな「EastWest」というコンテストから出てきたんですね。忘れられないのが、81年、甲斐バンドの花園ラグビー場での野外ライブ。これはおもしろかったですね。1曲目が「破れたハートを売り物に」という曲で、客席の芝生の上に座布団が置いてあったんですよ。ライブがはじまった瞬間、1万5000人のお客さんが全員座布団を投げたんですよ。国技館の相撲の優勝のシーンみたいですよ。花園ラグビー場の夜空に座布団が舞って、最前列の人はステージに向かって投げますから、コンサートが中断しちゃったんです。で、甲斐さんが「オルタモントにはしたくないんだ」って言って、かっこうよかったな(笑)。1回中断して始まったということもありましたね。81年、アリスが活動休止して、後楽園球場でバンドとソロのライブも行いました。矢沢永吉さんがアメリカに行ったのもこの年ですね。70年代が終わって 80年代が本格化した。そんな年でした。
この番組のエンディングテーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」。まりやさんは78年のデビューで、70年代終わりの女性シンガーソングライターからアイドルに流れが変わっていく波に巻き込まれてしまった。81年に活動を休止して、82年に達郎さんと結婚するんですね。本当に端境期だったと思います。私が1番忘れられないのは、81年4月の「ニューヨーク24時間漂流コンサート」。小室等さん、吉田拓郎さん、井上陽水さん。この3人でマンハッタンを24時間ストリートコンサートをしてまわる、漂流するんだという企画です。自慢話になってしまうんですけど、これ、企画構成は僕なんですね。TBSが30周年で「何か企画書を出さない?」と言われたとき、ニューヨークに行きたいなと思い、このメンツでニューヨークに行くのはあり得ないと思って企画書を書いたら通ってしまった。これが1980年代最大の思い出かもしれませんね。ガーディズ・フォークシティというボブ・ディランが歌っていたライブハウスがあって、そこに行ったらオデッタがいて、小室さんがフォークシティのステージでオデッタと「WE SHALL OVER COME」を号泣しながら歌った。そんなシーンもありました。明け方5時に、スタテンアイランド、自由の女神に向かって船に乗ったんですね。勝手に思い出しておりますが、あなたの80年代の思い出、いかがだったでしょう? あなたと私の80年代忘年会特集ということでお送りしています。来週は82年と83年の思い出の扉を開きましょう。
Edited by StoryWriter
<INFORMATION>
「J-POP LEGEND FORUM」 月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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