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2018/06/03

吉田拓郎の「ビート・ピッキング革命」98——再録『<広島フォーク村40周年に寄せて> 私たちはきっと兄ちゃんに誉めてもらえるだろう』

きょう、広島フォーク村50周年の帰広用にホテルを予約した。9月29日(土)はすでに満室になってしまっているホテルも出てきていて、取りにくくなってきているところだったので、きょう予約に時間をかけてよかった。
ホテルの予約だけでなく、当夜に歌うオリジナル曲の歌詞を作り直したり、ギターの練習を始めたり、50周年のことで東京村民と連絡をとりあったり‥‥と少しずつ準備を始めているので、50周年のムードが徐々に高まりつつある。
このブログでも50周年のムードを少しずつ高めていくために、今回は、40周年のときに、『広島フォーク村40周年に寄せて--私たちはきっと兄ちゃんに誉めてもらえるだろう--』と題して書いた文章を再録させていただくことにした。『古い船を~』でも流しながら読んでいただけると嬉しい。
●広島フォーク村40周年に寄せて—私たちはきっと兄ちゃんに誉めてもらえるだろう—
 昨夜、夢を見た。夢の中にひさびさに兄ちゃんが出てきた。兄ちゃんはもう60歳を過ぎていた。兄ちゃんの前に立っていたのは、ワシと同級の仲間だった。あいつが兄ちゃんと会うのは20年ぶりのことだ。あいつは兄ちゃんに憧れていたから、いつも兄ちゃんに対してかっこつけていたのだが、あいつは今回は素直に
 「ご無沙汰しています」と挨拶した。
 「おう、元気そうじゃないか」と兄ちゃんがはにかみながら少し手をあげて笑顔を見せた。
 あいつはその笑顔を見た瞬間に兄ちゃんに抱きついた。あいつは兄ちゃんだけに聴こえる声で
 「辛かったけどがんばってきました」と言った。
 兄ちゃんは、無言だったが、あいつの背中をぽんぽんとやさしくたたいた。
 大げさな話になるが、敗戦後の日本には、国全体が180度変わってしまうことが二つあった。一つは民主主義、もう一つはキリスト教である。アメリカの首脳たちは悩みぬいた結果、民主主義だけを日本に植え付けることにした。キリスト教を押し付けると、天皇を崇拝している国民の多くが自決する可能性があったからだ。
 なぜこんなことを書くのか。もし敗戦後に天皇制が廃止され、日本がキリスト教の国になっていたら、拓郎さんの「人生の歌・生き方の歌」は生まれていなかった可能性が高いからだ。
 欧米先進国のほとんどはキリストの国であり、その国で育ったほとんどの人間の「生き方の基盤」はキリスト教である。生まれや育ちや運や才能などによってさまざまな人生を送ることになり、貧富の差や人生に対する満足度の差は生じるが、それぞれの人の「生き方の基盤」には厳然としてキリスト教という信仰があり、その信仰を支えにして生きている人が多い。だから、欧米の歌詞にはイエス・キリストのことを歌ったり神様やイエス・キリストに感謝を捧げているものは多いが、生き方そのものをテーマにした歌は少ない。
 
 明治が始まるときにもキリスト教を国教にすることが検討されている。しかし、キリストの国になってしまうと日本そのものが滅びてしまう、ということになり、キリスト教に対抗するものとして神道を選び、天皇を神として近代国家の道を歩み始め、昭和に至り、アメリカと戦い、敗れた。神であった天皇が人間宣言をした日、日本人からは信仰心が消えた。信じていた神が人間になったのだから。
 生き方の基盤となる信仰を持たないまま、日本人は近代・現代社会をどのようにして生きていくべきか!一一それこそが、文学でいえば漱石から今日の大江健三郎まで、映画でいえば小津・黒澤監督から宮崎監督までが挑み続けてきたテーマだ。
 そして拓郎さん。僕がいちいち挙げることまでもなく、拓郎さんの歌には、人生の歌、生き方の歌が圧倒的に多かった。つくったレコード会社の名前にしても「フォーライフ」である。
 僕がCBS・ソニーで働いていたときにすごく嬉しくて誇らしいことがあった。それは、営業時代の所長や制作時代の課長などが、「蔭山、俺は拓郎の歌が大好きなんだよ、休みの日には自分の部屋でビールを飲みながら拓郎の歌を聴いてるんだ。拓郎の生き方の歌を聴くと自分に戻れる」と言ってくれたことだ。拓郎さんの歌が、日本初の日米ジョイント・ベンチャー(共同企業)であるCBS・ソニーという厳しい会社に勤めているサラリーマンたちの心の支えになっていることが分かって、最初は意外に感じたが、やっぱりそうか、そうだったか!と、心底嬉しくなり、拓郎さんと青春を過ごせたことを誇りに思ったことを今でも覚えている。
 広島フォーク村40周年記念ライブに拓郎さんが参加する。拓郎さんと仲間たちが違っていた点はたくさんあるが、もっとも違っていたことは、ある時期からは、拓郎さん一人が年長だったということだ。だから、私たちにとって拓郎さんはかっこいい頼れる兄貴、というような存在だった。私たちが広島フォーク村の中でサータレ(軽薄な若者)だったときに、拓郎さんだけが大人だった。ビートルズがアイドルとしてデビューしたときには、実は、演奏家としてはプロの腕前をもち、長年の下積みを経験していた大人であったのと同じように。
 年長だった拓郎さんは仲間たちよりも早く世の中に出ていった。上京し、マイナーな地点(エレック・レコード)から、芸能界という狂った戦場に足を踏み入れ、音楽業界・放送業界・出版業界の大人たちや同世代の若き才能たちと戦いながら、次々と作品を生み出していった。
 拓郎さんは、先行く者として、私たちに生き方のヒントを与え続けてくれた。信仰といういう生き方の基盤を持たない私たちにとっては、拓郎さんの歌詞がその代わりになった一一たとえば「どうせ力などないのなら、酒の力を借りてみるのもいいさ」というフレーズを支えに、酒を飲み、サラリーマンとして生きていく辛さを忘れようとした人も多いはずだ一一のだった。
 2008年8月2日。兄ちゃんが広島フォーク村に帰ってくる。仲間の中には40年ぶりに再会するものもいる。
 兄ちゃんは知っている。自分の弟や妹のような仲間たちが、今日まで無事に生きてきて、この記念の日に、この場所にたどりついていることがどんなに凄いことかを。
 兄ちゃんは知っている。信仰を持たない人間がこの国でまともに生きることがどんなに辛いことかを。
 兄ちゃんは知っている。この40年ぶりの再会が奇跡的なことであることを。
 
 だから私たちはきっと兄ちゃんに誉めてもらえるだろう。兄ちゃんはシャイだから口には出さないだろうけど、きっと心の中で「みんなよくがんばったね」と私たちに声をかけてくれるだろう。
 
2008年7月23日 
                           蔭山敬吾

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