« 深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く① | トップページ | 深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く③ »

2018/04/10

深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く②

深夜のラジオっ子 村上謙三久

テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く

B00k1_3

■テレビに出れない人でも活躍できる
思ってもいない提案を受けた田家だったが、「面白そうだ」と構成作家としての活動をスタートさせる。その後、75年に『ザ・ヴィレッジ』は終刊。それからは専業の構成作家となった。 「実際にやれるかどうかわかりませんよね。当時はわりと自由に入れたんで、夜中に制作の部屋に忍び込むんです。ディレクターの机に台本が積んであるでしょ? それをかっぱらってきて(笑)。ああ、こうやって書くのかと。それを見様見真似で始めたら、結構仕事が来るようになったのが始まりですね」 最初に担当したのは71年に文化放送でスタートした『はしだのりひこのビューティフル・ノンノ』。月~金に放送される10分間の帯番組だった。その後、音楽番組などを手掛け、素人同然の状況から必死に実績を積んでいく。
「最初はネタの仕込み方にしても何の素養もなかったわけで、本屋に行って、俳句歳時記を買ったり、雑学事典を揃えたり、それなりに努力はしました。何でもやらなきゃいけないから、それこそコントも書かなきゃいけなかったんです。でも、ただの編集者だったから、コントな んて書いたことがない。アメリカのブラックジョーク集なんかを買ってきて、見様見真似でやってました」 何の経験もない中で、田家は台本のタイプが三つに分類できることに気づいたという。 「一つ目はいわゆるワイド番組のように、流れや話の展開といった"枠を書く仕事"二つ目は、"データを集める仕事"。音楽番組が多かったんで、曲についてのデータを書いていました。 三つ目は"一字一句原稿を書く"という形。落合恵子さんなんかは完全にこの読みの原稿だったんです。コントなんかも一字一句書くことですよね。この三つを全部やってたから、それは 鍛えられました」 だが、田家本人はその異色な出自ゆえに、自分自身が構成作家だという自覚をなかなか持てなかった。 「気がついたらいろんな仕事が来るようになっただけだから、構成作家になったという実感がなかったんですよ。「なりたい」と言ったわけでも、「やらしてくれ」と言ったわけでもないし、 言われたことを言われたまま見様見真似で書いていたら、それが仕事になってしまった。やっと自分の仕事を意識するようになったのは放送作家協会に入ろうと思った時ですね。73、74年かな。20代半ばを過ぎて、自分が何者かという証しが欲しくなったんですよ。名刺に入れるようなある種の肩書きを入れたくなって」

B00k_2

テレビの急激な普及もあり、構成作家の立場も転換期にあった。田家はそんな状況をどう見ていたのだろうか? 「構成作家にはいくつか流れがありました。奥山コーシンさんは文化放送でたくさん番組をやられていましたけど、青島幸男さんの系列で。萩本欽一さんの放送作家集団・パジャマ党や永六輔さんがやってた放送作家集団もありました。ちゃんとそういう中に先輩後輩があって、事務所に入っている人もいました。で、その人たちはテレビもやっていたんです。でも僕は始まり方が編集者崩れで、たまたまプロデューサーに声をかけられて始めたんで、ラジオだけをずっとやってたんですよ。先輩もいなければ、師匠もいないっていうはぐれ者みたいな始まり方でした(笑)」 田家も「テレビは儲かるよ」と声をかけられたこともあるが、フォーク・ロック系の音楽番組を中心に最大時で13番組を担当していたため、「俺はラジオでいいよ」と思うようになっていた。 この頃、ラジオ番組の構成作家が作詞家になるという現象が起きていた。田家と同時期に文化放送で構成作家をやっていた喜多條忠はかぐや姫の名曲『神田川』の作詞を担当。ニッポン放送で活躍していた岡本おさみは吉田拓郎と組むようになり、後に森進一の『襟裳岬』を生み出す。この現象も今のラジオから考えると想像つかないことだ。 「僕と喜多條忠さんは同じ時期に文化放送で台本を書いてたんです。彼は歌謡曲の番組をやっていて、僕は夜の番組ばかりで、フォーク・ロック系でした。ここが断絶していて、歌謡曲の番組班はメジャーな芸能界、夜班は若者文化みたいな感じだったんです。僕も喜多條さんを「アイツは歌謡曲だろ? 芸能界だろ?」みたいに見てたんですけど、ある時に彼が「僕の詞 がレコードになったんだよ」って持ってきたのが、フォークソングの『神田川』だった(笑)。 そんな風に放送作家で作詞をやるというのが流行り始めて、僕もやらないかと言われたことがあったんですけど、その時は「俺はラジオを守るよ」みたいなことを言った記憶がありますね。 それは自分に自信がなかったこともあるんでしょうけど、「なんでみんなラジオから離れていくんだ?」っていう思いがこだわりとしてありました」

B00k1_4

田家が構成作家になったのと時を同じくして、深夜ラジオは急速に支持を集め、大きなムーブメントを作っていく。 「ラジオ局のアナウンサー、パーソナリティがスターになる時代が来ましたから、それは深夜放送の黄金期ですね。文化放送では土居さんを筆頭に、みの(もんた)さん、落合さん、ニッポン放送では亀渕(昭信)さん。ミュージシャンも深夜放送で喋ることでメジャーになってい きました。谷村新司しかり、はしだのりひこしかり、吉田拓郎しかり、南こうせつ、山本コウタローもそうでしょ。みんなテレビに出られない人たちだったんですよ。テレビとラジオは、 明らかに断絶していました。テレビは芸能界の利権が張り巡らされていた。反対にラジオはまだ海のものとも山のものともわからない、でも歌も面白いし、喋りもうまいっていう人たちが出ている感じはありました。あの頃の深夜放送は、まだ何者でもない人たちがいろんなことを 面白がれる場にはなってましたね」

|

« 深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く① | トップページ | 深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く③ »

深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く」カテゴリの記事