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2018/04/10

深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く①

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深夜のラジオっ子 村上謙三久 

テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く

1970年代、深夜ラジオは若者から熱狂的な支持を集めた。当時はインターネットどころか携帯電話も存在しない時代。テレビはまだ1家に1台が基本で、深夜のテレビ放送は早い時 間で終了していた。24時間営業のコンビニエンスストアやファミリーレストランもなく、レンタルビデオ店もない。若者が真夜中にできることは限られていた。そんな状況にラジオが合致したのだ。
深夜ラジオの人気が定着した71年、この章の主役。田家秀樹はラジオの構成作家になった。 かかわっていた深夜番組は文化放送の「セイ!ヤング」。まだアナウンサーがパーソナリティ として活躍していた時期で、落合恵子やみのもんたの番組を担当していた。 落合恵子はこの時代の深夜ラジオを代表する女性パーソナリティだろう。レモンちゃんの愛称で親しまれ、その語り口が多くのリスナーから愛された。のちにアナウンサーから作家に転身し、たくさんの著書・訳書を発表。現在はテレビの情報番組でコメンテーターも務めている。 みのもんたは当時まだ文化放送のアナウンサーだったが、のちにテレビ司会者としてその才能が開花。『午後は◯◯おもいッきりテレビ』(日本テレビ)、『みのもんたの朝ズバッ!』(TBS)と平日の帯番組で活躍することになる。 当時の深夜ラジオが持つ意味合いは今とまったく違う。今のリスナーが想像できないようなこの時代の状況を、社会情勢と合わせながら見ていこう。

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■すでにメディアミックスがはじまった

「構成作家になった経緯ですか? もう成り行きですよ(笑)」。その言葉の通り、田家が構成作家になるまでの道のりは異色だ。 田家は69年に大学を卒業。就職試験は軒並み落ちてしまい、働き口もなく途方にくれていた。そこで、声をかけられ、新たに創刊されたタウン誌『新宿プレイマップ』の編集者となっ た。この創刊には文化放送がかかわっている。 「当時、丸の内に都庁があったんですが、その都庁を新宿に誘致しようという街の機運があって、若者の街として新宿をPRしようという流れがあったんです(91年に移転)。それをたきつけていたのが文化放送だったんですよ。テレビにメディアの主役の座を奪われて、ラジオを 聴く人が少なくなっていた。そんな時に、ラジオを活性化させるためのいくつかのプロジェクトが始まるんです。その1つが深夜放送なんですが、もう1つがタウンプロジェクト・・・いわゆるベンチャーだったんですよ。文化放送は四谷にあって、新宿が近かったですからね。文化放送は新宿が新しい街に脱皮する機運を捉えて、メディアポリス宣言をぶち上げたんです。つまり、街はメディアである、と」 この宣言を受けて、新宿の各商店街、百貨店、文化放送が手を組み、新宿PR委員会が設立される。委員長には紀伊國屋書店の田辺茂一が就任。その活動の一環として『新宿プレイマプ』が創刊した。
60年代の新宿を現在の状況から想像するのは難しいだろう。今の近代的な街並みが完全に 整う前の話である。淀橋浄水場が65年まで稼働していたため、西口は閑散としていた。その跡地の開発計画として新宿新都心構想が生まれ、メディアポリス宣言に繋がる。 新宿は若者文化の中心だった。アングラな音楽や芝居、映画、ファッション、そこに政治的な思想も絡まり、異常な熱量を帯びていた。新宿二丁目がかつての赤線地帯からゲイタウンに 変貌していったのもこの頃である。 60年代後半は学生運動が盛んな時期。大学闘争やベトナム戦争の反戦運動などが展開されたが、新宿もその舞台となった。5000人以上の反戦デモ隊が新宿駅になだれ込み、暴動を起こして機動隊と激突し、約700人の逮捕者が出た「新宿騒乱事件」。地下西口広場に集ま り、反戦的なフォークソングを歌いながら集会を行う数千人の若者を機動隊が鎮圧した「西口フォークゲリラ事件」。現在の新宿とはかけ離れた騒動が巻き起こっている。今、試しに現場を歩いてもそんな空気はまったくないが、それが当たり前だった時代に『新宿プレイマップ』 は生まれた。

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混沌とした新宿の空気を切り取った『新宿プレイマップ』は、若者から大きな反響を集めた。 現在のタウン誌文化の先駆けとも言えるこの雑誌は、街自体にとどまらず、新宿に巻き起こる様々なカルチャーを紹介。創刊号にはヌード写真まで掲載された。 しかし、そんな新たな新宿の文化を恥部と捉え、もっと健全で綺麗な街にしたいという商店街側の意向とぶつかり、編集部は板挟みになっていく。田家はそんな状況に嫌気が差すようになった。
「そんな時に、「セイ!ヤング」の雑誌を作りたいという話が文化放送から出てきたんです。 すでに「オールナイトニッポン」には『ビバ ヤング』という機関誌があったんですね(68年9月創刊 常に5万部が完売していたという TBSラジオでも『パックニュース』を発刊していた)。ラジオの番組が活字メディアを持つという一種のメディアミックスが始まっていて、「セ イ!ヤング」でもそういうものがほしいと。で、実際に誰が作るのかという話になったので、 僕が企画を出したら、それが通って。そこでフリーになって、『ザ・ヴィレッジ』を作ることになりました」 田家自身も大学時代に土居まさるの深夜ラジオを聴き、衝撃を受けていた。40年に『ザ・ヴィレッジ』は創刊。田家は取材・執筆を担当し、タブロイド判8ページの月刊紙面をデザイナーによる二人体制で制作していく。
その過程で再び田家に転機が訪れる。「セイ!ヤング」のチーフプロデューサー・駒井勝か ら「お前、ラジオの台本を書く気あるか?」と声をかけられたのだ。 「番組の雑誌を作っているから、「セイ!ヤング」の制作部にはいつも出入りしていたんですよ。そこには放送作家がいっぱいいました。最初は「あの人たちは何をやっているんだろ う?」と思ってたんですが、徐々に台本を書く人なんだと認識するようになりました。でもね、 実はわりとバカにしてた(笑)。「"放送作家“という言葉は何なんだ?」と思って。学生運動 世代ですから、どちらかというと僕は活字人間の部類なんです。作家に対して憧れはあったし、 凄い人なんだという気持ちはありました。だから、"放送“という言葉に引っ掛かって、これは何なんだと」

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