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2018/04/10

深夜のラジオっ子 村上謙三久 テレビじゃ、これは伝わらない・田家秀樹に聞く③

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■学校でラジオの話題になる時代

そして、その深夜帯でも田家は構成作家を務めることになる。オールナイトニッポンは作家がいない形で始まっていたが、文化放送はラジオ本来の形を重視し、当初から作家を起用していた。田家が担当したのは「セイ!ヤング」のみのもんた、落合恵子、せんだみつおの3番組である。 「みのさんは素晴らしかったですね。あの当意即妙さ、おバカさ(笑)。おバカなんだけど知的っていう。天性の喋り手っていうのはこういう人なんだろうなって思いましたね。落合さんの魅力は言葉のセンスと、声のエロキューション (発声技術)。言い回しも含めてね。落合さんの喋りを聴いていて、「ラジオは詩なんだなあ」と思いました」 構成作家として田家は主にコーナーの企画を担当していた。 「ハガキはディレクターが選んでいて。「この時間帯にこのハガキを読む」と用意してから始めるんで、そこには僕はタッチしていないんです。ただ、コーナーと言っても、今とは意味合いが違っていて、完全に作り物のゾーンだったんですよ。110分ぐらいで、BGMを入れたり そこに台詞を入れたり。ラジオドラマっていうほどじゃないんですけど、多少脚色したりして。 それは全部台本があった。今考えれば面白いことをやってたなと思います」 現在の深夜ラジオは「フリートーク+ネタコーナー+リアルタイムのメール紹介」という形がフォーマットだが、当時の状況は異なる。メールどころかFAXもない時代、リアルタイム性は電話を繋ぐ程度だった。 「ハガキ職人」という言葉が生まれる前で、ネタコーナーの比率は低い。また反対に、音楽を流すことの重要度は今と比べものにならないほど高かった。まだCDは生まれておらず、カセットテープが音楽用として普及し始めた段階。従来の歌謡曲以外に、洋楽やフォークソングが急激に注目を集めるようになっていた。新しい楽曲に触れる機会は今に比べて圧倒的に少なく、必然的にラジオがその存在を担っていた。2時間の番組で平均して10曲程度、多い場合には20曲かける番組もあったという。曲を流す間にハガキを紹介するというのが基本的なスタイルだった。そのため、深夜ラジオの現場にはレコード会社のプロモーターが常に集まっていた。 「どこで何の曲をかけるのか。そこにもハガキとの繋がりが必要なんです。特に僕は落合さんの番組をやっていたことが大きくて、曲の前にどういう言葉で締めくくると一番効果的だったとか、こういう詩にはこういう音楽が合うとか、そういうセンスは鍛えられました。放送作家の中に詩人としても有名な川崎洋さんがいたり、谷川俊太郎さんがラジオの台本を書いたりしていたような時代だったんで、音楽選びはスタッフの腕の見せ所でした」 今と大きく違うのは、その自由度だろう。まだラジオというメディアには力があった。世の中が不安定だったゆえに、社会も大らかで、ラジオの制作現場には今ほど規制はなかった。 「今と比べると、自由度は高かったですね。その自由度の極致はニッポン放送なんでしょうけど、文化放送でもありました。僕がやっていたせんだみつおさんの「セイ!ヤング」でのことなんですけど、文化放送の地下にお風呂があったんですよ。そこに忍び込んで、泊まりの女子アナが入るのを待つっていうのをやりましたね(笑)。風呂のジャバジャバジャバジャバいう音を入れながらね。それは始末書でしたけど(笑)。でも、始末書をディレクターは勲章だと思ってくれてましたから。四谷の警察から呼び出しがくるわけですよ。「青少年に悪い影響がある」と。それで、ディレクターが制作部長に呼ばれて始末書を書くと。「もう◯枚目だよ」 ってみんな胸張って言ってましたからね。そういう面白い時代でした」 象徴である「オールナイトニッポン」では数々の伝説が生まれている。ロッキード事件が世間で騒がれていた時期に、アメリカのロッキード社に「飛行機を買いたい」と国際電話をかけ る。深夜に首相官邸に生電話する。二人のパーソナリティのうち、一方が裏番組に乱入して放送をジャックする。青山墓地で4時間の生放送をする。2時間同じ歌を歌い続ける。ウソの追悼番組を放送する。2万枚届いたハガキをスタジオ内に放り投げて、一番遠くに飛んだ人に1万円を贈呈する。1人のパーソナリティが50時間ぶっ続けで放送する。「この後に山手線の始発に乗る」と宣言し、リスナーを集めて騒動を起こす。まだ芸歴のない素人に電話して、その日にパーソナリティを担当させる。これらはすべて60-70年代の「オールナイトニッポン」で起きたことだ。 その自由度は"軟"だけでなく"硬"の方向にも影響を与えていた。前述したように、学生運動などが活発だった時代ゆえに、ラジオは真剣な議論の場でもあった。また、テレビや雑誌、 新聞などが取り上げることのない未知の情報を発信する役割もあった。 田家が編集・監修としてもかかわった『セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説』(扶桑社)で、さだまさし、泉谷しげる、清水国明が奇しくも口を揃えて当時のラジオを「今で言うインターネット」と称している。
「でもね、インターネットよりも双方向性があったと思います。それでありながら、1対1なんですね。ラジオで喋っている人と聴いている人が、この時間帯、この街の中で、この夜っていう空間の中で繋がっているという。その絆の強さは今のネットよりも強かったんじゃないで しょうか。声が聴こえてくるという確かさがありました。新しいメディアだったという意味ではネットに近いんでしょうけど、繋がり方には差があると思います。ネットを介して繋がっているという感覚が僕らにはわからないので、比較はしにくいんですけどね」 自由度の高い内容、メディアとしての新鮮さ、そこで生まれる熱。それらの影響もあって、 深夜帯の聴取率は非常に高かった。 「落合さんの「セイ!ヤング」の聴取率は9%あったと記憶してます。同時間帯にやっていた吉田拓郎さんの「パックインミュージック」は確か5%だったんです。拓郎さんはどうしても落合さんを抜けなかった。のちに僕が音楽関係の文章を書くようになって、拓郎さんといろい ろと付き合わせていただくようになったんですけど、よくその頃の話をするんですよ。何かの拍子で、「僕、落合さんのセイ!ヤングをやってたんですよ」って言ったら、「お前か!!」って (笑)。「あれがどうしても抜けなかったんだよ」って言われたことがありました。5%対9% の争いですよ」 当時の調査結果を調べるかぎり、この聴取率は全体のものではなく、年齢や性別を限定した数字だと思われる。それでも、驚異的な聴取率だ。 各番組には毎週数千通のハガキが集まり、ADの一番の仕事はハガキの整理だった。番組当日は夕方からディレクターはハガキの整理に明け暮れていたという。
「学校に行ったらみんな聴いているわけですよ。それで、「お前のハガキが読まれたな」って話題になるんですから。一番主流の、若者たちにとってマスなメディアですよね。ハガキを書く人はみんな本名で書くわけです。今と違って匿名希望という人が少数派ですよ。まあ、匿名希望だって紹介しながら本名言っちゃうっていうのがありましたけど(笑)。みんなそこで自分の名前を読まれることが学校での自慢だったわけです。"サブカルチャーというメインカル チャー"というか。若者文化のど真ん中にいる自負はありました」

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■メジャーからこぼれおちるもの

深夜の番組を担当するようになり、田家は作家としてさらにラジオという現場の面白さに魅了されていく。「だって、髪の毛長くて、ジーパンはいて、それで仕事ができて、レコードがもらえて、同期のサラリーマンよりもいいお金をもらうわけでしょ?それは楽しかったですよ。面白かったですよ」という田家が、当時の雰囲気を伝えるエピソードとしていつも語るのは文化放送で起きたぼや騒ぎについてだ。 「その頃の放送局はわりと出入りが自由だったということもあるので、犯人捜しが始まったん です。そうしたら、制作部長に呼ばれて、「お前、◯月◯日の◯時◯分、どこにいた?」って聞かれた。僕は朝のワイドから夜の「セイ!ヤング」までずっと担当していたんで、朝から晩まで文化放送にいたわけです。地下のQという喫茶店があったので、「そこで台本を書いてましたよ」って話したんですけど、「見たヤツいるか?」と。「マスターがいましたよ」って説明
したら、やっと放免されて。その時は何のことかわからなかったんですけど、ディレクターに 「ボヤがあったの知ってるよな。その時に真っ先に名前が挙がったのはお前なんだよ」って言 われて(笑)。髪の毛は長いし、風体は怪しいし、昔は新宿で雑誌を作っていましたから、アイツは新宿のフーテンだったんだろ?」って。外の妙な連中と付き合いがあって、自由に出入りできるヤツだからって真っ先に名前が挙がったらしいんです。でもまあ、それでも大きな顔をして仕事ができたわけですからね。面白い場所だなと思いましたよ(笑)」 田家は「セイ!ヤング」の他にも、『みのもんたのワイド・No.1』、『三ツ矢フォークメイツ』、 『落合恵子のサウンドフォーク』などを担当した。ラジオの全盛期と言っても過言ではない70年代前半に味わった構成作家の楽しさを問うと、「ゴーストライター」という言葉が飛び出した。 「いろんなタイプの番組があったんで、いろんなタイプの作り方ができたのは面白かったです。 パーソナリティになりきって台本を書くわけです。僕は放送作家をやりながら、ゴーストライターとして何冊か本を作っているんですけど、放送作家とゴーストライターがイコールだったんですよ。今はゴーストライターって良くないもの、決して褒められた存在じゃないって言われてますけど、言葉で演技するという部分は放送作家も同じだと思ったんですよね。落合さんの時には女性言葉で書くわけでしょ。男性アナウンサーに書く時はそれなりに襟を正して書いたり。言葉でいろんな人間になれるのは放送作家の一番の醍醐味でしたね。脚本家よりも、もっといろいろなケースがあるわけですから、その都度、自分がいろんな人になるという楽しみがありました」

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しかし、同時に構成作家の難しさにも直面する。それは田家がこの仕事を辞めることに繋がっていく。「才能やセンスのなさを感じたんです。なんで俺はこんなにギャグが書けないんだろうって。 大学の頃に落語研究会にいたとか、放送研究会にいたとか、お笑い芸人をやってたとか、そういう人がいるわけです。でも、僕は編集者からなったので、ラジオの構成作家として求められるそういう部分がうまくできなかった。それと、ミュージシャンと番組をやると、みんな喋りがうまいんで、「自分の存在に意味があるんだろうか?」って感じて。それも辞めることになったいくつかの原因の一つですね。例えば、さだまさしさんの番組には構成作家っていらないんですよ。そういう現場についた時、「俺はここで何をやってんだろう?」って思い始めて」 田家が構成作家を辞めたのは78年のこと。この頃になると、深夜ラジオは再び転換期を迎 えていた当初のアナウンサー中心のスタイルは限界を迎え、有名タレントなどの名前が連なるようになってきた。 「深夜ラジオがメジャーになっていったんですよ。それまではテレビに出ない人が喋っていた。 彼らは若者たちの中ではメインカルチャーでも、世の中的にはサブカルチャーだったんです。 テレビで放送されていないような音楽が流れていたし、「俺たちが新しい時代を作っているん だ」って思えてたんですけど、深夜放送がメジャーになっていった。これはなんの他意もないんですけど、郷ひろみさんとか、桜田淳子さんとか西城秀樹さんとかがやるようになるんで 「台本を書け」と言われるんですけど、そういう人たちの台本のほうが大変なんですよね。 それでも続けていたんですけど、「俺はこういうことがやりたかったんだっけ?」と思い始めて、これだったら、テレビ番組をやっている既成の放送作家が担当すればいいんじゃないかと考えて、番組から引いたというのが大きかったですね」 「オールナイトニッポン」は73年からタレントを起用する路線にシフト。構成作家もつくようになり、笑福亭鶴光、タモリ、所ジョージ、南こうせつ、吉田拓郎、イルカ、稲川淳二らバラエティ豊かなパーソナリティが生まれ、構成作家の重要性も強まっていく。「セイ!ヤン グ」や「パックインミュージック」でもタレントが増えていくが、どちらも80年代前半に番組が終了となり、うまく転換期を乗り越えた「オールナイトニッポン」ひとり勝ちの状態となっていく。

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