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2018年4月

2018/04/30

吉田拓郎ラジオでナイトブログ・新企画はこうして決まった

吉田拓郎ラジオでナイトブログ・新企画はこうして決まった

ゴールデンウィークに突入しました。
いかがお過ごしですか?
お正月、夏のお盆と並び、
家族、ふるさとに帰省するタイミングかもしれませんね。
そんなタイミングに合わせて、「ラジオでナイト」では、
新企画の募集を始めました。
題して、「家族対抗!リクエスト合戦」!
先日の番組前に、スタッフミーティングを行いました。
洋楽のリクエストもたくさんもらってようやくツボを心得た選曲も
届くようになりましたね、と番組D。
でも、もっとバリエーションが欲しいね。
歌謡曲や、洋楽や、アイドルソング、演歌でもいい、
ただ、それをどうやって募集するかだナァとパーソナリティー。
一同、うんうん考える。
ラブソング、ってどうですか?と番組D。
リスナーにどこまで恋愛体験がありますかねーと放送作家。
一同、うんうん考える。
そこに、じゃあ、夫婦でリクエストを考えてもらうってのはどうだ?とパーソナリティー。
あ、それいいですねと、番組Dと放送作家。
夫婦でも、家族でもいいいから、話し合ってもらって、
それぞれリクエストをもらいましょうか。
そうすれば、4人家族なら、4曲、夫婦なら2曲、
それこそ三橋美智也から三浦大知まで集まりますよ、ハッハツハツ!
打合せ終了。
と決まった企画です。
新企画「家族対抗!リクエスト合戦」!
あなたの家族、夫婦、同居人、別居人、故郷に住む両親などを含めて、
あんたの周りの最小(最大)単位、「家族」「夫婦」のリクエストを
まとめてリクエストしてください。
たとえば、ご夫婦の場合、
夫、「〇〇〇〇」
妻、「〇〇〇〇」のように、
リスエスト曲と、そのリクエスト理由やエピソードをお寄せください。
もし、4人家族なら、
夫、妻、こども2人など、
「家族会議」を開くなり、遠距離電話で確認するなり、ラインで聞くなり、
それぞれの方法で、「家族対抗のリクエストをお寄せください」。
リクエスト曲を通じて、家族や夫婦が見える…。
リクエストから、夫婦、家族の会話が始まる…。
老若男女、邦楽洋楽のジャンルを超えて、
広くあまねく「リクエスト」をお寄せください。
早いもん勝ちです!このページをみたら、すぐに家族に連絡を!
たくさんのメール、お葉書、お待ちしています。
◆◆◆
さて、第54回の放送でご紹介した曲は、こちらです。
◆オープニング
・駅弁の思い出
・あなたの家にも、釜飯の釜、ありませんでしたか?

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M1 She’s Not  There/ゾンビーズ
◆メール紹介
◆ベストテイク
M2 夏休み/吉田拓郎

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◆マイフェイバリット
・ライブの終演後に、どんな曲が合うのか?
・波路はるかに/ビリー・ボーン・オーケストラ
・真珠貝の歌/ビリー・ボーン・オーケストラ
・峠の幌馬車/ビリー・ボーン・オーケストラ
M3 星を求めて/ビリー・ボーン・オーケストラ
今週の放送もお楽しみに。
◆◆◆
現在募集中のメールテーマ
◆おすすめの洋楽
…「あなたのおすすめの洋楽 この一曲」を教えてください。
拓郎さんを唸らせる一曲をぜひ。
◆あだ名の思い出
…子供の頃の「あだ名」何でしたか?
あるいは、友だちのあだ名で印象に
残っているものありますか?
可愛い、笑える、紹介しやすいものを
選りすぐりで教えてくださいね。
◆年下の男の子、年上の女の子
…年下の男の子との恋、年上の女の人との愛、あなたは経験ありますか?
エピソードをお寄せください。
◆◆◆
(ネット局のお知らせ)
おかげさまで、8局ネットに増えました。
4月からのネット局は、下記となりますので、
ニッポン放送ともどもネット各局の放送もご愛顧ください。
4月以降のネット局
STVラジオ 毎週日曜22時~23時
東北放送  毎週日曜20時~21時(曜日・時間変更)
信越放送  毎週土曜27時~28時
南海放送  毎週土曜19時~20時
(新規ネット局)
山梨放送  毎週日曜24時~25時(4月8日スタート)
北日本放送 毎週土曜18時~19時(4月7日スタート)
福井放送  毎週月曜19時~20時(4月2日スタート)
京都放送  毎週金曜23時~24時(4月6日スタート)
計8局ネット

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2018.4.29 第56回吉田拓郎ラジオでナイト

2018.4.29 第56回吉田拓郎ラジオでナイト

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2018/04/28

吉田拓郎ラジオでナイト 4/29 「元気です。」収録の名曲・夏休み はこうして生まれた

吉田拓郎ラジオでナイト
 
4/29は、 アルバム「元気です。」収録の名曲・夏休み はこうして生まれた

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2018/04/23

2018.4.15 第54回吉田拓郎ラジオでナイト

2018.4.15 第54回吉田拓郎ラジオでナイト

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2018/04/22

「70歳を超えた吉田拓郎さんは、今も道を切り拓いているんだね」放送作家 西川栄二さんブログ

「70歳を超えた吉田拓郎さんは、今も道を切り拓いているんだね」

放送作家 西川栄二さんブログ 

2018-04-22

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吉田拓郎ラジオでナイトブログ更新・シンシアとデモテープ公開

シンシアとデモテープ公開
全国的に気温がぐんぐん上昇してきました。
今日の「吉田拓郎 ラジオでナイト」
スペシャルWEEKです。
ぜひ、聴いてくださいね!
先週の番組でお知らせした通り、
2つの目玉企画があります。
ひとつは、蔵出しデモテープ。
前回のスペシャルWEEKで大好評だったこの企画、
今回は、まだ未発表曲のデモテープです。
貴重です。ぜひ、お聞き逃しなく。
そして、もうひとつは、今週のベストテイク。
キャンディーズの「やさしい悪魔」、
森進一さんの「襟裳岬」に続いて、
4月22日(日)は、
よしだたくろう・かまやつひろしの「シンシア」。
です。
CBSソニー時代に発表した、二人の共演。
番組で度々出てくる
拓郎さんとかまやつさんのエピソードを
想像しながら聴くと、
また味わい深いものがあります。
ぜひ、お聞き逃しなく。
どうぞ、今週もお楽しみに!
◆今週の一枚
CBSソニーの話が出ましたが、
いまの銀座ソニービル跡地。

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銀座の数寄屋橋交差点にあったソニービルは、
ご覧の通り、いまはありません。
あの場所は、いま更地。
工事現場の囲いの向こうに見えるのは、
銀座のエルメスビル。
夕方になると、ビルの淡い明かりが
数寄屋橋の交差点から目立ちます。
東京オリンピック・パラリンピックを前に
変わる東京。
◆◆◆
さて、第52回の放送でご紹介した曲は、こちらです。
◆オープニング
・大谷翔平すごい!吉田家も応援
◆洋楽リクエスト
M1 サンセット77/オリジナルサウンドトラック
◆ベストテイク
・襟裳岬/吉田拓郎(「Oldies」より)
M2 襟裳岬/森進一
◆マイフェイバリット
・ALL I WANNA DO/シェリル・クロウ
・タルサ・タイム/エリック・クラプトン
M3 タルサ・タイム/シェリル・クロウ
今週の放送もお楽しみに。
◆◆◆
現在募集中のメールテーマ
◆おすすめの洋楽
…「あなたのおすすめの洋楽 この一曲」を教えてください。拓郎さんを唸らせる一曲をぜひ。
◆あだ名の思い出
…子供の頃の「あだ名」何でしたか?
あるいは、友だちのあだ名で印象に
残っているものありますか?
可愛い、笑える、紹介しやすいものを
選りすぐりで教えてくださいね。
◆年下の男の子、年上の女の子
…年下の男の子との恋、年上の女の人との愛、あなたは経験ありますか?
エピソードをお寄せください。
◆◆◆
(ネット局のお知らせ)
おかげさまで、8局ネットに増えました。
4月からのネット局は、下記となりますので、
ニッポン放送ともどもネット各局の放送もご愛顧ください。
4月以降のネット局
STVラジオ 毎週日曜22時~23時
東北放送  毎週日曜20時~21時(曜日・時間変更)
信越放送  毎週土曜27時~28時
南海放送  毎週土曜19時~20時
(新規ネット局)
山梨放送  毎週日曜24時~25時(4月8日スタート)
北日本放送 毎週土曜18時~19時(4月7日スタート)
福井放送  毎週月曜19時~20時(4月2日スタート)
京都放送  毎週金曜23時~24時(4月6日スタート)
計8局ネット

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2018/04/16

2018.4.15 第54回吉田拓郎ラジオでナイト

2018.4.15 第54回吉田拓郎ラジオでナイト

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2018/04/13

吉田拓郎ラジオでナイトブログ・誕生日おめでとうお手紙、ありがとうございます!

吉田拓郎ラジオでナイトブログ・誕生日おめでとうお手紙、ありがとうございます!

月5日、拓郎さんのお誕生日にあわせて
たくさんのメールやお葉書、封書をいただき、
ありがとうございました!!!
いただいた「おめでとうメッセージ」は、
先日公開したスタジオ写真にあるように、
ズラリと机の上に並べられ、
拓郎さんは、それぞれを楽しそうに目を通しました。
さて、先週のベストテイク
キャンディーズの「やさしい悪魔」に続き、
3週連続で、楽曲提供した作品を取り上げます。
4月15日(日)は、森進一さんの「襟裳岬」、
そして4月22日(日)は、よしだたくろう・かまやつひろしの「シンシア」。
名曲レコーディング秘話が聞けるのは、
まさにこの番組でナイト!
どうぞ、今週、来週をお楽しみに!
◆今週の一枚
拓郎さんのラバーキーホルダー

0413a

◆◆◆
さて、第51回の放送でご紹介した曲は、こちらです。
◆オープニング・VANとジーンズのはき方
M1 VOICE/吉田拓郎
M2 インスピレーション/ジプシー・キングス
◆メール
・日本酒
◆ベストテイク
M2 やさしい悪魔/キャンディーズ
◆マイフェイバリット
M3 ザ・ハリケーン/ボブ・ディラン
今週の放送もお楽しみに。
◆◆◆
現在募集中のメールテーマ
◆おすすめの洋楽
…「あなたのおすすめの洋楽 この一曲」を教えてください。拓郎さんを唸らせる一曲をぜひ。
◆年下の男の子、年上の女の子
…年下の男の子との恋、年上の女の人との愛、あなたは経験ありますか?
エピソードをお寄せください。
◆◆◆
(ネット局のお知らせ)
おかげさまで、8局ネットに増えました。
4月からのネット局は、下記となりますので、
ニッポン放送ともどもネット各局の放送もご愛顧ください。
4月以降のネット局
STVラジオ 毎週日曜22時~23時
東北放送  毎週日曜20時~21時(曜日・時間変更)
信越放送  毎週土曜27時~28時
南海放送  毎週土曜19時~20時
(新規ネット局)
山梨放送  毎週日曜24時~25時(4月8日スタート)
北日本放送 毎週土曜18時~19時(4月7日スタート)
福井放送  毎週月曜19時~20時(4月2日スタート)
京都放送  毎週金曜23時~24時(4月6日スタート)

計8局ネット

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ニッポン放送垣花アナウンサー拓郎にフルフールのゼリーを贈る

ニッポン放送垣花アナウンサー拓郎にフルフールのゼリーを贈る

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2018/04/09

スペシャルウィーク4月22日 (日) 吉田拓郎 ラジオでナイト

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スペシャルウィーク4月22日 (日) 吉田拓郎 ラジオでナイト

72歳の誕生日を迎えても、なおジーンズをはきこなし、
ギター片手にしゃべり続ける、われらが吉田拓郎さん!
その元気いっぱいの拓郎さんが、4月22日(日)にお送りする(予定)のスペシャル企画はこちら!
◆「吉田拓郎ラジオでナイト~ギターよ、今夜も有難うスペシャル」
・若者のギター離れが話題になる中、この番組に「ギター」は欠かせません。
・そこで、リスナーの皆さんにも「わたしとギター」テーマで緊急募集。
たとえば…
・あなたが選ぶ「ギターの名演」(クロード・チアリからベンチャーズ、寺内タケシ、加山雄三、坂崎幸之助まで)
・ギター名器(モーリス、ギブソン、フェンダーなどなど)トーク
・私が選ぶ拓郎ソング・ギター演奏ベストテイク
などなど、拓郎さんとあなたがギターのすばらしさを語るスペシャルです。
もちろん、弾き語りもいつも以上に?飛び出す予感。
4月22日(日)の「吉田拓郎ラジオでナイト」をお聞き逃しなく!
※注)なお、上記企画は、出演者とスタッフの気ままなやりとりのなかで、企画が変更になる場合がありますのでご了承ください。(笑)

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2018.4.8 第53回吉田拓郎ラジオでナイト

2018.4.8 第53回吉田拓郎ラジオでナイト

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2018/04/06

吉田拓郎ラジオでナイトブログ更新・祝!番組1周年! 祝!番組50回

ついに、
そしておかげさまで「吉田拓郎ラジオでナイト」は、
番組1周年、そして記念すべき50回を数えることができました!
これもひとえに番組を聞いていただいている皆様のおかげでございます。
ありがとうございました!!!!
そこで、記念すべき回ということで、
今回の写真は、拓郎さんと、地味な中年スタッフ。
初の3ショット解禁です。
拓郎さんを挟んで、
写真左が痛風と闘うHディレクター。
右は写真が苦手でぎこちない表情の放送作家K。
やっぱり、裏方の人間って、華がありませんね(笑)。
皆様からのおハガキ、メールがあっての番組です。
これからも拓郎さんを刺激するメッセージお待ちしております。

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◆◆◆
さて、第50回の放送でご紹介した曲は、こちらです。
◆オープニング
・1年続いても飽きなかった!
・エイベックス、ニッポン放送、吉田拓郎の三者寿司会談
◆メール
M1 a Change is gonna come/サム・クック
◆ベストテイク
M2 いくつになってもハッピーバースディ/吉田拓郎
◆マイフェイバリット
M3 ステイン・アライブ/ビージーズ
今週の放送もお楽しみに。
◆◆◆
現在募集中のメールテーマ
◆おすすめの洋楽
  …「あなたのおすすめの洋楽 この一曲」を教えてください。拓郎さんを唸らせる一曲をぜひ。
◆おすすめの日本酒(辛口限定)
  …「辛口」好きの拓郎さんが、探しているのは晩酌に飲める手軽な日本酒。
   全国から日本酒の銘柄が殺到しています。
◆年下の男の子、年上の女の子
  …年下の男の子との恋、年上の女の人との愛、あなたは経験ありますか?
   エピソードをお寄せください。
◆◆◆
(ネット局のお知らせ)
おかげさまで、8局ネットに増えました。
4月からのネット局は、下記となりますので、
ニッポン放送ともどもネット各局の放送もご愛顧ください。
4月以降のネット局
STVラジオ 毎週日曜22時~23時
東北放送  毎週日曜20時~21時(曜日・時間変更)
信越放送  毎週土曜27時~28時
南海放送  毎週土曜19時~20時
(新規ネット局)
山梨放送  毎週日曜24時~25時(4月8日スタート)
北日本放送 毎週土曜18時~19時(4月7日スタート)
福井放送  毎週月曜19時~20時(4月2日スタート)
京都放送  毎週金曜23時~24時(4月6日スタート)
計8局ネット
(終了)
中国放送  3月30日終了

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153-0051 そんな1日

153-0051 そんな1日

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2018/04/05

HIKE OUT STAFF VOICE 4月5日

HIKE OUT STAFF VOICE 4月5日

Happy birthday. To be a wonderful day!

おめでとうございます。

今日は少し肌寒い日ですが、

心温かな素敵な1日をお過ごしください。

HIKEOUT

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エレックの時代Ⅱ萩原克己 ②

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エレックレコードの第1弾は浅沼が持ち込んだ土居まさるのレコード、4曲入り17センチLP『カレンダー』であった。1969年4月に通販のみのスタイルで発売したところ、土居自身がディスクジョッキーを務めるラジオ番組から火が点いて数万枚を超えるヒットとなり、シングルカットしたLPタイトルの『カレンダー』も8万枚という当時としてはスマッシュヒットといえる売上げ枚数を記録した。 船出は順調だったエレックレコードだが土居に続くミュージシャンがおらず、順風満帆という訳にはいかなかったが、それでも音楽好きの若者の間でエレックレコードは知る人ぞ知る的な存在になっていた。 しかし俺たちマックスはその社名を耳にしたことがある程度で、どういう会社なのか皆目見当もっかない。そんな状態のまま、俺たちは事務所を訪ねたのである。
新宿御苑と四谷三丁目の間の喫茶店「葵」の二階に、そのレコード会社、エレックレコードは事務所を構えて いた。 「マックス、紹介するよ。彼が電話で言ってたちょっと気になるフォークシンガーの吉田拓郎だ。 (当時はひらがなでよしだたくろうと表記していた)」 それが吉田拓郎との出会いだった。横にはマネージャーの服塚と、拓郎が所属していた広島フォーク村の村長 である伊藤明夫がついており、浅沼は拓郎のプロデューサーを担当していたのだ。 吉田拓郎についてここであれこれ書くのは、この本を読んでくれるような読者には野暮の骨頂というものだから、あえて詳しく触れはしないが、当時ヤマハのイベントで全国を渡り歩いていた浅沼が広島で目をつけた音楽集団、広島フォーク村の音楽面におけるリーダー的存在だったのは有名な話で、すでにいくつかの全国レベルの大会で自身のバンドを率いて入賞を繰り返し、ヤマハライトミュージックでも俺たちが優勝した1968年の全国大会にザ・ダウンタウンズなるバンド名で出場しており、その才能にほれ込んだ浅沼がすでに地元の会社に就職していた拓郎を口説き落として上京させただけに、浅沼、いや、エレックレコードにとっていわば"秘密兵器"的な存在だったのだ。浅沼のプロデュースに自然と力が入るのも無理はない。そして、そんなエレックレコード期待の新人アーティストのバックを、無名の俺たちマックスに担当させてくれるというのだから、願ってもない話であった。
たいした話もしないままその日の顔合せと打合せはお開きになり、1970年5月、今はなき六本木ソニースタジオでアルバム「青春の詩」のレコーディングが始まった。吉田拓郎が24歳で、俺が21歳のときであった。 r青春の詩」よしだたくろう1970年10月発売
A面 ①青春の詩 ②とっぽい男のバラード ③やせっぽちのブルース ④のら犬のブルース ⑤男の子女の娘 ⑥兄ちゃんが赤くなった
B面 ①雪 ②灰色の世界I③俺 ④こうき心 ⑤今日までそして明日から ⑥イメージの詩

Book3


A面がマックス、B面がギタリストの沢田俊吾の演奏とアレンジで制作された1曲ずつ拓郎とアレンジの打ち合せをしながら仕上げていく。5曲を3、4時間で仕上げた記憶がある。まだ2チャンネルの時代だった。その頃のレコーディングはレコード会社専属のミュージシャンや、当時日本ではまだ珍しかった"スタジオミュージシャン"が台頭し始めた時代であった。ミュージシャンもフルバンド出身のジャズミュージシャンが多く、ロックミュージシャンやバンドによる音作りなどほとんどない時代だったから、拓郎と俺たちマックスによる共同作業は、ある種パイオニア的な試みだったといえるだろう。ちなみに、六本木ソニースタジオの正式オープン は翌年の1971年であり、この時期はまだレコーディングスタジオが本稼動する前に必要な"ローリング"、いわば試運転の時期だった。多分スタジオ代の関係で、本稼動前のその安価な時期に使わせてもらったのだろう。
パイオニアだけに資金は潤沢ではなかったのだ。
コンソールルームの片隅で、セーラー服を着た可愛い女の子がソファに座っていた。のちにエレックレコードから歌手デビューする中沢厚子であった。『青春の詩』ではA面の5曲目、『男の子女の娘』で拓郎とデュエットしていた。多分この頃は17歳くらいだったと思う。
このレコーディングを境に、吉田拓郎のバックミュージシャンとしての活動が始まった。彼の後について日本全国いろんなところを回った。今でこそフォークの神様といわれる吉田拓郎だが、東京と地元の広島はまだしも、この頃はよほどのファンでもない限り地方で彼の名前を知る人は多くはなかったから、プロモーションツアーというよりは、ほとんど"ドサ回り"に近い旅だった。

記憶に残っているのが、群馬県の草津温泉でのエピソードである。文化放送の主催する「ライオン・フォーク・ヴィレッジ」の公開録音であった。今でも団塊の世代の記憶に残るフォーセインツの『小さな日記』は、あの頃のカレッジフォークの大ヒット曲だが、そのフォーセインツの前座を務めたのがその日の拓郎であった。 草津に着き、こちらが会場です、と案内された先は、なんと温泉ホテルの和室ではないか。部屋の奥に目をやると、床の間のようなスペースがあり、そこがステージになっている。温泉芸者ならぬ"温泉フォーク"である。やれやれと思いながら器材のセッティングを始めるのだが、普通のステージでは演奏中バスドラム(通称 ベードラ)が動かないようにその前にストッパーを付けるのに、ここだと下が畳なのでそれが出来ない。仕方がないのでそのままでステージを始めいつものように叩くと、その勢いでベードラが少しずつ前にズレていく。
「オイオイ、俺らチンドン屋じゃないんだから。ロックバンドなんだぜ。畳の上はやめてくれよ」 と内心毒づくけれど、ペーペーのバックバンドは文句をいえる立場ではない 1曲終わるたびに俺はベードラを手前に引き寄せるなんてことを繰り返していた。この手の話は当時いくらでもあった。
拓郎の家に泊めてもらい、手作り?のボンカレーをご馳走になったことがある。多分翌日プロモーションツアーで、早朝の列車でどこかまた地方へ行くことになっていたのだろう。ただでさえミュージシャンは朝が弱い上にマックスは全員横浜市在住だ。早起きは非常に辛く厳しいということになり、当時高円寺のマンションに住んでいた拓郎に頼み込んで一夜の宿を借り、おまけにフォークの神様に食事まで作ってもらいご馳走になったのである。

-抜粋終-

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エレックの時代Ⅱ萩原克己①  

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エレックレコードの時代Ⅱ

エレックレコードの精霊たち編

【拓郎関連一部抜粋】

2004年2月、かつて日本の音楽史に確かなひとつの時代を築いたレコード会社が30年余の時を経てレーベル会社(CDやレコードなどを製品化・商品化する権利を有する会社)として復活した。社名もロゴマークも昔のままの、少しノスタルジックな再出発だったが、ともすれば一時代を築いて解散したバンドの復活のような、甘き伝説の再生に見做されがちなこの復活劇の陰で動いた連中には、センチメンタルな感情などかけらもなかった。 「俺たちがやろうとしているのは、年食って疲れ果てたオヤジたちが、昔を懐かしがろうと集まる同窓会じゃあねえんだから」 じゃあなぜレーベルを立ち上げたんだと訊かれると、この連中ときたら、「音楽を聴く者に、人と人が信じることの大切さを教えるために、俺たちが自分自身の手で育て上げるミュージシャンに:まだ見ぬ大バコの1万人を妄想する前に、目の前の10人を感動させろ"と教えるために立ち上げたんだ」と、尻の青い若僧のような台詞を喜んで吐く。

そんな男たち。

そのなかに、新生エレックレコード株式会社代表取締役社長、萩原克己、すなわちこの俺もいたのだ。

俺は1949年に横浜で生まれ、4歳上の兄・暁の影響で幼い頃から音楽、それも洋楽を聴くようになり、いつしか聴く側からプレイする側へと移っていった。 その兄が武蔵工業大学2年の20歳のときに、ザ・チェッカーズというグループサウンズのバンドを,結成した。 メンバーは、リードギターの兄、 萩原暁。サイドギターの輿石秀之は、後に大石吾郎と名乗りコッキーポップの名ディスクジョッキーになる。ベースの島英二は、いわずと知れたGSを代表するバンド、ワイルドワンズのメンバーで、ドラムの島雄一は後にレコード会社ワーナーパイオニアのミキサーになる。その島雄一がドラムを買ったとき、兄は母にその保証人になってくれるよう頼み込んだのだが、後にバンドはあえなく解散、気がつくと六畳の俺と兄の部屋にはしっかりと陣取ったドラムがあった。 すると兄はどういう訳か母に、 「克己はドラムが好きみたいだし、このドラムを克己にやらせたらいいと思うのだけど」 と吹き込み、それならばと母は形だけの保証人から、毎月俺のために月賦代金を支払うはめになったのである。 あの頃は、だれもがエレキギターに憧れていた時代である。センターに立つことが少ないベースや、ましていつもバンドの一番後ろが定位置のドラムに自分から走る奴などいなかった。たしかに俺は中学生の頃に少しプラスバンドで小太鼓をやっていたことはあったが。光沢が眩しいエレキギターを見るにつけ、 「なにが悲しくて俺は、こんな持ち運びに不便で弾き語りも出来ない楽器をやらなくちゃいけないんだ」 と兄を恨んだものだ。 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ある日兄はその頃流行っていた英国リバプールサウンドのデーブ クラーク5というグループのリーダー、デーブクラークが、ドラムをプレイしながらカッコ良く"DO YOU LOVE ME?,と歌うLPを俺に聞かせて、 「克己、お前もこうなれるんだ」 とうそぶいたのだ。 「ドラムでもボーカルをとれる!」

高校生とはいえ、俺もまだ純真だったのだ(?)。その言葉に騙されて、ひたすらドラム道を邁進していったの はいうまでもない。もっとも今思うと、俺をドラムと出逢わせてくれた兄と母には正直感謝している。なぜなら、 あのとき母が保証人にならなければ、兄貴の甘い囁きにヨロメかなければ、今の俺はきっとなかったのだから。 俺が高校二年のときに、兄がまた新しいバンドを結成した。名付けて「マックス」。今度のメンバーは、リー ドギターの兄・暁を筆頭に,ボーカル木村良二、サイドギター青木秀夫、ベース山口剛、そしてドラムがこの俺 という五人編成で兄貴以外は全員高校生というバンドだった。山口も、俺も、青木、木村も程度の低い「ヨタ 高,横浜低脳児クラブ」と世間ではいわれている高校であった。 マックスは,その頃まだ横浜や横須賀にあった米軍基地を回るバンドになり、ワンステージ1 00人ぐらいの 小さなパーティーから三00人クラスのものまで、週三回から四回のステージをこなすようになっていった。 もっともステージといっても頭に必ずストリップが入るような類のものだったが、女の裸と音楽、これが兵士に はいちばんウケた。俺たちの演奏に合わせて四、五人のストリップガールが前を隠して踊るのだが、なにせ相手 はベトナム帰りのネイビーやマリーン、戦場で想像を絶する地獄を見てきた連中である。そういう猛者たちの目 の前でストリップを演じたらどういうことになるかぐらいは、高校二年でストリップのバックバンドをやってい る俺たちにも火を見るよりも明らかだった。案の定20人ぐらいの兵士がズボンを脱いでステージに駆け上って くるのである。それをMPが制止している間にストリッパーがキャーキャー言って楽屋に逃げ戻る。興奮冷めや らぬ兵士が怒りの形相で絶叫する。 「へーイ、ボーイ、ミュージックスタート!」

ヤマハ音楽振興会の主催でその前年の1967年から始まったこのコンテストは、プロを目指すアマチュアミュージシャンの登竜門として赤い鳥やオフコースらを輩出して、日本の音楽史上に残るパイオニア的な存在と なり、後年「ヤマハポピュラーソングコンテスト」と名称を変えてからの栄光の軌跡はいうまでもない。40年代後半から80年代前半に青春時代を過ごした人ならだれでも、通称クポプコ,と呼ばれたこのコンテストの 名前を一度は耳にしたことがあるだろう。 数千もの作品が集まるテープ審査、そこで選ばれたものが次に進む県大会と関東甲信越大会、そしてさらに それに勝ち残ったものだけが立つことを許される最後のステージ、それが全国大会だ。会場は東京の渋谷公会 堂、現在のC. C. Lemonホールだ。萩原暁(ギター)、萩原克己(ドラム)、山口剛(ベース)、木村良二 (ボーカル)、青木秀夫(サイドギター)、五人組の俺たちマックスは、ようやくここまでたどり着いたのだった。 審査員は、委員長のヤマハ社長の川上源一郎を筆頭に、音楽評論家の中村とうよう、作曲家の服部克久と福田 一郎、作曲,編曲家でピアニストの前田憲男、そして当時日本音楽院というギター通信教育会社社長兼講師で、 後に俺の人生に大いなる影響を与えることになる浅沼勇という、当時としては錚々たる面々であった。 音楽には自信があったが、所詮は横浜生まれの世間知らずで度胸の良さだけが自慢の若僧である。表面では全 国大会のステージに立って当り前と強気のフリをしていたが、内心は緊張しない訳がない。無我夢中で「孤独の 叫び」と「グロリア」の二曲を演奏し終えた。 やるだけのことはやった。ステージを降りると心地よい脱力感が俺らを襲ったが、いよいよ結果発表となると、 再びまた訳のわからない緊張感が訪れた。 そして結果発表を告げるMCの声が会場内に響きわたった。

発表します。第二回ヤマハライトミュージックコンテスト、全国大会。ボーカルグループサウンド部門第1位 は、マックス!」 「やった、ロックで俺ら1位だよ!」 一生の中で純粋に喜べたことは数えるほどしかないが、その数少ない記憶のひとつがこのヤマハライトミュー ジックコンテストでの優勝だった。

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めでたく優勝したマックスだったが、当時のライトミュージックコンテストには、後のポプコンのような優勝イコール即メジャーデビューというレールはまだ敷かれておらず、せいぜい全国各地で行われるライトミュージックコンテストの地方大会やヤマハが主催するイベントにゲストバンドとして呼ばれて演奏するくらいが関の山だった。当時ヤマハは地方コンテストを星の数ほど開催していたが、そういう類の地方都市のコンテストにゲストとして出演した程度で、相変わらずバーやクラブでの演奏が続いていた。

ちなみにミュージシャンの世界も人種は関係ないのである。ただ格好いいか、上手いかにつきる。

「ヤマハライトミュージックコンテスト」の審査員の中で、俺たちマックスの最大の理解者であったのは、前述したように、当時日本音楽院というギター通信教育会社社長兼講師の浅沼勇だった。大会優勝後、ことあるごとにヤマハ主催のイベントにマックスを呼んでくれたのが浅沼だったのだ。 多分1970年の春だったと思う。ある日、その浅沼勇から連絡があった。なんでもひょんなことから通販を 主体としたレコード会社の専務になったという。 「エレックレコード」 それがそのレコード会社の社名だった。
「ちょっと気になるフォークシンガーがいるんだけど、レコーディングを手伝ってくれないかな」 「ありがとうございます。ぜひやらせてもらいます」 でさ、マックスは印税とギャラとどっちがいい? こっちはどちらでもいいよ」 「もちろん、ギャラです! 印税は結構です。必ずギャラでお願い致します」 「オーケー、わかった。じゃあ今度事務所に来てよ」
エレックレコード。
1969年に永野譲、浅沼勇らによって設立されたエレックレコードは、成り立ちからしてユニークというか成り行きというか普通ではなかった。 そもそもエレックレコードは永野が社長を勤めていたエレック社という出版社が母体だった。エレック社は オーディオ関係の雑誌を出版していたのだが、あるとき取引先の朝日ソノラマから請け負ったソノシート付きの教則本が大当たりした。売れたはいいが同時に読者から作曲に関する問合せが殺到し始めた。朝日ソノラマの親会社はあの朝日新聞である。朝日としては読者からの多数の問合せになしの礫というのでは大新聞社の沽券に関わるので、朝日ソノラマに事態の打開を指示、困り果てた朝日ソノラマがエレック社に相談したところ、ここで永野が閃いた。 「では作詞や作曲の通信講座を作り、問い合せを寄こした読者に、キミの希望や悩みはこの講座が解決する、ということにするのはどうです?」 永野の発案は成功して、問合せをしてきた読者は相次いでその通信講座を受講するようになった。
これでメデタシメデタシといかないのが面白いところで、今度は"講座で学んだ知識を実践・発表する場、優秀作品を発表する場としてレコードを出してほしい"というまた新たな要望が寄せられるようになった。あわてた永野らは大手レコード会社に相談するが、もちろん海のものとも山のものともわからないアマチュアの作品をレコード化するような太っ腹の会社などある訳がない。次々と断られ続けると、ここでまた永野が閃いた。 「どこも受けてくれないのなら、自分たちでレコードを出してしまえばいいじゃないか」 ということでエレック社は自主制作を決意したのである。ここで永野に続いてもう一人のキーマンが登場する。 浅沼勇である。 その頃日本音楽院というギターの通信教育会社の社長を務めていた浅沼は、エレック社が自主レコードの制作を始めたという話を聞きつけ、これはなにか面白いことが出来そうだと直感した。母校である立教大学の後輩で当時文化放送の人気ディスクジョッキーだった土居まさるに歌を歌わせて、それをレコード化するという企 画を温めていた浅沼は、この企画をエレックに持ち込みエレック社の自主レコード制作に関わるようになり、やがて永野、そして浅沼ら五人によってエレックレコードという新しいレコード会社が誕生することになった、と いう訳である。

つづく

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Happy Birthday

Happy Birthday

Happytakuro

拓郎さん誕生日おめでとうございます。

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2018/04/04

田家秀樹ブログ・4月の特集はユーミン。

田家秀樹ブログ・4月の特集はユーミン。

遅くなりました。もう始まってしまってます(笑)。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」4月の特集アーテイストはユーミン。昨日、一回目がオンエアされました。書いたつもりになっておりましたが、遅ればせながら。
一週目はアルファレコードのデイレクターだった有賀恒夫さん。荒井由実さんのファーストアルバム「ひこうき雲」から4枚目「14番目の月」までを担当された方です。デビュー時のユーミンの状況を一番よくご存じの方ですね。
最初は作家志望だった彼女が歌うということに対してどう思っていたのかとか、学生気分のままだった「ひこうき雲」からどんな風にプロになっていったのかとか、担当デイレクターなればこそ、という話が色々聞けました。
例えば、彼女のボーカルが最初は細かいビブラートがあった。それを直したのがデイレクターだった有賀さん。”鬼の有賀”と呼ばれていたそうですけど、彼の注文に対してユーミンがスタジオで泣いたというような話もありました。
昨日、終わってしまいましたが、明日の朝4時から再放送もあるんですよ(笑)。タイムフリーもありますし。是非。僕はタイムフリーで拓郎さんの4月1日放送分を今日、定食屋で遅い晩御飯を食べながら聞いてました。
拓郎さん、元気そうで何よりという放送でしたね。身体の方は色々問題あるけど、精神的なエネルギーは高まっている。やる気がある。一日の過ごし方についても話されてましたけど、穏やかな達観みたいなものもありました。音楽の話をしていると生き生きしてますもんね。
拓郎さんじゃなくてユーミンだ(笑)。タイムフリーで是非、ですね。5月は五週ありますからね。音楽監督の武部聡志さんが二回出てくれますし、思いがけないアーテイストも登場します。それは収録が終わってからね。みなさん忙しいんで飛ぶかもしれません(笑)。
竹原さんのインタビュー、面白かったです。丁寧で客観的で誠実で的確。紅白に出たくらいで何かが変わってしまうようなヤワなキャリアじゃありませんでした。彼はボクサーですからね。とってもフェアな試合を終えた後のような清々しいインタビューという感じでしょうか。
というわけで、曲ですね。荒井由実さん、アルバム「コバルトアワー」から「雨のスティション」を。青梅線西立川が舞台の曲。昔は米軍基地の金網が続いてました。じゃ、おやすみなさい。

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2018/04/02

2018.4.1 第52回吉田拓郎ラジオでナイト

2018.4.1 第52回吉田拓郎ラジオでナイト

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吉田拓郎が「ラジオでナイト」しゃべらない話をくりひろげる番組、それが「吉田拓郎 ラジオでナイト」。これまで歌ってきた作品について、出会った仲間について、そして、今なおライブへの意欲を燃やす情熱について、マイクに向かい、ひとり語ります。

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2018/04/01

4/1第52回吉田拓郎ラジオでナイト・2年目に突入!今年やりたいことは○○なんです

0401

4/1第52回吉田拓郎ラジオでナイト

 2年目に突入!今年やりたいことは○○なんです

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