エレックレコードの時代Ⅱ
エレックレコードの精霊たち編
【拓郎関連一部抜粋】
2004年2月、かつて日本の音楽史に確かなひとつの時代を築いたレコード会社が30年余の時を経てレーベル会社(CDやレコードなどを製品化・商品化する権利を有する会社)として復活した。社名もロゴマークも昔のままの、少しノスタルジックな再出発だったが、ともすれば一時代を築いて解散したバンドの復活のような、甘き伝説の再生に見做されがちなこの復活劇の陰で動いた連中には、センチメンタルな感情などかけらもなかった。 「俺たちがやろうとしているのは、年食って疲れ果てたオヤジたちが、昔を懐かしがろうと集まる同窓会じゃあねえんだから」 じゃあなぜレーベルを立ち上げたんだと訊かれると、この連中ときたら、「音楽を聴く者に、人と人が信じることの大切さを教えるために、俺たちが自分自身の手で育て上げるミュージシャンに:まだ見ぬ大バコの1万人を妄想する前に、目の前の10人を感動させろ"と教えるために立ち上げたんだ」と、尻の青い若僧のような台詞を喜んで吐く。
そんな男たち。
そのなかに、新生エレックレコード株式会社代表取締役社長、萩原克己、すなわちこの俺もいたのだ。
俺は1949年に横浜で生まれ、4歳上の兄・暁の影響で幼い頃から音楽、それも洋楽を聴くようになり、いつしか聴く側からプレイする側へと移っていった。 その兄が武蔵工業大学2年の20歳のときに、ザ・チェッカーズというグループサウンズのバンドを,結成した。 メンバーは、リードギターの兄、 萩原暁。サイドギターの輿石秀之は、後に大石吾郎と名乗りコッキーポップの名ディスクジョッキーになる。ベースの島英二は、いわずと知れたGSを代表するバンド、ワイルドワンズのメンバーで、ドラムの島雄一は後にレコード会社ワーナーパイオニアのミキサーになる。その島雄一がドラムを買ったとき、兄は母にその保証人になってくれるよう頼み込んだのだが、後にバンドはあえなく解散、気がつくと六畳の俺と兄の部屋にはしっかりと陣取ったドラムがあった。 すると兄はどういう訳か母に、 「克己はドラムが好きみたいだし、このドラムを克己にやらせたらいいと思うのだけど」 と吹き込み、それならばと母は形だけの保証人から、毎月俺のために月賦代金を支払うはめになったのである。 あの頃は、だれもがエレキギターに憧れていた時代である。センターに立つことが少ないベースや、ましていつもバンドの一番後ろが定位置のドラムに自分から走る奴などいなかった。たしかに俺は中学生の頃に少しプラスバンドで小太鼓をやっていたことはあったが。光沢が眩しいエレキギターを見るにつけ、 「なにが悲しくて俺は、こんな持ち運びに不便で弾き語りも出来ない楽器をやらなくちゃいけないんだ」 と兄を恨んだものだ。 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ある日兄はその頃流行っていた英国リバプールサウンドのデーブ クラーク5というグループのリーダー、デーブクラークが、ドラムをプレイしながらカッコ良く"DO YOU LOVE ME?,と歌うLPを俺に聞かせて、 「克己、お前もこうなれるんだ」 とうそぶいたのだ。 「ドラムでもボーカルをとれる!」
高校生とはいえ、俺もまだ純真だったのだ(?)。その言葉に騙されて、ひたすらドラム道を邁進していったの はいうまでもない。もっとも今思うと、俺をドラムと出逢わせてくれた兄と母には正直感謝している。なぜなら、 あのとき母が保証人にならなければ、兄貴の甘い囁きにヨロメかなければ、今の俺はきっとなかったのだから。 俺が高校二年のときに、兄がまた新しいバンドを結成した。名付けて「マックス」。今度のメンバーは、リー ドギターの兄・暁を筆頭に,ボーカル木村良二、サイドギター青木秀夫、ベース山口剛、そしてドラムがこの俺 という五人編成で兄貴以外は全員高校生というバンドだった。山口も、俺も、青木、木村も程度の低い「ヨタ 高,横浜低脳児クラブ」と世間ではいわれている高校であった。 マックスは,その頃まだ横浜や横須賀にあった米軍基地を回るバンドになり、ワンステージ1 00人ぐらいの 小さなパーティーから三00人クラスのものまで、週三回から四回のステージをこなすようになっていった。 もっともステージといっても頭に必ずストリップが入るような類のものだったが、女の裸と音楽、これが兵士に はいちばんウケた。俺たちの演奏に合わせて四、五人のストリップガールが前を隠して踊るのだが、なにせ相手 はベトナム帰りのネイビーやマリーン、戦場で想像を絶する地獄を見てきた連中である。そういう猛者たちの目 の前でストリップを演じたらどういうことになるかぐらいは、高校二年でストリップのバックバンドをやってい る俺たちにも火を見るよりも明らかだった。案の定20人ぐらいの兵士がズボンを脱いでステージに駆け上って くるのである。それをMPが制止している間にストリッパーがキャーキャー言って楽屋に逃げ戻る。興奮冷めや らぬ兵士が怒りの形相で絶叫する。 「へーイ、ボーイ、ミュージックスタート!」
ヤマハ音楽振興会の主催でその前年の1967年から始まったこのコンテストは、プロを目指すアマチュアミュージシャンの登竜門として赤い鳥やオフコースらを輩出して、日本の音楽史上に残るパイオニア的な存在と なり、後年「ヤマハポピュラーソングコンテスト」と名称を変えてからの栄光の軌跡はいうまでもない。40年代後半から80年代前半に青春時代を過ごした人ならだれでも、通称クポプコ,と呼ばれたこのコンテストの 名前を一度は耳にしたことがあるだろう。 数千もの作品が集まるテープ審査、そこで選ばれたものが次に進む県大会と関東甲信越大会、そしてさらに それに勝ち残ったものだけが立つことを許される最後のステージ、それが全国大会だ。会場は東京の渋谷公会 堂、現在のC. C. Lemonホールだ。萩原暁(ギター)、萩原克己(ドラム)、山口剛(ベース)、木村良二 (ボーカル)、青木秀夫(サイドギター)、五人組の俺たちマックスは、ようやくここまでたどり着いたのだった。 審査員は、委員長のヤマハ社長の川上源一郎を筆頭に、音楽評論家の中村とうよう、作曲家の服部克久と福田 一郎、作曲,編曲家でピアニストの前田憲男、そして当時日本音楽院というギター通信教育会社社長兼講師で、 後に俺の人生に大いなる影響を与えることになる浅沼勇という、当時としては錚々たる面々であった。 音楽には自信があったが、所詮は横浜生まれの世間知らずで度胸の良さだけが自慢の若僧である。表面では全 国大会のステージに立って当り前と強気のフリをしていたが、内心は緊張しない訳がない。無我夢中で「孤独の 叫び」と「グロリア」の二曲を演奏し終えた。 やるだけのことはやった。ステージを降りると心地よい脱力感が俺らを襲ったが、いよいよ結果発表となると、 再びまた訳のわからない緊張感が訪れた。 そして結果発表を告げるMCの声が会場内に響きわたった。
発表します。第二回ヤマハライトミュージックコンテスト、全国大会。ボーカルグループサウンド部門第1位 は、マックス!」 「やった、ロックで俺ら1位だよ!」 一生の中で純粋に喜べたことは数えるほどしかないが、その数少ない記憶のひとつがこのヤマハライトミュー ジックコンテストでの優勝だった。
めでたく優勝したマックスだったが、当時のライトミュージックコンテストには、後のポプコンのような優勝イコール即メジャーデビューというレールはまだ敷かれておらず、せいぜい全国各地で行われるライトミュージックコンテストの地方大会やヤマハが主催するイベントにゲストバンドとして呼ばれて演奏するくらいが関の山だった。当時ヤマハは地方コンテストを星の数ほど開催していたが、そういう類の地方都市のコンテストにゲストとして出演した程度で、相変わらずバーやクラブでの演奏が続いていた。
略
ちなみにミュージシャンの世界も人種は関係ないのである。ただ格好いいか、上手いかにつきる。
略
「ヤマハライトミュージックコンテスト」の審査員の中で、俺たちマックスの最大の理解者であったのは、前述したように、当時日本音楽院というギター通信教育会社社長兼講師の浅沼勇だった。大会優勝後、ことあるごとにヤマハ主催のイベントにマックスを呼んでくれたのが浅沼だったのだ。 多分1970年の春だったと思う。ある日、その浅沼勇から連絡があった。なんでもひょんなことから通販を 主体としたレコード会社の専務になったという。 「エレックレコード」 それがそのレコード会社の社名だった。
「ちょっと気になるフォークシンガーがいるんだけど、レコーディングを手伝ってくれないかな」 「ありがとうございます。ぜひやらせてもらいます」 でさ、マックスは印税とギャラとどっちがいい? こっちはどちらでもいいよ」 「もちろん、ギャラです! 印税は結構です。必ずギャラでお願い致します」 「オーケー、わかった。じゃあ今度事務所に来てよ」
エレックレコード。
1969年に永野譲、浅沼勇らによって設立されたエレックレコードは、成り立ちからしてユニークというか成り行きというか普通ではなかった。 そもそもエレックレコードは永野が社長を勤めていたエレック社という出版社が母体だった。エレック社は オーディオ関係の雑誌を出版していたのだが、あるとき取引先の朝日ソノラマから請け負ったソノシート付きの教則本が大当たりした。売れたはいいが同時に読者から作曲に関する問合せが殺到し始めた。朝日ソノラマの親会社はあの朝日新聞である。朝日としては読者からの多数の問合せになしの礫というのでは大新聞社の沽券に関わるので、朝日ソノラマに事態の打開を指示、困り果てた朝日ソノラマがエレック社に相談したところ、ここで永野が閃いた。 「では作詞や作曲の通信講座を作り、問い合せを寄こした読者に、キミの希望や悩みはこの講座が解決する、ということにするのはどうです?」 永野の発案は成功して、問合せをしてきた読者は相次いでその通信講座を受講するようになった。
これでメデタシメデタシといかないのが面白いところで、今度は"講座で学んだ知識を実践・発表する場、優秀作品を発表する場としてレコードを出してほしい"というまた新たな要望が寄せられるようになった。あわてた永野らは大手レコード会社に相談するが、もちろん海のものとも山のものともわからないアマチュアの作品をレコード化するような太っ腹の会社などある訳がない。次々と断られ続けると、ここでまた永野が閃いた。 「どこも受けてくれないのなら、自分たちでレコードを出してしまえばいいじゃないか」 ということでエレック社は自主制作を決意したのである。ここで永野に続いてもう一人のキーマンが登場する。 浅沼勇である。 その頃日本音楽院というギターの通信教育会社の社長を務めていた浅沼は、エレック社が自主レコードの制作を始めたという話を聞きつけ、これはなにか面白いことが出来そうだと直感した。母校である立教大学の後輩で当時文化放送の人気ディスクジョッキーだった土居まさるに歌を歌わせて、それをレコード化するという企 画を温めていた浅沼は、この企画をエレックに持ち込みエレック社の自主レコード制作に関わるようになり、やがて永野、そして浅沼ら五人によってエレックレコードという新しいレコード会社が誕生することになった、と いう訳である。
つづく