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2017/10/20

後藤由多加、「吉田拓郎 & THE BAND JAPAN TOUR 1974」の夢実現に向けて渡米する #ta960

先日の吉田拓郎ラジオでナイトでの拓郎自身の言葉、
『1974年だったか73年だっかにザ・バンドをバックに吉田拓郎が日本ツアーを演るという話が盛り上がった。これホントにあった。事務所の社長がロサンゼルスだったかカナダだったかへ飛んで、メンバーと会って交渉、「日本へ来ないか」という話にのった。夜中に社長から「もうすぐ決まる。曲作れよ。ツアー5、6本。6、7本演ろうな」とか言われて「わかってるわかってる。歌いたい曲もあるし曲も作るし。いいね~」と待ってた。その後、夜中の2時3時の最終決定の電話で「拓郎、ポシャっちゃったよ」。泣いたよ。「どうしたんだよ、何があったんだよ」「ディランがTHE BANDをバックに演りたい」と言い始めた。ロビー・ロバートソンから「ディランからのオファーなら断れないから東京へ行けない」ということで吉田拓郎&THE BANDの話は消えた。』
 
吉田拓郎 HISTRY 1970 - 1993 田家秀樹 では、
【73年12月21日に同月5日に発売したシングル「金曜日の朝」に続いて『LIVE '73』が出た。1月26、27日の サンプラザでのライヴを収録したこのアルバムは、 で 70年代の前半に出たライヴ・アルバムとしては最高の水準のアルバムと言っていいだろう。ギター高中正義 石川鷹彦、ドラム·田中清司、ベース 岡沢章、キーボ ード 松任谷正隆。当時のトップクラスのスタジオ・ミ ュージシャンが集まっている。ほとんどが新曲だというのも、拓郎が音楽に何を賭けようとしていたかが見えてくる。どんなに社会的な報復を受けようと、音楽で答えを出してみせる。そう言っているように思える。『LI VE '73』は、フォークのアルバムというジャンルには収 まらない。 サンプラザのコンサートが行なわれているころ、少なからず社会的なイメージ・ダウンを免れなかった拓郎を復活させようというプランが進行していた。73年、後藤由多加が渡米し、ザ·バンドと拓郎の日本での共演という交渉を進めていたのだ。アメリカン・ロックの王道を行くザ・バンドと拓郎。全国6ヵ所、会場も決まっていた。 東京は、府中の東京競馬場。拓郎の中では曲目もほぼ決まり、アレンジも決まっていた。だが、明日契約という前日、アメリカに渡っていた後藤由多加から、拓郎に電話が入る。「契約が不可能になった」という連絡だった。 ボブ・ディランの全米ツアーのバックに、ザ・バンドが 起用されることが決まったので不可能になったという 話だった。ディランでは仕方がない。拓郎は、'74年2月 ディランとザ・ バンドの因縁の全米ツアーを、ロスのフ ォーラムで観た。】
【※ ザ·バンド
60年代前半、カナダのトロントで活躍し ていたホークスというバンドが、ボブ・ディランの要請で65年夏からディランのバックを務め、ディランが交通事故で休養したため独立し、'68年「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でデビュー。このときに名前をザ・バンドとする。以後、アメリカを代表するグループのひとつになるが、'76 年11月25日のコンサートを最後に解散する。 このときのコンサート、ラスト・ワルツ“ は、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ボブ・ディランらが出演し、映画にもなっている。】
 
なるほどこちら側の事情はよくわかるものの、73年、海の向こうTHE BANDやボブ・ディラン側の状況がどうだったかと言えば、↓米ドキュメンタリーBob Dylan - Down In The Floodを見れば一目瞭然。後藤由多加はこの状況を知り千載一遇のチャンスとばかりに渡米したと思われる。もし知らなかったのならば奇跡的なタイミングである。しかし残念ながらボブ・ディランの行動は予想できなかった。
74年、ディランとのツアーでTHE BANDが素晴らしい演奏をした、とあるだけに拓郎との共演が実現されなかった事は残念の一語に尽きる。
 
 
 
 

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