3月17日 安井かずみさん
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安井かずみが裕福なサラリーマン家庭に生まれたのは、日本が第二次世界大戦参戦に向けて一歩一歩近づいていた1939年1月2日の横浜であった。それから10日後の東京でムッシュかまやつはジャズミュージシャンのティーブ釜萢の息子として生まれた。 安井は幼い頃に戦火の及ばない地域に引っ越していて、戦争の記憶をとどめない。だが代々木上原に育ったかまやつは、アメリカ軍の爆撃機B29に日本の小さな零戦が体当たりしている様を目に焼き付けている。
そんな二人が出会ったのは、日本が戦後の混乱から抜け出し高度成長の勢いにのる1960年代半ば、六本木にある伝説のイタリアンレストラン『キャンティ』であった。 かまやつの『キャンティ』デビューは1960年春のオープン時。ある日、友人だった川添象郎から「今度、うちで店やるからおいでよ」と誘われ出かけたのが、象郎の父・浩史と義母・梶子が、ヨーロッパのサロン風の店を持ちたいと開いた『キャンティ」だった。その頃のかまやつはロカビリーを歌っており、安井と顔見知りになった時にはザ・スパイダースに加入していた。
「二十歳ちょっとの私が、イヴ・サンローランのオートクチュールを着ることを習ったのは、まさしくタンタンからであった。/その高価な服を買って、ただ着ればよいのではなかった。/タンタンは私に、その着こなし、居ずまい、成り振りも教えてくれたのだ。(中略)その頃の私にとって、タンタンが全てのリファレンスであった。/そう、パセリのちぎり方から、日常茶飯事のように、ひょいひょいとパリに旅することなどを含めた、女の何千何万という、いちいちの事象の対処にし方......のリファレンスはタン タンであったのだ」(前出『キャンティの30年』
1970年代に入ると、かまやつと安井の友情は一気に深まった。共通の友人である渡邊美佐の計らいで一緒に仕事をするようになったのだ。きっかけは、ザ・スパイダー ス解散後にソロシンガーとしてスタートした彼が、1970年にリリースした初のソロ アルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』だった。当時世界的にも珍しかった 「一人多重録音」という方法で作られたこのアルバムの7番目の収録曲『二十才の頃』 は、詞を安井となかにし礼が作り、かまやつが作曲・編曲して、三人で歌っている。同時期に出た安井の唯一のヴォーカル・アルバム『ZUZU』には村井邦彦、加瀬邦彦、 沢田研二、日野皓正ら『キャンティ』人脈の人たちが曲を提供しているが、無論、かまやつもその一人だ。「この企画をした時、いっしょに話し込んで面白がっていたのは、かまやつひろし」と、安井は自著に残す。
「僕は『プール・コワ」、なぜ? っていうのを作ったの。今、考えてみるとセルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキンの曲のパクリだね。彼女の声はジェーン・バー キンみたいだったの。今でいうとカヒミ・カリィみたいな囁き声。フランス人に多いんですね。ZUZUが歌うことになったのは僕らの遊び心だけど、彼女は歌う時、珍しく照れくさがっていました。それくらいからよく一緒につるむようになったよね。若いグループのために一緒に曲を作ったり、ちょうど菊池武夫さんが『BIGI』を作った頃だったからみんなで一緒になんかやろうとしたり、もちろんよく遊んだ」
安井といつも一緒にいたコシノも加賀も、当然のごとくかまやつの遊び仲間であった。 夜毎、ディスコ『ムゲン』や『ビブロス』に繰り出し、『キャンティ」で酒を飲みながら語り明かす。 「ムダ話ばかりしてましたよ。 ZUZUの昔の男のアパートにどうも女が来てるらしい 『おどかしにいくからつきあえ』と言われて、僕とまりこさんが麻布十番のアパートの下で待っていて、『どうだった?』みたいな。そんなことを面白がっていたの。野良犬がつるんで遊んでいるような感覚だったので、僕から見てZUZUもジュンコちゃんもまりこさんも男の子みたいだった。ただみんな、洋服作っても作詞家としても女優としてもプロで、僕もプロのミュージシャンで、普通プロになると保守的になっていくのにそうはならなかった。仕事もそこそこできて自由奔放な人たちだった。だから面白かったんですね。あの時代、映画はトリュフォーとかヌーヴェルバーグに向かっていたし、音楽もチェット・ベイカーのジャズとか、そっちのほうがシャレていて開放的だったから」
学生運動が終焉に向かい、ヒッピー文化が生まれ、公害問題がクローズアップされる騒然とした時代。自由と解放こそが若者の特権であり、かまやつと安井のアイデンティティでもあった。二人は、ミーハー精神という点でも誰にもひけをとらなかった。かまやつは、安井と加瀬邦彦の三人で行った1973年のロンドンが忘れられない。
「あの頃、 ZUZUもよく僕らと一緒にいましたよ。僕もあの人も社交家だったんで、拓郎とか(井上)陽水と交流し、それはもう縦横無尽に走り回っていた。たぶん、自分で自分が楽しいスペースを探して歩ける能力を持っていたんだと思う。彼女は小柳ルミ子さんの曲を作ったりしていたけれど、それだけでは飽き足らずに、日本でもイギリスでもアメリカでもどんどん出てくるアーティストにタッチしていたがった。それによって延命しようとかじゃなくて、ただそっちのほうが面白いからってね。要するに個人の趣味だよね。この業界って成功すれば成功するほど、自分のステータスをキープしよう として人の話を聞かなくなって古くさくなっていくのが常だけれど、僕らは体力的にも インテリジェンスでもなんかムーブメントに触っていたいというタイプだったのね」
「妙な話だけれど本当のところ、よい歌を書きたい。ほんとの歌を書きたい。人々と分かち合える歌を書きたい。日本のマーケットに合わなくても、私の好きな歌も書きたい」(『空にいちばん近い悲しみ』新書館刊)
二人で作った作品は何曲もあるがヒットには結びつかなかった。
「あの人、アイドルに書いているときは、このぐらいの数字を出さなければというプレッシャーがあったと思うけれど、僕とやった時は当たろうが当たるまいが知ったことじゃないという感じで好きにやっていた。だから案の定売れなかった。たぶん、僕はその部分の友だちかな。経済、ショービジネスを計算して生きてこなかった。いや、彼女はシビアなビジネスも心得ていただろうけれど、自分を解放するためにちゃんと上手に使 い分けができた人なんじゃない? もちろん野心もあったと思うよ。瞬間的に自分を追い越そうとするやつを阻むみたいなところはあったし。ただそれも将来を見据えたもの じゃなくて、ちょっとウザいよ的な感じ。いろいろやっていく中で自分のステータスとか価値観とかが見えてくるから、彼女も学びながら譲れないことを学習していった気がする」
かまやつは、安井が「日本レコード大賞作詞賞受賞者」の肩書を有効利用した時の笑い話を聞いている。
「レコ大なんかとっているから、ある種の場所に行くと政治力があるでしょ。ZUZU がロンドンにいる僕の友だちと付き合っていた時、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでローリング・ストーンズのコンサートがあって、抽選でチケットが3枚当たったんだって。で、ロンドンから2人で行ったそうなの。そこからZUZUが大活躍して、日本大使館に『ケアお願いします』と頼んだら、大使館のでっかい車がやってきた。チケットが1枚余ったから、運転手の人に『一緒に行かない?」と誘うと、彼は『わかんないけど見たい』ってついてきて、3人で見ていたら、みんなが『ピース』と言ってる時に、その坊主刈りしたがっちりした身体の運転手が立ち上がって『安保反対!』って叫ぶんだって。そういうところをつぶさに見て教えてくれるのがすごく面白かったよね」
一番身近な男友だちは、彼女の恋も一つ一つ見てきた。
その頃の安井は、自身が第二次量産期と呼ぶように夥しい数の作品を書いていた。時には1日に10曲も書くことさえあったが、彼女はその苦労も苦悩も決して人には見せなかった。そんな当時のヒット曲のひとつが、平尾昌晃とのコンビで作った『草原の輝 き』だ。ヒットチャート1位の座はチューリップの『心の旅』に譲ったものの、この曲は40万枚を売り上げ、小柳ルミ子、南沙織、天地真理の三人娘を追随していたアイドル、アグネス・チャンの代表曲となった。
1977年、38歳の安井は、1年半の同棲生活を経て30歳の加藤和彦と結婚した。加藤は、かまやつの古くからのミュージシャン仲間であった。
そう言ってにっこり笑ったかまやつは、安井が最も輝いていた時代は1970年代だと再び回想した。
安井とかまやつとコシノジュンコをはじめとするアーティスト仲間がギンギラに着飾った姿で写る写真が残されている。いかにトガっているか、いかに個性的であるか、いかに自由であるか----それは、日本が前だけを向いていた時代の、ポップカルチャーの雄たちの艶姿。今も圧倒的にカッコいい。
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