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2017年3月

2017/03/24

ムッシュかまやつ追悼番組、フジテレビ系CSで13時間オールナイトで放送

ムッシュかまやつ追悼番組、フジテレビ系CSで13時間オールナイトで放送

Mkamayatu

3月1日に78歳で亡くなった、「ザ・スパイダース」のメンバーとして活躍したミュージシャンのムッシュかまやつ(本名・釜萢弘=かまやつ・ひろし)さんの追悼番組を、CS放送の「フジテレビNEXT ライブ・プレミアム」が4月1日午後8時から13時間にわたりオールナイト放送することが決まった。
これまでフジテレビの地上波、CS、BSで放送した「僕らの音楽」「FNS歌謡祭」などから、ムッシュかまやつさん出演のシーンや特番をまとめて放送するという。
番組名は「Merci, Monsieur “Keep on” Monsieur ~オールナイト ムッシュかまやつ」。同番組は「フジテレビNEXT ライブ・プレミアム」のほかインターネットチャンネルの「フジテレビNEXTsmart」でも視聴できる。
なお、スカパー!とJ:COMでは無料で視聴できる。

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2017/03/21

ニッポン放送洗川アナウンサーは五島列島出身

ニッポン放送洗川(エロイ川)アナウンサー日記

Araikawa00

 

2008.2.19 オールナイト。  

他では「加藤いづみのオールナイトニッポン」も聞いていました。
けっこう、下ネタも多くて、戸惑いながら・・・
でも、毎週聞いてて・・・。
まさか、オトナになってニッポン放送で働くとは・・・。
おととし、ご本人にお会いしました。
「リスナーでした」と告白するのは、
こんなにも気恥ずかしいのか、と思いましたが、
サイン入りCDをいただき、
泣きたいくらいに感激したのでした。当時30歳

2010.1.26 放牧・休養明け。

実家にも帰ってみました。
九州・長崎の西に浮かぶ7「五島列島の福江島(ふくえじま)」です。
ボクは長男で、
その下に妹2人、弟1人がいるのですが、
実家は
いまや父と母だけのふたり暮らしです。
ゆっくり
親子3人で晩酌しました。

同級生にも逢ってみました。
飯田浩司のような髪型になっていました。
地肌がのぞく彼の頭を見つめながら、
「世間からみたら、ボクもそんな齢なのか」
とショックを受けました。

五島列島では
「五島うどん」や「かんころ餅」が有名ですが、
最近は「五島茶」や「五島焼酎」なども出しているようで。
へぇ、故郷なのに知らなんだ。

ま、美味いものはたくさんあるので
興味のある方は
http://www.city.goto.nagasaki.jp
へどうぞ。

休んだのに重く疲れた身体で出社したら、封書が。
「長崎県立五島高校」の同窓生とおっしゃる方が、
五島を紹介する記事を同封して
送ってくださっていました。

どなたなのか、お名前を記されてませんでしたが、
いつもニッポン放送をお聴きになっているとのこと。
ありがとうございます。

我が母校「五島高校」はお城の跡地にあって、
まわりをお濠と石垣に囲まれていて、
大木戸門を通って登校します。

映像でご覧になりたい方は
武田鉄矢さん主演の映画「刑事物語3~潮騒の詩」をどうぞ。
この1月、DVDで発売されたばかり。
五島列島オールロケの作品です。
1984年、この映画でデビューだった沢口靖子さんが
五島高校に通っている設定です。
こんな美人高校生、
当時、島にはいなかったと思いますが。

あ、五島列島にはユーミンの歌碑があります。
福江島の隣の隣、
奈留島(なるしま)の奈留高校のために
松任谷由実(荒井由実)さんが書き下ろした曲、
それが「瞳を閉じて」。

どうやらオールナイトニッポンの投書から
生まれたらしいのですが、
今から30年以上前の話なので
ボクも詳しいことは知りません。

ニッポン放送の社員で
どなたかご存じの方、いませんかねぇ…。 

 

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2017/03/20

2017.3.19TBSラジオ爆笑問題・グループサウンズをマナブくんゲスト瞳みのる・タブレット純

2017.3.19TBSラジオ爆笑問題・グループサウンズをマナブくんゲスト瞳みのる・タブレット純

瞳みのる氏、TAROかまやつ氏を教えた事がある。

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2017/03/19

ラジオでナイトお便り募集中

ラジオでナイトお便り募集中 作家 小谷さんTweet

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2017/03/18

153-0051 メランコリー

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2017.3.17FM NACK5 坂崎幸ちゃんKトラ・ゲスト武部聡志しゃべりのみ

2017.3.17FM NACK5 坂崎幸ちゃんKトラ・ゲスト武部聡志しゃべりのみ

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2017/03/17

3月17日 安井かずみさん

証言者 : ムッシュかまやつ 平尾昌晃 村井邦彦 加瀬邦彦

◇     ◇     ◇     ◇

草原の輝き  ムッシュかまやつ

安井かずみが裕福なサラリーマン家庭に生まれたのは、日本が第二次世界大戦参戦に向けて一歩一歩近づいていた1939年1月2日の横浜であった。それから10日後の東京でムッシュかまやつはジャズミュージシャンのティーブ釜萢の息子として生まれた。 安井は幼い頃に戦火の及ばない地域に引っ越していて、戦争の記憶をとどめない。だが代々木上原に育ったかまやつは、アメリカ軍の爆撃機B29に日本の小さな零戦が体当たりしている様を目に焼き付けている。

そんな二人が出会ったのは、日本が戦後の混乱から抜け出し高度成長の勢いにのる1960年代半ば、六本木にある伝説のイタリアンレストラン『キャンティ』であった。 かまやつの『キャンティ』デビューは1960年春のオープン時。ある日、友人だった川添象郎から「今度、うちで店やるからおいでよ」と誘われ出かけたのが、象郎の父・浩史と義母・梶子が、ヨーロッパのサロン風の店を持ちたいと開いた『キャンティ」だった。その頃のかまやつはロカビリーを歌っており、安井と顔見知りになった時にはザ・スパイダースに加入していた。

「僕が会った頃のZUZUは、新興音楽出版社(現·シンコーミュージック・エンタテイメント)というところで、歌の翻訳やっていたんですよね。その時は同じ歳だなんて知りませんでした。僕らの世代というのは女性に歳を聞くのは大変失礼なことだったし、彼女は年齢不詳でした。パスポートを見たやつがいて、意外にいってんだなんて話もありましたけど、とにかく当時には珍しくお洒落だった。ファッションはもちろん、立ち居振る舞いもすべてにおいてね。車もロータスのエランというスポーツカーに乗っていた。『キャンティ」にはこっち側にヨーロッパ的なエランに乗っているZUZUがいて、もう一方の側には女だてらにアメリカ的なジープに乗っている白洲次郎さんのお嬢さんがいた。あの時代にそういう男顔負けの生活を実践してた女の人たちがいたんです。す ごいでしょ」
「実に私にとってキャンティーは素晴らしい駆け込み寺的存在であった。キャンティーに行けばいつも楽しかったから。いつもグルメと芸術とヨーロッパがあったから、いつも仲間がいたから。(中略)私はオレンジ色のロータス・エランをぶっ飛ばして、人生は何も恐くなかったが、ふとよぎる虚しさと孤独は常に友だちだった」(『30歳で生まれ変わる本』PHP研究所刊)
ヨーロッパで長く暮らした国際人のオーナー夫妻の美意識と人脈によって造り上げられた『キャンティ』は、あの頃、日本中で最もモダンで最も洒落た社交の場であった。 三島由紀夫、黒澤明、岡本太郎、小澤征爾、イヴ・サンローラン、フランク・シナトラ、 マーロン・ブランド、シャーリー・マクレーンなど世界の煌めく才能が集い、お喋りに花を咲かせながら若者たちを優しく迎え入れた。 1990年、『キャンティ』が創業30周年に編んだ社史『キャンティの30年」では、さまざまな関係者がこの店の黄金時代のエピソードを語っている。そこには『キャンティ」に足を踏み入れた頃の安井の様子も記されていた。
「安井かずみはその頃、文化学院の学生だった。MGはじめ外車のスポーツカーを乗り回していた。昼間、帝国ホテルのテラスで友人と待ち合わせ、シルバーダラー・ケーキを食べ、銀座で買物をしたり、日比谷で映画を見たり。夜はキャンティに行くというのが、毎日のパターンだった。そして休暇には、ゴルフ、テニス、スキー、車のレーシング。一般の若者たちとはかけ離れていた」(『キャンティの30年』春日商会刊)
マスコミは六本木に遊ぶ若い男女を「六本木族」と名付け、彼らは『キャンティ』に集まった。そこには”選ばれた者"たちの時間があった。 「僕らが『キャンティ』していた頃って、ZUZUも (加賀)まりこさんも、コシノジュンコちゃんも天真爛漫だったよね。『キャンティ』には世界のセレブが集まっていたから、僕は聞き耳立てて、いろんなことを聞いていた。しかも僕らのようなガキがいると、『こっちに来て仲間に入んない?』と声かけてくれる大人がいたんです。三島さんにしても黛敏郎さんにしても、今、僕がこの歳にして十代、二十代の子を見ているような感じだったんじゃない? 若い子は何を考えてるのかなと、興味の目で見られてたんだと思う。僕らは耳から覚えたことを少しずつびくびくしながら実践していって、美意識とかいろんなことを学んでいったんです。タンタンと呼ばれていた梶子さんもすごい感覚の持ち主で、ZUZUやまりこさんを可愛がっていました」
安井は数々のエッセイで『キャンティ』と川添梶子の思い出を繰り返し綴っている。  『キャンティ』は彼女にとって「二十代の東京」であり、キャンティ・クィーン梶子には「私を形作る五十パーセント以上はタンタンからいただいたもの」と最大級の賛辞を捧げる。女たちが安井をロールモデルにしたように、安井は梶子を真似たのだ。
「二十歳ちょっとの私が、イヴ・サンローランのオートクチュールを着ることを習ったのは、まさしくタンタンからであった。/その高価な服を買って、ただ着ればよいのではなかった。/タンタンは私に、その着こなし、居ずまい、成り振りも教えてくれたのだ。(中略)その頃の私にとって、タンタンが全てのリファレンスであった。/そう、パセリのちぎり方から、日常茶飯事のように、ひょいひょいとパリに旅することなどを含めた、女の何千何万という、いちいちの事象の対処にし方......のリファレンスはタン タンであったのだ」(前出『キャンティの30年』
 
「二十代の私が、今から振り返ると、危険にさえみえるほど決断に満ち、冷や冷やするほどに多角的に行動していたのも、彼女(筆者注・,梶子)を暗黙のうちに真似ていたのかもしれない」(「安井かずみの旅の手帖』PHP研究所刊)
安井を魅了した梶子とは、いったいどういう女であったのだろう。「女性自身」の人物ノンフィクション「シリーズ人間」は今に続く名物ページだが、1968年5月20日号に「社交界・午前3時の女王 川添梶子夫人の優雅さ~島津貴子夫人からG・Sまでを演出する謎の女~」と題して、39歳の梶子が登場している。
『キャンティ」の1階には、梶子がデザイナーと経営者を兼ねるブティック『ベビードール」があった。常連客の渡辺プロダクションの渡邊美佐に依頼され、グループサウンズの舞台衣裳のデザインを手がけた梶子は「音響の世界に、はじめて、見る楽しさをプ ラスした女性」と呼ばれていたという。ここで描かれた梶子は美しくお洒落で、アーティスティック、そして自由奔放な女だ。それはまさに安井の記号と重なる。この記事には、梶子と宝塚歌劇団のトップスター上月晃との3人でザ・タイガースのライブを楽しむ安井の写真が掲載されていた。
かまやつは再び語る。
「ちょっと時代が遅れてユーミンとか、あそこにはやっぱりハイパーなやつが集まっていましたよね。好奇心がとにかく旺盛で、人の身につけているものがすごく気になって『あいつ、うまく着こなしてるなぁ』なんて語り合うのが一番の生活の楽しみだった。 オシャレな人ってオシャレな人を研究するよね、勝手に。『キャンティ』っていうのは、そういうトレーニングの場だった。今みたいに情報がない時代だから、パリやロンドンから帰国したやつの周りにみんなが集まって、そのネタで一週間はもったものね。外国に行くと、まるで新しいものを買い出しに行くみたいだった。とにかくみんな自分が1番と思っていたよね」
 

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1970年代に入ると、かまやつと安井の友情は一気に深まった。共通の友人である渡邊美佐の計らいで一緒に仕事をするようになったのだ。きっかけは、ザ・スパイダー ス解散後にソロシンガーとしてスタートした彼が、1970年にリリースした初のソロ アルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』だった。当時世界的にも珍しかった 「一人多重録音」という方法で作られたこのアルバムの7番目の収録曲『二十才の頃』 は、詞を安井となかにし礼が作り、かまやつが作曲・編曲して、三人で歌っている。同時期に出た安井の唯一のヴォーカル・アルバム『ZUZU』には村井邦彦、加瀬邦彦、 沢田研二、日野皓正ら『キャンティ』人脈の人たちが曲を提供しているが、無論、かまやつもその一人だ。「この企画をした時、いっしょに話し込んで面白がっていたのは、かまやつひろし」と、安井は自著に残す。

「僕は『プール・コワ」、なぜ? っていうのを作ったの。今、考えてみるとセルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキンの曲のパクリだね。彼女の声はジェーン・バー キンみたいだったの。今でいうとカヒミ・カリィみたいな囁き声。フランス人に多いんですね。ZUZUが歌うことになったのは僕らの遊び心だけど、彼女は歌う時、珍しく照れくさがっていました。それくらいからよく一緒につるむようになったよね。若いグループのために一緒に曲を作ったり、ちょうど菊池武夫さんが『BIGI』を作った頃だったからみんなで一緒になんかやろうとしたり、もちろんよく遊んだ」

安井といつも一緒にいたコシノも加賀も、当然のごとくかまやつの遊び仲間であった。 夜毎、ディスコ『ムゲン』や『ビブロス』に繰り出し、『キャンティ」で酒を飲みながら語り明かす。 「ムダ話ばかりしてましたよ。 ZUZUの昔の男のアパートにどうも女が来てるらしい 『おどかしにいくからつきあえ』と言われて、僕とまりこさんが麻布十番のアパートの下で待っていて、『どうだった?』みたいな。そんなことを面白がっていたの。野良犬がつるんで遊んでいるような感覚だったので、僕から見てZUZUもジュンコちゃんもまりこさんも男の子みたいだった。ただみんな、洋服作っても作詞家としても女優としてもプロで、僕もプロのミュージシャンで、普通プロになると保守的になっていくのにそうはならなかった。仕事もそこそこできて自由奔放な人たちだった。だから面白かったんですね。あの時代、映画はトリュフォーとかヌーヴェルバーグに向かっていたし、音楽もチェット・ベイカーのジャズとか、そっちのほうがシャレていて開放的だったから」

学生運動が終焉に向かい、ヒッピー文化が生まれ、公害問題がクローズアップされる騒然とした時代。自由と解放こそが若者の特権であり、かまやつと安井のアイデンティティでもあった。二人は、ミーハー精神という点でも誰にもひけをとらなかった。かまやつは、安井と加瀬邦彦の三人で行った1973年のロンドンが忘れられない。

「ロッド・スチュワートのいたフェイセズを見に行こうってね。思いつくと、すぐ行っちゃうみたいなところが僕らにはあったんですよ。で、その行きの飛行機のファーストクラスにカトリーヌ・ドヌーヴが乗っていた。来日して帰るところだったらしいの。僕 ら、『カトリーヌ・ドヌーヴだ!』って興奮して、3人ともパスポートにサインしてもらいましたよ。プライベートだとできるだけ安く行きたいから、3人ともエコノミーだった。向こうではコンサートやレコーディングを見て喜びに浸り、サッカーの選手や王室の一族が来るような店を探して出かけるの。おお、あそこにオナシスがいる、あ、マリア・カラスだ、チャールズ皇太子だって、それが楽しくてしょうがない。欲望のありどころというか価値観のチョイスが僕とZUZUはとても似ていたんだね。たとえばV12以外のエンジンのフェラーリならミニ ・クーパーのほうがいいとか、自分の行くところにはケリーバッグは似合わないからケンゾーのバッグを持っていくとか、そういったところ」
音楽的なセンスも仕事へのスタンスも、二人はどこか似ていた。かまやつはジャンルを越えて新しい音を追い続けているミュージシャンだ。1975年に出したアルバム『あゝ我が良き友よ』は、彼と吉田拓郎との交流から生まれたものだが、当時はロックからフォークに行くなんてと批判の声も上がった。

「あの頃、 ZUZUもよく僕らと一緒にいましたよ。僕もあの人も社交家だったんで、拓郎とか(井上)陽水と交流し、それはもう縦横無尽に走り回っていた。たぶん、自分で自分が楽しいスペースを探して歩ける能力を持っていたんだと思う。彼女は小柳ルミ子さんの曲を作ったりしていたけれど、それだけでは飽き足らずに、日本でもイギリスでもアメリカでもどんどん出てくるアーティストにタッチしていたがった。それによって延命しようとかじゃなくて、ただそっちのほうが面白いからってね。要するに個人の趣味だよね。この業界って成功すれば成功するほど、自分のステータスをキープしよう として人の話を聞かなくなって古くさくなっていくのが常だけれど、僕らは体力的にも インテリジェンスでもなんかムーブメントに触っていたいというタイプだったのね」

「妙な話だけれど本当のところ、よい歌を書きたい。ほんとの歌を書きたい。人々と分かち合える歌を書きたい。日本のマーケットに合わなくても、私の好きな歌も書きたい」(『空にいちばん近い悲しみ』新書館刊)

二人で作った作品は何曲もあるがヒットには結びつかなかった。

「あの人、アイドルに書いているときは、このぐらいの数字を出さなければというプレッシャーがあったと思うけれど、僕とやった時は当たろうが当たるまいが知ったことじゃないという感じで好きにやっていた。だから案の定売れなかった。たぶん、僕はその部分の友だちかな。経済、ショービジネスを計算して生きてこなかった。いや、彼女はシビアなビジネスも心得ていただろうけれど、自分を解放するためにちゃんと上手に使 い分けができた人なんじゃない? もちろん野心もあったと思うよ。瞬間的に自分を追い越そうとするやつを阻むみたいなところはあったし。ただそれも将来を見据えたもの じゃなくて、ちょっとウザいよ的な感じ。いろいろやっていく中で自分のステータスとか価値観とかが見えてくるから、彼女も学びながら譲れないことを学習していった気がする」

かまやつは、安井が「日本レコード大賞作詞賞受賞者」の肩書を有効利用した時の笑い話を聞いている。 「レコ大なんかとっているから、ある種の場所に行くと政治力があるでしょ。ZUZU がロンドンにいる僕の友だちと付き合っていた時、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでローリング・ストーンズのコンサートがあって、抽選でチケットが3枚当たったんだって。で、ロンドンから2人で行ったそうなの。そこからZUZUが大活躍して、日本大使館に『ケアお願いします』と頼んだら、大使館のでっかい車がやってきた。チケットが1枚余ったから、運転手の人に『一緒に行かない?」と誘うと、彼は『わかんないけど見たい』ってついてきて、3人で見ていたら、みんなが『ピース』と言ってる時に、その坊主刈りしたがっちりした身体の運転手が立ち上がって『安保反対!』って叫ぶんだって。そういうところをつぶさに見て教えてくれるのがすごく面白かったよね」

一番身近な男友だちは、彼女の恋も一つ一つ見てきた。

「恋人が替わるのがあまりにも早くてね、その度に僕にも友だちが増えるという感じ。 恋愛の数は僕より断然多かった。ZUZUは自分が翻弄できる男、つまり未知数の男が好きなんだよ。脂ぎっているような男は嫌いだったんじゃない?『全部私が面倒を見てあげるから言うことを聞きなさい』って感じかな。でも、彼女は赤ちゃんぽくて、セックスしているんだかしていないんだかわからなかった。通常の女性よりも翔んでいる? なんか浮遊感がありました。あの時代にはマドンナみたいなフィジカルな女は絶対いなくて、ツイッギーみたいなのがイイ女だったわけ。小枝ちゃんだから、フィジカルにダメなところは『ちょっと助けて』と男言えるじゃない。今は女が元気よすぎて少しつまんないけど、あの時代はやっぱり男性上位だったから、ちょうどバランスがよかったんだね。でも、あんなにいっぱい詞を書いていて、よく恋愛する余裕があったと思うよ」

その頃の安井は、自身が第二次量産期と呼ぶように夥しい数の作品を書いていた。時には1日に10曲も書くことさえあったが、彼女はその苦労も苦悩も決して人には見せなかった。そんな当時のヒット曲のひとつが、平尾昌晃とのコンビで作った『草原の輝 き』だ。ヒットチャート1位の座はチューリップの『心の旅』に譲ったものの、この曲は40万枚を売り上げ、小柳ルミ子、南沙織、天地真理の三人娘を追随していたアイドル、アグネス・チャンの代表曲となった。

1977年、38歳の安井は、1年半の同棲生活を経て30歳の加藤和彦と結婚した。加藤は、かまやつの古くからのミュージシャン仲間であった。

「彼のことはサディスティック?・ミカ・バンドの頃から知っている。音楽でも生活でも新しさを追求したやつです。この間も、フォークの人と話していたんだけど、トノバンってやっぱりすごいよな、という話になったね。とにかくZUZUとトノバンの二人はいろんな価値観が合ったんじゃない? すごく似合っていた。ZUZUはトノパンと結婚してから我々が出入りするようなところにあまり来なくなったね。あの2人には2人の世界があって幸せだったんだよ」
そう言ってにっこり笑ったかまやつは、安井が最も輝いていた時代は1970年代だと再び回想した。
「あの時代、ウザいくらいエネルギーのあるやつが入れ代わり立ち代わり現れてきた中で、小動物のように飛び回っていたね。僕は、ZUZUのこと、サンジェルマン・デ・プレをちょっと切り抜いて持ってきたみたいな感じの人だと思ってずっと見ていました。
70年代はフランス文化の時代だったけれど、ロンドンにもパリにもモードに対抗して、 ヒッピーみたいなファッションがあった。いつもカルチャーとサブカルチャーの両方があって、 彼女も僕もそのどっちにものっかっていたかった。もうあんな人は出てこないと思う。特殊な時代と特殊な文化と特殊な価値観の中で生きてきた人だもの。早くに亡 くなったのは残念だけれど、ちょうどよかったんじゃないかな。こんな疲弊していく日本を見たくもなかっただろうから」
安井とかまやつとコシノジュンコをはじめとするアーティスト仲間がギンギラに着飾った姿で写る写真が残されている。いかにトガっているか、いかに個性的であるか、いかに自由であるか----それは、日本が前だけを向いていた時代の、ポップカルチャーの雄たちの艶姿。今も圧倒的にカッコいい。

- 安井かずみがいた時代 -

◇     ◇     ◇     

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そして安井かずみ。1994年3月17日、肺ガンで死亡。「亡くなる2週間くらい前でした。1階のカフェに安井さんがいて、非常におとなしく座っていました。その前にも2度も加藤和彦さんとふたりでいらっしゃって食事をされたりして。でもその時はひとりでした。何か寂しそうでねぇ。声をかけようと思ったら、安井さん、にこっとして『石井さん、元気?』って。ええ、そうです。 『元気?』って聞かれて」

安井かずみの思い出を語るウェイターの石井勇は来年、定年退職する。自由な時間ができた彼は退職金をはたいて、生まれて初めての外国旅行に出かける。

- キャンティ物語 -

サマルカンド・ブルーWild lion or unpolished diamond 対談

 

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2017/03/14

3/14 HIKE OUT STAFF VOICE RyuSei & 残間里江子・加藤和彦 Interview

Ryusei20170314

「吉田拓郎LIVE 2016」の各会場、及びオフィシャルグッズ通販にて、

ご好評をいただきました「吉田カバン×吉田拓郎 RyuSeiシリーズ」の素敵なカバン達。

大変お待たせいたしました。このたび、すべてのご注文分が完成、発送が始まっております。

すでにお手元に届いているでしょうか。

 

一針入魂。職人さんのクラフトマンシップに溢れた銘品と

あの名曲のコラボレーション。TyとRyuSeiのロゴがひときわ輝いて見えます。

いつもお伴に。長くご愛用いただければ幸いです。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

残間里江子・加藤和彦 Interview

残間  フォークルの解散後はどんなことをしていたんですか。北山さんと違って、当然ミュージシャンになろうと思ったわけですよね。

加藤  でもフォークルが売れたのなんてフロックだと思ってましたからね。まずは外国に行くことにしました。幸い、「帰って来たヨッパライ」の印税で小銭もありましたし(笑)。まずアメリカに三ヶ月、当時は大ヒッピー時代でしたね。それからヨーロッパ。ロンドン、パリ、ローマと行きましたが、ロンドンが一番面白かったです。日本と行ったり来たりしながら、一年の三分の一ぐらいはロンドンで過してたと思います。1970年代で、グラムロックが全盛でした。こんな音楽がやりたいなあって、思いました。

残間  それがサディスティック・ミカ・バンドにつながっていくんですね。でも日本の観光旅行が自由化されたのは東京オリンピックがあった1964年ですから、それからわずか6~7年の時期ですけど、単身で外国に行くのは不安はなかったですか?

加藤  いや、全然。僕は今でもそうだけど、ロンドンにいる方が精神衛生上はいいくらいです。

残間  でもあの頃のロンドンなんて、日本人はほとんど住んでなかったでしょう?

加藤  結構いましたよ。吉田カバンの吉田君とかは、ロンドンでの遊び仲間でした。彼はドイツからロンドンに流れてきて、二年ぐらい住んでたのかな。何もせずにね。

残間  反パック旅行の走りですね。加藤さんって、やっぱり先取りしてますよね。

 

 

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3月4日 追悼 かまやつひろしさん・ニッポン放送徳光和夫とくもり歌謡サタデー

3月4日追悼 かまやつひろしさん・徳光和夫とくもり歌謡サタデー16分

ON AIR曲 どうにかなるさ 

       おお,キャロル

       四葉のクローバ一

2013年5月18日ゲスト時音源少々

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3/15 小室等の新音楽夜話・ムッシュかまやつさん追悼特集

3/15 小室等の新音楽夜話・ムッシュかまやつさん追悼特集

2014年4月にゲスト出演されたムッシュかまやつさんのトークとセッションを振り返ります。

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2017/03/13

ユーミンのラジオ

           ユーミンのラジオ

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2017/03/12

2017.3.12 FMムッシュかまやつさん追悼・武部聡志のSESSIONS

FMムッシュかまやつさん追悼・武部聡志のSESSIONS

日本の音楽の第一線で活躍している音楽プロデューサー・武部聡志が、自身の音楽仲間や各界の著名人を招いてトーク・セッションを繰り広げる「武部聡志のSESSIONS」。 今回は、3月1日に亡くなった、ムッシュかまやつさんの追悼特集。 プロとしてのキャリアをかまやつさんのバックバンドからスタートさせた武部さん。かまやつさんとの思い出はもちろん、ともに作り上げた作品や、ふたりにゆかりのあるナンバーなどを聴きながら、ムッシュかまやつさんを偲びます。

◇ ライヴ2曲めは「あの時君は若かった」

◇ 二十歳そこそこでキャンティへ連れて行ってもらった

◇ 拓郎さんに「武部はムッシュのところに居たんだ。だったら安心だな」

◇ 「我が良き友よ」は6番まであった

◇ いつまでも好奇心を持ち続ける

◇ エラそうにすることはカッコ悪い、と教わった

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2017.3.12 FM愛媛 公開録音坂崎幸之助~この街に生まれて~坂崎幸之助・キッサコ

2017.3.12 FM愛媛 公開録音坂崎幸之助~この街に生まれて~坂崎幸之助・キッサコ

【会場】エミフルMASAKI エミモール1Fグリーンコート

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2017/03/10

【追悼】ムッシュかまやつさん ジャンル超えJポップに集大成 音楽プロデューサー・武部聡志

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膵(すい)がんのため1日、78歳で死去したグループサウンズ「ザ・スパイダース」元メンバーでミュージシャンのムッシュかまやつさん。かまやつさんのバックバンドでキーボードを務めて以来、約40年の親交がある音楽プロデューサーの武部聡志さん(60)は「さまざまなジャンルの音楽をJポップとして根付かせた」とその功績をたたえた。

                   

アマチュアバンドのメンバーとして東京・渋谷のリハーサルスタジオに出入りしていた音大生時代にムッシュと出会いました。「僕のバンドでやってみませんか?」と誘われたのがプロの世界に入るきっかけ。初めて一緒に演奏させてもらったのは「あの時君は若かった」です。僕をプロの道に導いてくれた恩人です。

ザ・スパイダース時代は「バン・バン・バン」などのヒット曲を連発してグループサウンズブームを牽引(けんいん)し、その後も吉田拓郎作詞・作曲の「我が良き友よ」を歌ってフォークソングブームにも一石を投じました。ロカビリー、グループサウンズ、ロック、フォーク…。さまざまな音楽を日本のポップスとして根付かせた一人だと思います。

音楽もそうですが、あらゆることに“壁”を作らない人でした。誰に対しても敬語を使い、年下の僕のことも「武部さん」と呼んでいました。かといって他人行儀な印象を与えない、絶妙な距離感がありました。

ムッシュの古希を祝って「記念のアルバムをプロデュースさせてほしい」と申し出たときも、「武部さんにお任せします」と敬語で言われたことが記憶に残っています。

平成21年に完成したアルバム「1939~MONSIEUR」には、時代の波をとらえ続けた音色を次世代に受け継ぎたいと思い、若い人とのデュエットも入れました。例えば、今井美樹との「ノー・ノー・ボーイ」、トータス松本との「どうにかなるさ」、一青窈との「バン・バン・バン」…。さまざまな世代のアーティストと交わり、本当に楽しそうな笑顔でした。

くしくも亡くなる2日前の2月27日、僕の60歳記念のライブ「武部聡志 オリジナル・アワード・ショー」を東京国際フォーラムで行い、ムッシュがデビューシングルをプロデュースした松任谷由実らと「ムッシュかまやつメドレー」を披露しました。

ライブ直前に、いとこで歌手の森山良子さんがムッシュからの手紙を託してくれました。

「僕たちはグルグルグルグル仕事をしましたね。これからもグルグルグルグルやっていってほしいと思います」

文字を書くのも困難な状態だったはずなのに語感が面白くて、遊び心を大切にしていたムッシュらしい内容だと思いました。

訃報を聞いたときは悲しかったけれど、心の中にはいつもムッシュがいる。だから、この世からいなくなったなんて思えない。どんな共演者に対しても敬意を払うミュージシャンの生き方を、受け継いでいきたいと思います。(談)

                   

【プロフィル】武部聡志

 たけべ・さとし 昭和32年、東京生まれ。国立音楽大在学中にムッシュかまやつさんのバンドに参加。58年から松任谷由実のコンサートツアーの音楽監督を担当。ライブ「武部聡志 オリジナル・アワード・ショー」が26日午後6時からWOWOWライブで放送。

 

 

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2017/03/09

153-0051 ラジオは何で聴く

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2017/03/08

吉田拓郎がニッポン放送に帰ってくる!4/2(日)23:30~新番組スタート!

吉田拓郎がニッポン放送に帰ってくる!4/2(日)23:30~新番組スタート!

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吉田拓郎がニッポン放送に帰ってきます!

2009年4月から2013年9月まで「オールナイトニッポンGOLD」のパーソナリティを務めていましたが、それ以来およそ3年半ぶりの登場!

自ら「レギュラー番組の最終章」と呼ぶ新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』(毎週日曜日:23:30~0:30)が4/2(日)スタート!

‘ラジオでナイト’語れない話の数々を初めて披露します!

昨年「LIVE2016」ツアーを終えた吉田拓郎は、いまなお音楽への情熱を燃やし続けています。

そこで、これまであまり語ることのなかった自身の作品群が、いつ、どこで、どのように作られたのかを明かす場に、ラジオを選びました。

番組名『吉田拓郎 ラジオでナイト』はラジオでなきゃしゃべらないという想いをこめたタイトル。

“落陽”“今日までそして明日から”“旅の宿”“人生を語らず”“人間なんて”“結婚しようよ”など、数多くの自身の作品はもちろん、“襟裳岬”“我が良き友よ”“やさしい悪魔”など様々なアーティストに提供した楽曲まで、1曲1曲に込められた「物語」を初めて公開します。

また、番組では、リスナーの曲にまつわる思い出、エピソード、メッセージも募集。

日曜深夜に、拓郎自身いわく「レギュラー番組の最終章」がスタートします。

番組あて手紙・はがきの宛先

〒100-8439 ニッポン放送「吉田拓郎 ラジオでナイト」

メール:ty@1242.com

FM93AM1242ニッポン放送「吉田拓郎 ラジオでナイト」

2017/4/2(日)スタート

毎週日曜日23:30~0:30

パーソナリティ:吉田拓郎

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吉田拓郎、かまやつさん偲ぶ「我が良き友よ」は歌いたがってなかった

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歌手の吉田拓郎がニッポン放送の新番組「吉田拓郎 ラジオでナイト」(4月2日スタート、日曜、後11時30分)を担当することが8日、発表された。拓郎は同局で行われた会見に出席。親交が深かったムッシュかまやつさんに提供し、大ヒットした楽曲「我が良き友よ」(75年)をめぐる秘話を明かした。

 拓郎が作詞作曲したシングル「我が良き友よ」は、「かまやつさんのスタッフからとにかくヒット曲をつくりたい」と要望を受け、曲を書いたものだったという。拓郎の友人にバンカラな応援団の人物がいて、その人物をイメージした曲だったが、「かまやつさんは歌いたくなかったようです」と明かした。

 「(かまやつさんは)ロックをやっていたわけだから、そういう趣旨からするとバンカラな感じの歌って自分には似合わないと判断されたみたいなんですけど…」と懐かしんだが、結果として曲はヒット。その後に親交がスタートした。最近まで「メールをやりとりして、これまでの長い付き合いをやりとりする友人関係が続いていました」と語った。

 同番組は「落陽」、「今日までそして明日から」、「結婚しようよ」など数多くの自身の作品にまつわるエピソードを語る。ニッポン放送の番組を担当するのはTHE ALFEEの坂崎幸之助と出演していた「オールナイトニッポンGOLD」(13年9月30日終了)以来、約3年半ぶりとなる。

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菅田将暉「オールナイトニッポン」レギュラーパーソナリティに決定!吉田拓郎からも秘密のアドバイス!?

菅田将暉「オールナイトニッポン」レギュラーパーソナリティに決定!吉田拓郎からも秘密のアドバイス!?

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8日、ニッポン放送イマジンスタジオで記者会見が開催され、大ブレイク中の俳優・菅田将暉(24)が「オールナイトニッポン」のレギュラーパーソナリティを務めることが発表された。

今年10月に放送開始50周年を迎える「オールナイトニッポン」。記念すべきこの年に、映画、ドラマ、CM、音楽と、精力的に活動を続ける俳優・菅田将暉が新パーソナリティとして加わることになった。菅田将暉は、今年4月3日から月曜日深夜1時の「オールナイトニッポン」レギュラーパーソナリティを担当する。なお、昨年から月曜日を担当していた星野源は、4月4日から火曜日担当に変更となる。

シリアスからコメディまでこなす実力派であり、2016年最もブレイクした俳優・菅田将暉だが、ラジオパーソナリティは、今年2月10日(金)に生放送した「オールナイトニッポンGOLD」のスペシャルが初体験。当日の番組には、異例の1万2千通以上のメールが届き、リスナー、ファンからの期待度、共感度の高さを裏付けた。菅田は、ラジオパーソナリティの難しさを実感しながらも、リスナーとのフレンドリーなコミュニケーション感激して、「今までにない快感。もっと喋りたい」とコメントしていた。

 

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2017年2月10日(金)放送「オールナイトニッポンGOLD」より
オールナイトニッポンらしく、ビタースイートサンバをBGMに記者会見に登場した菅田将暉。司会から、この曲が流れるとラジオって感じがしますよね?と聞かれると、「そうですね、なんか緊張しますね。普段この曲を聴いて緊張することはないんですけど、今日は緊張します。(ラジオは)俳優とは違う領域は初めてなので楽しみですけど。」と語った。

ラジオパーソナリティのオファーが来たときの心境を聞かれると、「自分の言葉で話すことがほぼないので嬉しかったです。オールナイトニッポンは、僕自身がどんどんハダカになっていく。そんな快感はほかにないかなと。なんか、すごくヘンタイな発言になりましたけど(笑)」と笑顔を見せた。普段の俳優の仕事は“服を着ていく現場”だが、ラジオは真逆で、ハダカになっていく快感があるという。

また、以前オールナイトニッポンGOLDのスペシャルパーソナリティを務めたときの感想については、「最初の1時間は地獄でしたね。誰にも助けてもらえないし、自分の言葉でやらないといけないので。10秒ぐらい音が流れなかったことがあったり、エピソードをまとめきれなかったりとか、酷かったと思う。」と振り返った。しかし後半はすごく楽しかったといい、「リスナーの皆さんからのメールが面白くて、やっと話せた。こいつ関西人じゃないやろって人が関西弁で喋ってきたりして(笑)そういうやり取りの中から、自分の喋りを見つけることができました。僕も人間なんだと思えて嬉しかったです。」と語った。「一般の方にハダカの自分をいじってもらえて、嬉しかったですね。こういうとドMみたいですけど(笑)」と笑いを誘う場面もあった。

一方、周りからの反響は、「自分も番組に出たい!」という声が多かったそう。「そんなこともできるんだと思った。この業界外の友達とかともトークしたい。洋服を作ってる友達とかいるんですけど、すごくパーソナルな会話ができそう。素をさらけ出したいですね。」とやる気に満ちた表情だった。

後半には、同じく4月からニッポン放送で新番組のレギュラーパーソナリティを務めることが決定した、吉田拓郎が登場。壇上で初めての2ショットを見せた。以前吉田の歌を弾き語りで披露し、父が吉田の大ファンだという菅田は、印象を聞かれると、「楽屋で握手をしていただいたんですが、すごくカッコ良かったです。自ら手を出して近づいてくれて。ドキッとしました。こんな光栄な事はないです。」と語った。

以前からラジオと大きな繋がりを持っている吉田から、「ラジオには、聴いてる人には伝わらないヴェールに隠れたところがあって、そこが素晴らしいところ。だから、すっぽんぽんの素もいいけど、秘密を持つとラジオは楽しくなるよ。」とアドバイスが飛ぶと、「パンツだけは履こうかなと思ってます。」と菅田らしい返しを見せた。また、吉田が大好きだという「クリームソーダを飲みながらやるといい」というアドバイスには、「それはマネてみたいですね。」と答え、微笑ましいやり取りを見せた。

菅田将暉が、初挑戦のラジオレギュラー番組で見せる新たな一面に期待が高まる。ニッポン放送『菅田将暉のオールナイトニッポン』のレギュラー初回は、4月3日(月)深夜1時から全国36局ネットで生放送される。※この番組はradikoのタイムフリー機能で放送後1週間まで聴取可能。

<番組概要>
番組タイトル:ニッポン放送『菅田将暉のオールナイトニッポン』
放送日時:毎週月曜日25時~27時
初回放送:2017年4月3日(月)25時~ 生放送
放送局:ニッポン放送ほか全国36局ネット
パーソナリティ:菅田将暉

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2017/03/07

ムッシュかまやつ氏追悼番組 & 再放送

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フジテレビNEXT

TOKYO SESSION ROCKIN’GAMBLER

3/9(木)11:00~12:00  第1夜(再)

【MC CLAN】

ムッシュかまやつ、KenKen 、シシド・カフカ

<ムッシュかまやつ コメント>

「20世紀のロッカーは、Live Fast Love Hard Die Young!!

だったと思う!!

21世紀は、ロックを骨まで愛して行き抜け!!みたいに思う!!」

 

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JFN PARK 武部聡志の SESSIONS

[radiko.jp]武部聡志の SESSIONS | e-radio FM滋賀

| 2017/03/12/月 | 24:00-25:00 

 

 

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ムッシュかまやつさん密葬、教会でしめやかに…堺正章ら60人参列

ムッシュかまやつさん密葬、教会でしめやかに…堺正章ら60人参列
1日に膵がんで死去したグループサウンズ、ザ・スパイダースの元メンバーでミュージシャン、ムッシュかまやつさん(享年78)の密葬が6日、東京・世田谷区の頌栄(しょうえい)教会でしめやかに営まれた。
 
かまやつさんがキリスト教徒だったため、教会で行われた。関係者によると、いとこで歌手の森山良子(69)やスパイダース時代の盟友、堺正章(70)、長年親交がある歌手の吉田拓郎(70)、松任谷由実(63)、エッセイストの阿川佐和子さん(63)ら近親者や親しい関係者約60人が参列。長男で歌手、TAROかまやつ(年齢非公表)が喪主を務めた。
 
かまやつさんの愛妻も夫が亡くなる直前の2月末に他界。喪主あいさつに立ったTAROは当時、父にそのことを伝えようと東京都内の病院を訪れたが、すでに痛み止めの影響で意識混濁状態だったため、伝わったか分からなかったと説明。
 
ただ、その数日後にかまやつさんも妻の後を追いかけるように旅立ち、息子としては“分かっていた”と感じたという。TAROは「父は怖がりだったので、母が『こっちもいいところよ、こわくないわよ』と言って、母のところへ旅立ったのかもしれません」と天を仰いだ。
 
森山は密葬に参列後の午後8時前、ニッポン放送「オールナイトニッポン MUSIC10」に生出演するため、東京・有楽町の同局へ。記者の声かけに無言ながらも、ほほえんで会釈してスタジオに入った。
 
番組はザ・スパイダースのデビュー曲「フリフリ」やかまやつさんが父のジャズ歌手、ティーブ釜萢さんと歌ったデュエット曲「1920&1950」など、故人にまつわる曲が流される“追悼番組”として放送。
 
森山は「『俺が死んでもビービー泣くんじゃない。そういうのが一番嫌い。死んだらヘラヘラしていろよ』といつも言われていた」と述懐。「最後まで生ききったムッシュを誇りに思います」と声を詰まらせていた。

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153-0051 我が良き友よ

          153-0051 我が良き友よ

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2017/03/06

森山良子 涙声でいとこ・かまやつさん追悼「彼の闘志が砕けて悲しい」

歌手の森山良子が6日、ラジオ「森山良子のオールナイトニッポンMUSIC10」(ニッポン放送)で、1日に膵(すい)がんで亡くなった、いとこのムッシュかまやつ(本名 釜萢弘=かまやつ・ひろし)さんについて思いを語った。
 
番組冒頭で「私事ではありますが、私のいとこ、ムッシュかまやつ、3月1日、亡くなりました」と報告した。「同じ音楽の世界にいた、母同士がきょうだいという…。私たちはかなり仲のいいいとこで、ずっと長い間一緒に苦楽を話し合いながらやってきた者同士として、とってもとっても残念で、最後までもう1度音楽に復帰すると言っていた彼の闘志が砕けてしまって悲しいです」と、時折、涙声になりながら語った。
 
天国のかまやつさんを「最後まで現役のミュージシャンとして生き切ったムッシュをとっても誇りに思っています」と思いやった。「ちょっと鼻が出てきてますけど…」と悲しみを隠すかのように語りながら番組を進行させた。
 
この日の1曲目は、リスナーのリクエストから、ローリングストーンズの「黒くぬれ!」。ローリングストーンズの楽曲は、かまやつさんが病気療養に入りじっくりと聴くことが多かったといい、森山は「ローリングストーンズってこんなうまかったの?悔しい!」とかまやつさんが叫んでいたことを紹介して曲をかけた。
 
また、かまやつさんから「俺が死んでもビービー泣くんじゃない、俺が死んだらへらへらしてろよ!といつも言われていました」というエピソードも明かした。

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かまやつひろし「深夜放送と70年代音楽シーン」を語る

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かまやつひろし
 「深夜放送と70年代音楽シーン」を語る
 
担当 : 1970年10月~71年9月 水曜 / 71年10月~72年9月 火曜
 
 『セイ!ヤング』を始めたときって、僕はまだザ・スパイダースをやってたんですよ。解散する前からやってましたね。ラジオのレギュラーというのはTBSで井上堯之さんと2人でソウルとかリ ズム&ブルースを紹介する番組をやってましたけど、一人でやるのは『セイ!ヤング』が最初でしたね。 スパイダースは1970年に入ってから、みんなもう冷めてたのね。 堺さんも順ちゃんも独立して一人でやることが決まってたし、大野克夫さんは堯之さんやショーケンたちとPYGをやるようになるし、俺だけ決まってなくて、そんな状態でスケジュールの消化みたいにしてるのが嫌になって『セイ!ヤング』で「俺、やめるから」って言っちゃったの。それが引き金になって決まったみたいなところがありましたね。
 でも面白い時代でしたよね。いろんな音楽が変わり始めているときだった。 スタジオにもレコード会社の洋楽のA&Rがたくさん来てましたし、情報が集まってましたよね。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルとかミシェル・ポルナレフの担当の人とか毎週顔を出してましたからね。

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 洋楽もそうですけど、『セイ!ヤング』をやってなかったら知り合いにならなかった人たちがたくさんいますよ。はしだのりひこさんなんかはその最たるものでしょう。この番組がないと出会ってないでしょうね。
 途中から一緒に番組をやることになったはしださんは、ものすごい思考力のある人でしたね。北山修さんも加藤和彦さんもそう言ってなかったけど、ザ・フォーク・クルセダーズをメジャーに乗っけるにはどうすればいいかというところで、いちばん賢い動きをしていたのが彼じゃなかったかな。自分がどうすればいいかを、すごく知ってる人でしたね。格好は変わってたけどね(笑)。
 自分の中でも価値観がぐらっと変わったときだったんですよ。 69年くらいからそれまでになかったちょっと怪しげなくらいの新しいものが出てくるじゃないですか。僕の身体の中にも化学変化が起きてたんでしょうね。 音楽をやってるとやっぱり新しいものをやりたいという気持ちが出てくるんですね。僕もその時点でキャリアはありましたから、先人とか仲間で芸能界的な飛びオチみたいなのをいっぱい見てま した。飛びオチ。あんなに飛んでたのにあっという間に落ちてるっていうことなんですけど。それは嫌だなと思ってた。大飛びしなくてもいいから、長く行きたい。息が長いというのはそういうことでしょ。ヒット曲を出し続けることじゃなくて世の中のムーブメントとか時代を感じていられる自分でいたいと思ったのね。
 でも、そういうのってフリをしてもバレるんですよ。僕らもそうだったから。その人が本気で面白がっているかどうかはわかるのね。スパイダースのときだって、そういうわかったような顔を してるオヤジは絶対入れなかったもん。ドップリ漬かってないと駄目じゃないですか。目一杯、そういう路線に行ったからね。だから『セイ!ヤング』がやっていたイベントや公開録音もかなり出たと思います。司会がみのさんと落合さんでね。さっきその頃の写真を見せてもらったら、『セイ!ヤング』の盆踊り大会で僕、浴衣着てましたね。あの写真は手元に一枚もないし浴衣の写真なんてどこにもない。貴重だねぇ (笑)。
 サブカルチャーの人とかいろんな人に会いましたね。学園祭では浅川マキさんとか頭脳警察とかとご一緒しました。まあ、面白かったですよ。

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 みんな自由でしたね。自由に考えられる人たちだった。グループサウンズっていうのはブームになったりして、仕掛ける人がいた。僕らはそれほどではなかったですが、事務所の力が人気を左右することもあったりしたわけですよ。でも、フォークの人たちってみんな自分でやってましたからね。その分、強かった。 その頃は僕も事務所がなくて一人でやってましたから、学園祭にしてもライブにしても身軽に参加できましたし。こんなに世の中が速く進んでいるんだって感じることができましたね。自分の価値観で面白いと思ったことだけをやっていこうと決めたのがこの頃です。
 そうやって出会った人たちって団塊の世代が多かったですけど、みんな絡まないんですよ。"個"なんだ。だから面白かったんでしょうね。
 拓郎さんとかユーミンとか、「へえ、こんなこと考えてるんだ」 って思いましたよ。イチローじゃないですけど、それまで自分たちが見てきた人と打ち方が違ってた。こういう打席の入り方をするんだって。そういう人がすごく多かった。
 面白いところにいたなって自分でも思いますよ。でも、いろいろ言われたりもしましたからね。一時、田辺昭知さん(元ザ・ス パイダースのドラマー兼リーダー)に「お前、遠回りしてるよな」 って言われたけど、友達もできましたからね。泉谷さんもこうせつさんもみんなそう。こうせつさんなんて、すごいロック好きなんだよね。たまたま「神田川」だった。拓郎さんもリズム&ブルースをすごい好きだったり。そういう発見も面白かった。
 六本木の俳優座で北山修さんと「フォークをぶっ飛ばせ」というコンサートをやったことがあるんですよ。あの人はフォークルのときからみんなが思ってることの逆を行く人でしょ。僕も、関西フォークとかが勢いを持ってきて、興味あったし。その前に日野皓正さんが台頭してきたときに「ジャズをぶっ飛ばせ」というのをやったことがあったから、味を占めてたのかもしれない。

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 岡林信康さんとか「はっぴいえんど」とか「五つの赤い風船」 とか、そのときに初めてフォークを見たんじゃないかな。 それまで僕の周りには従姉妹の森山良子さん、マイク真木さんがやってたようなカレッジフォークしかなかったからね。そういう攻撃的な音楽はなかった。欧米のグループにはいましたけど、内容はもっと攻撃的でしたよ。そういう音楽が日本にも出てきたんだと思った。
 日比谷のイベントとか中津川フォークジャンボリーとかにも出ましたね。渡辺プロがロック セクションを作って表参道に拠点を作ったりしてね。それはジュリーとショーケンのPYG対応のためだったと思うんだけど、ミッキー・カーチスさんや内田裕也さん、フラワー・ トラベリン・バンドとかもよくそこにいたかな。 日比谷の野音でロックとフォークが一緒にやったりもしてましたね。僕は両方に出ていたんですけど、そういうイベントで出番を待っていたら内田裕也さんが来て「ムッシュ、ロックかフォークかはっきりしてくんないか」って迫られたんですよ。ステージに出ていって「フォークのかまやつです」って言ったら、結構ウケました。
 いろんな人がいましたからね。それが面白かった。なかには音楽はリスペクトできないんだけど、その人の熱さとか人間性、本気なところに惹かれたり、逆に、何だかウジウジしていて性格はよくわからないんだけど、音楽は面白そうだったり。はっぴいえんどに会ったときもそういう感じだったもん。
 はっぴいえんどの解散コンサートって覚えてるかな。73年だよね。アルバムにもなってるけど文京公会堂ですよ。あのとき、僕が司会やってるの。 もともとはニッポン放送の亀渕昭信さんがやる予定になってたんですよ。直前になって「俺、風邪ひいたんで代わりにやってくれ」って言われたんだけど、初めはアウェー的な感じで。 吉田美奈子さんとか南佳孝さんとかも出たよね。佳孝さんもシュガーベイブもあれが最初でしょう。鈴木茂のハックルバックもそうか。楽屋にみんないるんだけど、居心地が悪かったなぁ。 わかるでしょ。「このグループサウンズくずれ」みたいな感じがひしひしと伝わってくる感じ。今、考えてみると亀渕さんは「これはちょっと重いな」って思って逃げたんじゃないかな(笑)。 そういうのってあるじゃないですか。テレビの深夜番組なんかでもPUFFYなんかと司会をやってくれって頼まれると誰が出るのか聞くものね。これは僕じゃないんじゃないかなとか思うし。 亀渕さんもそれで逃げたんじゃないかなって。本人に聞いたことはないけどね。
 みんなナアナアじゃなかった。アーティスト同士も戦ってた。 拓郎さんは、森進一さんに曲を作ったりして、自分の道を行ってたね。面倒くさいヤツも多かったから (笑)。

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 今、『セイ!ヤング』の機関紙『ザ・ヴィレッジ』を見ながらしゃべってるんですけど、これ、面白いね。拓郎さんが捕まったときのこととか、ストーンズが来日しなかったときのこととか、 その頃の記録になってますよ。これ、復刻とかできないのかな、僕、買いますよ。
 73年にストーンズのコンサートが中止になりましたよね。あのときに僕の友人が情報を持ってきたんですけど、スエズ運河に第二次世界大戦で使った航空母艦があってそれを日本の領海に持ってきて、その艦上でストーンズのコンサートをやろうとした人がいたの。スエズ運河から引っ張ってくるのにいくらかかるかとか、どうやって客を集めるかとか真剣に考えていたみたい。
 74年に福島の郡山で開かれた野外イベント「ワンステップフ ェスティバル」だって、山を5つも6つも持っていた地元の人がウッドストックみたいなイベントをやったわけでしょ。結局、大赤字で山を手放すことになっちゃったらしいです。
 ラジオは、そういうカルチャーに合ってましたよね。ラジオのDJが出てくる『バニシング・ポイント』っていうアメリカ映画があったんですよ。そのDJが立ち上がってしゃべったり音楽か けたりしてるの。本気でRockのLIVEみたいにね。
 僕も、六本木にあった自分の事務所でミニFMを立ち上げて電波を飛ばしてたんです。半径500メートルの電波を日本中につなげるには仲間が何人必要か、自分で営業して売り込んだりしてま したからね。倍賞美津子さんから「聴いた」って言われたときはうれしかったね。あれも『セイ!ヤング』を経験したからでしょ う。
 この時代がなかったら今の僕はいないですね。それははっきり してる。"三人ひろし" ( ※ 1950年代後半から60年代前半にかけて活躍した「ひろし」3人組の総称。井上ひろし、水原弘、守屋浩で始まったが、水原弘が「黒い花びら」でレコード大賞を取って抜け、その後にかまやつひろしが入る)で終わってます(笑)。
 もうああいう時代は来ないんだろうねえ。ニューオーリンズに行くとあるよねとか、京都には残ってるねとか、そういう郷愁みたいな感じでは残るのかもしれないと思えることが未来のメジャーです。
 僕も気がついたらブルースとかカントリーとかルーツミュージックに戻ってます。自分のオリジナルを作る前にそこをやろうと。 今はルーツミュージックしかないという感じがしてます。  
-70年代深夜放送伝説ー

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2017/03/05

153-0051 水無し川

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2017/03/04

ムッシュが狙って取ったオリコン1位曲「我が良き友よ」・プロデューサー新田和長

「我が良き友よ」プロデューサー新田和長
 
初めてかまやつさんに会ったのはもうわからないくらい昔なんですが、かまやつさんのいいところは、ロックの対局であるフォークの人達とも仲が良くて、ニッポン放送の「バイタリス・フォーク・ヴィレッジ」なんかもされていて、学生時代からの付き合いです。長い付き合いなんですが、仕事をしたのは「我が良き友よ」が最初なんですよ。
彼は大事な話をする時、顔を寄せて話す癖があるんです。それでツバが飛ぶんですが(笑)、その時もですね、私の顔の近くにきて、「新田さん、 “1着”が取りたいんだ」、と言うんですよ。で、最初 “1着”ってなんの事かなぁって思ってたら、オリコンの1位の事なんです。スパイダース時代、たくさんヒット曲を作ってますから、初めてじゃないと思うんですけど、ソロとして、という意味なんでしょうね。「とにかく“1位”を取りたい」と言うんです。それで私もちょっと自信過剰かもしれないんですが、「やりましょう」という事で受けたわけなんです。だけど私がプロデューサーとはいいながら、かまやつさんはほとんど自分で事前の準備をされていたんですよ。つまり、吉田拓郎にもユーミンにも、南こうせつにも、井上陽水にも、大滝詠一さんにも、あと細野晴臣さんにも、いろんな人に曲を頼んでいたんです。で、彼はご存知の通り人気がありますから、優しいというか友だちが多いですから。みんなが喜んで書いてくれてたんですよ。ですから私はすごくいい仕事を、ラクな仕事をさせてもらったんですけど、その中の1曲が拓郎が書いてくれた「我が良き友よ」だったんです。
拓郎の良いところは、「かまやつさん、気に入らなかったら自分で唄いますからムリして唄わなくて結構だから」という短いメッセージが入ってまして、「自分で唄う」というくらい誰よりも拓郎がこの曲の価値をわかっていたんだと思うんです。自分で唄えばヒット曲になるのがわかっていても、「先輩のかまやつさん、どうぞ唄ってください」と言ってくれてたんです。で、かまやつさんもそれがわかっていたんですね、私の所へ持ってきて、「この歌どうですか?」。やっていいものかどうかって、ご自分はやると決めていたと思うんですが、“私が決めた”、というふうに立ててくれたんですね。そういうみんな、この「我が良き友よ」の一節に、“男らしいはやさしいことだと言ってくれ” ってありますけど、みんな強い人たちだけど、拓郎もそうですけど優しかったですね。「我が良き友よ」は拓郎らしくて、当時の大学のバンカラな感じでかまやつさんらしくないんですが、最初オケが終わったのが夜中の12時頃で、そこから歌入れだったんですが、やっぱり最初かまやつさんちょっと唄いづらかったんです。グルーヴっていうかノリが違ったんですね。僕は思い切って拓郎に、「仮歌っていうかサイドヴォーカルを唄ってくれないか」って頼んだんですよ。それは、当時、専属契約で専属制の厳しい時代でしたから、ソニーの看板アーティストが東芝のスタジオで唄うなんて事は普通はありえないんですけどね。拓郎は「いいよ」って言って、唄ってくれたんです。それで、それをかまやつさんはヘッドフォンで聴きながら数回唄って身につけちゃったっていう。そういうエピソードがあります。
 
2017.3.3 ニッポン放送より
 
75年2月5日発売 75.3.31~75.4.21
4週連続オリコン1位 70.1万枚

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これ、買いました / 松任谷正隆

これ、買いました   松任谷正隆

昔、自分が参加したアルバムを色々と買っているのですが、今回これを買いました

40年近く前じゃないか.....

昔の自分のプレーは、なんだかとても恥ずかしい

どんな音楽を聴いていたかすぐにわかっちゃうからだろうな

それにしてもこの人のボーカルは魅力的だね

たいしたもんだ

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2017/03/02

3/3(金)13:00~17:20 かまやつひろし追悼特集放送【ニッポン放送 金曜ブラボー。】

【ニッポン放送 金曜ブラボー。】
FM93AM1242ニッポン放送では“ザ・スパイダース”のメンバーとして人気を集め、音楽界のレジェンドとして活躍した“かまやつひろし”さんの逝去を悼み、稀代のヒット曲をたっぷりオンエアする追悼特集を「金曜ブラボー。」3/3(金)13:00~17:20枠で放送します。

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番組では1年前の2016年1月15日(金)に“かまやつひろし”さんがゲストとして生出演した時の模様を聴きながら、パーソナリティの望月理恵と上柳昌彦アナウンサーがリスナーと共に想い出を振り返ります。
特別ゲストとして「キャンティ物語」の著者“野地秩嘉”さんが1960年代の飯倉片町のイタリアン・レストラン「キャンティ」で繰り広げられた“かまやつひろし”さんと各界文化人の交流エピソードを披露。

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ライターの岡崎武志さんがその功績を紐解き、さらに大ヒット曲「我が良き友よ」のプロデューサー新田和長さんがこの曲の誕生秘話やプライベートエピソードを語ります。

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また、過去に“かまやつひろし”さんがニッポン放送に出演した際の秘蔵音源も多数紹介します。

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訃報 ムッシュかまやつさん死去 昨年肝臓がん公表、78歳 スポニチ

ムッシュかまやつさん死去 昨年肝臓がん公表、78歳

スポニチ Sponichi Annex 芸能

退院されていたとの事でまた元気な姿を見せてくれると思っていました。残念でなりません。

最後にムッシュの元気な姿に会えたのは2007年8月21日、ツアー「Country」、サンシティ越谷。

ラジオで声を聴いたのは昨年9月28日、FM ムッシュかまやつKeep On Running

ムッシュのご冥福を心よりお祈り致します。

2016.9.28 ムッシュかまやつKeep On Running

黄金の60年代・「キャンティ」とその時代① 川添象郎・ムッシュかまやつ・ミッキー・カーチス

黄金の60年代・「キャンティ」とその時代② 川添象郎・ムッシュかまやつ・ミッキー・カーチス 

黄金の60年代・「キャンティ」とその時代③ 川添象郎・ムッシュかまやつ・ミッキー・カーチス

60年代後半、GS時代のムッシュとタンタン(川添梶子・「タンタン」はイタリア語で“おばさん”の意)

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