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2017/03/06

かまやつひろし「深夜放送と70年代音楽シーン」を語る

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かまやつひろし
 「深夜放送と70年代音楽シーン」を語る
 
担当 : 1970年10月~71年9月 水曜 / 71年10月~72年9月 火曜
 
 『セイ!ヤング』を始めたときって、僕はまだザ・スパイダースをやってたんですよ。解散する前からやってましたね。ラジオのレギュラーというのはTBSで井上堯之さんと2人でソウルとかリ ズム&ブルースを紹介する番組をやってましたけど、一人でやるのは『セイ!ヤング』が最初でしたね。 スパイダースは1970年に入ってから、みんなもう冷めてたのね。 堺さんも順ちゃんも独立して一人でやることが決まってたし、大野克夫さんは堯之さんやショーケンたちとPYGをやるようになるし、俺だけ決まってなくて、そんな状態でスケジュールの消化みたいにしてるのが嫌になって『セイ!ヤング』で「俺、やめるから」って言っちゃったの。それが引き金になって決まったみたいなところがありましたね。
 でも面白い時代でしたよね。いろんな音楽が変わり始めているときだった。 スタジオにもレコード会社の洋楽のA&Rがたくさん来てましたし、情報が集まってましたよね。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルとかミシェル・ポルナレフの担当の人とか毎週顔を出してましたからね。

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 洋楽もそうですけど、『セイ!ヤング』をやってなかったら知り合いにならなかった人たちがたくさんいますよ。はしだのりひこさんなんかはその最たるものでしょう。この番組がないと出会ってないでしょうね。
 途中から一緒に番組をやることになったはしださんは、ものすごい思考力のある人でしたね。北山修さんも加藤和彦さんもそう言ってなかったけど、ザ・フォーク・クルセダーズをメジャーに乗っけるにはどうすればいいかというところで、いちばん賢い動きをしていたのが彼じゃなかったかな。自分がどうすればいいかを、すごく知ってる人でしたね。格好は変わってたけどね(笑)。
 自分の中でも価値観がぐらっと変わったときだったんですよ。 69年くらいからそれまでになかったちょっと怪しげなくらいの新しいものが出てくるじゃないですか。僕の身体の中にも化学変化が起きてたんでしょうね。 音楽をやってるとやっぱり新しいものをやりたいという気持ちが出てくるんですね。僕もその時点でキャリアはありましたから、先人とか仲間で芸能界的な飛びオチみたいなのをいっぱい見てま した。飛びオチ。あんなに飛んでたのにあっという間に落ちてるっていうことなんですけど。それは嫌だなと思ってた。大飛びしなくてもいいから、長く行きたい。息が長いというのはそういうことでしょ。ヒット曲を出し続けることじゃなくて世の中のムーブメントとか時代を感じていられる自分でいたいと思ったのね。
 でも、そういうのってフリをしてもバレるんですよ。僕らもそうだったから。その人が本気で面白がっているかどうかはわかるのね。スパイダースのときだって、そういうわかったような顔を してるオヤジは絶対入れなかったもん。ドップリ漬かってないと駄目じゃないですか。目一杯、そういう路線に行ったからね。だから『セイ!ヤング』がやっていたイベントや公開録音もかなり出たと思います。司会がみのさんと落合さんでね。さっきその頃の写真を見せてもらったら、『セイ!ヤング』の盆踊り大会で僕、浴衣着てましたね。あの写真は手元に一枚もないし浴衣の写真なんてどこにもない。貴重だねぇ (笑)。
 サブカルチャーの人とかいろんな人に会いましたね。学園祭では浅川マキさんとか頭脳警察とかとご一緒しました。まあ、面白かったですよ。

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 みんな自由でしたね。自由に考えられる人たちだった。グループサウンズっていうのはブームになったりして、仕掛ける人がいた。僕らはそれほどではなかったですが、事務所の力が人気を左右することもあったりしたわけですよ。でも、フォークの人たちってみんな自分でやってましたからね。その分、強かった。 その頃は僕も事務所がなくて一人でやってましたから、学園祭にしてもライブにしても身軽に参加できましたし。こんなに世の中が速く進んでいるんだって感じることができましたね。自分の価値観で面白いと思ったことだけをやっていこうと決めたのがこの頃です。
 そうやって出会った人たちって団塊の世代が多かったですけど、みんな絡まないんですよ。"個"なんだ。だから面白かったんでしょうね。
 拓郎さんとかユーミンとか、「へえ、こんなこと考えてるんだ」 って思いましたよ。イチローじゃないですけど、それまで自分たちが見てきた人と打ち方が違ってた。こういう打席の入り方をするんだって。そういう人がすごく多かった。
 面白いところにいたなって自分でも思いますよ。でも、いろいろ言われたりもしましたからね。一時、田辺昭知さん(元ザ・ス パイダースのドラマー兼リーダー)に「お前、遠回りしてるよな」 って言われたけど、友達もできましたからね。泉谷さんもこうせつさんもみんなそう。こうせつさんなんて、すごいロック好きなんだよね。たまたま「神田川」だった。拓郎さんもリズム&ブルースをすごい好きだったり。そういう発見も面白かった。
 六本木の俳優座で北山修さんと「フォークをぶっ飛ばせ」というコンサートをやったことがあるんですよ。あの人はフォークルのときからみんなが思ってることの逆を行く人でしょ。僕も、関西フォークとかが勢いを持ってきて、興味あったし。その前に日野皓正さんが台頭してきたときに「ジャズをぶっ飛ばせ」というのをやったことがあったから、味を占めてたのかもしれない。

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 岡林信康さんとか「はっぴいえんど」とか「五つの赤い風船」 とか、そのときに初めてフォークを見たんじゃないかな。 それまで僕の周りには従姉妹の森山良子さん、マイク真木さんがやってたようなカレッジフォークしかなかったからね。そういう攻撃的な音楽はなかった。欧米のグループにはいましたけど、内容はもっと攻撃的でしたよ。そういう音楽が日本にも出てきたんだと思った。
 日比谷のイベントとか中津川フォークジャンボリーとかにも出ましたね。渡辺プロがロック セクションを作って表参道に拠点を作ったりしてね。それはジュリーとショーケンのPYG対応のためだったと思うんだけど、ミッキー・カーチスさんや内田裕也さん、フラワー・ トラベリン・バンドとかもよくそこにいたかな。 日比谷の野音でロックとフォークが一緒にやったりもしてましたね。僕は両方に出ていたんですけど、そういうイベントで出番を待っていたら内田裕也さんが来て「ムッシュ、ロックかフォークかはっきりしてくんないか」って迫られたんですよ。ステージに出ていって「フォークのかまやつです」って言ったら、結構ウケました。
 いろんな人がいましたからね。それが面白かった。なかには音楽はリスペクトできないんだけど、その人の熱さとか人間性、本気なところに惹かれたり、逆に、何だかウジウジしていて性格はよくわからないんだけど、音楽は面白そうだったり。はっぴいえんどに会ったときもそういう感じだったもん。
 はっぴいえんどの解散コンサートって覚えてるかな。73年だよね。アルバムにもなってるけど文京公会堂ですよ。あのとき、僕が司会やってるの。 もともとはニッポン放送の亀渕昭信さんがやる予定になってたんですよ。直前になって「俺、風邪ひいたんで代わりにやってくれ」って言われたんだけど、初めはアウェー的な感じで。 吉田美奈子さんとか南佳孝さんとかも出たよね。佳孝さんもシュガーベイブもあれが最初でしょう。鈴木茂のハックルバックもそうか。楽屋にみんないるんだけど、居心地が悪かったなぁ。 わかるでしょ。「このグループサウンズくずれ」みたいな感じがひしひしと伝わってくる感じ。今、考えてみると亀渕さんは「これはちょっと重いな」って思って逃げたんじゃないかな(笑)。 そういうのってあるじゃないですか。テレビの深夜番組なんかでもPUFFYなんかと司会をやってくれって頼まれると誰が出るのか聞くものね。これは僕じゃないんじゃないかなとか思うし。 亀渕さんもそれで逃げたんじゃないかなって。本人に聞いたことはないけどね。
 みんなナアナアじゃなかった。アーティスト同士も戦ってた。 拓郎さんは、森進一さんに曲を作ったりして、自分の道を行ってたね。面倒くさいヤツも多かったから (笑)。

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 今、『セイ!ヤング』の機関紙『ザ・ヴィレッジ』を見ながらしゃべってるんですけど、これ、面白いね。拓郎さんが捕まったときのこととか、ストーンズが来日しなかったときのこととか、 その頃の記録になってますよ。これ、復刻とかできないのかな、僕、買いますよ。
 73年にストーンズのコンサートが中止になりましたよね。あのときに僕の友人が情報を持ってきたんですけど、スエズ運河に第二次世界大戦で使った航空母艦があってそれを日本の領海に持ってきて、その艦上でストーンズのコンサートをやろうとした人がいたの。スエズ運河から引っ張ってくるのにいくらかかるかとか、どうやって客を集めるかとか真剣に考えていたみたい。
 74年に福島の郡山で開かれた野外イベント「ワンステップフ ェスティバル」だって、山を5つも6つも持っていた地元の人がウッドストックみたいなイベントをやったわけでしょ。結局、大赤字で山を手放すことになっちゃったらしいです。
 ラジオは、そういうカルチャーに合ってましたよね。ラジオのDJが出てくる『バニシング・ポイント』っていうアメリカ映画があったんですよ。そのDJが立ち上がってしゃべったり音楽か けたりしてるの。本気でRockのLIVEみたいにね。
 僕も、六本木にあった自分の事務所でミニFMを立ち上げて電波を飛ばしてたんです。半径500メートルの電波を日本中につなげるには仲間が何人必要か、自分で営業して売り込んだりしてま したからね。倍賞美津子さんから「聴いた」って言われたときはうれしかったね。あれも『セイ!ヤング』を経験したからでしょ う。
 この時代がなかったら今の僕はいないですね。それははっきり してる。"三人ひろし" ( ※ 1950年代後半から60年代前半にかけて活躍した「ひろし」3人組の総称。井上ひろし、水原弘、守屋浩で始まったが、水原弘が「黒い花びら」でレコード大賞を取って抜け、その後にかまやつひろしが入る)で終わってます(笑)。
 もうああいう時代は来ないんだろうねえ。ニューオーリンズに行くとあるよねとか、京都には残ってるねとか、そういう郷愁みたいな感じでは残るのかもしれないと思えることが未来のメジャーです。
 僕も気がついたらブルースとかカントリーとかルーツミュージックに戻ってます。自分のオリジナルを作る前にそこをやろうと。 今はルーツミュージックしかないという感じがしてます。  
-70年代深夜放送伝説ー

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