« すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ① : 2010年3月号 | トップページ | 2月20日 FM COCOLO 田家秀樹 J-POP LEGEND FORUM 【吉田拓郎特集】ゲスト : 加藤いづみ »

2017/02/23

穏やかさと清々しさが漂うデビュー47年目 70歳「今日までそして明日から」=田家秀樹 サンデー毎日

穏やかさと清々しさが漂うデビュー47年目 70歳「今日までそして明日から」
田家秀樹 サンデー毎日
1970年代から音楽界のトップランナーであり続け、カリスマ的存在でもある吉田拓郎が70歳になった。デビューから47年。彼はどう変わってきたのか、それとも変わらないのか。音楽評論家でノンフィクション作家の田家秀樹氏が、その実像を浮き彫りにする。


こういう吉田拓郎は初めて見るのではないだろうか――。
 去年の10月27日、横浜市のパシフィコ横浜で行われた吉田拓郎のコンサート「LIVE 2016」について、僕は、『毎日新聞』夕刊でのライブ評にそう書いた。
何が初めてだったのか。
 特別な演出があったとか、セットが凝っていたとか、今まで着たことのない衣装だったとか、そういう目に見えることではない。
 ライブ自体は、これまでの代表曲と、今の彼の心境を思わせる曲が心憎いまでの配慮で選曲され、2012年のツアー以降のバンドリーダー、キーボードの武部聡志率いる気心の知れたミュージシャンと呼吸のあった歌と演奏を聴かせるという、オーソドックスそのものだった。
 彼のツアーは14年以来2年ぶりだ。その時よりも声は若い。伸びやかで艶もある。リハーサルに1カ月半も費やしたというバンドサウンドの一体感も一段と心地よい。それらも明らかに前回のツアーを凌(しの)ぐと思わせた要因ではあった。
それに加えて、これまでとは違うものがあったのだ。
“無垢(むく)”と言えばよいかもしれない。
 音楽に対しての無心さ。邪気のなさ。今、こうして音楽をやれていることを心から楽しんでいる。贅肉(ぜいにく)をそぎ落としたような身体ごと、あたかも憑(つ)きものが落ちたかのように音楽に没入している。
 若い頃の野心や闘争心、何かに立ち向かう激しい気迫やエネルギー、聴き手を圧倒する存在感が放つオーラなどとは違う穏やかな清々(すがすが)しさを漂わせていたのだ。温かい拍手を送る客席も、これまでにない温度感に包まれていた。
そういう吉田拓郎を見るのは初めてかもしれない、と思った。
 去年の4月、彼は70歳になった。
 人は誰でも年を取る。
 どんな少年でも若者でも、いつか大人になり、そして老いてゆく。
 ただ、同じように年を重ねていても、その過程での経験は人によって違う。それはミュージシャンであろうとなかろうと変わりはない。漫然とその年を迎えてしまった人と、いつの年齢であっても、その時なりのあり方を刻みながら生きてきた人。吉田拓郎は、明らかに後者だろう。
 1970年のデビュー曲「イメージの詩(うた)」の中の〈古い船を 今 動かせるのは古い水夫じゃないだろう〉という一節は、20歳の頃に書かれたという。彼の音楽人生は、新しい水夫としてその帆を揚げることから始まった。
 70年代に「30歳以上は信じるな」という言葉があったことをご記憶だろうか。
 世代の断絶。お手本なき時代。それが顕著だったのが音楽だった。軍歌や演歌で育った上の世代とは一線を画していた新しい音楽。そのシンボルがビートルズとボブ・ディランだった。彼らに影響された日本の若者達が作り出す新しい音楽の流れ。吉田拓郎は、その最前線にいた。
つまり、矢面である。
 72年に「結婚しようよ」が爆発的にヒットした時、従来のフォークファンから「裏切り者」「帰れ」と投石されたこともあった。テレビに出ない、芸能誌の取材は受けないという姿勢が「生意気だ」とメディアからのバッシングにもあった。
 73年に、今でこそ当たり前になっているコンサートツアーというスタイルを確立したのが27歳、「襟裳岬」で音楽の“フォーク”や“演歌”の壁を超えたのが28歳、初めてミュージシャンが経営するレコード会社、フォーライフレコードを設立、初のオールナイト野外イベント「つま恋」を成功させたのが29歳。「70年代に幕を引く」「生涯最良の日」とした2回目の「つま恋」が39歳。若かった頃に憧れたロサンゼルスのミュージシャンと海外レコーディングを行ったのが49歳。「今までやったことのないことを」と初のテレビのレギュラー番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演したのは50歳の時だ。57歳の誕生日に発覚した肺がんを克服、ツアーを重ねてから臨んだ3回目の「つま恋」イベントは60歳だった。
“生身”の拓郎はイメージと違う
 同じ事を繰り返さない。
 それぞれの年代で新しい自分であり続けようとする。
 そんな生き方に、心身ともに満身創痍(そうい)でもあったのだろう。2007年のツアー、09年に組まれた“最後の全国ツアー”は、体調不良もあって、ともに完走できずに終わってしまった。
 ただ、そういう事象を追った語り方に彼は関心を示さない。むしろ「不本意」と言う。09年のインタビューではこんな話をしていた。
「俺には、未(いま)だに分かってもらえてないという不幸があるの。インタビューでも『つま恋』や『フォーライフ』とか、音楽のことよりイベントとかの話ばっかりで。そういうのはミュージシャン、吉田拓郎としては、付録みたいなものであって、40年間歌い続けたということと新曲を作り続けたということだけが財産だと思ってるんだから。自分の作った楽曲だけを評価してくれれば良いんで、イベントとかはどうでもいい」
 初めて彼のライブに強烈な印象を受けたのは1971年に出たライブアルバム「ともだち」だった。くだけた口調での客席とのやりとりは、型破りで痛快だった。こんなに自由なライブがあるのか、こんなに自由な音楽があるのか、というのがその印象だった。
 その一方で「イメージの詩」の歌詞は、学園闘争敗北後、何を信じて良いのか分からなくなっていた僕らの心情そのものだった。あの歌で客席から起きる拍手は、当時の学生集会で掛けられていた「異議なし」という声のように聞こえないだろうか。
 それ以降の活躍は、前述の通りだ。次々と壁を越え、無人の荒野を行くような軌跡に、胸の透くような思いで喝采を送ったのは僕だけではないはずだ。それは、なかなか思うような結果を手にできないその頃の自分の未熟さや不甲斐(ふがい)なさを彼に託そうとしていたのだと、今は思う。
 僕は彼のどこを見ていたんだろう――。
 そう思い始めたのは彼が50代になろうとしている頃からだ。客席やメディアを通して見ていた“吉田拓郎”と、取材や番組などで関わるようになってからの印象はかなり違った。
 50歳の誕生日を迎える時のことだ。
 関係者が勧めるホテルや大会場での記念イベントに彼は頑として同意しなかった。
 理由は「お義理でその日だけ来てくれる業界の人たちより自分の音楽をずっと聴いてくれてきた人たちと過ごしたい」というものだ。
 最終的に、当時担当していたラジオ番組のリスナーのカップル達とハワイでパーティーをするということになった。
 彼は、会場となったホノルルの超一流ホテルの厨房(ちゅうぼう)にまで連絡を取って希望を伝え、バスツアーのガイドを買って出た。現地で笑顔でサインする姿に「ファンは嫌いだ」と公言していた“豪放磊落(らいらく)なカリスマ”像はなかった。
若かったころの自分と戦う
 40歳になる前に彼が書いた「誕生日」という曲に〈誕生日がまたやってくる 祝ってなんかくれるなよ〉という一節がある。55歳に出た「いくつになってもhappy birthday」では、〈誕生日がやって来た 祝おうよ 今日の日を〉〈人生の主役は君〉と歌っている。
 そんなバースデーソングの変化こそ、彼の年の重ね方を物語っていないだろうか。
 吉田拓郎がアマチュア時代に組んでいたのはダウンタウンズというロックバンドだ。彼の音楽の原点にビートルズや岩国の米軍基地で演奏していたR&Bがあると知る人がどのくらいいるだろう。バンドでデビューしたいと渡辺プロの門を叩(たた)いたこともある。デビューのきっかけとなった広島フォーク村を発足させたのはその後だ。彼が未だに「自分はフォークじゃない」と言い続けるのは、そういう成り立ちだからでもある。
 音楽家・吉田拓郎――。
 そんな類い希(まれ)な資質を見せつけられたのは03年からの瀬尾一三率いるビッグバンドのグループとのツアーだった。ストリングスやホーンセクションを加えたミュージシャンは総勢22名。彼は、全員が演奏する音を一瞬にして聞き分ける“天才耳”の持ち主だった。当のミュージシャンですら気付かなかった小さなミスを聞き取ってしまうのだ。「アンサンブルを楽しみたい」という彼が「弾き語りほど音楽的な刺激のないものはない」という根拠を見た気がした。
 06年に3回目の「つま恋」を行った時のことだ。
 1975年の「つま恋」で最後に歌われた曲が「人間なんて」だった。〈人間なんてラララ~〉というフレーズが延々繰り返される、自暴自棄にも似た盛り上がりは、あのイベントの象徴のようになった。
 あれをもう一度やろうというスタッフの意見に対して、彼は、こう言って激しい拒否反応を示した。「いい年をした客が『人間なんて』を歌うのはおぞましくないか」「今、あの時の自分と戦っているんだ。もし、全部の曲が終わった時、客が『人間なんて』を聴きたいと思ったら、俺の負けなんだ」。彼が選んだ最後の曲は新曲「聖なる場所に祝福を」だった。「緊張でほとんど覚えてない」という29歳の吉田拓郎ではなかった。
 人生の肯定――。
 2009年、「最後の全国ツアー」に向けたパンフレットに自らこう書いていた。
〈妻がいなかったら 僕は今歌ってなかったかもしれない〉
〈「いくつになってもhappy birthday」を作った時 素敵(すてき)な曲だとほめてくれた〉
〈吉田佳代と二人で人生を
 私たちなりのペースで続けていく これからも大きなテーマだ〉(一部抜粋)
 愛妻家・吉田拓郎――。
 週刊誌を賑(にぎ)わしたスキャンダラスなイメージはもうどこにもなかった。
 去年の秋の70歳の吉田拓郎のステージを見ていて、やはり2009年のインタビューでのこんな発言を思い出した。
「音楽が大好きで、音楽を人一倍愛してはいるけれど、音楽と一緒に自分が潰れてしまおうとか思わない。今までに音楽に壁を感じたとか、音楽で行き詰まったりしたことがないんだよ。一回もない」
 14年に発表された新作アルバム「AGAIN」に「アゲイン(未完)」という新曲がある。〈若かった頃の事をきかせて〉という始まりは、彼の新境地を感じさせた。ツアーで披露された完成形は、CDになっていなかった新しいこんな歌詞で結ばれていた。
――時がやさしくせつなく流れ
 そっとこのまま振り返るなら
 僕らは今も自由のままだ――
 1978年、32歳の時に発表した「ローリング30」で〈過ぎ去った過去は断ち切ってしまえ〉と檄(げき)を飛ばすように歌っていたのとは、明らかに違う。
〈そっと〉〈振り返る〉のである。過去を抱きしめ、慈しむように今を歌う。それが70歳を迎える彼の心境なのだと思った。
 自由であること。何者にも制約もされず束縛もされない。なぜインタビューを避けるのかという質問をしたことがある。彼は自分を“カメレオン”に例えていた。「人から訊(き)かれた時に、その人の期待に沿うように応えようとするタイプ」というのである。そうやって話してしまったことに後で必ず後悔する。だからインタビューは受けない。
 去年のツアー中に海の向こうから思いがけないニュースが飛び込んできた。
 75歳のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞である。
 吉田拓郎は、ツアーの冒頭からディランの話をしていた。思春期にどれだけ彼の影響を受けたか。そんな話をしながら鼻歌のように歌っていた「風に吹かれて」は、受賞のニュース以降は、心持ち改まったようになった。敬愛する年上のアーティストの栄光。パシフィコ横浜の開演前に、異例の新聞記者との囲み取材を自ら希望、ディランについて話をしたのも、何かが変わり始めたように見えた。
「また始まりがやって来る」
 去年のツアーは、「北は大宮から南は横浜まで」5本という限られた規模だった。その最後に「今、俺、いいなあ、5年後に全国展開かな。75か。立ってられるかな。それよりみなさん生きてるのか」と笑顔で口にした冗句はその手応えの表れだろう。
 僕らはどんな風に老いてゆくのか。
 ツアー終了後、彼は自分のブログでこう書いていた。
〈誰もが健康で平和な
日常である事を祈りたい
まだまだ色々な事が待っている
強くなくてもいい
でも負けないで欲しい
誰かが誰かを見つめている
淋しい時哀しい時
祝いの時喜びの時
受け止めて
受け止めて
その先には
また始まりがやって来る〉
 吉田拓郎70歳――。
 今年に入ってブログの更新の頻度も増している。新曲もある。
 誰にでも、そこから始まる自由があるのだと思う。
 いくつになっても、だ。

|

« すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ① : 2010年3月号 | トップページ | 2月20日 FM COCOLO 田家秀樹 J-POP LEGEND FORUM 【吉田拓郎特集】ゲスト : 加藤いづみ »

田家秀樹」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 穏やかさと清々しさが漂うデビュー47年目 70歳「今日までそして明日から」=田家秀樹 サンデー毎日:

« すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ① : 2010年3月号 | トップページ | 2月20日 FM COCOLO 田家秀樹 J-POP LEGEND FORUM 【吉田拓郎特集】ゲスト : 加藤いづみ »