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2017年2月

2017/02/27

2010.4.23松本隆、「外白」を語る (再)「あの人は大天才だよ」

2010.4.23 ニッポン放送にてON AIR
 
松本隆、「外白」を語る (再)「あの人は大天才だよ」
 

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2月27日 吉田拓郎特集 ゲスト武部聡志 FM COCOLO 田家秀樹J-POP LEGEND FORUM

2月27日ゲスト : 武部聡志氏

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2月20日 ゲスト: 加藤いづみさん

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2月13日 ゲスト: 宮下龍一氏(コンサート・ツアー・ディレクター)

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2月6日 ゲスト:上田博之氏(サウンドクリエイター)

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すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ③ : 2010年3月号

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■ 自分では書けない詩を

重松 さっき、等身大という話があったんですが、僕たちの世代は拓郎さんが『KAHALA』(アルバム『マラソン』収録、83年)を歌ったときに、 えっ、拓郎さんが? って。

吉田  ああ、ハワイだからね。

重松  拓郎さんには、やっぱり『落 陽』( 73年)のイメージがあって、苫小牧から仙台へのフェリーに乗っている拓郎さん、あるいは竜飛崎や隠岐の都万の海岸に立っている拓郎さんは見えるけど、ハワイはないだろうって。 でも、よく考えてみたら、あれは岡本おさみさんの詩で、拓郎さんは旅は嫌 いなんですよね。

吉田  ええ、旅は好きじゃないですね。あれはあくまで、岡本さんの詩の世界。

重松  でも僕たちは勝手に、ギターケース下げてフェリーに乗っているのが吉田拓郎だと思い込むわけです。例えば『ローリング30』( 78年) の詩だって松本隆さん。たぶん、作詞家は拓郎さんへの当て書きなんだろうけど、そういうのを歌うときには、自分の世界とは違うんだというのは気にならないんですか?

吉田  すごく気になりますよ、そり ゃ。岡本さんの詩も松本さんの詩も、もらったときにいい詩だなと思うけ ど、オレには書けないや、とかオレの世界じゃないな、とは思うんです。しかし、いい詩だな好きだなと思えばそれは歌にしたい。岡本さんの詩でも 「ひとつのリンゴを君がふたつに切る」 (『リンゴ』より、アルバム『元気で す。』収録、72年) って。僕はリンゴを食べると歯茎から血が出る(笑)か ら食べないけど、こんな詩はオレには書けねえやと思うから、じゃあこれを歌にしてみたらどうなるか、好奇心からやっちゃうんですよ。僕は絶対に フェリーでサイコロ転がしているじいさんと話をするような旅人じゃないですからね(笑)。

重松  ほとんど虚構、フィクションですよね。でもやっぱり歌の力って怖いなと思うのは、拓郎さんがフェリーに乗っているようなイメージが投影されてしまう。これが作曲家として他人に 提供するだけだったら違うでしょうけ ど、自分の声で、自分の体で歌うというのは、やはり自分のある部分の反映 じゃないですか。それって怖いことですか、それとも楽しいことですか?

吉田  すっごく楽しいことだけど、いまのお話を聞いていて、きっと聴いている側の混乱はたまらんだろうなと思 いましたね(笑)。『結婚しようよ』を 歌っておいて、旅でサイコロ振るおじ いさんに出会って、挙げ句にハワイのカハラ·ヒルトン・ホテルがいいよ、 その上、『ローリング30』で30歳過ぎて転がる石になれって……。どれなんだよ、お前は(笑)

重松  そして最近では、『ガンパラナイけどいいでしょう』(アルバム『午 前中に…』収録、09年)と歌ってみたり。おかしいなあ。そうなるとまた聴 く側が、40年間の中で勝手にピック アップして、許せる拓郎と許せない拓郎を分けていく。

吉田  それについていま言えること は「ごめんなさい、すみませんね」し かなくて。僕がもし聴く側にいたら、 確かに混乱はすごいでしょうね。そんなヤツを好きにならない (笑)。

重松  そういう矛盾。拓郎さんは本の中で「とにかく自分には矛盾があるんだ」と書いていますね。「矛盾がいいんだ」とも。

吉田 矛盾はものすごくあります。それがいいと言ったのは間違いかもしれないけど、バラバラな自分は意識していますよ。明らかに一貫性がない、言ったことをやり通せないんです、絶対に。昨日言ったことを今日は忘れている。それらを全部含めて「ええかげんな奴じやけ ほっといてくれんさい」 (『唇をかみしめて』より) って(笑)。

重松  そうか、あのフレーズに帰ってくるんだ。納得します。

吉田 僕はだから、刃を突き付けられたらもうダメ。ほんとダメです。「すみません、いままでのことは全部嘘で した」って言っちゃう感じですね。つまり「あんたは何なんだ」と言われて 「オレはこうだ」と言える強い何かを持ち合わせていないんです。

重松  しかし、オーディエンスも中津川世代だったらもう60歳くらいにな っていて、普段は「人生を語らず」じゃないと思うんです。でも年に一度、コンサートではそこを味わいたいとい うような、身勝手なものがあります。

吉田  それは絶対にやらなきゃいけないでしょう。だからまた、ツラい人生が続くんですけどね。年に一度だったら『人生を語らず』( 74年)『落陽』 『今日までそして明日から』( 71年) を、やっぱり歌わなければいけないと僕も思っていますよ、歌う限りは。

重松  この前( 06年)のつま恋コンサートでは、『落陽』の前に「やってあげるよ」と言ってくれた(笑)。「みんな聴きたいでしょ?」って。

吉田  そう。でもサービス精神でやるというのと、やってる最中にシラーッとなって、やらなきゃよかったな、という感じは常に隣り合わせですからね。それこそ、三波春夫さんが「お客 様は神様です」と言いながら『おまんた囃子』を歌い続けたのは偉いなあ、あれを考えれば吉田拓郎はまだまだあの域に達していない、頑張ろうって思って『春だったね』(アルバム『元気 です。』収録)を歌うしかない、という思いもある。

重松  やっぱりライブっていうのは、 全国ツアーという形式じゃないにしても、これからもおやりになるんでしょ う?

吉田  ライブは絶対に必要だと思いますね。アルバムだけだと、自分がさっぱり分からなくなってしまうような気がする。もうツアーじゃなくてもいい、という僕なりの考えがあって、来 年はここで歌うぞという場所は、具体的に頭の中にあります。

重松  そうなんですか。

吉田  まず、最初の歌はここから始める。それにはコンサート会場じゃないところがいい。誰もここでは歌っていない、というところ。

重松  うわっ、ファンはその言葉をとにかく聞きたかったんです。

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■自らの青春を傷つけないために

重松 音楽の愛し方って、別にオリジ ナル曲を発表しなくても、好きな歌を好きなメンバーで演れればいいんだ、 という演奏そのものを楽しむ行き方もあると思うんですよ。でも、五万人を 集めてしまった拓郎さんとしては、そういう行き方はやっぱり取れないですか?

吉田  僕にはそっちへ行かないという意地というか、音楽をやっていく上でのある種のプライドがあるんですよ。 これだけは絶対守り続けるというのは一点だけで、それは新作を作り続けること、旧い曲だけで生きていくことだ けは絶対にしない。必ず新しい言葉、曲を作る。新しいメロディと新しい詩を書き続けるということだけはさぼりたくないし、それをやめちゃうと、生意気かもしれないけど、自分の青春を傷つけちゃうような気がします。

重松  それは、拓郎さんが東京へ出てきたときの決意でもあったわけですね。

吉田  そうです。友だちの車に乗せられて上京したときに、絶対に自分のオリジナルで勝負しようと、オリジナルで東京中心の文化にいちゃもんをつけようと思っていたわけです。プロダク ションはどこでもいいし、歌う場所だってどこでもいい。しかしそれは、有名な先生に作ってもらう曲じゃ絶対にないんだというのが僕の中にあっ オリジナルであることが、僕なりの「若者の証し」だった。その若者を、その吉田拓郎を、僕は裏切れない。他のところは全部嘘だったとしても、そこの部分だけは、絶対に大事に していくんだと。「あの吉田拓郎」は 嘘つきじゃなかった、ということだけは守り抜きたい。

重松  なるほど。例えば映画監督も小説家も、漫画家もそうですけど、以前に書いた作品をもう一度書くことはできません。だけど、歌手や作曲家はクリエーターであると同時にパフォーマーでもあるわけだから、30年前の曲もやらなきゃならない。

吉田  そう、やっちやうんですね。

重松  それってラクといえばラクかもしれない。そこにすがろうと思えば一曲ヒットがあれば、何とかなるかも しれない。でも、ラクはラクだけど、飽きてしまったときとか、その曲が自 分から離れてしまったと感じたとき、それを分かりながら歌うのって、それはやっぱり嘘だと思うんでよ。

吉田  まさにそうですよ。

■「飽きる」と「疲れる」の違い

重松  新曲を作る拓郎さんと、みんなが聴きたがっている『落陽』を歌う拓郎さんの間には、実は一致しないものがある。

吉田  一致はしないですね。いまおっしゃった「飽きる」というのも人間の心理として仕方のないことでね。みんなは「飽きた」とあまり言いたがらないけれど、ものを作る人というのは 、 音楽家であれ小説家であれ、途中で作業としての創作に飽きることがあるはずなんです。歌うことは作業じゃない、と言う人もいるかもしれないけど、それは作業の一環なんです。そうすると、例えばワンツアーの中で 『落陽』を北海道から沖縄まで歌って回ったら、どこかで必ず飽きてしまいますよ。「飽きた」とは、そんなことは恥だと思っているのか歌手は誰も言わないけれど、僕はやっぱり飽きると思う。そして、歌うことに飽きる以前に、曲作りという作業に飽きるようなことが起きたらどうしよう、という恐怖感を僕は強く持っています。だっ て、曲を作る作業に飽き、ギターを弾くことに飽きちゃったら、もう引退しかないわけですからね。ただ、飽きるというのも何かをずっとやり続けてきたから飽きるわけで、何もしないでぼぉーっとしていたら飽きることもない。ぼやーっとしていることに飽きる人は珍しいのであってやっぱり、何がをやってきたから飽きも来るんじゃないかと、僕は思っているんです。

重松  建前としては、同じツアーの中の『落陽』でも、北海道と東京ではそれぞれ違う、厳密に言えばワンステージ、ワンステージ違うんじゃないかという、理想論みたいなものがあるじゃないですか。

吉田  それはあるけど、でも飽きてしまう。ブルース・スプリングスティー ンが全米を回って「どの街にもオレのファンが待っていてくれる限り、オレはそこで歌うんだ」って言う。でも僕 は、待っていてくれても、全部の場所で歌いたいとは思わない。こことここだけで勘弁してよって(笑)。スプリングスティーンは偉いと思うけど、それは僕には言えないですよ。

重松  その「飽きる」ということと 「疲れる」という言葉は、ほぼ同じですか、それとも違います?

吉田  重松さんは、小説を書いていて、どうなんですか? 僕にはよく分からないけど、長い小説を書いていて途中で飽きちゃいませんか?

重松  僕の例で言えば、一年がかりで連載していく小説って、実はだいたい半分くらいで飽きちやうんですよ。も ういいや(笑)って。だからすぐに本にはしないこともあります。この前 「これじゃダメだ」と1週間ほどホ テルに入って、いつもなら半年ぐらい連載して書くはずのものを、二週間ほとんど不眠不休で書き続けたら、最後まで集中力を保てて飽きなかったです。結局、さっきおっしゃったように、やり続けるから飽きるし、飽きたあとまた何が別のことをやっちゃうんですね。つまり、次に何か新しいものが見えるから、いまやっていることに飽きるんだろうなという感じがするんです。だから、新しいもののほうへ行きたい、ここには留まっていたくな い、それが飽きるということかもしれないという気もします。連載を始めると、一応ラストシーンまではこれにお付き合いしなければならない。

吉田  それはそうでしょう。途中でやめられたら、編集者も読者も困ってしまう(笑)

重松  ただ、「飽きる」と「疲れる」 を比べると、飽きるっていうのはまだ余力を残していると思うんですよ。で も、疲れるというのは消耗して休みたい、になる。飽きるというのは、飽き たあとに別のことをしたいということ じゃないですか。だから、いまの音楽に飽きた、歌うのに飽きた、と言うときの「飽きた」は……。

吉田  そういう意味では、僕は疲れたりなんかしていない。音楽に疲れたことなんか一度もないです。飽きることは何度もありましたが、疲れることなんか、ないです。

重松  じゃあそこからもう一歩踏み込んで、あの「吉田拓郎を解散したい」 という言葉で行くと「吉田拓郎であること」に、拓郎さんは飽きませんか?

吉田  もうウンザリですよ。

重松  だけど、疲れてはいない、と?

吉田 ええ、疲れてはいない。飽きち やってはいるけど疲れてはいない。吉田拓郎を利用する快感も知っていますからね。ただ、吉田拓郎っていうのがなきゃいいな、と思うときは飽きているんでしようね、きっと。

重松 『月刊PLAYBOY』( 86年11 月号)のインタビューを読んでみた ら、「飽きた」って言葉がいっぱい出てくるんですね。85年のつま恋のあとですけど。

吉田  ああ、あのころ。

重松  映画『Ronin』(注8)に出演して、他に何もない、もうやり尽く した、飽きたって。「飽きた」というのが拓郎さんのキイワードみたいにな っている。

吉田 「飽きる」がね……。

重松  でも、疲れたとは一度もおっしゃっていない。だからそこが、ファンたちが「拓郎は絶対に音楽はやめない、信じてもいいんだ」と思ったところなんです。

吉田  だって僕、音楽ってものに行き詰っていないですよ。音楽の壁にぶち当たって自信をなくして去っていく人は過去にも何人もいたわけだし、あるいは音楽に挫折し潰されて消えていっ たり、もっと言えば亡くなってしまったり。そういうことも含めて言うと、僕は一度も音楽で壁にぶち当たった気がしていない。おそらく僕が生半可な ミュージシャンで中途半端だからかもしれないけど、僕の音楽の悩みなんて、悩みに入らない。「ああ、曲ができない」なんて騒いでいても、「お前、それは苦悩に入らないよ」というくらいのレベルのもので、ビール一杯飲んで一晩寝れば治る程度です。苦悩して数カ月も頭をかきむしるクラシック作曲家や、薬に突っ走らなきゃならないほど音楽で苦悩する連中とは違います。なんか曲ができないな、と思うときは、きっと飽きちゃって、やる気が起きていないだけのことなんです。

重松 昔の拓郎さんの言葉に「向上心 のあるやつとは才能のないやつのこと だ。才能がないから向上心があるんだ」というすごいフレーズがあって。

吉田  そんなこと言っていましたか。 すごすぎますね、それ(笑)。

重松  おそらく向上心そのものに疲れちやうときってくると思うんです。 だから、飽きることはあっても疲れないって、とても嬉しい話だなと思うんです。日本人って、飽きるという言葉 を嫌がりますけど。

吉田 嫌がります。だから僕は嫌われる(笑)。

重松 要するに、飽きっぽいというのは必ずマイナス評価です。でも、飽きっぽいということは切り替えが早いということでもあるわけでしょう。そういう面では、拓郎さんは今後もいっぱい飽きるでしょうけど、疲れないだろうなと思います。では、「吉田拓郎をもう一回やれ」と言われたらどうですか?

吉田  それは、さっき言ったように、飽きるというより疲れちゃうかもしれない。ただ、生まれ変わるなら、吉田拓郎に生まれ変わりたい。同じがいいです。やっぱり、中津川でアンプが切れて、ああいうことになって、こういうことになって、また重松さんに会ってグダグダ一言っている、同じように。 それがいい。他の自分は想像できな い。これしかない、と思うんだ。

重松  それを聞いて、とても嬉しいです。

■ジョン・レノンとボブ・ディラン

重松 拓郎さんは「生まれ変わっても吉田拓郎」とおっしゃいましたが、も し、ジョン・レノンが40歳で死なずに70歳のレノンがいたら、どうなっていたと思います?

吉田   それよりもっと大問題は、ビー トルズがどうなっていたかですよ。 対比としてローリング・ストーンズが対極にいるわけでしょ?  60歳、70歳でもいまもやっている。あれは果たして美しいのか?

重松  それとも老醜を晒しているのか?

吉田  どちらかは分からないけど、少 なくとも僕らの畏敬の念はあるじゃない。ビートルズは、ストーンズのように『サティスファクション』1曲で畏敬の念を持たれるようなバンドじゃな いと思うのね。ストーンズにはなれない。もし全員が元気でいたとしても、 ビートルズは終わってしまっているような気がする。そうすると、ジョンは ひとり、ポールもひとり。となると、 ビートルズほどの影響力をジョン・レノン個人が持てたかどうか。僕は首をひねるんだ。彼が亡くなっているからこそ、というのがある。比較がいいかどうか分からないけど、ジェームス・ディーンに近い感じがしますね。

重松  確かに、ジェームス・ディーン が生きていたらまずい気がします。生きているとまずい人って、世の中にはいますよね。死によって人生が美しく 完結したというか。

吉田  70歳近い年齢になったジョンが世の中を変えたかとか、音楽を変えたかとかいうと、ビートルズ以上のことはやっぱりできなかっただろうと思う。

重松   20代で決定的なことを成し遂 げた人が、例えばスポーツ選手のように、「体力の限界です」みたいに、そのまま引退するというのも、ある意味で幸せだろうな、とは思いますけど。 ボブ・ディランのようにクリスマス.・アルバムを出したり、グラミー賞をとったり、活動し続ける楽しみは確かにあると思いますが。拓郎さんは、ディランには行きませんか?

吉田  ボブ・ディランについて行くのをやめようと思ったのは、『血の轍』 ( 75年)を出したころでしたね。なんか宗教的な匂いがしてきて、これはあかんと。ファンだけど、ディラン.・フォロワーズになりたいとは思わない。ディラン以降では、ホイットニー・·ヒューストンとは寝てみたい (笑)とは思ったけど、あとはそんなに好きになったミュージシャンはいませんね。僕は、だいたいが飽きっぽい人間だし、音楽でもそうなんだろうなあ。

 

■根気と才能

重松  小説でもそうなんですけど、飽 きているのにそれが言い出せず、やめ られなくて続けていると、最終的に疲れちゃうような気がします。

吉田  僕の音楽もそうだけれど、文学、物を書く仕事って、やっぱり根気強い人がやっているんですかね。

重松  やっぱり机に向かい続けることができるかどうかでよね。それはある種の、必要最低限の才能と言ってもいいかもしれない。

吉田  なるほど。

重松  長編小説は3分じゃ書けません。言ってみれば、ひらめきだけでは小説にならないので、やっぱり書き続ける時間が必要です。何カ月もひとつの作品と向き合うこともそうだし 、短期決戦もある。僕、この前のカンヅメ のときは、2週間デ200時間近く座り続けたんです。ぶっ続けで30時間 ぐらい座り続けた日もある。ということは、オレには、少なくとも座り続ける才能だけはあるんだと。

吉田  それはすごい才能ですよ。

重松  もちろん、作品の出来とはなんの関係もないと言われれば、それまでなんですが。ただ、音楽も同じですよね。若い奴らが女の子にモテたくてギターを始めたりするけど、練習し続けるだけで、それは立派な才能、根気があるわけでしょう。

吉田  ほんとですね。

重松  そこからプロになったりするわけだから、書き続ける根気、指を動 かし続ける根気があるのが才能の第一歩だと思う。 向上心というより、やっぱりシンプルに根気ですよね。で、いまの状況に飽きてしまって、 「これ、やめた」と言うことはあったとしても、 とにかく土俵は割らないというのも、やっぱり根気なんだと思います。だから、拓郎さん、飽きっぽいけど根気は絶対にあるんじゃないでしょうか。

吉田  僕の場合で言うと、長文を書く根気がなくて、早く決着をつけたくなって、400字詰め2、3三枚で結論出しちゃうんです。だから明らに僕は根気がないと思っているけど、これは根気とは違うんですかね。

重松  短気なんでしょう(笑)。僕自身は、ラストシーンってなにも考えずに書いていますね。

吉田  あ、ラストを考えないんですか?

重松 考えません。とりあえず始め て、あとはなんとなく終わりに向かえばいいな、と。ラストが分かっていたら、拓郎さんのように早くラストまで行きたくなるのかもしれませんが。た だ拓郎さんのエッセイ集のタイトルではありませんが、「自分の事は棚に上げて」言うなら、間奏を延々と楽しむように書いていく小説って、いいですよね。終わりになかなか向かわな い。終わりをあせらない、というのも ひとつの才能かもしれなくて。例えばジャズなんかで、ひたすら……。

吉田  アドリブを続ける。

重松  そう、終わりに行かなくてもいい。

吉田  なるほど。エンディングのことは考えない。

重松  考えずに行って最後はフェードアウトでもいい、というような終わり方でもいいと思うんです。。無理に終わりに持って行こうすると、早く終われる程度の話になっちやう。

吉田  ああ、よく分かるな。

重松  やっぱり僕らも、パソコンやワープロのキーボードを叩いている時間が無条件に楽しいんです。だから、ずっと言葉を紡いでいたい。同じように、ギタリストでギターを弾くのが嫌 いな人っていないと思うんです。

吉田  それはもう、全然いないです よ。仕事に関しての根気というのは、 僕も重松さんもあるほうだと思うけど、他のことになると、僕は途端に根気がなくなる。そういうことはないで すか?

重松  僕はですね、飯を食っている途中で飽きるんですよ(笑)。会席料理なんかいちばんいいところで飽きちゃって一緒に食べている相手に「これ あげる」。

吉田  それは嬉しい (笑)。

重松  それと、ずっと家で仕事してますから、家に飽きる。だから、引っ越 し魔なんです。サラリーマンだったら夜帰ってきて寝るだけですけど、僕は24時間、家にいますから、家の風景を消費しちゃうんです。

吉田 あ、なるほど。風景を消費する。僕もそう言われればそうかな。東京へ出てきてからだけでも、もう18カ所か19ヵ所、引っ越していますから。なんか1カ所に落ち着けないんです。 せっかちなんだな。でも、せっかちだけどきちんとしている。よく分かんないな、自分が(笑)

重松  僕も上京30年で、13回引っ越してます。引っ越しリストというのを作っていて、いつでもできるように、印鑑証明はこことかチェックリストがあるんです。 拓郎さんと同じで、段取りが好きだから引っ越しが好きなのかな。

吉田  というところで、そろそろここを引っ越して、メシということにしましょうか。

 

(2009.11.28 東京·芝にて)

構成/鈴木耕  撮影/TAMJIN

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すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ② : 2010年3月号

すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ② 2010年3月号
 
■演じる自分を意識しながら
 
重松 拓郎さんは90年代に入ってから、いろんなエッセイや発言で「オレは実はA型で整理整頓好き」と話し始めて、でも、ファンは「拓郎が整理整頓しちゃいけない」みたいに思っていて、本人の意識とファンの思い込みとの間にギャップがあったような気がします。そういうのは負担でした?
吉田  いやあ、それはね.....。今日初めてお話しすることかもしれませんが、僕はね、70年代、80年代、そして90年代の途中ぐらいまで、ある種、自分で自分のポーズを取っていた。けっこう自分で"吉田拓郎をやって"いた。だから、"ほんとうの吉田拓郎"が出ているのはごく最近の話で、少し前までは”吉田拓郎を演じて" いる部分は、自分で分かってやっていたんですよ。「あ、オレはいま演じているな」とか「ここは芝居だからな、ポーズなんだからな」ということを明確に意識していたわけです。
重松 意識して自分を演じるというのは、そうとうに疲れますね。
吉田  そうです。例えばもうずいぶん 昔になりますが、明石家さんまさんと対談して、そのころ僕はごく軽い煙草を吸っていたんですが、さんまさんから「ハイライトにしなはれや、そんな軽いの拓郎さんらしくもない」と言われてね。「あ、吉田拓郎は軽い煙草じゃなく、ハイライトでなければいけないんだ」と思い、そういうことがみんなの中にあるとしたら、それはいつから出来上がったイメージなんだろうとふと考えるようになったんです。自分の言動が作り上げたものだというこ とを大前提として百歩譲っても、僕に無関係に勝手に出来上がったものもいっぱいある、ということも含めてですね。それは、疲れますよ。
重松 分かりますね、それ。しかしファンは、荷造り好きで整理整頓が趣味で配線にこだわる吉田拓郎の姿を、まったく想像していないんですよ。むしろ想像できないというほうが当たっているかもしれません。1980年代の前半だったと思うのですが、ラジオで聴いた拓郎さんの発言で強く印象に残っている言葉があります。あるバンドが解散したという話題になったとき、 拓郎さんが「いいなあ、オレも吉田拓郎を解散したい」と。
吉田  ええ、解散したいって言っていましたね、確かに。
重松  でも、ソロのミュージシャンは解散できない。
吉田  75年の「つま恋」をやり終えたときに、1度やめたいと思ったことは記憶しています。あの場所に、5、6万人の人間が集まったっていうのはすごいことだなということ と、しかしその中には、中津川フォー クジャンボリーを引きずっている連中もいる、というのが見えたと きにね、もうやめたいと確かに思っ た。あれ、嫌なんですよ。もう縁切りたいですよ、あの中津川のようなこと とは。
重松  サブステージのアンプが壊れて、「メインステージを占拠せよ」と いうやつですね。
吉田  あそこでヒーローになってしまった吉田拓郎というヤツを、75年ごろに僕は嫌いになっていた。それで、あの吉田拓郎と訣別したいというのがあるんだけど、ファンはそれを許さない。「あれがお前の姿じゃないか。『結 婚しようよ』( 72年)なんてお前の真の姿じゃない、仮の姿だ。分かっているんだ拓郎よ」なんて言われたら、 「冗談じゃない、お前は何も分かってねえ!」って言いたかった。
重松  あのころのインタビューでの苛立ちみたいなものは、そういう思いがあったわけですね。
吉田  インタビュアー側にも、そういう僕の物言いを期待するような雰囲気があった。それを今日も言わなきゃな らないのか、と思いながら話しているうちに、もうやめたいなと思ったんですよ。あの"中津川の吉田拓郎"をもう忘れてくれと。中津川はなかったことにしてくれ、と。
重松  篠島のことも、もういいと。
吉田 僕の性格からして、終わったことはもう言うな、というのがとても強い。それが歳を取るにしたがってますます強まって、前のことを言われるのが非常に快適じゃない。だから、ステージをやっていながら、客席で「タク ロー!」と叫んでいるあいつは、ちっとも変わっていないなと。あいつを裏切るべきだ、あいつの期待にはもう応えないでいい、応えるのをやめよう。 そう思ってしまうと、先週あったことも捨ててしまえ、かなぐり捨てたほうが快適だ、というふうになっちゃったんですね。
 
■時代に嵌め込まれたという意識
 
重松 昔の自分と訣別したいというのは、やっぱり引き裂かれているということですか?
吉田  "あのときの吉田拓郎"とか "ああであったはずの吉田拓郎"というのがずっと続いてきたわけで、それらを全部なくしてしまえば幸せかって言えば、それは自分でも分からないですけど。少なくとも、それを捨てても僕は幸せに生きていく自信はありますね、いまは。
重松 でもね、拓郎さん。拓郎さんはあるインタビューで「オレは時代を作ってなんかいない。もしかしたら、時代が吉田拓郎を作ったのかもしれない」とおっしゃっていましたけど、あ の中津川はまさに時代そのものだったわけですよね。もし、あのときアンプが壊れなかったら、つまり、普通に持ち時間で演奏が終わっていたらどうなっていたんでしょうか?
吉田 中津川があろうとなかろうと 、僕はメジャーなミュージシャンには絶対になっていたと思います。その自信はあったんです。ただ、あれによって出来上がった拓郎ブームはかったで しょうけど。
重松 中津川に過大な「意味」ができてしまった。岡林信康の言葉は「私たち」であり吉田拓郎は「私」であるという分析など、いろんなものを背負わされることの始まりだった。
吉田  そうですね、あそこから始まりました、すべてが。あのころは、オー ディエンスのほうが音楽の幅を規定していました。客席がほとんど大学生で、音楽を聴きに来ているのか理屈をこねに来ているのか、よく分からないという状況で。
重松  そこが「時代が吉田拓郎を作った」ということでもあるでしょうけど、まるで観客がティーチ・インをやりにくるような雰囲気だったそうですね。メジャーで売れてしまうと「帰れ!」コールがあったりとか。
吉田  チケット代を払って参加している以上、自分もここに何かを残して帰 りたい、みたいなね。鑑賞団体などが主催するようなコンサートに呼ばれると、終わったあと、反省会ですよ(苦 笑)。 「さっきの三曲目の意味が伝わらない」とか「あの二番の歌詞はあれでいいのか」とか言われた日には、これはいったい何なのかと。中津川から引 きずってきているのは、音楽状況じゃないんです。音楽を演奏するのに、そんなことを言われる筋合いはないと考えている僕のほうが、こいつらより絶対に正しいんだ、とずっと思っていましたね。
重松  でもそれは、吉田拓郎というミ ュージシャンの出現の仕方に、深く関わっていると思うんですよ。例えば拓郎さんの最初のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろ う』( 70年)は、いわゆる全共闘時代の匂いに満ちているといってもいいん じゃないですか。
吉田  あれは、上智大学全共闘OBたちの闘争資金稼ぎのひとつとして作ったものですからね。なんとなく僕のアルバムみたいに言われていますけど、 僕の曲は『イメージの詩』を含めて 二、三曲だけです。時代の産物と言えるでしょうね。
重松  そういう時代の空気……。
 
吉田  有名な秋田明大の、日大講堂でのアジ演説とかも入っている。でも、彼が日大全共闘の輝けるリーダーだったなんてこと、いまは誰も知らない。当時はヒーローで、それこそスーパースターですよ。彼のアジ演説は、ある意味では時代を表現する日本の文化遺産だともいえる。でも若者は知らないし、誰も、あれが何だった のか、ということを問い返そうともしない時代ですよね、いまは。
重松  あの時代を回顧しようとか見直 そうという流れは、最近になって盛ん になっていますよね。同時代を体験し た世代だけでなく、あの時代を知らな い若い人たちが、まったく未知の歴史 的出来事として知りたい、と思い始め たのかもしれません。僕らの世代は微 妙に知っているから、逆に目をそらしてしまうというか、それこそ微妙です (笑)。
吉田  でも、あの全共闘運動って何だったんですかねえ。正統なムーブメントだったんだろうか。
重松 既成の世の中を壊したい、という思いは多かれ少なかれ誰にでもありますよね。拓郎さんもそうだったでしょ?
吉田  それはもちろん。でも、そこまでは分かるんだけれど、どうしてあんなに仲間内で激しく対立しなければならなかったのか、そこがどうしても理解できない。世の中を変えようという目的は、みんな同じだったはずでしよ?
重松  そういう状況に、拓郎さんは違和感を持っていたんですね。
吉田  広島大学では、しょっちゅう火炎瓶が飛んでいましたよ。68年ごろかな、ある日、そこの何かの集会みたいなものがあって、歌ってくれと呼ばれて『イメージの詩』を歌っていたら、二番の歌詞のところで「やめろ、やめろ!」って吊るし上げみたいになって、頭にきて帰ったことがあった。 呼んだヤツから「やめろ」って言われる。何なんだこれは。彼らはいったい 何がしたかったのか、何を考えていたのか、僕にはいまだに分からない。東京へ来たら、今度は上智大全共闘。それで、彼らのスローガンが「逆流からのコミュニケーション」、まるで分からない。「東京中心の逆三角形の文化---大きいほうが東京で小さいほうが地方---この逆三角形を変えるんだ」 と言うんですけどね。
重松 谷川雁さんの「工作者宣言」と同じような思想かもしれませんね。で も、『イメージの詩』が、上智大学全共闘の制作じゃなく普通にレコード会社から出ていたら、また展開は変わっていたでしょうね。
吉田  だからね、やっぱり「僕が時代 を作ったんじゃなく、時代のほうが僕をそこに嵌め込んだ」というのが当たっているし、それを僕は認めますね。
 
■等身大であること
重松  いま振り返ってみると、ほんとうに重たいものをムリヤリ背負わされてしまって、迷惑だったと思う気持ちが強いと思うんですが、逆にリアルタ イムで、まさに自分と時代とが抱き合 っている、自分が時代を撃っているという、何か選ばれた人だけの快感とか恍惚みたいなものは、感じていませんでしたか?
吉田  それはもう、圧倒的に感じていました。例えば『新譜ジャーナル』 『ヤングギター』などの当時の音楽誌が取材にくるのは分かるし、女性週刊誌などで、派手にスキャンダルめいたことを書き立てられることも多かった けれど、『月刊明星』なんていう芸能アイドル誌が「表紙になりませんか」 と言いに来たときには「あ、やっちゃったぜ」と思いましたね。こういうところまでが頼みに来るのは、「オレ 勝ったな」ですよ。あのころ、いわゆるフォーク界では「あっち側」「こっち側」という言い方をよくしていました。つまり、「新しい我々がこっち側で、旧い芸能界があっち側」という意味です。その旧い芸能界が頭を下げて来た。テレビからも出演依頼が相次いだ。僕はテレビにはほとんど出ませんでしたが、『月刊明星』は面白かったな。だって『月刊明星』では沢田研二や天地真理との対談ですよ。一方『新 譜ジャーナル』では高田渡が相手 (笑)。高田渡がどうというわけじゃな いですけどね。だから「オレは勝ったな」ですよ。
重松 中津川世代が拓郎ファン第一世代だとすれば、僕なんは拓郎さんより、17歳下の、まさにフォーライフ世代なんです。だから僕たちにとっては、ミュージシャンたちが地方から東京を目指し、博多や広島から上京していく中で、拓郎さんは一番成功した人というイメージ。原宿の「ペニーレーン」でいつも飲んでいる……。
吉田  お金持ちになっちゃった。
重松  そうそう、そうなんです。だから僕たちは、上の世代と違って、別に拓郎さんに政治性は背負わせてはいないんですが、でも「拓郎は広島の根性を見せなくちゃいけない」とかね。一 方で軟弱なニューミュージック的な音楽が流行っても、「拓郎は軟弱じゃないぞ」というこれまた勝手な決めつけもあったんだと思うんです。政治性のない年下の世代の拓郎さんへの何かの背負わせ方というのも、拓郎さんにとってはあまり心地のいいものじゃなか ったんでしょうね。
吉田  うんうん、重松さんがおっしゃった背負わされ方というのは、確かにありましたね。いまはなくなったけど、バブルのころに六本木にあった有名な洋服屋さんで僕は服を買ったりしてたんだけど、そこであるとき店員さんから、「今日は下駄じゃないんですか?」って(笑)。あ、オレは下駄を履いているイメージなんだ。そういう硬派イメージが、どこまでも僕について回っている。
 
重松  そういう硬派イメージを裏切る部分が、時々顔を出す。例えば『新譜 ジャーナル』だったかな、拓郎さんの交遊録を特集した記事があって、その中に高橋幸宏さんが入っていた。 何で拓郎さんがYMOのユキヒロと付き合っているわけ? それをショック だと思うファンもけっこう多かったんですよ。いろんな新しい音楽が出てき て、ニューミュージックなどというおしゃれさやテクノポップのスマートさに何が対応しきれない僕たちの、最後に拠って立つ場所が拓郎さんだったっていう(笑)。
吉田  すっごく分かりやすいですね、 それ。ラジオなんかでの言動とか、血の気が多いという噂などが語られれば語られるほど、僕は硬派になっていく。かまやつひろしさんなどが、あっちこっちで僕の武勇伝というのをしゃべるわけですよ。そうすると、それがひとり歩きし始める。
重松  たくさんの武勇伝……。
吉田  僕は、そんなにケンカなんかし てないですよ。そりゃ、血の気は多か ったから、多少はやりましたが(笑)。 でもね、音楽って気分ですよ。昨日は 『唇をかみしめて』( 82年)という気分だったけど、今日は『となりの町のお 嬢さん』( 75年)を歌いたいと思ったりする。それが音楽なんだけど、そっちはほったらかして「唇をかみしめて」こそが吉田拓郎だというのは、やっぱりおかしい。
重松  そういう状況の中で、拓郎さん は、いわゆる歌謡曲のアイドルの作曲家としても重要な活動をして、ひとつの時代を作った。アイドルへの曲提供 というとてもポップな仕事は、拓郎さんにとってもガス抜きになったんじゃ ないですかね。
吉田  それはもう、すっごく楽しかっ たです。東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったかって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って 作業する。「歌って、こういうふうに歌うんだよ」なんて教えるときの気持ちよさといったら、もう(笑)。
重松 特に女性アイドルとの仕事が多かったですものね。ただ、拓郎さんのそういう部分を、ファンは見まいとしてきた感じもあります。それはさっきのお話に戻りますが、女系家族の末っ子の拓郎さんの"おんな性"みたいなもの。ところが、中津川やつま恋や篠 島で『人間なんて』を歌う拓郎さんを 男たちは求めちゃって、"おんな性"を無視しようとした。
吉田  なるほど。
重松  ところが拓郎さんは、90年代に入ったあたりから、エッセイやラジオでそういうファンの気持ちをあえて無視するように、自分の思いを語り始めますよね。そして40代の半ばに、 先ほどおっしゃった、父親の足跡を追 った「フィールド·オブ·ドリーム ス」の鹿児島があった。僕もいま46歳で、当時の拓郎さんの年齢とあまり変わらないんですが、そのころに拓郎さんの持っている家族観みたいなものに、そうとう大きな変化があったんじゃないですか? 吉田   年齢的に幾つでどうなるのか、何がきっかけになったのか、引き金はよく分からないけれど、親父が死に 、おふくろが亡くなったころに、オレは死というものをきちんと受け止めてい ないな、という感じがあった。親父と おふくろがいないことの重大性が、自分の中で感じられ始めたというか ……。兄貴はまだ健在だったとはいえ 「役に立たん、この男は」との思いも あったし。それはある種、老いという 年齢を重ねてくることと関連してい ると思いますね。若いときには気づか なかったことというのはたくさんある わけだけど、特に、家族への思いと か、あるいは自分がいったい何を求め て東京に来たのだったか、若いときは 何をしたかったのか、何に向かってハ ングリーな気分っ走っていったのか。そういうことがリアルタイムではまったく分かっていなかった。結局、朝目覚めたらヨーイドンで走り出すだ けの生活。それが20代から、30、40代まで続いてきて、ただただ忙しかった、という感じでしたね。だから、僕の20年は他の人の40年分くらいの密度で、あれこれ考える暇なん てなかったようなものだけど、ようやくこのところ考えるようになった。そういう感じですかね。
重松  そう考えられるまでに、40年の時間が必要だった。
吉田 そう。だから、「ああいう拓郎はよくない、吉田拓郎はこうでなくちゃいけない」とかいまだに言っている人に出会ったら、「あの吉田拓郎というおじさんの言っていることは間違いなんだよ」って意見してあげようと思う(笑)。かつて70年代、大人たちは吉田拓郎という若者をふざけた野郎だと否定したけれど、その何割かはきっと正しかったのだ、というのが少し 自分の中で見えてきた。そう思うと、言葉は非常にありふれているけど、等身大ということが自分の中でとても現実味を帯びてくるわけです。そういうことが最近、僕の中では大きいです よ。

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重松  アルバムにも『176.5』 (84)というのがありますね。 拓郎さん自身の身長をタイトルに付けたことも、まさに等身大ということですよね。
吉田  そうです。卑近な例で言えば、今朝なんか「オレ今日、重松清さんと対談するからさ」
と奥さんに言ったら、「すごいな、そんな人と会えるなんて」と言うから「いいじゃないか、オレは吉田拓郎だよ」(笑)、「そうよね、吉田拓郎よね」というところに、 ピンポーンって宅配便。
そしたら奥さん「ちょっと出て」「お前、吉田拓郎にちょっと出てはないだろう」 (笑)。そういう生活がいまあるんだな、これが等身大か、とも。
 
重松  いいですねえ、そういう会話 (笑)。昔、拓郎さんはテレビショッピングが好きで、電話注文で「お名前は」と聞かれて「吉田拓郎です」と言ったら、向こうが一瞬「えっ?」となるのが好きなんだ、と話していましたね。 吉田 はいはい、あのタイミングがた まりません(笑)。 重松 そういう面では、やっぱり吉田 拓郎を背負うしかない。でもそろそ ろ、背負ったものを降ろしていきたい という感じなんですかね。
吉田  圧倒的に思うのは、63歳という年齢を前提にした場合、自分が気持 ちいい人生とか、気持ちいい時間をより多く過ごしたいということ。まあ、 誰でも思うことだろうけど。若いときは、嫌な時間になるか楽しい時間になるか分からないけどとりあえずやってみよう、でした。いまは、考える力と考えるキャリアを持っているわけだから、今日は楽しくなさそうだと思ったら、まず断る。
重松  ああ、そうか。
吉田  そういうことが大事だと思うようになったということです。今日はあの人だったら会ってみたいな、ビールを飲むのもいいな、と思えたらそこへ 飛んでいく。この人とビールはきついな、だったら行かない。50歳過ぎたころから強く感じ始めましたね。今日は重松さんだから言いにくいけれど、 作家との対談とか、いろいろ話は来るんです。でも、面倒くさそうだなと思うことのほうが多い。
重松 今日は、私でよかったんでしょ うか。
吉田  とても嬉しい。こんなに内面の話をするのは、こういう場ではまったく初めてです。重松さんのおかげですよ。
 
つづく

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2017/02/25

吉田拓郎 今、更なる戦線布告・平凡パンチ1980.4.28

平凡パンチ1980.4.28
吉田拓郎 今、更なる戦線布告
- 1か月のロス・レコーディングを終え、ゼロからの旅立ちを語ろう -  構成 田家秀樹
 
◆ホントはメンフィスでやりた かった。ロサンジェルスという だけでイヤだった。でも、ウェ ストコーストに行ってもオレの音楽をやったんだよ◆
ロサンジェルス録音というと、拓郎はテレる。いまさら珍しいことでもないという気恥ずかしさと、猫もシャクシもウェストコースト、というブームに対する反発と抵抗があるのだろう。歌謡曲のシンガーが、ウェストコーストのミュージシャンを集めてコンサートをやるご時世だ。 そんな風潮に乗ったと思われるのを、拓郎のプライドがよしとするはずもない。
「ホントはメンフィスでやりたかったんだよね。まわりは黒人ばっかり、汗の臭いがギラギラするような場所でやりたかったね」
LPのプロデューサーは、ブッカー・T・ジョーンズ。60年代の半ばに『グリーン・オニオン』という名曲を作り、ヒットさせた黒人ミュージシャンのドンだ。初めは、4人のプロデューサーの名があがっていたという。その中でブッカーに白羽の矢が立てられたのは、彼が黒人であったということ、そして彼の曲を、拓郎がアマチュア時代、岩国の米軍キャンプで演奏していたという体験による。自分の中のカラードの血を呼び戻す、黒人R&Bの汗と魂のほとばしりを、今、肉体のノリとして取り戻すためだった。

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「ブッカーがロスでやろうと言ったんだよ。オレはみんながやってるスタジオはイヤだと言ったら、シャングリラでどうかと言ってきた」
 
シャングリラ・スタジオ----アメリカン・ロックのファンなら、この名前を聞いたことがあるだろう。映画『ラスト・ワルツ』の舞台にもなったスタジオで、解散したザ・バンドが、わが家同然に使っていた所だ。 何年か前、拓郎はザ・バンドをバックにコンサートをする計画があった。拓郎が即座にOKを出したことはいうまでもない。自宅の8チャンネルで作られた新曲のテープが送られ、スタッフが、これまでの拓郎のレコードを持って、ブッカーの家に飛んだ。
 
「ファン心理とでもいうんだろうね。レコーディングしててもここでザ・バンドが、と思うと胸がキュンとしめつけられるみたいでね。必死だったよ。広島から東京に来て、初めてレコーディングした時に似てたね。キンチョーしまくってた」
スティービー・ ワンダーのバックをつとめるギタリストが来た。スリー・ドッグ・ナイトのベーシストが参加した。ミキサ ーは、バーブラ・ストライザンドのレコーディングを終えてきたばかりだった。スタジオにはザ・バンドのメンバーが顔を出しては、ブッカーと談笑していった。ある日、ザ・バンドのガース・ハドソンが、アコーディオンを抱えてやってきた。
「偏屈なんだよね。オレたちがOKだと思っても、本人がOK出さないで、もう1回やろうの繰り返しなんだから。オレはブッカーと、その間、玉つきしてるわけよ。でも途中で妥協するやつは、1人もいなかったね」
行く前の不安。1か月も同じ所で過ごせるだろうかということ。そして、向こうのミュージシャンとスムーズにコミュニケートできるかということ。その間を揺れ動いた拓郎は、出発前に発熱した。
「でも、わかったね。1人1人のプレイヤーのテクニックは日本のミュージシャンのほうが上だ。自信持って言えるよ。こと音楽に関しては対等以上だね」
シャングリラ・スタジオで出来あがったLPのタイトルは、そのまま『シャングリラ』(5月5日発売)と決まった。東京に持ち帰ったテープを聞いた仲間のミュージシャンたちは、一様にこう言った。
「ホントにロスでやったの!?」
拓郎が持ち帰ったテープに収められていたのは、軽やかでさわやかな、口当たりのよい、ウェストコースト・サウンドではなかった。土臭く、骨太で、どこかカタクナなリズムで、ファ ンキーなノリのサウンド。黒人たちのノリであり、ザ・バンドのリズム。そして、それはまさしく拓郎の音楽だった。
「要するに、バックのミュージシャンが変わっただけという気もするんだよね。ロスへ行って もオレの音楽をやってきた。ひょっとすると、オレは勝ったんじゃないかと思うよ」
拓郎が着いた日、ロスは嵐だった。記録的な豪雨と崖崩れが待っていた。
「カリフォルニアの青い空なんて、ウソっぱちだぜ」
拓郎にふさわしい天気だったに違いない。
 

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◆今のニュー・ミュージックはソウルがないよ。カラードの世界がいいね。ボブ・マーリィを家で聞きながら泣いてるよ、オレは◆
『シャングリラ』のA面2曲めに、レゲエの曲が入っている。 レコーディングに参加したミュージシャンたちが、これをシングルにと主張したという曲だ。
「オレはオクテだから」
と拓郎は自分のことをこう言う。武道館にしても、いわゆる"武道館レース"の中では遅いほうだった。海外録音にしてもそうだ。 そして、今、レゲエに狂っているのも、拓郎に言わせれば「オクテだからな、オレ」というとになる。
「口を開けばレゲエっていう時期があったでしょ。やだなあって思ってたわけ。それが、誰かに、ボブ・マーリィの1枚めのLPを聞かせてもらったわけ。 エ?!、レゲエってこれなのって感じね。日本でやってるのと全然違うじゃ・・・って。それから狂ってる」
オクテというより、最新流行とか目新しいものにシッポを振って飛びついたりするのを、いさぎよしとしない、拓郎の俠気がそうさせているのだろうがレゲエは拓郎のノ リを刺激した。
「フォークでもロックでも原点はソウルだと思う。 魂をこめて歌えない歌はダメだよ。ボブ・マーリィのあの叫び、あのノリ も、黒人のソウルだ。レゲエってリズムの形じゃない。ソウルだと思うね」
 
- ボブ・マーリィの叫びと拓郎 -
 
拓郎は伝説のステージを作りあげてきた。71年夏、『人間なんて』を延々2時間歌い続けたという中津川のフォーク・ジャンボリー。夜明けまで、6万人を前に徹夜で歌った<つま恋>のコンサート、そして、去年の夏の<篠島>・・・。拓郎のステージは、客との緊張感の中にドラマを生んでいく。あらかじめ定められた客とステージの調和を、拓郎の叫びが突き破っていくところに、壮絶なコミュニケーションが生まれてくる。拓郎はボブ・マーリィのステージで 『アイ・ショット・ザ・シェリフ』を聞いた時、怖さを感じたという。作り物の歌ではない、生々しい魂の歌声。
「オレにはおこがましいけど」
と言いつつ、
「客席から銃で撃たれるシンガーなんて、ほかにいないし、憧れる」
 
という時、どこかに、自分のイメージを重ね合わせているのかもしれな い。
「帰れ! 帰れ!」
という罵声を浴びつつ、ステージをつとめた数年前の自分自身の姿を。 そういえば、ずっとそうだ。 岡林の“私たち”と複数を歌った歌に対して、私たちになれない“俺” の歌を対置し “アングラ”のフォークに対して“ヒット”を対置し、“一般的なコンサート”に対して“本気のコンサート”を対置し、“レコード業界”に対して“俺たちの会社”を対置してきたこの10年。俺がやらねば、の思いが、さまざまな反発と敵を作り、それをみな一身に負ってきた拓郎の70年代。 ボブ・マーリィのどこか狂気に近い叫びに、そんな自分の軌跡との共通性を感じたとしても不思議ではないかもしれない。
「彼らの社会的迫害などをうんぬんするだけの資格はないし、ボブ・マーリィの気持ちがわかるなんて言えないけど、家では聞きながら泣いてるよね」
小室等は、吉田拓郎を称してこう言っていたことがある。日常生活はきわめて怠惰で体制的だが、ひとたびステージに立つと、同一人物とは思えないくらいの激しいアジテーターへ変身する、と。
 
◆『人間なんて』を毎回歌ってると、どっかにウソがある。ロスでやったということより新しい曲を作るバネになったことのほうが大きいよね◆
去年の大晦日、日本青年館のステージで彼は突然「今までの レパートリーは、いっさい歌わない」と宣言してしまった。客席で見ている限りでは、計画的に発表されたものではなく、古い歌を歌っているうちに、想いがつのって、つい、そんなセリフが口をついて出てしまったようにも見えた。 拓郎の行動パターンは、そういう例が多いようでもある。 自分で自分を追い込み、そう仕向けてしまう。ときには、それが行きがかりで、ひょんなことから、そうなってみたりする。 そして、自分で自分を追いこむことを自分のバネにもしてきたのだ。
「『人間なんて』を毎回歌って盛り上がるっていうパターンに、 どっかウソを感じてたのも確かなわけね。それなら、もっといい歌作ればいいっていう結論になっちゃったんだな。新しい歌を、歌って聞く人が納得してくれれば、それで新人としてはいいわけでしょう」
- 今こうだ、というのがオレの歌 -
去年の夏の篠島のコンサートのフィナーレを、思い出す人も多いだろう。20分余に及ぶ『人間なんて』の中で、拓郎は
「時代を正面から見すえて、一人一人が立ち向かえ」
と絶叫していた。あの歌は、たとえば美空ひばりが何十年も『リンゴ追分』 を歌うのとは、わけが違う。その瞬間のメッセージを燃え尽きるまで叫びきってしまうという真剣勝負の現在があった。
「どっかで時代が気になってるんだろうと思うね。その時その時で、歌いたいし、生きたい。 先読みは好きじやないし、今、こうだというのがオレの歌なんだよ」
過去の栄光の上で、これまでの歌を歌っていることはたやすい。それは、吉田拓郎の10年を汚すことにもならない。しかし、それでは自分を変えることにはならない。
「変えようと思った時は自分を変えないと、まわりはついてこないよね。状況を変えたいと思ったら、人に期待するより、自分でやったほうがいい。まず自分が変わることだよ」
『シャングリラ』の中では、4曲を久々に作詞家の岡本おさみとコンビを組んでいる。お互いゼロからスタートする新しい曲作り。拓郎自身の新曲としても『ローリング30』 以来だ。
「ロスのレコーディングが、自分の音楽を変えるほどの刺激になったかというと、そうでもな い。それより、今までの曲を超える曲を作る自信ができたほうが大きいよね」
広島から東京に出てきたときは、自分を売り込むためだった。 10年めにして、初めて自分をゼロに変える決意が生まれた。 4月15日から始まる全国ツアー。
「いちおう古い曲もリハーサルしとくよ」
というジョークも出るが、ほぼ新曲だけのステージだ。他人のためのステージではない。自分自身のあり方を賭けたステージだから、結果についての覚悟はできている。
◆ たかが歌手なんだよね。何もしてないんだから。どこがOKだかわからない歌もある。だれにもわかってもらえなくてもいいと思えてきた ◆
たかが歌手--- 拓郎は好んでこの言葉を使う。歌を生業にして、歌以外に何もしてないのだから、たかが歌手なんだ、と。
「オピニオン・リーダーというニュアンスは無意味じゃないかと思うわけよ。歌以外のことは やってないし、世の中だって変わらないわけだし、オレだってただの歌バカなんだから。オレだって芸能人なんだよ」
飲むほどに酔うほどに、拓郎の言葉は自分の中に刺さってい く。自分自身のあいまいさを語 ることが、ニューミュージック のあいまいさを語ることだと言いたげに。自分が切り拓いてきた地平の再確認でもある。
「10年たって、オレはOKということになってるけど、OKというのが、いちばん危険なんだよ。
今はニューミュージック全体がOKになっちゃってるじゃない。魂のないのも多いぜ」
- 自分は芸能人だという開き直り -
拓郎は自分のことを芸能人と呼ぶ。「八代亜紀とオレとどこが違うか」と自問する。拓郎はマスコミを使わずに歌ってきた。 週刊誌の世話になったことはないと、頭を下げずに通してきた。TVも出なかった。何もわからないから、わからないなりに素手で突っ張りとおしてきた。そして、勝った。拓郎にすれば、「今のニューミュージックのマスコミに対する姿勢は、10年前の自分たちのやり方の焼き直しにすぎない。それは "戦い"ではなく"駆け引き" だ」という苛立ち。東京にいない"マスコミ嫌"が結局、東京のメディアを使うことにしかならない自己矛盾。
「中途半端なんだよね。それなら、オレは中に入る。オレは芸能人だって開き直りたくなるわけ。 10年前と同じじゃ進歩ないもの」
芸能人である、と拓郎が言うこと。それは逆説的なこだわりであるのかもしれない。
「過ぎてしまったことを言っても仕方ないし、これからどう生きるかを言うしかないよね。それでも、オレたちには素晴らしい時代があったことも確かなんだ」
拓郎は自分のレコードを聞くのが好きだ。眠る前にも、決まって自分の曲を聞く。自分のレコードは自分自身に対する一番の鎮魂歌だから。自分の最大の敵は吉田拓郎で、最大の友も吉田拓郎であるという想い。 だれもオレのことわかってないな、という虚しさと、だれもわかってくれないほうがラクだという、あっけらかんとした開き直り。
「みんな、もっと素直になったほうがいいんだよ。自分の歌にしびれてほしいね。人のことやマスコミは、どうでもよくなるよ。そういう奴がいっぱいいたら、もっと面白くなるよ」
拓郎には空白の2時間、という言葉があるそうだ。飲みながら、しばらく睡魔に襲われ、空白の時間が来るのだという。
「時々、だれにも迷惑かけずにヒッソリやりますっていう気にもなるぜ」
空白の2時間から覚める時の拓郎は、必死で身を起こそうとするボクサーに似ている。わが身を駆り立てて起きんとする獅子のようでもある。
「さほどの話じゃァないんだけどな」
かすかに笑顔を浮かべたまま再び、身を切るような明に単身立ち向かっていく。いくつもの悲しみを刻んだまま。
-インタビューは3時間に及んだ-
(終)

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2017/02/24

黄金の60年代・「キャンティ」とその時代③ 川添象郎・ムッシュかまやつ・ミッキー・カーチス

【 「ルノーぺちゃんこ事件の 真相を 報告します」(ムッシュ) 】
 
川添 それから例の「ルノー事件」の真相を知りたいわけよ。
 
ムッシュ  オー!「ルノー事件」の真相を、これから申し上げます(笑)。
 
川添 おまえが言うのと、ミッキーが言うのと全然違うんだから、言ってることが。
 
ムッシュ  たぶんね。
 
ミッキー  じゃあ、発端だけ、俺、言うね。俺んちにおまえから電話があったんだから。
 
ムッシュ  わかりました。どうぞ。
 
ミッキー  おまえがルノー買ったばっかりだった。それで、「アメリカ映画みたいに、屋根に
ボート乗せて六本木を走りたい」って言うんだ。
 
ムッシュ  スノコが付いてるんだよな。キャリア。
 
ミッキー  キャリアが付いて要するにカヌーかなんか逆さまにして乗せて走ってるじゃない?あれをやりたいっていうわけ、六本木で。で、俺は船を持ってたわけ。俺、競艇場から5000 円で買ってきたから。うちの庭に置いてあったわけ。それでいいから積ませてくれっていうわけ。で「俺、旅に出るけどいいよ」って言ったのよ。そしたら、俺の家の鍵とか全部持ってたの、ムッシュは。もう、みんなお互いに、うちは全部、あけっぴろげだから。勝手にうち、泊まったり、住んだりしてたから。持ってたんだろうな、きっと。それで、俺が聞いたのは、ルノーに船積んで、「シシリア」でムッシュが飯食っている間に大雨が降ったの。そしたら、ムッシュは、ルノーの屋根に、車を、要するに、乗るところを上向きにして積んでたのよ(笑)。で、大雨が降っちゃったもんだから、巨大なウォーターベッドみたいになっちゃって、水の重みでルノーが潰れちやったわけ(笑)。それで、俺に電話が掛かってきて、怒ってるわけ。「おまえのおかげで、 俺の車、潰れたぞ!」って。俺、いないんだよ、日本に。積むんなら、逆さに積めよ! よく見ろよ、映画を! 川添 普通、逆さにみんな積んでるよ、あれは。

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ミッキー そのほうが空気の抵抗もいいし。
 
ムッシュ  そうそうそう(笑)。
 
ミッキー  それで、おまえの話はどう? 近いか。
 
ムッシュ 近い!すごい近いんだけど、場所が違うって。アトランティック モータースの隣に、そのババアがやってた、そこでの話なんだよね。
 
ミッキー 「アゼリア」だか、なんとかっていう。
 
川添 なんとかいう店があって、そこでトニーと話し込んでた。
 
ムッシュ  トニーと話し込んでたの。
 
川添 トニー、赤木圭一郎。
 
ムッシュ  そしたら、そこにいる間に大雨が降ったの。俺が船底を上にして積んでればよかったのに、乗るところを上にして置いちゃった。乗せ方知らないから、中に水がたっぷり溜まっちゃつてさ。重みでルノーの天井が潰れたの(笑)。
 
川添 潰れたんだよな(笑)。
 
ムッシュ  ミッキーは、それを注意してくれなかったの。つまり、こういうふうに積めっていう注意がなかった。
 
ミッキー  そんなの知らねえよ(笑)
 
---- ムッシュは元祖「陸サーファー」だ ったんですね(笑)。でも当時は、ポードやボートの積み方も、まだよくわからない時代だった。
 
川添  そういうこと。
 
-----「ミッキーが三島由紀夫にしたUFOの話が 小説になった」(川添)
 
ミッキー  それから、三島由紀夫の最期の晩餐のとき、「キャンティ」にいたからね、俺。おまえもいたじゃん。
 
川添 俺、3日前にも会ってるしさ。いきなり親父から電話掛かってきてちよっとおまえ、仕事の俺のデスクの上の封筒持って来いって言うんで、「わかりました」って行ったら、でかい大広間で、三島さんとうちの親父と二人で、深刻な顔して話してるんだよ。俺、「持ってき ました」って言ったら、「おっ、ちょっとこっち持ってこい」って言ったのを覚 えてるんだよ、鮮明に。それから三日後に(割腹事件)やってるんだよ。三島さんが、相談しに行ったみたい。うちの親父に。
 
ミッキー  かなり計画はちゃんとしてた。
 
川添  それで前の晩に、「キャンティ」で食事してんだよ。
 
ミッキー 俺、いたんだ。
 
川添  そのときに書いたんだわ。三島さん、うち(「キャンティ」)のサイン帳あるじゃない?
 
ミッキー  そのページだけ、盗られちゃった。
 
川添  ウエイターの石井のヌーさんが、大事にしてたんだけど。最期の絶筆みたいなの。書いてるんですよ、三島さんが。 なんで三島さんとうちの親父が仲がいいのかは、俺、知らないんだよ。
 
ミッキー 年中、三島さん「キャンティ」 にいたよ。俺だって、丸々本1冊分のネタ、提供してるから。
 
川添 知ってるよ。だって、例のUFOの話かなんか。
 
ミッキー書いてる。「美しい星」だっけ?
 
川添 「美しい星」だよ。
ミッキー 後に、あれは俺からもらったネタだってことも書いてるの、三島さんは。
 
川添 そういう話をさせると、ミッキー·カーチスはやたら詳しいんだ よね。 ミッキー 中学ぐらいのときから好きだったからね。
 
川添 だからその時代に、三島さんにUFOの話なんか彼はしてて、それが小説になっちゃたりするんだけど。「キャンティ」っていうのは、そういう場でもあったわけ。
 
ミッキー  溜まり場文化。みんなが集まれるところ。いろんなやつがいるわけよ。 写真家がいたり、絵描きがいたり、物書きがいたり、医者がいたり。
 
川添 めちゃくちゃ。
 
ミッキー  ルネッサンスだよね。その中から何か生まれるんだよね。
 
【 「俺は象ちゃんのこと、大体知ってるんだよ」(ミッキー)  】
 
----- 当時の60年代の女優とか歌手とか女性陣たちの遊びとか生態は、いったいどんな風だったんでしょう?
 
ミッキー  そんなとこへハマっちゃったら、ここは大変なことになっちゃうよ。 この建物ごと修羅場になっちゃうよ。
 
ムッシュ  このへんが一番、そうだよ。
 
ミッキー  地下一階、二階、三階だもん。
 
川添  だいたい何がなんだかわかんなくなっちゃってるんだから。もう。
 
ミッキー  「人類皆兄弟」みたいな。
 
ムッシュ  そういうの、あったね。
 
ミッキー  あったね。だって「俺、二階に女待たしちゃってるんで、一階の子、ちょっと今日は頼むよ」って。
 
川添  そうそう。
 
ミッキー 「じゃあ、地下の子、どうするんだよ? あっちは頼むわ」みたいな。 一人の女の子が、テンパッちゃって、し ようがないから、じゃあこっちはおまえ、二階にいるやつをおまえって、かわりば んこ。気そらしたり。
---- どういう女性なんですか。
 
ミッキー  いやあ、それはもう今、名だたる人たちです。みんな生きてるから。
 
川添  生きてて、本人たちがたぶん怒る と思うから。言わないだけの話でね。
 
----  今著名人のタレント、女優さん。
 
ミッキー  そうですよ。
 
ムッシュ  やっぱり、名前出すっていう ことは、品格の問題だからね。
 
川添  下品だと思われたら嫌だもんね。 でも、こちらが遊んでるつもりでいて。
 
ミッキー   向こうも遊んでるつもりだか ムッシュ遊ばれてる。
 
川添  そうなんだ、けっこう。
 
ミッキー  今会うと不思議な感じだよね。なんか、仕事場でさ。「いつまでも おきれいですね」、とか何とかちょっと言ってあげないといけない。向こうは大女優になってたりするからね。
川添 俺の結婚式のときに、YMOとか、 シーナ&ロケッツとか、サンディ&ザ. サンセッツ」とか:]みんな来て、パフォー マンスやってくれたんだ。
 
ミッキー 5回目の結婚式? 4回目?
 
川添 そんなこと言われて、わかんなくなっちゃう。三回目だよ。
 
ムッシュ  へー、そんなしてる?
 
ミッキー してるよ、こいつ。ちょくち ょくしてんの。子ども、さらに増やしてるの。
 
ムッシュ  どれだかわかんない。
 
川添 忘れてるだけだよ。みんないたもん。3回目が例の林真理子の『アッコち ゃんの時代』のモデル、アッコだ よ。それで、今住んでるかみさんとの間 にできたのがこれ(生まれたてのベイビ ーの写真を見せる)。
 
ミッキー  またできたんだよ。
 
ムッシュ  うそ!
 
川添  ほんとだよ。
 
ミッキー  出来立て。先週、生まれた。
 
ムッシュ  ほんと?
 
川添 だから俺たちの仲間で一番。
 
ミッキー  増殖者!
 
ムッシュ  種馬みたいじゃないか!
 
ミッキー  種馬だよ!
 
ムッシュ  でも、エネルギーの原点だもんね。
 
ミッキー  ほんとだ。
 
川添  この写真が怖いわけよ(もう一枚の写真を見せる)。横にアッコがいるだろ。(今の奥さんの)陽子が病院から帰ってきたときに撮ってる。
 
ミッキー おまえ、この写真すごいな、おい。勢ぞろいじゃない。
 
川添  アッコが子ども連れてきたわ
 
ミッキー  いいの? こういうことして。
 
川添  いいんだって。
 
ミッキー  まあ、陽子嬉しそう。 ムッシュすごいね、それ。なんつったらしいか。
 
----- なんでそんなもてるんですか、川添 さん。
 
ミッキー  詐欺だ。 ムッシュでもすごいよね。象ちゃんは。
川添   なんで、もてるとかっていうのは
 
ミッキー  これはだけど、ほんまもんよ。 別に象ちゃんが騙したわけでもなんでもないよ、僕らと違って。これはだって、陽子 のほうが象ちゃんを探してたんだから。
 
川添 なんで知ってるの?
 
ミッキー  おれはおまえ、おまえのこと だいたい知ってるんだよ。
 
川添 危ねえなあ。僕らの仲間で、一番最後に子ども作ってるのは、今のところ、俺なわけよ。
 
ミッキー 今のとこって言ってるところがいいよな。
 
川添 今のところは。俺、企画があったの。実はね。かみさん三人で、今子ども が四人でプラスアルファみたいになって るわけ。だから、『団塊パンチ』の「象 の記憶」の最後に、いわゆる写真館で、 全員で写真撮るっていう。
 
ーーー それ、いいですね。
 
川添  それはもう、その手は古いからやめた。
 
ミッキーがハーモニカをとりだして、いくつか曲を吹き出した。皆、ブルース のような味がある。「上を向いて歩こう」も流れてくる。ミッキーが音を解析する。 Bフラットマイナーでやってんだけど Eフラットセブンズ、Eフラットセブンズ、Bマイナー。いいんだよ」 すると、ムッシュが「ワニは騒がないよ。マイナーだと騒がない。メジャーじゃないと」とフォローした。 象ちゃんは「こんな鼎談でいいのか」 といった顔をしながら、ビデオを撮って いる。 いまよりもずっと人間くさく、熱かった60年代が、三人を通して、夜空のスクリーンに映し出されていた。
 
(構成·本橋信宏)
 

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2017/02/23

2月20日 FM COCOLO 田家秀樹 J-POP LEGEND FORUM 【吉田拓郎特集】ゲスト : 加藤いづみ

FM COCOLO 2月20日 21:00 - 22:00

 田家秀樹 J-POP LEGEND FORUM 【吉田拓郎特集】

 ゲスト : 加藤いづみ 

radiko.jp 

Part-3の今回は、

昨年の拓郎さんのステージからツアー・メンバーに参加することになった

コーラスの「加藤いづみ」さん。

リハーサルから本番のステージまで、

拓郎さんのすぐ近くでその様子を見て来たいづみさん、

リアルな拓郎さんの姿が語られます。

楽しみに!

Fmcocolo20170220_2

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穏やかさと清々しさが漂うデビュー47年目 70歳「今日までそして明日から」=田家秀樹 サンデー毎日

穏やかさと清々しさが漂うデビュー47年目 70歳「今日までそして明日から」
田家秀樹 サンデー毎日
1970年代から音楽界のトップランナーであり続け、カリスマ的存在でもある吉田拓郎が70歳になった。デビューから47年。彼はどう変わってきたのか、それとも変わらないのか。音楽評論家でノンフィクション作家の田家秀樹氏が、その実像を浮き彫りにする。


こういう吉田拓郎は初めて見るのではないだろうか――。
 去年の10月27日、横浜市のパシフィコ横浜で行われた吉田拓郎のコンサート「LIVE 2016」について、僕は、『毎日新聞』夕刊でのライブ評にそう書いた。
何が初めてだったのか。
 特別な演出があったとか、セットが凝っていたとか、今まで着たことのない衣装だったとか、そういう目に見えることではない。
 ライブ自体は、これまでの代表曲と、今の彼の心境を思わせる曲が心憎いまでの配慮で選曲され、2012年のツアー以降のバンドリーダー、キーボードの武部聡志率いる気心の知れたミュージシャンと呼吸のあった歌と演奏を聴かせるという、オーソドックスそのものだった。
 彼のツアーは14年以来2年ぶりだ。その時よりも声は若い。伸びやかで艶もある。リハーサルに1カ月半も費やしたというバンドサウンドの一体感も一段と心地よい。それらも明らかに前回のツアーを凌(しの)ぐと思わせた要因ではあった。
それに加えて、これまでとは違うものがあったのだ。
“無垢(むく)”と言えばよいかもしれない。
 音楽に対しての無心さ。邪気のなさ。今、こうして音楽をやれていることを心から楽しんでいる。贅肉(ぜいにく)をそぎ落としたような身体ごと、あたかも憑(つ)きものが落ちたかのように音楽に没入している。
 若い頃の野心や闘争心、何かに立ち向かう激しい気迫やエネルギー、聴き手を圧倒する存在感が放つオーラなどとは違う穏やかな清々(すがすが)しさを漂わせていたのだ。温かい拍手を送る客席も、これまでにない温度感に包まれていた。
そういう吉田拓郎を見るのは初めてかもしれない、と思った。
 去年の4月、彼は70歳になった。
 人は誰でも年を取る。
 どんな少年でも若者でも、いつか大人になり、そして老いてゆく。
 ただ、同じように年を重ねていても、その過程での経験は人によって違う。それはミュージシャンであろうとなかろうと変わりはない。漫然とその年を迎えてしまった人と、いつの年齢であっても、その時なりのあり方を刻みながら生きてきた人。吉田拓郎は、明らかに後者だろう。
 1970年のデビュー曲「イメージの詩(うた)」の中の〈古い船を 今 動かせるのは古い水夫じゃないだろう〉という一節は、20歳の頃に書かれたという。彼の音楽人生は、新しい水夫としてその帆を揚げることから始まった。
 70年代に「30歳以上は信じるな」という言葉があったことをご記憶だろうか。
 世代の断絶。お手本なき時代。それが顕著だったのが音楽だった。軍歌や演歌で育った上の世代とは一線を画していた新しい音楽。そのシンボルがビートルズとボブ・ディランだった。彼らに影響された日本の若者達が作り出す新しい音楽の流れ。吉田拓郎は、その最前線にいた。
つまり、矢面である。
 72年に「結婚しようよ」が爆発的にヒットした時、従来のフォークファンから「裏切り者」「帰れ」と投石されたこともあった。テレビに出ない、芸能誌の取材は受けないという姿勢が「生意気だ」とメディアからのバッシングにもあった。
 73年に、今でこそ当たり前になっているコンサートツアーというスタイルを確立したのが27歳、「襟裳岬」で音楽の“フォーク”や“演歌”の壁を超えたのが28歳、初めてミュージシャンが経営するレコード会社、フォーライフレコードを設立、初のオールナイト野外イベント「つま恋」を成功させたのが29歳。「70年代に幕を引く」「生涯最良の日」とした2回目の「つま恋」が39歳。若かった頃に憧れたロサンゼルスのミュージシャンと海外レコーディングを行ったのが49歳。「今までやったことのないことを」と初のテレビのレギュラー番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演したのは50歳の時だ。57歳の誕生日に発覚した肺がんを克服、ツアーを重ねてから臨んだ3回目の「つま恋」イベントは60歳だった。
“生身”の拓郎はイメージと違う
 同じ事を繰り返さない。
 それぞれの年代で新しい自分であり続けようとする。
 そんな生き方に、心身ともに満身創痍(そうい)でもあったのだろう。2007年のツアー、09年に組まれた“最後の全国ツアー”は、体調不良もあって、ともに完走できずに終わってしまった。
 ただ、そういう事象を追った語り方に彼は関心を示さない。むしろ「不本意」と言う。09年のインタビューではこんな話をしていた。
「俺には、未(いま)だに分かってもらえてないという不幸があるの。インタビューでも『つま恋』や『フォーライフ』とか、音楽のことよりイベントとかの話ばっかりで。そういうのはミュージシャン、吉田拓郎としては、付録みたいなものであって、40年間歌い続けたということと新曲を作り続けたということだけが財産だと思ってるんだから。自分の作った楽曲だけを評価してくれれば良いんで、イベントとかはどうでもいい」
 初めて彼のライブに強烈な印象を受けたのは1971年に出たライブアルバム「ともだち」だった。くだけた口調での客席とのやりとりは、型破りで痛快だった。こんなに自由なライブがあるのか、こんなに自由な音楽があるのか、というのがその印象だった。
 その一方で「イメージの詩」の歌詞は、学園闘争敗北後、何を信じて良いのか分からなくなっていた僕らの心情そのものだった。あの歌で客席から起きる拍手は、当時の学生集会で掛けられていた「異議なし」という声のように聞こえないだろうか。
 それ以降の活躍は、前述の通りだ。次々と壁を越え、無人の荒野を行くような軌跡に、胸の透くような思いで喝采を送ったのは僕だけではないはずだ。それは、なかなか思うような結果を手にできないその頃の自分の未熟さや不甲斐(ふがい)なさを彼に託そうとしていたのだと、今は思う。
 僕は彼のどこを見ていたんだろう――。
 そう思い始めたのは彼が50代になろうとしている頃からだ。客席やメディアを通して見ていた“吉田拓郎”と、取材や番組などで関わるようになってからの印象はかなり違った。
 50歳の誕生日を迎える時のことだ。
 関係者が勧めるホテルや大会場での記念イベントに彼は頑として同意しなかった。
 理由は「お義理でその日だけ来てくれる業界の人たちより自分の音楽をずっと聴いてくれてきた人たちと過ごしたい」というものだ。
 最終的に、当時担当していたラジオ番組のリスナーのカップル達とハワイでパーティーをするということになった。
 彼は、会場となったホノルルの超一流ホテルの厨房(ちゅうぼう)にまで連絡を取って希望を伝え、バスツアーのガイドを買って出た。現地で笑顔でサインする姿に「ファンは嫌いだ」と公言していた“豪放磊落(らいらく)なカリスマ”像はなかった。
若かったころの自分と戦う
 40歳になる前に彼が書いた「誕生日」という曲に〈誕生日がまたやってくる 祝ってなんかくれるなよ〉という一節がある。55歳に出た「いくつになってもhappy birthday」では、〈誕生日がやって来た 祝おうよ 今日の日を〉〈人生の主役は君〉と歌っている。
 そんなバースデーソングの変化こそ、彼の年の重ね方を物語っていないだろうか。
 吉田拓郎がアマチュア時代に組んでいたのはダウンタウンズというロックバンドだ。彼の音楽の原点にビートルズや岩国の米軍基地で演奏していたR&Bがあると知る人がどのくらいいるだろう。バンドでデビューしたいと渡辺プロの門を叩(たた)いたこともある。デビューのきっかけとなった広島フォーク村を発足させたのはその後だ。彼が未だに「自分はフォークじゃない」と言い続けるのは、そういう成り立ちだからでもある。
 音楽家・吉田拓郎――。
 そんな類い希(まれ)な資質を見せつけられたのは03年からの瀬尾一三率いるビッグバンドのグループとのツアーだった。ストリングスやホーンセクションを加えたミュージシャンは総勢22名。彼は、全員が演奏する音を一瞬にして聞き分ける“天才耳”の持ち主だった。当のミュージシャンですら気付かなかった小さなミスを聞き取ってしまうのだ。「アンサンブルを楽しみたい」という彼が「弾き語りほど音楽的な刺激のないものはない」という根拠を見た気がした。
 06年に3回目の「つま恋」を行った時のことだ。
 1975年の「つま恋」で最後に歌われた曲が「人間なんて」だった。〈人間なんてラララ~〉というフレーズが延々繰り返される、自暴自棄にも似た盛り上がりは、あのイベントの象徴のようになった。
 あれをもう一度やろうというスタッフの意見に対して、彼は、こう言って激しい拒否反応を示した。「いい年をした客が『人間なんて』を歌うのはおぞましくないか」「今、あの時の自分と戦っているんだ。もし、全部の曲が終わった時、客が『人間なんて』を聴きたいと思ったら、俺の負けなんだ」。彼が選んだ最後の曲は新曲「聖なる場所に祝福を」だった。「緊張でほとんど覚えてない」という29歳の吉田拓郎ではなかった。
 人生の肯定――。
 2009年、「最後の全国ツアー」に向けたパンフレットに自らこう書いていた。
〈妻がいなかったら 僕は今歌ってなかったかもしれない〉
〈「いくつになってもhappy birthday」を作った時 素敵(すてき)な曲だとほめてくれた〉
〈吉田佳代と二人で人生を
 私たちなりのペースで続けていく これからも大きなテーマだ〉(一部抜粋)
 愛妻家・吉田拓郎――。
 週刊誌を賑(にぎ)わしたスキャンダラスなイメージはもうどこにもなかった。
 去年の秋の70歳の吉田拓郎のステージを見ていて、やはり2009年のインタビューでのこんな発言を思い出した。
「音楽が大好きで、音楽を人一倍愛してはいるけれど、音楽と一緒に自分が潰れてしまおうとか思わない。今までに音楽に壁を感じたとか、音楽で行き詰まったりしたことがないんだよ。一回もない」
 14年に発表された新作アルバム「AGAIN」に「アゲイン(未完)」という新曲がある。〈若かった頃の事をきかせて〉という始まりは、彼の新境地を感じさせた。ツアーで披露された完成形は、CDになっていなかった新しいこんな歌詞で結ばれていた。
――時がやさしくせつなく流れ
 そっとこのまま振り返るなら
 僕らは今も自由のままだ――
 1978年、32歳の時に発表した「ローリング30」で〈過ぎ去った過去は断ち切ってしまえ〉と檄(げき)を飛ばすように歌っていたのとは、明らかに違う。
〈そっと〉〈振り返る〉のである。過去を抱きしめ、慈しむように今を歌う。それが70歳を迎える彼の心境なのだと思った。
 自由であること。何者にも制約もされず束縛もされない。なぜインタビューを避けるのかという質問をしたことがある。彼は自分を“カメレオン”に例えていた。「人から訊(き)かれた時に、その人の期待に沿うように応えようとするタイプ」というのである。そうやって話してしまったことに後で必ず後悔する。だからインタビューは受けない。
 去年のツアー中に海の向こうから思いがけないニュースが飛び込んできた。
 75歳のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞である。
 吉田拓郎は、ツアーの冒頭からディランの話をしていた。思春期にどれだけ彼の影響を受けたか。そんな話をしながら鼻歌のように歌っていた「風に吹かれて」は、受賞のニュース以降は、心持ち改まったようになった。敬愛する年上のアーティストの栄光。パシフィコ横浜の開演前に、異例の新聞記者との囲み取材を自ら希望、ディランについて話をしたのも、何かが変わり始めたように見えた。
「また始まりがやって来る」
 去年のツアーは、「北は大宮から南は横浜まで」5本という限られた規模だった。その最後に「今、俺、いいなあ、5年後に全国展開かな。75か。立ってられるかな。それよりみなさん生きてるのか」と笑顔で口にした冗句はその手応えの表れだろう。
 僕らはどんな風に老いてゆくのか。
 ツアー終了後、彼は自分のブログでこう書いていた。
〈誰もが健康で平和な
日常である事を祈りたい
まだまだ色々な事が待っている
強くなくてもいい
でも負けないで欲しい
誰かが誰かを見つめている
淋しい時哀しい時
祝いの時喜びの時
受け止めて
受け止めて
その先には
また始まりがやって来る〉
 吉田拓郎70歳――。
 今年に入ってブログの更新の頻度も増している。新曲もある。
 誰にでも、そこから始まる自由があるのだと思う。
 いくつになっても、だ。

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2017/02/22

すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ① : 2010年3月号

すばる2010年3月号
 
吉田拓郎ロングインタビュー ①   聞き手 重松 清

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風の噂によれば、吉田拓郎さんは大の対談嫌いだという。仲のいい少数の ミュージシャンたちなどの他には、あまり個人的な付き合いもしないともいう。そんな彼に編集部から対談のオフ ァーをしたところ、こんな返事があった。
「かつて某有名作家と、ラジオ番組で対談したことがあります。始まって5分と経たないうちに、僕には彼の話の内容がまったく分からなくなりました。もちろん僕の頭のせいでしょう が、それ以来”作家は苦手“という偏見が埋め込まれてしまったようです。 しかし、重松清さんとなら、ぜひ一度お会いしてみたいと思っています」
一方、重松さんからは、
「拓郎さんとお会いして話ができるなら、こんなうれしいことはありません。拓郎さんの曲はほとんどすべてギターで弾き語りできます。ぜひ、お願 いしたいと思います」との返信。
そういうわけで初冬のある日、都内のホテル。最初は重松さんがインタビユアーという様相で、対談が始まった。
 
■"女系家族"の中で
 
重松 拓郎さんは鹿児島のご出身でし たよね。広島に移ったのは確か九歳のときと。
吉田  小学二年生のときです。最近は、何歳とか言われると計算できなく なる(笑)。二年生の終わりまで鹿児 島にいて、三年生のときにおふくろについて広島に行ったんです。
重松  お母様は広島の方なんですか?
吉田  いや。母方の祖母が広島ですが、,おふくろはどこの生まれか、僕は知らないんですよ。うちは引き揚げ者だということもあって、僕はそのあたりの詳しいことをほとんど知らない。 一家は朝鮮の羅南というところで暮らしていたらしいけど、僕は日本に引き揚げてきてから、1946年に鹿児島で生まれたんです。でも、なんで鹿児島だったのか、親父の生きてきた環境 というのがよく分からない。あとで知ったんですが、どうも親父は吉田家の養子だったらしい。
重松  お父さんは養子だったんですか?
吉田 はい。もともと吉田という姓じやなかったようです。僕もあとになって親父が養子だったということを知ったのですが、おふくろにきちんと確かめたことがなかったんです。母方の祖母が広島の出だということは分かっているんだけど。
重松  鹿児島から広島へ移った事情というのは、どういうことだったんですか?
吉田  僕はまだ子どもだったから詳し くは分からなかったけど、終戦後間もないころで、鹿児島での暮らしはラク じゃなかったみたいですね。おふくろ が栄養士の国家試験に合格して、それで広島に仕事がある、と。親父は地方史の調査の仕事を鹿児島県庁でしていたようで、鹿児島に残ったんですね。 そこから両親の別居が始まった。それが、僕の知る限りの理由ですけどね。
重松 それで、拓郎さんはお母さんについて広島へ移ったんですね。
吉田  そうです。子どもたちは「どっちを選ぶか」と言われて、僕も姉もおふくろを取っちゃつた。おばあちゃんも一緒に広島に移ったので、親父だけが鹿児島に残ってやもめ暮らしが始まるという……。さっぱり分からない話でしょ? 僕にもよく理解できない。
重松 拓郎さんは、三人きょうだいの末っ子でしたね。
吉田  いや、ほんとうは四人なんです。朝鮮にいるころに長女(恭子)が生まれて、それがいちばん上だったんですが、病気で亡くなったらしい。次に兄貴、姉貴といて、僕が末っ子です。
重松  お姉さんとは7歳違いですね。
吉田  うちのきょうだいは全員7歳違 いなんです。つまり、僕と兄貴とは14歳も年が離れていることになる。
重松  かなりの年の差ですね。そういう年齢差で、しかも末っ子だったというのは、その後の拓郎さんのいろんなことに影響していますか?
吉田   していると思いますね。末っ子ということと、もうひとつ”女系"と いうことが。
重松  女系家族……。
吉田  兄貴は哲郎というのですが、鹿児島時代は中学高校と鹿児島ラ·サールへ行っていて、あそこは寮だから、 結局、家にはいないんです。広島に移ってからも、家にいるのはおばあちゃん、おふくろ(朝子)、姉貴の宏子と全部女。その中で僕はずうっと育っていくわけです。あとになって、ああ、オレは女の中で育った末っ子なんだ と、特に東京へ出てきてから強く感じるようになりましたね。すごくバラン スが悪いんですよ、自分の中で。
重松  ずっとお姉さんと同じ部屋で、けっこうその影響を受けたと、ご自分でもおっしゃっていましたよね。
吉田  はい、ありますね、それは。姉貴は歌謡曲が大好きで、しょっちゅう 聴いていた。そういうのにすごく影響 されています。親父は鹿児島にいて、 男らしいものが家には何もない。しかも、後におふくろがお茶の先生なんか始めちやって、もううちには女の人ばっかりが出入りしている。僕自身、その当時はかなり女っぽかったような気がしますね。僕はおふくろに習って、 茶道師匠の資格を持っているんですよ、母から「吉田宗拓になりなさい」 なんて言われて(笑)
重松  ああ、それは吉田拓郎というイ メージが壊れる...... (笑)
 
■吉田家の崩壊と再生
 
重松  14歳違いのお兄さんは、ジャズピアニストでしたよね。
吉田  まあ、本人はそのつもりでいたみたい。
重松  レコードも一、二枚出している、と拓郎さんはエッセイでお書きになっていましたね。お兄さんからの音楽的な影響はあったんですか?
吉田  ゼロ、まったくゼロですね。ただ、音楽を目指したというそのスタイル、形のよさということにだけは影響 を受けたかもしれない。音楽をやるとこんな人生が送れる……と。兄貴は立教大学に進んだんですが、学生時代に独学でピアノを学んだそうです。それで東京のクラブやなんかで、アルバイ トでピアノを弾いていた。夏休みに、そういうところで働いているような女の人を連れて、広島に帰ってくるんですよ。
重松 車で?
吉田  ええ、車でガールフレンドと一 緒に里帰り。幼い僕から見ると、すごく都会の香りがするいい女なわけで, ああ、音楽やるとこういうふうになれ るのかなあ、それなら音楽やってみてもいいなあ(笑)と。
重松 終戦後まだ早い時期、しかも外地から引き揚げてきてピアノをやるというお兄さんも、かなり想像外ですよ
吉田 まったく。兄貴っていうのは、まるで勉強なんかしない、ちゃらんぽ らんなヤツでね。親父は逆に真面目一方で、だから、頑なに兄貴には名声と出世を求めていて、立派な男になってほしいと熱望していたんです。親父は小学校しか出ていなくて、学歴とかそ ういうものに非常に卑屈になっていて、それを息子たちに強く求める。姉貴は女だということでそうでもなかっ たけど、兄貴と僕にはそういう要求が強かったですね。特に長男への期待は過大なぐらいあって、ラ・サールに行っていたから、立教ではまるで満足していない。もちろん望みは東大だった。
重松  それじゃ、ピアノをやり始めたとか聞いたら、ただじゃすまなかったんじゃないですか?
吉田 もちろん、烈火のごとく怒ったんです。ピアノだ、レコードだ、挙げ句にそういう女の人を連れて帰って来 たりしたから、もう兄貴には見向きも しなくなった。
重松  でも、拓郎さんも結局、音楽のほうへ行ってしまった。お父さんがお亡くなりになったのは、確か73年で したね。ということは、もう拓郎さんはデビューしていた。お父さんはどう 感じていらっしゃったんでしょうか。
吉田  それはもう、話にならないです。つまり、僕のデビューは”吉田家 の崩壊"だというふうに、彼は晩年には思っていたみたいです。でもね、親父が死んでずいぶん経ってからなんですが、東京で僕がある種のサクセスを してから、鹿児島へ行って親父の働いていた場所とか生活の跡を「フィール ド・オブ・ドリームス」じゃないけれど、探して回ったことがあるんですよ。親父は県庁などで、郷土史家としてとても地味な仕事をしていたわけですが、その当時の知り合いの方なんかにも話を伺いました。そうしたら、 「拓郎さんが最初に出された本があり ましたよね。あれをすごく喜んで読んでいましたよ」とかね。あ、なんだ、親父も息子の自慢をしていたのかって。
重松 『気ままな絵日記』(立風書房、72年)ですね。お父さんも、けっこう 嬉しかったんだ。
吉田  そこで初めて、親父のことが少 し理解できたような気がしました。それまでは「吉田家は最悪だ。もうこの家は終わった。この家の男どもは、なんでこんなことになってしまったん だ」と、ずっと言い続けていた親父でしたからね。姉貴には異常なほど「ヒロコ、宏子だけだよ、可愛いのは」っ て言っていましたけど(笑)。
重松  しかし、"吉田家崩壊"とはいっても、お父さんはいわゆる父親らしいことはなさってこなかったんですよね。ずっと鹿児島に残っていらしたわけですし。それに対する反発は、拓郎 さんやお兄さんにはなかったんですか?
吉田 兄貴はね----、彼はもう亡くなってしまいましたが、晩年にいろいろ聞いたところでは、実は兄貴はすごく 親父を愛していたらしいですね、好きだったらしいです。僕から見ると、親父はどこか風来坊、放浪の男なんで イメージ的には。男のひとり暮らしというせいもあったんでしょうが、フラリと東京へ遊びに来てストリップ見て帰る、なんて噂を聞いて、なん だ、けっこう面白い男だったんだなあ、ってね。そういう姿に兄貴は憧れを感じていたらしい。そう考えるととても分かりやすくて、兄貴も同じようなヤツだったんですよ。風来坊で、息 子や女房をまったく顧みずに一生を終えましたけど、本当に適当な男だったですねえ。僕といつ会っても、テキトーなことばっかり言っている、そういう男でしたから。だから、「吉田家」 ということで考えたら、血は、吉田正広という親父から長男の哲郎へ、色濃くつながっています。
重松 吉田家の血統は、拓郎ではなく哲郎へ受け継がれている、と。
吉田 哲郎の息子は一発で京大へ入っちゃった。ここに、正広の願いは実現 しつつあるのかもしれません(笑)。
重松 拓郎さんのお兄さんに対する感情というのはどうだったんでしょう。 14歳も離れていると、いわゆる兄弟というよりは、もう少し遠い感覚だったんじゃありませんか?
吉田  年齢的には、もう親子に近いか もしれませんね。でも、親父も兄貴も 風来坊みたいなところがあったし、その意味で、僕のリスペクトは親父に対 しても兄貴に対してもゼロですよ。認めていない。家庭人としても最悪だし、男としても尊敬できない。
重松 確かにお話を聞いていると、お二人とも家庭人としてはかなり失格。 拓郎さんは微妙な立場ですよね。
吉田  兄貴とは年が離れているし、何より家にいない。もう他人のような感 じでしたね。おふくろの晩年ですが 寝たきりになったりして、いろいろ世話しなきゃならなかった。それを僕は経済面で、姉貴が肉体的精神的にそばにいて面倒をみたんですが、兄貴は一切他人事のようでした。兄貴に「おふ くろは、やっぱり長男に世話になりたいと言っている。考えてみてくれよ」 と言っても「誰に言ってんだ、ばかやろう」ですからね。そういう意味では、14歳差の兄弟っていうのはちょっと離れすぎていましたね。向こうも僕を子ども扱いにするし。
■異国で見た夢
重松  お兄さんは12、3歳で引き揚げてきていまよね。ということは,、向こうでの暮らしの記憶もあったわけですね。デラシネとか昔はよくそういう言い方をしたんですが、お兄さんの 生き方の根っこにも、それがあったんでしょうか。
吉田 吉田家は確かに、朝鮮では下働きの人やお手伝いさんがいるようないい暮らしをしていたようです。ばあややじいやもいたと、兄貴はよく自慢話のように言っていましたからね。そういう暮らしに対する思い出が、逆に兄貴を根無し草みたいにしたんじゃないかとも思いますね。
重松  お父さんは向こうでどんな仕事をなさっていたんですか?
吉田 それもよく分からない。何が軍関係の仕事らしい、というぐらいしか聞いていませんね、僕は。とにかく、かなり裕福な暮らしだったとは思います。兄貴は晩年まで「拓郎、朝鮮のあの家の跡へ行くとな、ブランコの下に絶対金塊が埋まっているぞ」って。何をバカなことを、という話をマジな顔で言うのを聞いていると、兄貴にとって向こうはよほど天国だったんでしょ うね。
重松  吉田家にとって、朝鮮に葬ってきたひとつの歴史があって、そして引き揚げてきてまったく別の、もうひとつの歴史が始まった、というわけですね。
吉田  そうです。"第二次吉田家"とでもいうんでしょうか。僕がいま支えているわけじゃないけれど、僕が中心になる吉田家というのが東京での僕の仕事ぶりから始まるわけで、それは、以前の"吉田さんち"とはまるで違う人生観、家庭観になっているんですね。親父、兄貴の吉田家とは切り離さ れた 「家」です。そちらの流れは、兄貴の息子に受け継がれていくのかもし れません。
重松  そうですね。14歳差というのは大きい。これがもし、2、3歳の差だったら、もっとお兄さんとぶつかっていたかもしれませんね。
吉田 絶対に。僕、二度殴っているんですよ、兄貴を。彼が広島に帰ってきては酔っ払って悪態つくたびに、「表へ出ろ」って外へ引きずり出して兄貴を張り倒しているんです。で、「怖い弟だな」なんて言いながら悪態をやめない。だから、年が近かったら、もっと激しい殴り合いになっていたでしょうね、きっと。
■虚弱少年の過保護時代
重松 拓郎さんは小児喘息でとても虚弱な少年時代を送った、と聞いていますが、ひ弱だったということが、その後の性格形成みたいなものに及ぼした影響って、やっぱり大きいですか?
吉田 いまでもその影響は大き いと思いますよ。小学校、中学校に半分くらいしか行っていないということは、いかに同世代 の子どもたちから遅れてしまうか、という話ですからね。肉体的な弱さということもあるけれど、やっぱり学業で遅れるわけですよ。小学校といえども、これはツラい。 1回喘息の発作が起きると、一、二週間は休んじゃう。子どもって成長が早いで しょ。小学校高学年から中学くらいでは、半月ほど休んで学校へ行くと、なんか同級生たちがすごく大人に見えるほど成長している。だから、家にいて僕は悶々としている。学業が遅れる、成長も遅れる、それから社会勉強にもついていけない。そういうことがすごくショックだった。高校三年くらいで 体が元気になってきて、みんなと対等になったと思えたときは、やっと自分がまともな人間になれたような気がしたほどです。遅れている自分が嫌だったですね。
重松  じゃあ、吉田少年としては、コ ンプレックスがけっこうあったんですね。学校を休んでいる間は、何をして いたんですか?やっぱり音楽を聴いていたとか。
吉田 喘息は寝ていなくてもいいんです。発作のとき以外は普通に生活できますから。まだテレビの時代じゃないので、本を読む、ラジオを聴く、それ から漫画雑誌をひたすら読み続ける。 『おもしろブック』『少年ブック』『少 年画報』とか。確か八日が発売日なのに、七日の晩に親父に頼んで本屋に行って買ってきてもらうぐらい漫画三昧。  たぶん、そのあたりで、歌謡曲とか流行の歌を聴き始めたんでしょうね、自然に。
重松  お父さんはそうとう厳しい方で、お母さんも仕事をなさっていたのだから、あの当時だったら「漫画なんか読んじゃいけません」 とか止められても不思議じゃな いと思うんですが、わりとそう いうところの理解はあったわけですね。
吉田  いやいや、親父は理解なんかまるでないですよ。漫画を買ってもらったのはたまたまですけど、僕が具合悪くて寝ていても「さっさと起きて学校へ行 け」と言うタイプでした。おふ くろが常に僕の側に回って甘やかし、ガードしてくれたんで
重松  おばあさんがいてお母さんがいて、さらに7つ上のお姉さんがいて守られてた……。 吉田 えぇもう。女三代にわたって愛され、守られ、完璧に過保護状態で真綿にくるまれていた (笑)。
重松  それこそ、宮崎先生でしたっ け、『夏休み』(アルバム『元気です。』 収録、72年)という曲の中の"姉さん先生"というような、年上の女性の背中におぶわれているような原風景、そういうのがずっとあったわけですね。
吉田  それはたぶん、自分が女系の中で育ったからというのは別にして、単純に女好きということもある(笑) でも、年上の女性に強い憧れを持っていたのは確かでしょうね。映画の女優 さんとかね。若尾文子さんなんか好きでしたねえ(笑)。
重松  年下の女の子を引っ張っていくというようなタイプじゃなかったんですね。
吉田 僕は体が弱かったせいで、学校では同級生や下級生の女の子にはまったく相手にされなかった。相手にされ ない以上、リードもしようがないわけです。学校では「吉田君は体が弱い」ということで、異性は僕に興味も何も示さないですよ。だから、高校のときもそうだったけど、まるでモテない。 モテないから、好きな女の子に遠くから仄かな想いを寄せるしかないという、典型的なモンモンと悶える虚弱な少年という感じでした。家でいろんなことを妄想するタイプの少年でした。
重松  その"モンモン" なんですが、高校時代に中学のときから好きだった女の子と宮島へデートに行く計画を立てて、すべての段取りを頭の中で決め て電話したら本人がいなかった、という話を聞いたことがあります(笑)。
吉田 まったくよくご存知で。それって、最低ですよね、僕は。
重松  そんなふうに、わりと頭の中で綿密なストーリーを組み立ててしまう タイプなんですか? あの道の何歩目でキスしてとか(笑)。
吉田 前の日だったかどうかは覚えていないけど、下見はしてます(笑)
重松  下見まで。
吉田  この辺で押し倒そうとか、もう妄想も犯罪スレスレ (笑)。
重松  そういう計画性はいまでもある とご自分でもおっしゃっていますね。 例えばハワイへ行くときに、予定は何日間だから服はこういうコーディネー トでとか、準備がすごく綿密らしいですね。
吉田  そうです。計画や荷造り大好き。もうほんと、好き。
重松 整理整頓も大好きだとか。
吉田  はい。うちはきれいに片付いていないと嫌だし、配線なんかが見えるのは大っ嫌いで、後ろを這わせてきれ いに留めて隠すとか。もう病的に整理好きですよ。
 
つづく
 

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153-0051 レイディオウ

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2017/02/21

黄金の60年代・「キャンティ」とその時代② 川添象郎・ムッシュかまやつ・ミッキー・カーチス

黄金の60年代・「キャンティ」とその時代②
川添象郎・ムッシュかまやつ・ミッキー・カーチス
【 「青山墓地で墓石狙ってピストル試し打ちしてた」(ミッキー)  】
 
ミッキー  東京タワーができた日、フラ ッシュの球、焚いたんだよ。何万個だか、パッと。 そこの飯倉通りでみんな立って見たの、憶えてない?
 
ムッシュ  そうだっけ? あれ、できた日っていつごろ?
 
ミッキー  昭和33年。ロカビリー・ブ ームのときだから。このへんも怪しかったよな。拳銃は売ってるしさ。
 
ムッシュ  「坊や、いくらか持ってこい」 ってやくざに言われたから、そのまま裏 から逃げて、半年ぐらい行かなかったこ とがあった。そういうことが、そのへんでしょっちゅうあったから。恐喝とかね。
 
ミッキー  ジェリー(藤尾)もそこで切 られてな。マネージャーも刺し殺されたりとか、ざらだったな。
ムッシュ  だったね。あのころは現役がいたね。
 
ミッキー  バリバリいたよ。ロカビリー の中にいたからね。
 
ムッシュ  いたいた。
ミッキー いたよね。現役がね。
 
ムッシュ  夜汽車の中で、山下敬二郎がライフル持って追っかけるもんな。俺、見たことあるよ。
 
ミッキー  そうそう。あれだけ滅茶苦茶ができたっていうのはね、よく新聞にも出ずに、警察にも捕まらずに。
 
ムッシュ ねえ。ほんとだね。
 
ミッキー 今だったらもう、新聞に毎日載ってるね。昔はみんな武器持ってたからね。
 
川添 そうだよ。あのころみんな持ってたよ。
 
ムッシュ  ジョニーキャッシュの歌、うまい人いたじゃない? あの人さ、自転車のパイプ使ってさ、手製の拳銃作ったもん。
 
ミッキー  名人だよ。22口径、バッチリ。
 
ムッシュ  それで、俺、1個もらって いっつも、持ってたんだよ、車の下やなんかに。それであるとき、高校の授業中に隣のやつに貸したら、暴発しちゃった (笑)。
 
川添   (拳銃の)ベレッタ持っていたか ら、撃とう撃とうって話になって。みかん箱あったから、バーンバーンって撃って、穴が開いたりなんかして。当たり前だよな(笑)。
 
ミッキー 青山墓地でみんな撃ってなかった? 墓石狙ってみんな撃ってたよ。 やくざなんか。試し撃ちするじゃない。
 
川添 そうしたら、それをうちの親父が、何やってるんだよっていう話になって。 で、俺たち、「ピストルが楽しくて撃ってます」みたに親父に言ったら、親父 は、「ああ、そうかそうか。俺にも撃たせろ」とか言って渡したら、そのまま スッと消えちやったんだよ。それから、ベレッタ返ってこないわけ。親父は、要するに、こんなガキどもに渡してると、えらいことになっちゃうから、うまいこと取り上げて捨てちゃおうと思ったんじゃないの? ほんと、平気だったから ね、そんなもの。
 
ミッキー 銃刀法で。みんな、捕まっちやって相撲取りとか、ハワイ巡業の帰りに持ってきちゃって。
 
川添 男にとって、こういうものってお もしろいじゃないですか(食事用のナイ フを磨いて、目の前にさらす)
 
ミッキー 当たり前だよ。
 
川添 実際に人を刺したり、そういうことをしたことないですよ。
 
ミッキー  1、2度しかない。
 
ムッシュ  やったことあんの?
 
ミッキー 下、さらし巻いて、一応突っ 込んで学校行かないといけなかったの。 「てめえ、このやろう」って。切れた跡とかいっぱいあるよ。
 
川添  エアガンは、合法的なのよ。エアガンてのは、玉があって、2.5グラムのプラスティックの玉だから、そんなもの、こんなとこ当たったって痛くない。
 
ミッキー 痛いよ、おまえ。俺、自分で自分を撃ったけど、痛かったよ。こいつ. 、ひどいよ。ユーミンのコンサート行って、知ってる? 客席から歌ってるユーミンに向けて撃ったんだ(笑)。
 
川添 嘘だよ。そんなことしてないよ。
 
ミッキー  さすがに楽屋行ったら、ユー ミンがムッときて無視した。そんな話聞いてるよ、俺。
 
川添  それは、オーバーだろ。
 
ミッキー  そりゃあ、客席でまずいよ、ユーミンを撃っちゃあ。
 
川添 オーバーだって。
 
ミッキー  いや、聞いたよ、俺。人に伝わるときにはそういうふうに伝わってるのよ。
 
川添  そうだそうだ。話がオーバーになっちゃうんだよ。
 
---- グループ・サウンズ伝説のひとつに、スパイダースのデビュー曲「フリフリ」 のジャケットに、ムッシュだけ写ってないのは、遅刻魔のムッシュが遅刻してきたから、写ってないんだっていう説があるんですが。真相は?
 
ムッシュ  本当です。つまり、いなくてもいける。あいつなんかどうでもいいっていう感じだったんだね。
 
川添  おまえがただの寝坊なんじゃね か(笑)。
 
象ちゃんの「果たしてこの鼎談、うまくまとまるのか??」という心配をよそに、話題はますます盛りあがっていく。 古き良き60年代の六本木の若者たちの、いまでは想像もつかない奔放な生態が明るみに出る。
 
---- 「ホイールキャップ いたずらしたの憶えてる?」(ミッキー)
 

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ミッキー  この辺、都電走ってなかった?
 
川添  走ってた。
 
ミッキー   朝一番で、月島に行くおばち ゃんたちが乗ってる都電の前で、俺たち五人並んで、チンポ出して立ってた。
 
ムッシュ  あったよ。
 
ミッキー 滅茶苦茶やってたよね。空気銃で撃ったりとか。
 
川添 空気銃、すぐ撃っちゃう。
 
ムッシュ  田園調布に行ってさ。お屋敷が、みたいなところで遊んで、4時とか過ぎてるんだよ。おまえさ、車の外へ出て、チンポ出して踊れってわけ。
 
ミッキー  三千円くれるとか言うんだ。
 
ムッシュ  そう。田邊の昭ちゃんが踊るの。誰か見てるんだよ。深夜だから、誰も見てないと思うんだけどね。ヒューヒューってやると、踊るんだよ、しょうがなくて(笑)。それから、ヒッチコック の映画、犯人が初めっからわかっちゃったらつまんないじゃない? 映画が始まる前にステージ上がって、誰が犯人か言ったら1万円やるとかそういうことさせるの。井上順やってたもんね、1万円ほしくて。そういうバカな遊びしてたんだよね。それから、ほら、車の……。
 
ミッキー  車に乗って、後ろで、走ってる最中、駅まで、後ろにいるやつがマスかいたら偉いみたいな、そんな話になっちゃって信号でこっち止まってる。ヒョッと見たら、横に女学生満載のバスで、みんな、こうやって上から見てた(笑)。
 
ムッシュ  そんなことあったね(笑)。
 
ミッキー  それと、ホイールキャップ、いたずらしに行った。憶えてる? 夜中に俺の親父の車を持ち出して、それで田園調布、行ったんだよな。シーツ......音がする。キャップが外れると、カーン! と音がする。その音がまた、キャーンと響いていいんだけど、周りの犬がワンワンワンと吠え出す。パーッと逃げて車乗ってて。そんなの端からいたずらして。で、もう終わりで帰りごろ、飽きちゃうわけじゃない? みんな、忘れちやって翌日、親父が会社行こうと思っ て、車、チャカチャカ音がするんだって。 なんか変だなあと思って、ガソリンスタ ンドに寄ってホイールキャップ、こんな外れちゃってる。で、俺、怒られちゃって、「俺は知らない。あれは田邊の昭 坊が…」ってことにして。
 
川添  あいつのせいにしたわけ。
 
ミッキー  あいつ、しばらく俺んち半年ぐらい来られなくて。そんなことばっかり、したよな、あのとき。
 
川添 油断も隙もあったもんじゃないんだから。 当時やってるっていう言い方すると、そこら中で流行ってるように聞こえるから。違う。誤解しないでください。 この人たちだけがやってる。今だと大変だよ。そんなこと。
 
ミッキー 大変だよ。今だから、言える。
 
つづく
 

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黄金の60年代・「キャンティ」とその時代 ① 川添象郎・ムッシュかまやつ・ミッキー・カーチス①

黄金の60年代、「キャンティ」とその時代
- 2007年 団塊パンチ4 -  
 
川添象郎
ムッシュかまやつ
ミッキー・カーチス

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六本木交差点から東京タワーに向かって車を走らせると、飯倉片町の一角に三階建てのレストランが目に飛び込んできます。 「CHIANTI」-「キャンティ」というイタリアンレストラン。
1960年の開店以来、「キャンティ」には、芸術家、芸能人、知識人たちが集まってきて 深夜遅くまで語り合う「溜まり場」でした。 人と人との交流の集積が新しい文化を生みだし,、世界に通じるカルチャーを誕生させてきました。  その「キャンティ」を軸にして或る時、三人の男たちが知り合い、青春を謳歌しました。 ミッキー・カーチス。 ムッシュかまやつ。 川添象郎。 彼らは、シナトラがまだアイドルだった時代からヒップホップの現在まで、 ポップ・ミュージックの最前線で、ミュージシャンおよびプロデューサーとして活躍。 日本の音楽界に多大な功績を残し、肩の力を抜きながらやりたいことをやり、時代をうまく泳いできた、本物の不良たちです。 その三人に、青春の1ページを振り返ってもらいました。 「『キャンティ』、青春の日々」を中心に語られる秘蔵エピソードの数々は、活字化されたことのないものばかりです。 ジャズのインプロヴィゼーションを思わせる言葉の応酬をお楽しみください(以下、敬称略) 。
 
【「『象の記憶』は 全部パソコンで書いてるんだ」(川添) 】
 
川添象郎(以下、川添)  まだ二人来てない? (編集長に向かって)スタンガン持ってきましたか。
 
編集長  え!?
 
川添   やつら、来たら、暴れまくるから、危険ですよ。いざというとき、黙らせないと。
 
編集長  ハイ……。
 
(ミッキー・カーチス、ムッシュかまやつ両名が定刻通り「キャンティ」に到着。 編集部から、川添氏の連載「象の記憶」の掲載されている『団塊パンチ』を 手渡される。熱心に読み出す二人)。
 
ムッシュかまやつ(以下、ムッシュ)  象ちゃん、よくちゃんと書いたな。
 
ミッキー·カーチス(以下、ミッキー)   これ、ちゃんと書いてるよ。
 
ムッシュ  すごいね。これ一冊にしち やったほうがおもしろい。よく憶えてる
 
川添  でも最近、一分前に言ったこと、もう忘れてる。
 
ムッシュ  アルツハイマー·グレイト!
 
川添 俺、自分でパソコンで書いたんだ。
 
ムッシュ すごい立派な原稿じゃないの。
 
川添 今日、田邊の昭坊(*2) (現、田 辺エージェンシー社長)に電話して、今回の連載に昭坊も出てくるから、(原稿 を)送っておかないと悪いと思ってさ。 「パソコンで送るから、メールアドレス教えて」って言ったら、「そんなこと、俺ができるわけねえだろう」って威張ってやんの。
 
ムッシュ 象ちゃんぐらいだよ。メールとかやるの。
 
川添  ミッキーも、うまいよ。
 
ミッキー  俺、ミクシィとかバンバン入っちゃってるから。
 
 --ミクシィ、やってるんですか。
 
ミッキー  やってるよ。
 
【 「カントリーバンドの ほうが金になった」(ミッキー)  】
 
川添 ミッキーは、和光学園に入ったろ。
 
ミッキー  そうだよ。俺、小、中、高。
 
川添 俺は幼稚舎、中等部、高校1年までは慶應にいたわけ。で、いきなりラ・サール行ったでしょ。で、いきなり、今度は和光に入れられたわけ。全部親の都合だからね、うちは。
 
ミッキー  俺もどうやって卒業したのかわかんない。よく卒業できたなあって。 しかも成城(大学)に入れたなあと思って。確かに勉強したんだよ、半年ぐらい。
 
川添  ほんとに?
 
ミッキー  ちゃんと入ったんだ。
 
川添 和光には、三枝成彰がいたんだよ。
 
ミッキー  三枝。俺、殴った。
 
川添 知ってるよ。三枝、今だって君の顔見たら、すぐ逃げちゃうじゃない。
 
ミッキー 今でも生意気だもん。
 
川添 ムッシュはどうしたの、学校は。
 
ムッシュ  学校はいちおう高校出たよ。 青学。
 
川添  みんな名門出てんじゃない。
 
ムッシュ  青学出たけど、三か月遅れぐらいで出た。バンドやってたしね。パン ドのほうが面白いし、金になるし。米軍のキャンプ回り。そっち行っちやったん だね。
 
川添 進駐軍のところへ行ってエンタ -テイメントやったりしたの、あなた?
 
ムッシュ  そうそう。
 
川添  ミッキーもやってるんだよね。
 
ミッキー   もちろんだよ、それがメインだよ。
 
ムッシュ  米軍が撤退して、キャンプが少なくなってきて、渡辺プロも、都内にジャズ喫茶を作ったの。でも日本人の前でやるの、すごくビビッたね。外人は平気だった。
 
川添   この二人も、僕も同じなんだけど、 1940年代ぐらいから、今日に至るまでのあらゆるポップミュージックをリアルタイムに経験してるよね。
 
ミッキー  終戦の年からね。 俺たちは、結局カントリーが多かったんだよ。一番、カントリーが金になったんだ。というのは、日本に来るアメリカの兵隊って、百姓ばっかりなんだよ。こっちくるのは、カントリー系ばっかりだから。ジ ャズバンドよりカントリーバンドのほう が儲かった。
 
川添  マッカーサーとアイゼンハワーの 違いみたいなものだな。
 
ミッキー  マッカーサー......まあ、そういうことだな。
 
ムッシュ  よくわかんねえけど。
 
ミッキー  なんとなくだよ、なんとなく。
 
ムッシュ それ、1956年ぐらい。でも感心してるんだ、俺。この「象の記憶」 みたいな回想、30代とか40代だった ら書けるけどさ、60過ぎて書くの、大 変だよね。
 
ミッキー  忘れちやってるんだよね。
 
ムッシュ   だよね。調べるんでしょう、相当。
 
川添  調べるわけないじゃない。記憶だよ。たまに会ったときに「あれ、どうだったっけ」って尋ねて、書いてるの。
 
ムッシュ  それはすごいって。
 
川添  それはだって、引っかかってるから訊くわけよ。だって、この記録、残るんだもん。飛鳥新社潰れたって、残るんだから。
 
ムッシュ  そうだよね。
 
ミッキー  俺、紅茶1杯飲ませてくれる? 悪いけど。
 
アールグレイの紅茶を頼んだミッキ-。ムッシュは、ミラネーズの横に、バ ジリコを乗せ、とうもろこしを追加したもの。象ちゃんは、フィレステーキにボイルドポテト、ニンジンとインゲン。 1960年、三人は「キャンティ」の開店初日から居たのだから、注文の仕方が様になっている。フォークとナイフの使い方も、洗練というのじゃないけれど、男っぽくて、見ていて、気持ちがい い。「キャンティ」そのものが体に馴染 んでいるのだ。かっこいい!
 
【 70になるなんて 想像した?(ミッキー)  】
 
ミッキー 俺、ハーモニカ、一本持って 今でも小一時間(ライヴを)やってるよ。
 
ムッシュ  小一時間。そのタフな行動力がすばらしいんだよね。
 
ミッキー  うん、俺63からハーモニカ始めたの。飽きないね。これ、死ぬまで やるよ。たぶん、死ぬときに、最期の息がハーモニカなんだ。フ~ンって。
 
ムッシュ  そのサウンドがすごいよかっ たりして。
 
ミッキー  そう。Bフラットだったり。 よくわかんないけど。
 
ムッシュ ワニがBフラットの音に反応するって話、聞いたことある?
 
川添  ほんと?
 
ムッシュ  うん.動物園の前で、Bフラ ットの音を出したら、ワニが暴れたから、 ニューヨークのオーケストラを呼んできて、Bフラットの音、全員でブワーッて やったら、大変暴れたんだって。
 
川添・ミッキー  ほんとかよ(笑)
 
ムッシュ  ほんとなんだって。
 
ミッキー  今、思いついたんだろおまえ。
 
ムッシュ  いやいや。本で読んだんだよ。
 
ミッキー  Bフラット、ワニが。試してみよう。いや、わかんないよ。動物によって違うかも。
 
川添  ミッキーがビデオ回せっていうか ら、ビデオ、持ってきたよ。
 
ミッキー  ああ、生きてるうちにね。回 しといたほうがいいんじゃないかなって。俺たち三人が集まったいい機会だし。 わかんねえじゃん、明日は。
 
ムッシュ  俺まだ67だよ。70まで3年あるよ。
 
ミッキー  でもさあ、まさか自分が70になるなんて思った?
 
ムッシュ  あまり自覚して生きてなかったような気がするよね。スルッと来ちゃった感じするよね。
 
川添  だから、みんな要するに好きなことばっかりやってきた連中じゃない。
 
ミッキー  ムッシュなんて特にな。
 
ムッシュ  あなたたちこそ。
 
ミッキー  おまえが一番好き勝手だよな。
 
ムッシュ  そんなことない。
 
ミッキー  俺はね、たぶんおまえ(象ち ゃん)が一番勝手だと思う。
 
川添  いやいや、俺はミッキーを相当勝手だと思うよ。

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ロカビリー歌手時代のミッキー・カーチス

【「最近の若いやつは イヤホンつけて 席を譲ろうともしない」 (川添) 】
 
ミッキー  でもさ、電車乗ってると、俺 なんかもう席譲ってもらったほうが嬉しいけどね(笑)。
 
川添  いや、譲らないよ。最近の若いのは。
 
ミッキー  いや、譲るのもいるよ。でも、たいがい譲らないね。
 
川添  たいがい譲らない。だいたいね、 あいつらシルバーシートの優先席っていうのに座って、イヤホン付けて、目つぶって音楽聴いてるの。お年寄りに席譲 ろうとしない。
 
ムッシュ  死んだ振りするんだよ。
 
川添 それ見ると、俺、腹立つから、蹴飛ばすわけ。いきなりドーン! びっくりしちゃう。文句言うの。
 
ミッキー  言いそうだな。
 
ムッシュ 象ちゃんは、言いそう。
 
ミッキー 有名だもん。
 
川添  捨てゼリフ吐くやつなんかいるわ け、たまに。
 
ミッキー  そうすると、ステッキ出して引っ掛けたりするんだ(笑)。
 
川添 「何がなんでも、言い方があるだ ろう」と言うんだよ。
 
ムッシュ  こういう性格は、象ちゃんのDNAなんだよ。
 
ミッキー  こういうところ、(後藤)象 二郎からきてるんだよ。きっと。
 
川添 「無礼者!!」って感じになって追っかけてって。
 
ムッシュ  どうでもいいじゃない、そんなこと。だけど、それやっちゃうっていうのがDNAなんだよね。
 
川添  (しみじみと)やっちゃうんだよね。でも、この中で人間が一番人間が丸いのは、ムッシュさんじゃないですかね。
 
ミッキー  ね。こいつ、振りがうまいから気をつけたほうがいい。
 
ムッシュ  ピンコロ屋の息子だから、生まれたときから、世の中、こうやっていながら(頭を低くする)生きてきてるから、ある種、せこいのかもね。堂々と生まれてこなかったからね、きっとね。 ミュージシャンとかそういう業種っていうのは。
 
川添  ごめん!俺、ボキャブラリーわからないんだ。ピンコロ屋の倅って何?
 
ムッシュ  ピンコロ屋っていうのは、つまりバンド屋。
 
川添 そういうことね。
 
ミッキー  だって、昔だったら、バンド屋って道、真ん中は歩けない。
 
川添  ......で、今の話の続きだよ。まず、そもそも、俺はミッキーとどこで会ったか全然記憶がないわけよ。
 
ミッキー  俺は覚えてるよ。
 
川添 覚えてるのは、ムッシュの家に俺が、一晩、二晩泊まり込んでるときに、ムッシュはもうスターで、追っかけの 女の子がいっぱい。だって、朝っぱらか ら、追っかけの女の子が取り巻いてさ。
 
ミッキー  覚えてないんだよ、こいつ、全然。もっと前だよ。
 
川添 ああ、そうだったっけ?
 
ミッキー  なあ。だって、俺がこっちへ来たのは、ジャズ学校だよ。
 
川添 それは知ってるの。君たち二人のことはいいの。俺が知りたいのは、どこで会ったかということ。
 
ミッキー  青山ボウリング·センター
 
川添 ああそう。わかった。じゃあ、それでいいや。
 
ミッキー  たぶん。そう思わない?
 
ムッシュ  ちょっとね。そこんところ、 考えさせてくれる。
 
ミッキー  青山のボウリング·センターだよ。
 
ムッシュ  俺、その初めて会った瞬間っていうのが、きちっとは憶えてないんだけど、「キャンティ」のこのへんであることは確か。まだここ(飯倉本店)ができる前だった。象ちゃんが、「今年の暮れに店ができる」とかそういうようなメッセージをくれたんだよね。
 
川添 その前は、どうだったの僕、君と。
 
ムッシュ  このへんで会ったの。
 
川添  このへんって言ったって、この店ないんだぜ。
 
ムッシュ  つまりほら、いろいろあった じゃない。
 
川添 「シシリア」とか。
 
ムッシュ  ああいう店で会ってんだよね、きっと。
 
川添 会ったって、だって、接点がないのに、なんで友だちに。
 
ムッシュ いや、顔見知りみたいな感じで。
 
ミッキー (福澤)幸雄じゃないの。
 
川添 あっ、幸雄の可能性あるな!
 
ムッシュ  幸雄? それはあり得るな。 幸雄はね。車を媒介としたグループだった。
 
--- ミッキーさんとムッシュさんが知り合ったのは、どういう縁ですか。
 
川添  これはもう簡単。どうぞ、話してください。話せよ。
 
ムッシュ  ジャズ学校。
 
ミッキー  正確に言いましょう。 1956、7年です。ロカビリーブームは、58年です。その前です。
 
川添  ミッキーはロカビリー三人男の一角を占めてたわけじゃない? 最初のアイドルだな、言ってみれば。今のアイドルみたいだったの。
 
【 「CIAとかKGBを集めて、ポーカーやってた」(ミッキー)  】
 
一 10年くらい前、テレビでミッキーさんが「昔の六本木と今の六本木は違ってた。昔のほうが活気があった」と、おっしゃってました。
 
ミッキー  ああ。
 
川添 全然違うよね。
ミッキー 今、六本木ってすごい混んで るけど、怖くないよね。昔は人いなかっ たけど、怖かったよね。危険。
 
川添 だって、撃たれちゃうんだから。
 
ミッキー  撃たれた。俺、撃たれたもの。
 
--- ミッキーさんがですか?
 
ミッキー  撃たれた、撃たれた。『東京 アンダーワールド』っていう本 読みました?
--- はい、読みました。
 
ミッキー  あのときいたんだよ、俺は。 あそこに。あの界隈で撃たれたのよ。当たんねえんだ。俺、「下手くそ!」って 怒鳴ったんだけど。
 
---- 撃ったのは誰ですか?
 
ミッキー  あのころちょっと、組同士がごちゃごちゃしてたじゃない。あの狭間だったから、何がちょっとどうだったのかわかんないけど。朝鮮戦争からベトナム戦争に流れ込んでいく、ちょうど合間の中途半端な時期。
 
川添  君を狙ったわけじゃないでしょ。 君と一緒にいるやつを狙ってたんでしょう。
 
ミッキー  そうらしい。
 
川添  このへんなんか、大使館がいっぱいあって、スパイみたいなやつばっかりだった。
 
ミッキー  みんなスパイ! もう石投げたらスパイに当たるっていうぐらい。
 
--- それはソ連とか東欧……。
 
ミッキー  そうそう。
 
川添 全部いるよね。
 
ミッキー  全部いる。六本木の交差点、石投げりゃ、スパイに当たるっていうぐらい(笑)。そいつら集めて、ポーカーやってなかった? 俺たち。
 
川添 やってたよ。
 
ミッキー  なあCIAとかKGBとか集めてな。ポーカーやってた。
 
川添 俺なんか、カモだと思ってやってんだよ。俺がいっつも持ってっちゃうもんだから。おもしろかったよ。ねえムッ シュ、彼らがやってるポーカーなんか見てたら、カードさばきから何から、僕から見れば子どもみたいなもんなわけ。あんた、知ってるでしょ、僕の実力。ラス ベガスに行って、その前に引田天功と、カードやってるくらいだからさ。
 
ムッシュ  敵なしじゃんね。
 
川添 六時間とか八時間とかっていう勝 負決めてやるじゃない?八時間のなかで勝負、結果が勝てばいいんだろ。というのは、みんな、一手ずつで一喜一憂するわけよ。だから、だめなわけ。 時間で最終的に勝つ方法っていう考え方で、僕は賭けてるから。最初は小さく賭けて、さっさと動いて、見てて、癖覚えちゃって。そしたら、絶対勝つよ。
 
ムッシュ 象ちゃんはそうだよね。長いタイムで考えて、配分して、集中するところと、投げ出すところみたいな。だか ら、アルファ ミュージック、創 った。
 
川添 戦略的に動くわけ、俺は。
 
ムッシュ  そう。だから、アルファは、 ほんとは村井邦彦がやってるのかと思ったもの。そうしたら、あれは象ちゃんが、やっていた。どっちかって言うと、村井がポイント、ポイントで攻撃するタイプなのね、きっとね。
 
川添 「じゃあ、僕が金持って来るわ」 という話になって。
 
ミッキー  コロムビア(レコード)騙 して。
 
川添  それで、できちゃった。マッシュ ルーム・レーベル。日本で最初のインディーズだよ。
 
ミッキー  あの会社のマークになったキノコの絵は、別れたかみさん、MIKA が口紅で描いたのを使ってる。俺の乃木坂のマンションかなんかで。
 
川添 それで,タレントがいないわけ、そのとき。ミッキーとかいるけど、ミッ キーはもうプロデューサーだったし。
 
【 「アルファレコードは遊びから始まったから 成功した」(ムッシュ)  】
 
ムッシュ  アルファって、結局。一発目 は誰。小坂忠 ? 違う?
 
川添  一番最初は小坂忠。
 
ミッキー小坂忠。成田賢。
 
川添 それで、GAROになっ て、GAROでバーンと売り上げ上げち やった。当時、ミュージカル「HAIR /ヘアー」が終わった局面で、GAROのメンバーが「HAIR」に出てて、僕がオーディションで選んだ、歌の歌えるやつを、ほとんどそこから引っ張 り出してきた。最初のタレントはね。で、小坂忠が、そのとき初めて細野晴臣をうちに連れて来たんだよ。「俺のギターで, なんかちょっとやってよ」って言ったら、いきなり一曲やったんだよ。そのビートには吹っ飛んだね。えらいセンスのいいやつだなあと思って、細野君は、それからの付き合いなんだよ。
ムッシュ  ああ、そう。
 
川添  ユーミンなんかも、そのころ「HAIR」 の楽屋へ、うろちょろ出入りしてたよ。
 
ミッキー  まだ14歳くらい。
 
ムッシュ  早熟だったんだね彼女もね。
 
川添  早熟だよ。だって、いきなり俺のところ来て、「私、いい曲書くんですよ」 って聴いたら、すごくいいんだよ。で、 加橋かつみのアルバムの中に、すぐ採用しちゃった。
 
ムッシュ  ああ、そうだよね。
 
ミッキー  彼女のライブのデビューはね、俺らの前座だった。ツバキハウス。
 
ムッシュ  ツバキハウス。新宿の?
 
ミッキー  そう。
 
ムッシュ  懐かしいなあ。アルファ・ミ ユージックって、遊びの発想から始まったから、成功したんだね。だから、金のことやなんかから入っていったら、絶対 うまく行かなかったんだよね。あれ、や っぱりフルに自分のアイデアが出たでしょう。
 
川添 そうそう。
 
ミッキー 好き勝手にしたからね。
 
ムッシュ  金儲けしようと思って始めたもんじゃないからね。
 
川添 僕らの発想は、日本の音楽、なんでこんなダサイの? いくらでもカッコ いいレコード作れるんじゃないの? というものだったの。
 
【 「この年になると 過去が 追いついてくる」(ミッキー)  】
 
--- 「リブヤング」というテレビ番組、 高校1年のときたまたま見てたんですよ。愛川欽也が司会やってて。そのときリーゼント大会があって、キャロルがパ ックバンドとして出演していたのを、ミ ッキー.カーチスさんがすぐにスカウト したという伝説の放送日をリアルタイムで見てるんです。
 
川添 こいつ、早いから。
 
ミッキー  その場ですぐ電話した。
 
--- あのとき、リーゼントチャンピオン が永ちゃん(矢沢永吉)だったんですよね。愛川欽也が引っ張ってきて。
 
ミッキー  そう。そのときの審査員が(内田)裕也だったんだ。で、裕也が番組終 わったら、キャロルをゲットしようと思 ったらしくて。ところが、俺が番組の最中にもう押さえちゃったから。そこで、なんかすげぇ悔しかったらしいよ。
 
--- 今、ネットで、キャロルを見たことも聞いたこともなかった若者が、ハマってて、すごいブームになってるんですよ。
 
川添 うん、ミッキーさんが一番詳しいよ。初期のキャロルは。
 
ミッキー  もうこの年になると、過去が追いついてくるんだ。過去が。
 
川添  それは言えてるな。俺もそうだも の、今。「象の記憶」書いてみたり。
 
ミッキー  過去が追いついてきてる。
 
ムッシュ  うまいこと言うな。
 
ミッキー  追いついてくるんだ。心配するなって。
 
川添 過去は追いついてくるな。
 
「ちょっと、コケイン吸いに行ってきま す」
 
物騒なセリフを残してムッシュがタバコを吸いに退席。
 
「俺も」
 
つい最近まで禁煙していたミッキーも、葉巻をとりだしてスパスパ。イタリアンマフィアみたいだ。
 
ひとり、タバコをやめた象ちゃんが「みんなやめたんじゃないのかよ。おまえら、そんなのやめたほうがいいよ」と吠えている。
話題は、三人が出会った、当時の東京 へと…… 。
 
つづく
 
 

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2017/02/20

田家秀樹ブログ・新・猫の散歩・ 「サンデー毎日」にも拓郎さんのことを書いてます。

田家秀樹ブログ・新・猫の散歩

「サンデー毎日」にも拓郎さんのことを書いてます。

うっかりしてました。今週の「サンデー毎日」に「吉田拓郎70歳」という原稿を書いてます。ずいぶん前に入稿したんで、書き忘れてました。インタビューはなしでも構いませんというので、やらせて頂きました。丸々4頁ありますからね。週刊誌では長い方でしょう。

 そういうお話って、たいていが「拓郎さんのインタビューは取れませんか」という打診が一番多いんで、ほとんどお断りするんですが、インタビューなしで構わないんで、好きなことを書いてくれませんか、と言われれば、話が違います。

 去年、やはり「サンデー毎日」から、SMAPの解散について頼まれて、その時の原稿が、自分で言うのも何ですが、評判だったということもあっての依頼。去年のツアーを中心にした拓郎さんの70歳をテーマにしてます。

 それなりに色々見せて貰ってきましたから、いくらでも材料はあるんですが、週刊誌の人では書けないようなことを書いたつもりです。火曜日発売だったはずですね。キオスクとかコンビニとかでも売ってます。よろしくお願いします(笑)。

 拓郎さんのDVD「吉田拓郎2016」は、映像ランキングの最年長記録を更新したようなんですね。嬉しいじゃないですか。古希のお祝いですね。あ、思わずDVDとだけ書きましたけど、今は、DVD・ブルーレイと両方書かないといけないんだそうです。

 DVD派とブルーレイ派、どっちが多いんでしょうね。そのうちブルーレイしか出さないという人も出てくるのかもしれません。というわけで、これで一連の拓郎さん関連は打ち止めかな。と言っても「FM COCOLO」のオンエアは後二週あります。明日は加藤いづみさんですね。

 でも、楽しませて頂きました。今度はいつ動き出すんでしょうか。その時を楽しみにしましょう。曲ですね。「FM COCOLO」ではフルバージョンでオンエアしました。「真夜中のタクシー」を。じゃ、お休みなさい。

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襟裳岬 ・  音楽プロデューサー 髙橋 隆

FM おだわら 2月19日 24:00 - 25:00 午前0時の歌謡祭
パーソナリティ : 濱口英樹
ゲスト : 音楽プロデューサー 髙橋 隆(元ソルティー・シュガーのメンバー、当時高橋卓士)氏

濱口 : 森進一さんの襟裳岬。森さんも当時すでに演歌の大スターで

高橋 : 大御所ですね

濱口 : ですよねぇ。20代前半の、こう言ってはなんですが駆け出しのディレクターが担当するようにはなかなかなりそうにないんですが、なんかこれも企画かなんかなんですか

髙橋 : ちょうど当時、何周年だったかちょっと記憶定かじゃないんですが、ビクターの何周年かでディレクターみんなが、「自分の担当以外のアーティストの企画を出しなさい」と。所謂企画のコンペ、「自分の担当以外を出しなさい」ということで、私は真っ先に森 進一と青江三奈両方の企画を書いて、出しまして。本人のOK取ってないんですが、岡本おさみさんは吉田拓郎さんと組んで、もうすでに売れてましたから。あのう岡本さんは僕、知ってましたんで、作詞岡本おさみ、作曲吉田拓郎ってもう思いつきで書いて、企画書出した。フォークと演歌の融合、みたいなだけなんですけどね。それで、そしたらまぁ通っちゃって、「やれ」という事になって。それからまぁちょっと、困ったなぁ、どうしようかなぁ、と思ったんですけど。まぁ、あの、お二方とも快く受けてくれて。うんあの、それからトントン拍子でうまくいったんですけど。この時はですね、ビクターもやっぱりまぁ、渡辺プロも渡辺晋さんという大社長が居ましてね。ビクターもその時は天皇と呼ばれる社長が居て、両方の意見が合わなくて。森さんと渡辺プロは「襟裳岬」なんですけど、ビクターの社長は、もう片方のカップリングと言うか、本来そっちがA面なんですが、「世捨人唄」をA面だ、と。折り合わなくて、「じゃ、しょうがない」って事で両A面という形にして。実際にはアナログ盤ですからA面、B面あるわけで、「襟裳岬」はB面なんですね。それで最初が、「世捨人唄を歌番組でひと通り歌わせる。その代わり、一通り歌ったあとは、今度は襟裳岬に切り替えるよ」という渡辺プロからの提案があって。それでまぁ、両者の顔を立てたんです。ですから最初、発売してしばらくは「世捨人唄」を森進一はずっと歌ってたんです。それでしばらくして、「じゃあそろそろいいだろう」ということで「襟裳岬」に切り替えたんです。だからこれもね、すぐにはそんな売れなかったです。結構時間かかって、じわじわじわじわと売れてったって感じですかね。

Eriomisaki

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2017/02/17

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2017/02/16

HIKE OUT STAFF VOICE

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FCバルセロナのイニエスタ選手のワインは、

ラベルがとても素敵で、

ハートの向こう側に「La pasión va por dentro(情熱を内に秘めて)」

ボトルの正面には、コラソン・ロコ「熱狂的な思い」と。

私も熱い思いを忘れずに日々を送っていきたいです。

昨日は早朝から春風が吹いたようなニュースがありました。

先週8日(水)発売のLIVE2016 DVD,Blu-ray&CDが、

オリコン週間BDランキング総合3位!最年長TOP10記録と自己最高位を更新!!

やったー。ステージスタッフも一同、本当に嬉しそうです。

たくさんの熱い思い、ありがとうございました!!

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2017/02/15

富澤一誠の「俺が言う」 ノーベル文学賞受賞アーティスト<ボブ・ディラン>がいたから吉田拓郎が生まれ、そして現在のJポップ・シーンがあるのです! 富澤一誠

何をもって文学的と言うのか、は見解の相違によります。従って、ボブ・ディランの詞に文学性はあるのか、も見解のわかれるところです。
そんな前提に立って私が思うことは、これは日本においての話ですが、岡林信康、吉田拓郎、井上陽水、谷村新司、さだまさしなどのフォーク・シンガーたちは、フォークソングという表現手段がなかったとしたら”文学者“になっていたというか”小説“を書いていたと思います。おそらく彼らは青春時代の喜怒哀楽を小説という形を借りて表現して発散していたことでしょう。柴田翔の「されどわれらが日々」や庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」などのように。
 
しかしながら、彼らはそうではなく音楽の世界に入ってしまいました。なぜかというと、自分の言いたいことを小説という表現方法ではなく、自分の言葉で、自分の曲にのせて、肉声で歌う”フォークソング“という表現手段を知ってしまったからです。
 
かつて“怒れる若者の季節”と呼ばれる時代がありました。60年代後半から70年代にかけて、ベトナム反戦、学園紛争、安保反対と嵐が吹き荒れた時代です。そしてそんな時代が生み出したのが“若者たちの英雄”である岡林信康、吉田拓郎であり、彼らが歌う“フォークソング”だったのです。当時の若者たちはそれまでの小説を読むかのような気持ちでフォークソングを貪るように聴くようになったのです。まさに<昔・文学、今・フォークソング>です。要は、フォークソングは文学である、ということです。
 
さてボブ・ディランの話ですが……。ディランがノーベル文学賞を受賞した際に吉田拓郎は「もし、あの時にボブ・ディランがいなかったら、と考える。ボブ・ディランがいたから今日があるような気もする。多くのことがそこから始まったと僕は思うのだ」というコメントを出しましたが、これは“ディラン”を“拓郎”に置き換えたら、そっくりそのまま日本の音楽業界にあてはまるのではないでしょうか。そう、吉田拓郎こそが“和製ボブ・ディラン”であり、拓郎がいなければ今のJポップ・シーンはありえないのです。
 その証拠に拓郎は大学生の頃に家出をしています。憧れていたディランの伝説を読んで、ディランは尊敬していたフォーク・シンガーのウディ・ガスリーに会うために放浪の旅に出た、ということを知り、自分も家出をすることでディランに少しでも近づこうと思ったのです。ディランの生き方は拓郎を強く刺激したのでしょう。
 
拓郎だけではなく、岡林も、陽水、谷村、さだもみんなディランの影響を受けています。それはベトナム反戦や公民権運動のムーブメントの中から、ディランが自分の意志を、自分の言葉で、自分の曲で、肉声を持って訴えていいのだというプロテスト・ソングを教えてくれたからです。その意味では、ディランズ・チルドレンと言っていい。そんなチルドレンを触発したディラン。ディランの歌はもともと文学青年だった彼らのDNAを刺激したのです。このことは、さだまさしの例を引くまでもないだろうが、さだもディランの文学賞受賞にあたって「あの人がいなかったら、僕らの歌を聴いてくれる人はいなかったかもしれない」というコメントを出しています。さだは今や小説家としても名を成している。「精霊流し」「解夏」「眉山」など数多くのベストセラーを出しているだけでなく、映画化もたくさんされ人気作家としても地位を獲得しているほどです。
 拓郎、さだをはじめ文学志向だった彼らを音楽の道に導いたディランの本質は文学にあるに違いない、と私は思う。ディランの詞が文学的なのか?はたまた文学性があるのか?その答えはまさに<風に吹かれて>です。
 
最後にこれだけは言っておきたいことがあります。ラブソングしか受け入れられなかった時代に、ディランはメッセージをこめたプロテスト・ソングを歌い世界中に影響を与えたということ。「風に吹かれて」のフレーズに「答えはすべて風の中」とあるように、直接的に伝えるのではなく自分で考えなさいというメッセージが魅力。また、通常は一音に一語を込めますが、メロディーより、言葉、思いが先行する。つまり、まずは詞ありきで、言葉がメロディーからこぼれてしまう“語る”ように歌うのがディランの特徴。それまでになかった言葉(言いたいこと)重視の歌は、日本でも岡林や拓郎などに影響を与え、“一音一語”だった日本の音楽を変える<字余りソング>を生み出していくのです。メッセージがメロディーからこぼれるなんて、それまでの日本ではありえなかったことで、Jポップの礎を作ったと言っても過言ではないでしょう。
ノーベル賞受賞で、これまでディランに興味を持っていなかった人も聴くようになり、音ってすごいぞ、と再認識されるきっかけとなれば幸いです。音楽で「時代は変わる」のか?答えは風の中です。

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吉田拓郎、70歳10ヶ月でBD最年長TOP10

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シンガー・ソングライター吉田拓郎のライブBlu-ray Disc(以下BD)『吉田拓郎 LIVE 2016』(8日発売)が初週に6084枚を売り上げ、2/20付オリコン週間BDランキングで総合3位に初登場。『吉田拓郎 LIVE 2014』が2014年12/15付で記録した総合9位を上回り、自己最高位をマークした。

今回のTOP10入りによって、エリック・クラプトンがBD『スローハンド・アット・70 - エリック・クラプトン・ライヴ・アット・ザ・ロイヤル・アルバート・ホール』(2015年11/16付=最高7位)で記録した「週間BD総合ランキングにおける最年長TOP10入り」記録を更新。70歳10ヶ月の吉田は、クラプトンが当時記録した70歳8ヶ月を上回り、同記録最年長(※)となった。

本作は、吉田が2年ぶりに開催した関東圏ライブ『吉田拓郎 LIVE 2016』のうち、パシフィコ横浜で行われた最終公演の模様を収録。ライブ本編、本番前の貴重なリハーサル風景のほか、映像特典として新曲「ぼくのあたらしい歌」のミュージックビデオ(新録音源)とバンドメンバーのインタビューがそれぞれ収録されている。

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2017/02/13

2月13日 FM COCOLO田家秀樹J-POP LEGEND FORUM 拓郎特集

2月13日 FM COCOLO田家秀樹J-POP LEGEND FORUM 吉田拓郎特集

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FM COCOLO 21:00 - 22:00

拓郎さんのコンサート・ツアー・ディレクター「宮下龍一」さん。

いちファンとしての拓郎さんとの出会いから、

長年にわたって携わっているコンサートの裏舞台など

常に拓郎さんの近くにいた宮下さんならでは秘話が語られます

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富澤一誠の「俺が言う 」 吉田拓郎の歌こそ私たちの人生のまさにテーマソングなのです!

吉田拓郎が登場した瞬間すさまじいばかりの歓声が地ひびきのように湧き起こりました。その歓声を聞きながら私のモードも一気にオンになりました。
 拓郎に対する歓声――正直に言って、この歓声こそが拓郎というアーティストの存在を独自のものにしている、と私は思っています。もちろん他のどのアーティストにもそれなりの歓声はあります。しかしながら、拓郎に対するそれとは根本的に“質”が違うのです。
 10月19日(水)、東京国際フォーラム・ホールAで〈吉田拓郎LIVE 2016〉が行われましたが、その“歓声”は健在でした。
 拓郎が登場して1曲目はいきなり「春だったね」から始まりました。2曲目は「やせっぽちのブルース」、3曲目は「マークⅡ」、そして4曲目が「落陽」。「落陽」が始まった瞬間、コンサートはいきなりアンコールのような盛りあがり、いうならのっけからコンサートはもう全力疾走です。このあたりの盛りあげかたがまさに拓郎の拓郎たる所以なのです。
 序盤から“歓声”を聞きながら私はこの歓声のことを考えていました。この歓声はどこから生まれてきているのかと……。それは拓郎の歌は私たちにとって単なるヒット曲でもなければ、よくある青春時代に流れていたBGMでもないということです。では何か?というと、私たちひとりひとりの人生におけるテーマソングではないか、ということです。拓郎の歌は、少なくとも私にとっては、私の人生を決定づけた歌です。そうです。私は拓郎の歌によって〈人生〉が変わってしまったのです。その意味においては、拓郎の歌こそが私の人生のまさにテーマソングなのです。
 もう40数年も前のことになりますが、私と違って、拓郎はフォークを歌うという行為によって、何かをつかもうとしているようでした。少なくとも私にはそう思えたのです。そのとき、拓郎こそ、私にとっての人生の指針ではないかと思いました。拓郎との出会いで、私は拓郎のように行動を起こさなければならないと決心しました。私の“青春の風”が拓郎と共鳴して反応を起こし騒いだのです。それからすぐに大学を中退しました。二十歳のことでした。つまり、私は拓郎に刺激を受け、触発され、跳んだということです。しかしながら、思い通りにはいきませんでした。情熱に突き動かされるがまま、歌手、作詞家、イベンター(コンサートの主催者)にチャレンジしましたが、いずれも失敗してしまいました。それでも、私はあきらめませんでした。何かをしたい、という思いは消え去ることがなかったからです。
 そんなある日のこと、アルバイトの帰りに、私は下北沢駅前にある書店に入りました。何か面白い本はないものかと物色していると、フォークの神様“岡林信康”特集という活字が目に飛び込んできたので手に取ると、それはフォーク専門の音楽誌『新譜ジャーナル』でした。さっそく買い求め、近くの喫茶店で岡林特集を読んでいると無性に腹が立ってきました。なんだこの記事は、こんなことしか書けないのか。こんなのだったら、私の方がよっぽどましだ。そんな思いが沸き上がってきました。これでもプロか?そう吐き捨てると、私はその場で思いのたけを文字にしていました。書き上げた論文にメッセージを添えて、『新譜ジャーナル』編集長宛に郵送しました。結果的に、この投稿が私に幸運を呼び込むことになるのです。
 投稿して一週間ほど経った頃「会いたい」という連絡が来ました。指定された日に編集部を訪ねると、T編集長から「音楽評論家としてやってみないか。やってみる気があるのだったら全面的にバック・アップする」という申し出がありました。チャンスだ、と思った。「ぜひやらせて下さい」――この一言で私の人生は決まったのです
 拓郎の歌によって私の人生が変わってしまったのです。これは私の個人的〈拓郎経験〉ですが、拓郎ファンにはひとりずつにこのような〈拓郎経験〉があるのです。だからこそ、拓郎の歌は単なるヒット曲ではなく、それぞれにとっては〈人生を変えた歌〉であり、つまるところ、自分の人生における〈テーマソング〉なのです。そんなそれぞれの熱い想いが凝縮されて爆発したのが拓郎に対する〈歓声〉なのであり、この熱い〈歓声〉があるかぎり吉田拓郎は不滅なのです。
 コンサートはMCを入れながら進んだがいい感じで聴くことができました。1曲目の「春だったね」から本編ラスト曲の「流星」まで18曲、そしてアンコールは「ある雨の日の情景」「WOO BABY」「悲しいのは」「人生を語らず」の4曲。どの曲を取っても思い入れは深く、また、じっくりと聴けたので充足感に満ちていました。それと特筆すべきはこの他にまさに〈スペシャル・ライブ〉があったということです。9曲目「ジャスト・ア・RONIN」10曲目「いつでも」を歌い終わった後、拓郎はボブ・ディランの話をしてからなんと「風に吹かれて」をギターの弾き語りで歌ったのです。ディランがノーベル文学賞を受賞して拓郎が何と言うのか?固唾を飲んで見守っているタイムリーな時期に遭遇できるとはラッキー以外の何物でもありません。受賞に関しては直接語ることはありませんでしたが、「風に吹かれて」をフルコーラスで歌ったことにディランに対する拓郎のリスペクトを感じないではいられませんでした。

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2017/02/11

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田家秀樹ブログ・新・猫の散歩 「吉田拓郎・LIVE2016」

田家秀樹ブログ・新・猫の散歩 「吉田拓郎・LIVE2016」 

連日同じ話題(笑)。でも、そういう収録をしてるんだから、自然とそうなりますよね。昨日も書きましたけど、「LEGEND FORUM」の拓郎さん特集の最終週のゲスト、武部聡志さん。密度の濃いインタビューになりました。

バンドリーダーでアレンジャーですからね。プロデユーサーは拓郎さんですけど、個々の曲に関しては、武部さんの力が大と言って良いでしょう。リハーサルが始まる前に、武部さんとギターの鳥山雄司さんと拓郎さんと3人でミーテイングを行った、と言ってました。
先日、8日にDVD「LIVE2016」が発売になりました。それもあっての特集ですね。拓郎さんが珍しくブログでDVDのことを「いい」と書いてましたけど、ほんとにそうなんですよ。ブルーレイの映像がきれいとか、そういうことだけじゃないですね。
演奏が良かった。歌の呼吸。歌と演奏が解けあってうねっている感じ。まさにバンドなんですね。特にドラムとベースと歌の間が実に気持ち良いんです。ゆったりと大きいんだけどロックしている。年輪というんでしょうか。メンバーとの阿吽の息があっている。
演奏が歌を支えているのが分かるんですね。それもバックバンド的な形じゃない。呼応している。有機的というんでしょうか。それぞれが単独では絶対に生まれないようなアンサンブルで流れている。流れているんだけど、土台は揺るがない。そういうこなれたバンドサウンドは、今までなかったでしょう。

70才の到達点と言って良いんじゃないでしょうか。武部さんは、日曜日が還暦の誕生日、こちらも円熟の境地という感じでした。彼が「ラブラブあいしてる」で拓郎さんと出会ったのが40になる直前と言ってましたね。70才と60才ならではのライブでしょう。
というような形に至るまでとか、その内実を話してくれました。そうだったんですか、というのもいくつもありましたよ。拓郎さんがこだわった曲順と武部さんが希望して生まれた曲順とかね。最初はこうだったんですよ、というような話もずいぶんでました。
放送前ですからね、あんまり明かせない(笑)。オンエアは、2月27日です。四週目なんですが、収録は少し早かった。三週目は加藤いづみさん。初めて拓郎組に入った感想なども含めて聞きます。それは月曜日の収録ですね。

これもすでに書きましたけど、特典にCDがついてるんですね。DVDと同じ内容のライブアルバム。この音が良いんです。特典につけるのが勿体ないくらい。単体のライブアルバムとして完成してます。拓郎さんがミックスとかも全部立ち会って音を作ったそうです。
で、その後、武部さんの番組「ザ・セッション」にもお邪魔しました。今のJ-POPについて語り合ったりしました。ミュージシャンでもない人間が、そんな風に番組に呼ばれて話をするというのは、光栄なことでもありました。
だって、僕は、聞いているだけですからね。何の責任もない。作る人と同じ次元には立てません。コンピレーションアルバム「大人のJ-POPカレンダー」の何が一番楽しかったかというと、聞き手でありながら、アルバムの作り手になれたことでしょうね。
曲順とかね。一曲間をどうしようとか、番組ではやってますけど、それがCDになるわけですからね。アーテイストがアルバムを作る時の気分というのを初めて味わえた気がしました。密かな楽しみというのを色々仕掛けてあります。

ということで、最初の山を越えた気がしました。曲ですね。「LIVE2016」で一番驚いたアレンジでした。まさにバンド。手練れの余裕と一体感。「旅の宿」を。これをやろうとしたのは拓郎さんでしょうか、武部さんでしょうか。答えは番組の中で(笑)。じゃ、お休みなさい。

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Live2016

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2017/02/09

TYISマガジン08

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TYISマガジン08 とうちゃこ

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2017/02/08

153-0051 うん

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HIKE OUT STAFF VOICE ・急ぎマガジン発送!!

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LIVE2016 DVD,Blu-ray&CDが、すでにお手元に届いて、

温かいお部屋でゆっくり、至福のひと時を過ごされていることと存じます。続きまして、「TYISマガジン08」の発送開始のお知らせです。

マガジン発送準備を行っている地域では、今夜から雪の予報とのこと。そこで、急いで、作業

を早めて頂けることになり、本日先ほど発送いたしました。

TYIS会員みなさまへ、明日9日(木)より普通郵便にてお届けいたします。

今週末は寒空でしょうか、無事にお届けができますように!!

どうぞポストのご確認をお願いいたします。

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「吉田拓郎LIVE 2016」発売記念ギター展示決定!

「吉田拓郎LIVE 2016」発売記念ギター展示決定!

山野楽器提供

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2月8日発売、LIVE DVD&Blu-ray「吉田拓郎 LIVE 2016」の発売を記念して、実際にライブ

で使用されたギターを下記2店舗にて展示いたします。

是非、この機会にご来店ください。

■山野楽器 銀座本店
・展示ギター:フェンダーテレキャスター/特注オリジナルモデル
・展示期間:2月7日(火)~2月13日(月) 予定

■タワーレコード梅田大阪マルビル店
・展示ギター:フェンダーテレキャスター/シンライン(お気に入りの)
・展示期間:2月7日(火)~2月13日(月) 予定

※展示期間は店舗の都合により、変更になる場合がございます。ご了承ください

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2/7 日刊ゲンダイ

友人からいただきました。
感謝、深謝、多謝。

Gendai

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2017/02/07

「吉田拓郎 LIVE 2014」を M-ONにてオンエア

2/11(土)M-ON!
吉田拓郎 LIVE 2016リリースに伴い、前回の首都圏ライブ「吉田拓郎 LIVE 2014」を M-ONにてオンエア

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2/8 「志村けんはいかがでしょう」再放送

またも再放送
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2月6日田家秀樹 FM COCOLO J-POP LEGEND FORUM 吉田拓郎特集⑥

2月のJ-POP LEGEND FORUMは
1月にひきつづき、
J-POPシーンのレジェンド中のレジェンド「吉田拓郎」。
2月のマンスリー・アーティストでもある「吉田拓郎」の人物像を
拓郎さんを支えるスタッフの証言とともに解き明かしていきます。

Part-1の今回は、
関西のイベンター「サウンドクリエイター」で
拓郎さんのコンサート活動をサポートしてきた「上田博之」さん。
長年にわたる交流を通じて感じた
拓郎さんの人柄やそのエピソードなどを
飾りのないリアルな証言でお届けします。

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2017/02/05

2/6 FM COCOLO田家秀樹J-POP LEGEND FORUM 拓郎ライヴ音源特集

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FM COCOLO田家秀樹J-POP LEGEND FORUM 拓郎ライヴ音源特集

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2017/02/04

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2017/02/03

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2/3FM NACK5 坂崎幸ちゃんKトラ ゲスト ボーカルさん

2/3は、大先輩!ボーカルさんこと
◆タイトル:K's TRANSMISSION
◆放送日時:毎週金曜日21:00〜23:00
◆パーソナリティー:坂崎幸之助

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2017/02/01

吉田拓郎、FM COCOLO 2月のマンスリー・アーティストに決定

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吉田拓郎、FM COCOLO 2月のマンスリー・アーティストに決定

FM COCOLOでは毎月"マンスリー・アーティスト"を選定してキャリアを重ねてなお輝くアーティストの魅力を、全ワイド番組でピックアップしていく。2月の"マンスリー・アーティスト"に決定した吉田拓郎の新曲「ぼくのあたらしい歌」をエンディングナンバーとしてオンエアするほか、数々の名曲の中から聴きたい曲のリクエストも受付中だ。
また新曲「ぼくのあたらしい歌」は、2月1日から5日まで、FM COCOLOで独占オンエアされる。そして、音楽評論家、田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す『J-POP LEGEND FORUM』(月曜日  21:00-22:00※リピート放送 火曜日 28:00-29:00)では、1月に続いて2月も吉田拓郎を特集していく。

◎リリース情報

『吉田拓郎  LIVE 2016』

2017年2月8日(水)発売

・DVD+CD(2枚組)  AVBD-92475/B~C  ¥9,200(tax out)
・DVD AVBD-92476  ¥6,000(tax out)
・Blu-ray+CD(2枚組)  AVXD-92477/B~C  ¥9,700(tax out)
・Blu-ray  AVXD-92478  ¥6,500(tax out)

 

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