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2017/02/27

すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ② : 2010年3月号

すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ② 2010年3月号
 
■演じる自分を意識しながら
 
重松 拓郎さんは90年代に入ってから、いろんなエッセイや発言で「オレは実はA型で整理整頓好き」と話し始めて、でも、ファンは「拓郎が整理整頓しちゃいけない」みたいに思っていて、本人の意識とファンの思い込みとの間にギャップがあったような気がします。そういうのは負担でした?
吉田  いやあ、それはね.....。今日初めてお話しすることかもしれませんが、僕はね、70年代、80年代、そして90年代の途中ぐらいまで、ある種、自分で自分のポーズを取っていた。けっこう自分で"吉田拓郎をやって"いた。だから、"ほんとうの吉田拓郎"が出ているのはごく最近の話で、少し前までは”吉田拓郎を演じて" いる部分は、自分で分かってやっていたんですよ。「あ、オレはいま演じているな」とか「ここは芝居だからな、ポーズなんだからな」ということを明確に意識していたわけです。
重松 意識して自分を演じるというのは、そうとうに疲れますね。
吉田  そうです。例えばもうずいぶん 昔になりますが、明石家さんまさんと対談して、そのころ僕はごく軽い煙草を吸っていたんですが、さんまさんから「ハイライトにしなはれや、そんな軽いの拓郎さんらしくもない」と言われてね。「あ、吉田拓郎は軽い煙草じゃなく、ハイライトでなければいけないんだ」と思い、そういうことがみんなの中にあるとしたら、それはいつから出来上がったイメージなんだろうとふと考えるようになったんです。自分の言動が作り上げたものだというこ とを大前提として百歩譲っても、僕に無関係に勝手に出来上がったものもいっぱいある、ということも含めてですね。それは、疲れますよ。
重松 分かりますね、それ。しかしファンは、荷造り好きで整理整頓が趣味で配線にこだわる吉田拓郎の姿を、まったく想像していないんですよ。むしろ想像できないというほうが当たっているかもしれません。1980年代の前半だったと思うのですが、ラジオで聴いた拓郎さんの発言で強く印象に残っている言葉があります。あるバンドが解散したという話題になったとき、 拓郎さんが「いいなあ、オレも吉田拓郎を解散したい」と。
吉田  ええ、解散したいって言っていましたね、確かに。
重松  でも、ソロのミュージシャンは解散できない。
吉田  75年の「つま恋」をやり終えたときに、1度やめたいと思ったことは記憶しています。あの場所に、5、6万人の人間が集まったっていうのはすごいことだなということ と、しかしその中には、中津川フォー クジャンボリーを引きずっている連中もいる、というのが見えたと きにね、もうやめたいと確かに思っ た。あれ、嫌なんですよ。もう縁切りたいですよ、あの中津川のようなこと とは。
重松  サブステージのアンプが壊れて、「メインステージを占拠せよ」と いうやつですね。
吉田  あそこでヒーローになってしまった吉田拓郎というヤツを、75年ごろに僕は嫌いになっていた。それで、あの吉田拓郎と訣別したいというのがあるんだけど、ファンはそれを許さない。「あれがお前の姿じゃないか。『結 婚しようよ』( 72年)なんてお前の真の姿じゃない、仮の姿だ。分かっているんだ拓郎よ」なんて言われたら、 「冗談じゃない、お前は何も分かってねえ!」って言いたかった。
重松  あのころのインタビューでの苛立ちみたいなものは、そういう思いがあったわけですね。
吉田  インタビュアー側にも、そういう僕の物言いを期待するような雰囲気があった。それを今日も言わなきゃな らないのか、と思いながら話しているうちに、もうやめたいなと思ったんですよ。あの"中津川の吉田拓郎"をもう忘れてくれと。中津川はなかったことにしてくれ、と。
重松  篠島のことも、もういいと。
吉田 僕の性格からして、終わったことはもう言うな、というのがとても強い。それが歳を取るにしたがってますます強まって、前のことを言われるのが非常に快適じゃない。だから、ステージをやっていながら、客席で「タク ロー!」と叫んでいるあいつは、ちっとも変わっていないなと。あいつを裏切るべきだ、あいつの期待にはもう応えないでいい、応えるのをやめよう。 そう思ってしまうと、先週あったことも捨ててしまえ、かなぐり捨てたほうが快適だ、というふうになっちゃったんですね。
 
■時代に嵌め込まれたという意識
 
重松 昔の自分と訣別したいというのは、やっぱり引き裂かれているということですか?
吉田  "あのときの吉田拓郎"とか "ああであったはずの吉田拓郎"というのがずっと続いてきたわけで、それらを全部なくしてしまえば幸せかって言えば、それは自分でも分からないですけど。少なくとも、それを捨てても僕は幸せに生きていく自信はありますね、いまは。
重松 でもね、拓郎さん。拓郎さんはあるインタビューで「オレは時代を作ってなんかいない。もしかしたら、時代が吉田拓郎を作ったのかもしれない」とおっしゃっていましたけど、あ の中津川はまさに時代そのものだったわけですよね。もし、あのときアンプが壊れなかったら、つまり、普通に持ち時間で演奏が終わっていたらどうなっていたんでしょうか?
吉田 中津川があろうとなかろうと 、僕はメジャーなミュージシャンには絶対になっていたと思います。その自信はあったんです。ただ、あれによって出来上がった拓郎ブームはかったで しょうけど。
重松 中津川に過大な「意味」ができてしまった。岡林信康の言葉は「私たち」であり吉田拓郎は「私」であるという分析など、いろんなものを背負わされることの始まりだった。
吉田  そうですね、あそこから始まりました、すべてが。あのころは、オー ディエンスのほうが音楽の幅を規定していました。客席がほとんど大学生で、音楽を聴きに来ているのか理屈をこねに来ているのか、よく分からないという状況で。
重松  そこが「時代が吉田拓郎を作った」ということでもあるでしょうけど、まるで観客がティーチ・インをやりにくるような雰囲気だったそうですね。メジャーで売れてしまうと「帰れ!」コールがあったりとか。
吉田  チケット代を払って参加している以上、自分もここに何かを残して帰 りたい、みたいなね。鑑賞団体などが主催するようなコンサートに呼ばれると、終わったあと、反省会ですよ(苦 笑)。 「さっきの三曲目の意味が伝わらない」とか「あの二番の歌詞はあれでいいのか」とか言われた日には、これはいったい何なのかと。中津川から引 きずってきているのは、音楽状況じゃないんです。音楽を演奏するのに、そんなことを言われる筋合いはないと考えている僕のほうが、こいつらより絶対に正しいんだ、とずっと思っていましたね。
重松  でもそれは、吉田拓郎というミ ュージシャンの出現の仕方に、深く関わっていると思うんですよ。例えば拓郎さんの最初のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろ う』( 70年)は、いわゆる全共闘時代の匂いに満ちているといってもいいん じゃないですか。
吉田  あれは、上智大学全共闘OBたちの闘争資金稼ぎのひとつとして作ったものですからね。なんとなく僕のアルバムみたいに言われていますけど、 僕の曲は『イメージの詩』を含めて 二、三曲だけです。時代の産物と言えるでしょうね。
重松  そういう時代の空気……。
 
吉田  有名な秋田明大の、日大講堂でのアジ演説とかも入っている。でも、彼が日大全共闘の輝けるリーダーだったなんてこと、いまは誰も知らない。当時はヒーローで、それこそスーパースターですよ。彼のアジ演説は、ある意味では時代を表現する日本の文化遺産だともいえる。でも若者は知らないし、誰も、あれが何だった のか、ということを問い返そうともしない時代ですよね、いまは。
重松  あの時代を回顧しようとか見直 そうという流れは、最近になって盛ん になっていますよね。同時代を体験し た世代だけでなく、あの時代を知らな い若い人たちが、まったく未知の歴史 的出来事として知りたい、と思い始め たのかもしれません。僕らの世代は微 妙に知っているから、逆に目をそらしてしまうというか、それこそ微妙です (笑)。
吉田  でも、あの全共闘運動って何だったんですかねえ。正統なムーブメントだったんだろうか。
重松 既成の世の中を壊したい、という思いは多かれ少なかれ誰にでもありますよね。拓郎さんもそうだったでしょ?
吉田  それはもちろん。でも、そこまでは分かるんだけれど、どうしてあんなに仲間内で激しく対立しなければならなかったのか、そこがどうしても理解できない。世の中を変えようという目的は、みんな同じだったはずでしよ?
重松  そういう状況に、拓郎さんは違和感を持っていたんですね。
吉田  広島大学では、しょっちゅう火炎瓶が飛んでいましたよ。68年ごろかな、ある日、そこの何かの集会みたいなものがあって、歌ってくれと呼ばれて『イメージの詩』を歌っていたら、二番の歌詞のところで「やめろ、やめろ!」って吊るし上げみたいになって、頭にきて帰ったことがあった。 呼んだヤツから「やめろ」って言われる。何なんだこれは。彼らはいったい 何がしたかったのか、何を考えていたのか、僕にはいまだに分からない。東京へ来たら、今度は上智大全共闘。それで、彼らのスローガンが「逆流からのコミュニケーション」、まるで分からない。「東京中心の逆三角形の文化---大きいほうが東京で小さいほうが地方---この逆三角形を変えるんだ」 と言うんですけどね。
重松 谷川雁さんの「工作者宣言」と同じような思想かもしれませんね。で も、『イメージの詩』が、上智大学全共闘の制作じゃなく普通にレコード会社から出ていたら、また展開は変わっていたでしょうね。
吉田  だからね、やっぱり「僕が時代 を作ったんじゃなく、時代のほうが僕をそこに嵌め込んだ」というのが当たっているし、それを僕は認めますね。
 
■等身大であること
重松  いま振り返ってみると、ほんとうに重たいものをムリヤリ背負わされてしまって、迷惑だったと思う気持ちが強いと思うんですが、逆にリアルタ イムで、まさに自分と時代とが抱き合 っている、自分が時代を撃っているという、何か選ばれた人だけの快感とか恍惚みたいなものは、感じていませんでしたか?
吉田  それはもう、圧倒的に感じていました。例えば『新譜ジャーナル』 『ヤングギター』などの当時の音楽誌が取材にくるのは分かるし、女性週刊誌などで、派手にスキャンダルめいたことを書き立てられることも多かった けれど、『月刊明星』なんていう芸能アイドル誌が「表紙になりませんか」 と言いに来たときには「あ、やっちゃったぜ」と思いましたね。こういうところまでが頼みに来るのは、「オレ 勝ったな」ですよ。あのころ、いわゆるフォーク界では「あっち側」「こっち側」という言い方をよくしていました。つまり、「新しい我々がこっち側で、旧い芸能界があっち側」という意味です。その旧い芸能界が頭を下げて来た。テレビからも出演依頼が相次いだ。僕はテレビにはほとんど出ませんでしたが、『月刊明星』は面白かったな。だって『月刊明星』では沢田研二や天地真理との対談ですよ。一方『新 譜ジャーナル』では高田渡が相手 (笑)。高田渡がどうというわけじゃな いですけどね。だから「オレは勝ったな」ですよ。
重松 中津川世代が拓郎ファン第一世代だとすれば、僕なんは拓郎さんより、17歳下の、まさにフォーライフ世代なんです。だから僕たちにとっては、ミュージシャンたちが地方から東京を目指し、博多や広島から上京していく中で、拓郎さんは一番成功した人というイメージ。原宿の「ペニーレーン」でいつも飲んでいる……。
吉田  お金持ちになっちゃった。
重松  そうそう、そうなんです。だから僕たちは、上の世代と違って、別に拓郎さんに政治性は背負わせてはいないんですが、でも「拓郎は広島の根性を見せなくちゃいけない」とかね。一 方で軟弱なニューミュージック的な音楽が流行っても、「拓郎は軟弱じゃないぞ」というこれまた勝手な決めつけもあったんだと思うんです。政治性のない年下の世代の拓郎さんへの何かの背負わせ方というのも、拓郎さんにとってはあまり心地のいいものじゃなか ったんでしょうね。
吉田  うんうん、重松さんがおっしゃった背負わされ方というのは、確かにありましたね。いまはなくなったけど、バブルのころに六本木にあった有名な洋服屋さんで僕は服を買ったりしてたんだけど、そこであるとき店員さんから、「今日は下駄じゃないんですか?」って(笑)。あ、オレは下駄を履いているイメージなんだ。そういう硬派イメージが、どこまでも僕について回っている。
 
重松  そういう硬派イメージを裏切る部分が、時々顔を出す。例えば『新譜 ジャーナル』だったかな、拓郎さんの交遊録を特集した記事があって、その中に高橋幸宏さんが入っていた。 何で拓郎さんがYMOのユキヒロと付き合っているわけ? それをショック だと思うファンもけっこう多かったんですよ。いろんな新しい音楽が出てき て、ニューミュージックなどというおしゃれさやテクノポップのスマートさに何が対応しきれない僕たちの、最後に拠って立つ場所が拓郎さんだったっていう(笑)。
吉田  すっごく分かりやすいですね、 それ。ラジオなんかでの言動とか、血の気が多いという噂などが語られれば語られるほど、僕は硬派になっていく。かまやつひろしさんなどが、あっちこっちで僕の武勇伝というのをしゃべるわけですよ。そうすると、それがひとり歩きし始める。
重松  たくさんの武勇伝……。
吉田  僕は、そんなにケンカなんかし てないですよ。そりゃ、血の気は多か ったから、多少はやりましたが(笑)。 でもね、音楽って気分ですよ。昨日は 『唇をかみしめて』( 82年)という気分だったけど、今日は『となりの町のお 嬢さん』( 75年)を歌いたいと思ったりする。それが音楽なんだけど、そっちはほったらかして「唇をかみしめて」こそが吉田拓郎だというのは、やっぱりおかしい。
重松  そういう状況の中で、拓郎さん は、いわゆる歌謡曲のアイドルの作曲家としても重要な活動をして、ひとつの時代を作った。アイドルへの曲提供 というとてもポップな仕事は、拓郎さんにとってもガス抜きになったんじゃ ないですかね。
吉田  それはもう、すっごく楽しかっ たです。東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったかって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って 作業する。「歌って、こういうふうに歌うんだよ」なんて教えるときの気持ちよさといったら、もう(笑)。
重松 特に女性アイドルとの仕事が多かったですものね。ただ、拓郎さんのそういう部分を、ファンは見まいとしてきた感じもあります。それはさっきのお話に戻りますが、女系家族の末っ子の拓郎さんの"おんな性"みたいなもの。ところが、中津川やつま恋や篠 島で『人間なんて』を歌う拓郎さんを 男たちは求めちゃって、"おんな性"を無視しようとした。
吉田  なるほど。
重松  ところが拓郎さんは、90年代に入ったあたりから、エッセイやラジオでそういうファンの気持ちをあえて無視するように、自分の思いを語り始めますよね。そして40代の半ばに、 先ほどおっしゃった、父親の足跡を追 った「フィールド·オブ·ドリーム ス」の鹿児島があった。僕もいま46歳で、当時の拓郎さんの年齢とあまり変わらないんですが、そのころに拓郎さんの持っている家族観みたいなものに、そうとう大きな変化があったんじゃないですか? 吉田   年齢的に幾つでどうなるのか、何がきっかけになったのか、引き金はよく分からないけれど、親父が死に 、おふくろが亡くなったころに、オレは死というものをきちんと受け止めてい ないな、という感じがあった。親父と おふくろがいないことの重大性が、自分の中で感じられ始めたというか ……。兄貴はまだ健在だったとはいえ 「役に立たん、この男は」との思いも あったし。それはある種、老いという 年齢を重ねてくることと関連してい ると思いますね。若いときには気づか なかったことというのはたくさんある わけだけど、特に、家族への思いと か、あるいは自分がいったい何を求め て東京に来たのだったか、若いときは 何をしたかったのか、何に向かってハ ングリーな気分っ走っていったのか。そういうことがリアルタイムではまったく分かっていなかった。結局、朝目覚めたらヨーイドンで走り出すだ けの生活。それが20代から、30、40代まで続いてきて、ただただ忙しかった、という感じでしたね。だから、僕の20年は他の人の40年分くらいの密度で、あれこれ考える暇なん てなかったようなものだけど、ようやくこのところ考えるようになった。そういう感じですかね。
重松  そう考えられるまでに、40年の時間が必要だった。
吉田 そう。だから、「ああいう拓郎はよくない、吉田拓郎はこうでなくちゃいけない」とかいまだに言っている人に出会ったら、「あの吉田拓郎というおじさんの言っていることは間違いなんだよ」って意見してあげようと思う(笑)。かつて70年代、大人たちは吉田拓郎という若者をふざけた野郎だと否定したけれど、その何割かはきっと正しかったのだ、というのが少し 自分の中で見えてきた。そう思うと、言葉は非常にありふれているけど、等身大ということが自分の中でとても現実味を帯びてくるわけです。そういうことが最近、僕の中では大きいです よ。

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重松  アルバムにも『176.5』 (84)というのがありますね。 拓郎さん自身の身長をタイトルに付けたことも、まさに等身大ということですよね。
吉田  そうです。卑近な例で言えば、今朝なんか「オレ今日、重松清さんと対談するからさ」
と奥さんに言ったら、「すごいな、そんな人と会えるなんて」と言うから「いいじゃないか、オレは吉田拓郎だよ」(笑)、「そうよね、吉田拓郎よね」というところに、 ピンポーンって宅配便。
そしたら奥さん「ちょっと出て」「お前、吉田拓郎にちょっと出てはないだろう」 (笑)。そういう生活がいまあるんだな、これが等身大か、とも。
 
重松  いいですねえ、そういう会話 (笑)。昔、拓郎さんはテレビショッピングが好きで、電話注文で「お名前は」と聞かれて「吉田拓郎です」と言ったら、向こうが一瞬「えっ?」となるのが好きなんだ、と話していましたね。 吉田 はいはい、あのタイミングがた まりません(笑)。 重松 そういう面では、やっぱり吉田 拓郎を背負うしかない。でもそろそ ろ、背負ったものを降ろしていきたい という感じなんですかね。
吉田  圧倒的に思うのは、63歳という年齢を前提にした場合、自分が気持 ちいい人生とか、気持ちいい時間をより多く過ごしたいということ。まあ、 誰でも思うことだろうけど。若いときは、嫌な時間になるか楽しい時間になるか分からないけどとりあえずやってみよう、でした。いまは、考える力と考えるキャリアを持っているわけだから、今日は楽しくなさそうだと思ったら、まず断る。
重松  ああ、そうか。
吉田  そういうことが大事だと思うようになったということです。今日はあの人だったら会ってみたいな、ビールを飲むのもいいな、と思えたらそこへ 飛んでいく。この人とビールはきついな、だったら行かない。50歳過ぎたころから強く感じ始めましたね。今日は重松さんだから言いにくいけれど、 作家との対談とか、いろいろ話は来るんです。でも、面倒くさそうだなと思うことのほうが多い。
重松 今日は、私でよかったんでしょ うか。
吉田  とても嬉しい。こんなに内面の話をするのは、こういう場ではまったく初めてです。重松さんのおかげですよ。
 
つづく

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