すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ① : 2010年3月号
すばる2010年3月号
吉田拓郎ロングインタビュー ① 聞き手 重松 清
風の噂によれば、吉田拓郎さんは大の対談嫌いだという。仲のいい少数の ミュージシャンたちなどの他には、あまり個人的な付き合いもしないともいう。そんな彼に編集部から対談のオフ ァーをしたところ、こんな返事があった。
「かつて某有名作家と、ラジオ番組で対談したことがあります。始まって5分と経たないうちに、僕には彼の話の内容がまったく分からなくなりました。もちろん僕の頭のせいでしょう が、それ以来”作家は苦手“という偏見が埋め込まれてしまったようです。 しかし、重松清さんとなら、ぜひ一度お会いしてみたいと思っています」
一方、重松さんからは、
「拓郎さんとお会いして話ができるなら、こんなうれしいことはありません。拓郎さんの曲はほとんどすべてギターで弾き語りできます。ぜひ、お願 いしたいと思います」との返信。
そういうわけで初冬のある日、都内のホテル。最初は重松さんがインタビユアーという様相で、対談が始まった。
■"女系家族"の中で
重松 拓郎さんは鹿児島のご出身でし たよね。広島に移ったのは確か九歳のときと。
吉田 小学二年生のときです。最近は、何歳とか言われると計算できなく なる(笑)。二年生の終わりまで鹿児 島にいて、三年生のときにおふくろについて広島に行ったんです。
重松 お母様は広島の方なんですか?
吉田 いや。母方の祖母が広島ですが、,おふくろはどこの生まれか、僕は知らないんですよ。うちは引き揚げ者だということもあって、僕はそのあたりの詳しいことをほとんど知らない。 一家は朝鮮の羅南というところで暮らしていたらしいけど、僕は日本に引き揚げてきてから、1946年に鹿児島で生まれたんです。でも、なんで鹿児島だったのか、親父の生きてきた環境 というのがよく分からない。あとで知ったんですが、どうも親父は吉田家の養子だったらしい。
重松 お父さんは養子だったんですか?
吉田 はい。もともと吉田という姓じやなかったようです。僕もあとになって親父が養子だったということを知ったのですが、おふくろにきちんと確かめたことがなかったんです。母方の祖母が広島の出だということは分かっているんだけど。
重松 鹿児島から広島へ移った事情というのは、どういうことだったんですか?
吉田 僕はまだ子どもだったから詳し くは分からなかったけど、終戦後間もないころで、鹿児島での暮らしはラク じゃなかったみたいですね。おふくろ が栄養士の国家試験に合格して、それで広島に仕事がある、と。親父は地方史の調査の仕事を鹿児島県庁でしていたようで、鹿児島に残ったんですね。 そこから両親の別居が始まった。それが、僕の知る限りの理由ですけどね。
重松 それで、拓郎さんはお母さんについて広島へ移ったんですね。
吉田 そうです。子どもたちは「どっちを選ぶか」と言われて、僕も姉もおふくろを取っちゃつた。おばあちゃんも一緒に広島に移ったので、親父だけが鹿児島に残ってやもめ暮らしが始まるという……。さっぱり分からない話でしょ? 僕にもよく理解できない。
重松 拓郎さんは、三人きょうだいの末っ子でしたね。
吉田 いや、ほんとうは四人なんです。朝鮮にいるころに長女(恭子)が生まれて、それがいちばん上だったんですが、病気で亡くなったらしい。次に兄貴、姉貴といて、僕が末っ子です。
重松 お姉さんとは7歳違いですね。
吉田 うちのきょうだいは全員7歳違 いなんです。つまり、僕と兄貴とは14歳も年が離れていることになる。
重松 かなりの年の差ですね。そういう年齢差で、しかも末っ子だったというのは、その後の拓郎さんのいろんなことに影響していますか?
吉田 していると思いますね。末っ子ということと、もうひとつ”女系"と いうことが。
重松 女系家族……。
吉田 兄貴は哲郎というのですが、鹿児島時代は中学高校と鹿児島ラ·サールへ行っていて、あそこは寮だから、 結局、家にはいないんです。広島に移ってからも、家にいるのはおばあちゃん、おふくろ(朝子)、姉貴の宏子と全部女。その中で僕はずうっと育っていくわけです。あとになって、ああ、オレは女の中で育った末っ子なんだ と、特に東京へ出てきてから強く感じるようになりましたね。すごくバラン スが悪いんですよ、自分の中で。
重松 ずっとお姉さんと同じ部屋で、けっこうその影響を受けたと、ご自分でもおっしゃっていましたよね。
吉田 はい、ありますね、それは。姉貴は歌謡曲が大好きで、しょっちゅう 聴いていた。そういうのにすごく影響 されています。親父は鹿児島にいて、 男らしいものが家には何もない。しかも、後におふくろがお茶の先生なんか始めちやって、もううちには女の人ばっかりが出入りしている。僕自身、その当時はかなり女っぽかったような気がしますね。僕はおふくろに習って、 茶道師匠の資格を持っているんですよ、母から「吉田宗拓になりなさい」 なんて言われて(笑)
重松 ああ、それは吉田拓郎というイ メージが壊れる...... (笑)
■吉田家の崩壊と再生
重松 14歳違いのお兄さんは、ジャズピアニストでしたよね。
吉田 まあ、本人はそのつもりでいたみたい。
重松 レコードも一、二枚出している、と拓郎さんはエッセイでお書きになっていましたね。お兄さんからの音楽的な影響はあったんですか?
吉田 ゼロ、まったくゼロですね。ただ、音楽を目指したというそのスタイル、形のよさということにだけは影響 を受けたかもしれない。音楽をやるとこんな人生が送れる……と。兄貴は立教大学に進んだんですが、学生時代に独学でピアノを学んだそうです。それで東京のクラブやなんかで、アルバイ トでピアノを弾いていた。夏休みに、そういうところで働いているような女の人を連れて、広島に帰ってくるんですよ。
重松 車で?
吉田 ええ、車でガールフレンドと一 緒に里帰り。幼い僕から見ると、すごく都会の香りがするいい女なわけで, ああ、音楽やるとこういうふうになれ るのかなあ、それなら音楽やってみてもいいなあ(笑)と。
重松 終戦後まだ早い時期、しかも外地から引き揚げてきてピアノをやるというお兄さんも、かなり想像外ですよ
吉田 まったく。兄貴っていうのは、まるで勉強なんかしない、ちゃらんぽ らんなヤツでね。親父は逆に真面目一方で、だから、頑なに兄貴には名声と出世を求めていて、立派な男になってほしいと熱望していたんです。親父は小学校しか出ていなくて、学歴とかそ ういうものに非常に卑屈になっていて、それを息子たちに強く求める。姉貴は女だということでそうでもなかっ たけど、兄貴と僕にはそういう要求が強かったですね。特に長男への期待は過大なぐらいあって、ラ・サールに行っていたから、立教ではまるで満足していない。もちろん望みは東大だった。
重松 それじゃ、ピアノをやり始めたとか聞いたら、ただじゃすまなかったんじゃないですか?
吉田 もちろん、烈火のごとく怒ったんです。ピアノだ、レコードだ、挙げ句にそういう女の人を連れて帰って来 たりしたから、もう兄貴には見向きも しなくなった。
重松 でも、拓郎さんも結局、音楽のほうへ行ってしまった。お父さんがお亡くなりになったのは、確か73年で したね。ということは、もう拓郎さんはデビューしていた。お父さんはどう 感じていらっしゃったんでしょうか。
吉田 それはもう、話にならないです。つまり、僕のデビューは”吉田家 の崩壊"だというふうに、彼は晩年には思っていたみたいです。でもね、親父が死んでずいぶん経ってからなんですが、東京で僕がある種のサクセスを してから、鹿児島へ行って親父の働いていた場所とか生活の跡を「フィール ド・オブ・ドリームス」じゃないけれど、探して回ったことがあるんですよ。親父は県庁などで、郷土史家としてとても地味な仕事をしていたわけですが、その当時の知り合いの方なんかにも話を伺いました。そうしたら、 「拓郎さんが最初に出された本があり ましたよね。あれをすごく喜んで読んでいましたよ」とかね。あ、なんだ、親父も息子の自慢をしていたのかって。
重松 『気ままな絵日記』(立風書房、72年)ですね。お父さんも、けっこう 嬉しかったんだ。
吉田 そこで初めて、親父のことが少 し理解できたような気がしました。それまでは「吉田家は最悪だ。もうこの家は終わった。この家の男どもは、なんでこんなことになってしまったん だ」と、ずっと言い続けていた親父でしたからね。姉貴には異常なほど「ヒロコ、宏子だけだよ、可愛いのは」っ て言っていましたけど(笑)。
重松 しかし、"吉田家崩壊"とはいっても、お父さんはいわゆる父親らしいことはなさってこなかったんですよね。ずっと鹿児島に残っていらしたわけですし。それに対する反発は、拓郎 さんやお兄さんにはなかったんですか?
吉田 兄貴はね----、彼はもう亡くなってしまいましたが、晩年にいろいろ聞いたところでは、実は兄貴はすごく 親父を愛していたらしいですね、好きだったらしいです。僕から見ると、親父はどこか風来坊、放浪の男なんで イメージ的には。男のひとり暮らしというせいもあったんでしょうが、フラリと東京へ遊びに来てストリップ見て帰る、なんて噂を聞いて、なん だ、けっこう面白い男だったんだなあ、ってね。そういう姿に兄貴は憧れを感じていたらしい。そう考えるととても分かりやすくて、兄貴も同じようなヤツだったんですよ。風来坊で、息 子や女房をまったく顧みずに一生を終えましたけど、本当に適当な男だったですねえ。僕といつ会っても、テキトーなことばっかり言っている、そういう男でしたから。だから、「吉田家」 ということで考えたら、血は、吉田正広という親父から長男の哲郎へ、色濃くつながっています。
重松 吉田家の血統は、拓郎ではなく哲郎へ受け継がれている、と。
吉田 哲郎の息子は一発で京大へ入っちゃった。ここに、正広の願いは実現 しつつあるのかもしれません(笑)。
重松 拓郎さんのお兄さんに対する感情というのはどうだったんでしょう。 14歳も離れていると、いわゆる兄弟というよりは、もう少し遠い感覚だったんじゃありませんか?
吉田 年齢的には、もう親子に近いか もしれませんね。でも、親父も兄貴も 風来坊みたいなところがあったし、その意味で、僕のリスペクトは親父に対 しても兄貴に対してもゼロですよ。認めていない。家庭人としても最悪だし、男としても尊敬できない。
重松 確かにお話を聞いていると、お二人とも家庭人としてはかなり失格。 拓郎さんは微妙な立場ですよね。
吉田 兄貴とは年が離れているし、何より家にいない。もう他人のような感 じでしたね。おふくろの晩年ですが 寝たきりになったりして、いろいろ世話しなきゃならなかった。それを僕は経済面で、姉貴が肉体的精神的にそばにいて面倒をみたんですが、兄貴は一切他人事のようでした。兄貴に「おふ くろは、やっぱり長男に世話になりたいと言っている。考えてみてくれよ」 と言っても「誰に言ってんだ、ばかやろう」ですからね。そういう意味では、14歳差の兄弟っていうのはちょっと離れすぎていましたね。向こうも僕を子ども扱いにするし。
■異国で見た夢
重松 お兄さんは12、3歳で引き揚げてきていまよね。ということは,、向こうでの暮らしの記憶もあったわけですね。デラシネとか昔はよくそういう言い方をしたんですが、お兄さんの 生き方の根っこにも、それがあったんでしょうか。
吉田 吉田家は確かに、朝鮮では下働きの人やお手伝いさんがいるようないい暮らしをしていたようです。ばあややじいやもいたと、兄貴はよく自慢話のように言っていましたからね。そういう暮らしに対する思い出が、逆に兄貴を根無し草みたいにしたんじゃないかとも思いますね。
重松 お父さんは向こうでどんな仕事をなさっていたんですか?
吉田 それもよく分からない。何が軍関係の仕事らしい、というぐらいしか聞いていませんね、僕は。とにかく、かなり裕福な暮らしだったとは思います。兄貴は晩年まで「拓郎、朝鮮のあの家の跡へ行くとな、ブランコの下に絶対金塊が埋まっているぞ」って。何をバカなことを、という話をマジな顔で言うのを聞いていると、兄貴にとって向こうはよほど天国だったんでしょ うね。
重松 吉田家にとって、朝鮮に葬ってきたひとつの歴史があって、そして引き揚げてきてまったく別の、もうひとつの歴史が始まった、というわけですね。
吉田 そうです。"第二次吉田家"とでもいうんでしょうか。僕がいま支えているわけじゃないけれど、僕が中心になる吉田家というのが東京での僕の仕事ぶりから始まるわけで、それは、以前の"吉田さんち"とはまるで違う人生観、家庭観になっているんですね。親父、兄貴の吉田家とは切り離さ れた 「家」です。そちらの流れは、兄貴の息子に受け継がれていくのかもし れません。
重松 そうですね。14歳差というのは大きい。これがもし、2、3歳の差だったら、もっとお兄さんとぶつかっていたかもしれませんね。
吉田 絶対に。僕、二度殴っているんですよ、兄貴を。彼が広島に帰ってきては酔っ払って悪態つくたびに、「表へ出ろ」って外へ引きずり出して兄貴を張り倒しているんです。で、「怖い弟だな」なんて言いながら悪態をやめない。だから、年が近かったら、もっと激しい殴り合いになっていたでしょうね、きっと。
■虚弱少年の過保護時代
重松 拓郎さんは小児喘息でとても虚弱な少年時代を送った、と聞いていますが、ひ弱だったということが、その後の性格形成みたいなものに及ぼした影響って、やっぱり大きいですか?
吉田 いまでもその影響は大き いと思いますよ。小学校、中学校に半分くらいしか行っていないということは、いかに同世代 の子どもたちから遅れてしまうか、という話ですからね。肉体的な弱さということもあるけれど、やっぱり学業で遅れるわけですよ。小学校といえども、これはツラい。 1回喘息の発作が起きると、一、二週間は休んじゃう。子どもって成長が早いで しょ。小学校高学年から中学くらいでは、半月ほど休んで学校へ行くと、なんか同級生たちがすごく大人に見えるほど成長している。だから、家にいて僕は悶々としている。学業が遅れる、成長も遅れる、それから社会勉強にもついていけない。そういうことがすごくショックだった。高校三年くらいで 体が元気になってきて、みんなと対等になったと思えたときは、やっと自分がまともな人間になれたような気がしたほどです。遅れている自分が嫌だったですね。
重松 じゃあ、吉田少年としては、コ ンプレックスがけっこうあったんですね。学校を休んでいる間は、何をして いたんですか?やっぱり音楽を聴いていたとか。
吉田 喘息は寝ていなくてもいいんです。発作のとき以外は普通に生活できますから。まだテレビの時代じゃないので、本を読む、ラジオを聴く、それ から漫画雑誌をひたすら読み続ける。 『おもしろブック』『少年ブック』『少 年画報』とか。確か八日が発売日なのに、七日の晩に親父に頼んで本屋に行って買ってきてもらうぐらい漫画三昧。 たぶん、そのあたりで、歌謡曲とか流行の歌を聴き始めたんでしょうね、自然に。
重松 お父さんはそうとう厳しい方で、お母さんも仕事をなさっていたのだから、あの当時だったら「漫画なんか読んじゃいけません」 とか止められても不思議じゃな いと思うんですが、わりとそう いうところの理解はあったわけですね。
吉田 いやいや、親父は理解なんかまるでないですよ。漫画を買ってもらったのはたまたまですけど、僕が具合悪くて寝ていても「さっさと起きて学校へ行 け」と言うタイプでした。おふ くろが常に僕の側に回って甘やかし、ガードしてくれたんで
重松 おばあさんがいてお母さんがいて、さらに7つ上のお姉さんがいて守られてた……。 吉田 えぇもう。女三代にわたって愛され、守られ、完璧に過保護状態で真綿にくるまれていた (笑)。
重松 それこそ、宮崎先生でしたっ け、『夏休み』(アルバム『元気です。』 収録、72年)という曲の中の"姉さん先生"というような、年上の女性の背中におぶわれているような原風景、そういうのがずっとあったわけですね。
吉田 それはたぶん、自分が女系の中で育ったからというのは別にして、単純に女好きということもある(笑) でも、年上の女性に強い憧れを持っていたのは確かでしょうね。映画の女優 さんとかね。若尾文子さんなんか好きでしたねえ(笑)。
重松 年下の女の子を引っ張っていくというようなタイプじゃなかったんですね。
吉田 僕は体が弱かったせいで、学校では同級生や下級生の女の子にはまったく相手にされなかった。相手にされ ない以上、リードもしようがないわけです。学校では「吉田君は体が弱い」ということで、異性は僕に興味も何も示さないですよ。だから、高校のときもそうだったけど、まるでモテない。 モテないから、好きな女の子に遠くから仄かな想いを寄せるしかないという、典型的なモンモンと悶える虚弱な少年という感じでした。家でいろんなことを妄想するタイプの少年でした。
重松 その"モンモン" なんですが、高校時代に中学のときから好きだった女の子と宮島へデートに行く計画を立てて、すべての段取りを頭の中で決め て電話したら本人がいなかった、という話を聞いたことがあります(笑)。
吉田 まったくよくご存知で。それって、最低ですよね、僕は。
重松 そんなふうに、わりと頭の中で綿密なストーリーを組み立ててしまう タイプなんですか? あの道の何歩目でキスしてとか(笑)。
吉田 前の日だったかどうかは覚えていないけど、下見はしてます(笑)
重松 下見まで。
重松 下見まで。
吉田 この辺で押し倒そうとか、もう妄想も犯罪スレスレ (笑)。
重松 そういう計画性はいまでもある とご自分でもおっしゃっていますね。 例えばハワイへ行くときに、予定は何日間だから服はこういうコーディネー トでとか、準備がすごく綿密らしいですね。
吉田 そうです。計画や荷造り大好き。もうほんと、好き。
重松 整理整頓も大好きだとか。
吉田 はい。うちはきれいに片付いていないと嫌だし、配線なんかが見えるのは大っ嫌いで、後ろを這わせてきれ いに留めて隠すとか。もう病的に整理好きですよ。
つづく
| 固定リンク
「すばる・吉田拓郎ロングインタビュー 2010・3」カテゴリの記事
- すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ③ : 2010年3月号(2017.02.27)
- すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ② : 2010年3月号(2017.02.27)
- すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ① : 2010年3月号(2017.02.22)