吉田拓郎 今、更なる戦線布告・平凡パンチ1980.4.28
平凡パンチ1980.4.28
吉田拓郎 今、更なる戦線布告
- 1か月のロス・レコーディングを終え、ゼロからの旅立ちを語ろう - 構成 田家秀樹
◆ホントはメンフィスでやりた かった。ロサンジェルスという だけでイヤだった。でも、ウェ ストコーストに行ってもオレの音楽をやったんだよ◆
ロサンジェルス録音というと、拓郎はテレる。いまさら珍しいことでもないという気恥ずかしさと、猫もシャクシもウェストコースト、というブームに対する反発と抵抗があるのだろう。歌謡曲のシンガーが、ウェストコーストのミュージシャンを集めてコンサートをやるご時世だ。 そんな風潮に乗ったと思われるのを、拓郎のプライドがよしとするはずもない。
「ホントはメンフィスでやりたかったんだよね。まわりは黒人ばっかり、汗の臭いがギラギラするような場所でやりたかったね」
LPのプロデューサーは、ブッカー・T・ジョーンズ。60年代の半ばに『グリーン・オニオン』という名曲を作り、ヒットさせた黒人ミュージシャンのドンだ。初めは、4人のプロデューサーの名があがっていたという。その中でブッカーに白羽の矢が立てられたのは、彼が黒人であったということ、そして彼の曲を、拓郎がアマチュア時代、岩国の米軍キャンプで演奏していたという体験による。自分の中のカラードの血を呼び戻す、黒人R&Bの汗と魂のほとばしりを、今、肉体のノリとして取り戻すためだった。
「ブッカーがロスでやろうと言ったんだよ。オレはみんながやってるスタジオはイヤだと言ったら、シャングリラでどうかと言ってきた」
シャングリラ・スタジオ----アメリカン・ロックのファンなら、この名前を聞いたことがあるだろう。映画『ラスト・ワルツ』の舞台にもなったスタジオで、解散したザ・バンドが、わが家同然に使っていた所だ。 何年か前、拓郎はザ・バンドをバックにコンサートをする計画があった。拓郎が即座にOKを出したことはいうまでもない。自宅の8チャンネルで作られた新曲のテープが送られ、スタッフが、これまでの拓郎のレコードを持って、ブッカーの家に飛んだ。
「ファン心理とでもいうんだろうね。レコーディングしててもここでザ・バンドが、と思うと胸がキュンとしめつけられるみたいでね。必死だったよ。広島から東京に来て、初めてレコーディングした時に似てたね。キンチョーしまくってた」
スティービー・ ワンダーのバックをつとめるギタリストが来た。スリー・ドッグ・ナイトのベーシストが参加した。ミキサ ーは、バーブラ・ストライザンドのレコーディングを終えてきたばかりだった。スタジオにはザ・バンドのメンバーが顔を出しては、ブッカーと談笑していった。ある日、ザ・バンドのガース・ハドソンが、アコーディオンを抱えてやってきた。
「偏屈なんだよね。オレたちがOKだと思っても、本人がOK出さないで、もう1回やろうの繰り返しなんだから。オレはブッカーと、その間、玉つきしてるわけよ。でも途中で妥協するやつは、1人もいなかったね」
行く前の不安。1か月も同じ所で過ごせるだろうかということ。そして、向こうのミュージシャンとスムーズにコミュニケートできるかということ。その間を揺れ動いた拓郎は、出発前に発熱した。
「でも、わかったね。1人1人のプレイヤーのテクニックは日本のミュージシャンのほうが上だ。自信持って言えるよ。こと音楽に関しては対等以上だね」
シャングリラ・スタジオで出来あがったLPのタイトルは、そのまま『シャングリラ』(5月5日発売)と決まった。東京に持ち帰ったテープを聞いた仲間のミュージシャンたちは、一様にこう言った。
「ホントにロスでやったの!?」
拓郎が持ち帰ったテープに収められていたのは、軽やかでさわやかな、口当たりのよい、ウェストコースト・サウンドではなかった。土臭く、骨太で、どこかカタクナなリズムで、ファ ンキーなノリのサウンド。黒人たちのノリであり、ザ・バンドのリズム。そして、それはまさしく拓郎の音楽だった。
「要するに、バックのミュージシャンが変わっただけという気もするんだよね。ロスへ行って もオレの音楽をやってきた。ひょっとすると、オレは勝ったんじゃないかと思うよ」
拓郎が着いた日、ロスは嵐だった。記録的な豪雨と崖崩れが待っていた。
「カリフォルニアの青い空なんて、ウソっぱちだぜ」
拓郎にふさわしい天気だったに違いない。
◆今のニュー・ミュージックはソウルがないよ。カラードの世界がいいね。ボブ・マーリィを家で聞きながら泣いてるよ、オレは◆
『シャングリラ』のA面2曲めに、レゲエの曲が入っている。 レコーディングに参加したミュージシャンたちが、これをシングルにと主張したという曲だ。
「オレはオクテだから」
と拓郎は自分のことをこう言う。武道館にしても、いわゆる"武道館レース"の中では遅いほうだった。海外録音にしてもそうだ。 そして、今、レゲエに狂っているのも、拓郎に言わせれば「オクテだからな、オレ」というとになる。
「口を開けばレゲエっていう時期があったでしょ。やだなあって思ってたわけ。それが、誰かに、ボブ・マーリィの1枚めのLPを聞かせてもらったわけ。 エ?!、レゲエってこれなのって感じね。日本でやってるのと全然違うじゃ・・・って。それから狂ってる」
オクテというより、最新流行とか目新しいものにシッポを振って飛びついたりするのを、いさぎよしとしない、拓郎の俠気がそうさせているのだろうがレゲエは拓郎のノ リを刺激した。
「フォークでもロックでも原点はソウルだと思う。 魂をこめて歌えない歌はダメだよ。ボブ・マーリィのあの叫び、あのノリ も、黒人のソウルだ。レゲエってリズムの形じゃない。ソウルだと思うね」
- ボブ・マーリィの叫びと拓郎 -
拓郎は伝説のステージを作りあげてきた。71年夏、『人間なんて』を延々2時間歌い続けたという中津川のフォーク・ジャンボリー。夜明けまで、6万人を前に徹夜で歌った<つま恋>のコンサート、そして、去年の夏の<篠島>・・・。拓郎のステージは、客との緊張感の中にドラマを生んでいく。あらかじめ定められた客とステージの調和を、拓郎の叫びが突き破っていくところに、壮絶なコミュニケーションが生まれてくる。拓郎はボブ・マーリィのステージで 『アイ・ショット・ザ・シェリフ』を聞いた時、怖さを感じたという。作り物の歌ではない、生々しい魂の歌声。
「オレにはおこがましいけど」
と言いつつ、
「客席から銃で撃たれるシンガーなんて、ほかにいないし、憧れる」
という時、どこかに、自分のイメージを重ね合わせているのかもしれな い。
「帰れ! 帰れ!」
という罵声を浴びつつ、ステージをつとめた数年前の自分自身の姿を。 そういえば、ずっとそうだ。 岡林の“私たち”と複数を歌った歌に対して、私たちになれない“俺” の歌を対置し “アングラ”のフォークに対して“ヒット”を対置し、“一般的なコンサート”に対して“本気のコンサート”を対置し、“レコード業界”に対して“俺たちの会社”を対置してきたこの10年。俺がやらねば、の思いが、さまざまな反発と敵を作り、それをみな一身に負ってきた拓郎の70年代。 ボブ・マーリィのどこか狂気に近い叫びに、そんな自分の軌跡との共通性を感じたとしても不思議ではないかもしれない。
「彼らの社会的迫害などをうんぬんするだけの資格はないし、ボブ・マーリィの気持ちがわかるなんて言えないけど、家では聞きながら泣いてるよね」
小室等は、吉田拓郎を称してこう言っていたことがある。日常生活はきわめて怠惰で体制的だが、ひとたびステージに立つと、同一人物とは思えないくらいの激しいアジテーターへ変身する、と。
◆『人間なんて』を毎回歌ってると、どっかにウソがある。ロスでやったということより新しい曲を作るバネになったことのほうが大きいよね◆
去年の大晦日、日本青年館のステージで彼は突然「今までの レパートリーは、いっさい歌わない」と宣言してしまった。客席で見ている限りでは、計画的に発表されたものではなく、古い歌を歌っているうちに、想いがつのって、つい、そんなセリフが口をついて出てしまったようにも見えた。 拓郎の行動パターンは、そういう例が多いようでもある。 自分で自分を追い込み、そう仕向けてしまう。ときには、それが行きがかりで、ひょんなことから、そうなってみたりする。 そして、自分で自分を追いこむことを自分のバネにもしてきたのだ。
「『人間なんて』を毎回歌って盛り上がるっていうパターンに、 どっかウソを感じてたのも確かなわけね。それなら、もっといい歌作ればいいっていう結論になっちゃったんだな。新しい歌を、歌って聞く人が納得してくれれば、それで新人としてはいいわけでしょう」
- 今こうだ、というのがオレの歌 -
去年の夏の篠島のコンサートのフィナーレを、思い出す人も多いだろう。20分余に及ぶ『人間なんて』の中で、拓郎は
「時代を正面から見すえて、一人一人が立ち向かえ」
と絶叫していた。あの歌は、たとえば美空ひばりが何十年も『リンゴ追分』 を歌うのとは、わけが違う。その瞬間のメッセージを燃え尽きるまで叫びきってしまうという真剣勝負の現在があった。
「どっかで時代が気になってるんだろうと思うね。その時その時で、歌いたいし、生きたい。 先読みは好きじやないし、今、こうだというのがオレの歌なんだよ」
過去の栄光の上で、これまでの歌を歌っていることはたやすい。それは、吉田拓郎の10年を汚すことにもならない。しかし、それでは自分を変えることにはならない。
「変えようと思った時は自分を変えないと、まわりはついてこないよね。状況を変えたいと思ったら、人に期待するより、自分でやったほうがいい。まず自分が変わることだよ」
『シャングリラ』の中では、4曲を久々に作詞家の岡本おさみとコンビを組んでいる。お互いゼロからスタートする新しい曲作り。拓郎自身の新曲としても『ローリング30』 以来だ。
「ロスのレコーディングが、自分の音楽を変えるほどの刺激になったかというと、そうでもな い。それより、今までの曲を超える曲を作る自信ができたほうが大きいよね」
広島から東京に出てきたときは、自分を売り込むためだった。 10年めにして、初めて自分をゼロに変える決意が生まれた。 4月15日から始まる全国ツアー。
「いちおう古い曲もリハーサルしとくよ」
というジョークも出るが、ほぼ新曲だけのステージだ。他人のためのステージではない。自分自身のあり方を賭けたステージだから、結果についての覚悟はできている。
◆ たかが歌手なんだよね。何もしてないんだから。どこがOKだかわからない歌もある。だれにもわかってもらえなくてもいいと思えてきた ◆
たかが歌手--- 拓郎は好んでこの言葉を使う。歌を生業にして、歌以外に何もしてないのだから、たかが歌手なんだ、と。
「オピニオン・リーダーというニュアンスは無意味じゃないかと思うわけよ。歌以外のことは やってないし、世の中だって変わらないわけだし、オレだってただの歌バカなんだから。オレだって芸能人なんだよ」
飲むほどに酔うほどに、拓郎の言葉は自分の中に刺さってい く。自分自身のあいまいさを語 ることが、ニューミュージック のあいまいさを語ることだと言いたげに。自分が切り拓いてきた地平の再確認でもある。
「10年たって、オレはOKということになってるけど、OKというのが、いちばん危険なんだよ。
今はニューミュージック全体がOKになっちゃってるじゃない。魂のないのも多いぜ」
- 自分は芸能人だという開き直り -
拓郎は自分のことを芸能人と呼ぶ。「八代亜紀とオレとどこが違うか」と自問する。拓郎はマスコミを使わずに歌ってきた。 週刊誌の世話になったことはないと、頭を下げずに通してきた。TVも出なかった。何もわからないから、わからないなりに素手で突っ張りとおしてきた。そして、勝った。拓郎にすれば、「今のニューミュージックのマスコミに対する姿勢は、10年前の自分たちのやり方の焼き直しにすぎない。それは "戦い"ではなく"駆け引き" だ」という苛立ち。東京にいない"マスコミ嫌"が結局、東京のメディアを使うことにしかならない自己矛盾。
「中途半端なんだよね。それなら、オレは中に入る。オレは芸能人だって開き直りたくなるわけ。 10年前と同じじゃ進歩ないもの」
芸能人である、と拓郎が言うこと。それは逆説的なこだわりであるのかもしれない。
「過ぎてしまったことを言っても仕方ないし、これからどう生きるかを言うしかないよね。それでも、オレたちには素晴らしい時代があったことも確かなんだ」
拓郎は自分のレコードを聞くのが好きだ。眠る前にも、決まって自分の曲を聞く。自分のレコードは自分自身に対する一番の鎮魂歌だから。自分の最大の敵は吉田拓郎で、最大の友も吉田拓郎であるという想い。 だれもオレのことわかってないな、という虚しさと、だれもわかってくれないほうがラクだという、あっけらかんとした開き直り。
「みんな、もっと素直になったほうがいいんだよ。自分の歌にしびれてほしいね。人のことやマスコミは、どうでもよくなるよ。そういう奴がいっぱいいたら、もっと面白くなるよ」
拓郎には空白の2時間、という言葉があるそうだ。飲みながら、しばらく睡魔に襲われ、空白の時間が来るのだという。
「時々、だれにも迷惑かけずにヒッソリやりますっていう気にもなるぜ」
空白の2時間から覚める時の拓郎は、必死で身を起こそうとするボクサーに似ている。わが身を駆り立てて起きんとする獅子のようでもある。
「さほどの話じゃァないんだけどな」
かすかに笑顔を浮かべたまま再び、身を切るような明に単身立ち向かっていく。いくつもの悲しみを刻んだまま。
-インタビューは3時間に及んだ-
(終)
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