« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月

2017/01/31

HIKE OUT STAFF VOICE

1312017

太平洋側は晴れが続いて、空が真っ青な日が多かった1月。

今月は「TYIS magazine 08」の編集、デザインも進めて、まもなく完成へ。

「LIVE2016」特集の次号マガジンは、たくさんの笑顔でページが埋まっています。

TYIS会員皆様へ、2月2週めの発送予定となります。

発送開始のお知らせは、TYISホームページよりご確認ください。

そして来週は、いよいよ、LIVE DVD,Blu-ray&CD 2月8日(水) 発売!!!

TYIS通販にてご注文をいただいた方々へ配送が始まります。

春風とともに♪お届けします。(※それぞれ別々のお届けです。)

お受取りのほうなにとぞ宜しくお願いいたします。

|

2017/01/30

FM COCOLO田家秀樹J-POP LEGEND FORUM 拓郎ライヴ音源特集

0take

FM COCOLO田家秀樹J-POP LEGEND FORUM

1月30日(月) 21:00-22:00

拓郎ライヴ音源特集

RADIKO

J-POP LEGEND FORUM | FM COCOLO | 2017/01/30/月  21:00-22:00

|

2017/01/28

153-0051

          153-0051  

030188776655

|

2017/01/27

ピート・シーガーの自宅を訪ねた2011年のこと 中川五郎

P0127
MMusic Calendar

ピート・シーガーの自宅を訪ねた2011年のこと

執筆者:中川五郎

本日、1月27日はピート・シーガーの命日となる。
ぼくがピート・シーガーの自宅を訪ねたのは2011年6月21日のことだった。マンハッタンから車で90分ほど、ニューヨーク州南東部、ハドソン川沿いのビーコンの街の近くの山の中にあるログハウスで彼はずっと暮らしていた。
ピートの自宅訪問が可能になったのは、両国にある東京フォークロア・センターの国崎清秀さんのおかげだ。国崎さんは1960年代の初めからピート・シーガーと交流があって、今度お家を訪問したいと手紙を出したところ、ぜひ来てくださいとピートから返事が来た。国崎さんはピートが中心になって40年ほど前から毎年6月に続けられているハドソン川クリアウォーター・フェスティバルの時期に合わせてピート家訪問を計画した。国崎さんはそれにぼくを誘ってくれ、ぼくも一緒に行けることになった。
ぼくは1960年代半ば、中学生の時にアメリカのフォーク・ソングに夢中になり、中でもピート・シーガーに強く影響を受けて、高校生になった頃から自分で歌を作ったり、人前で歌い始めた。そしてフォーク歌手としてあれこれ活動するようになってからも、ピート・シーガーはずっとぼくの師であり続けた。そのことを国崎さんもよくご存知で、ピートの家を訪問する時、ピート命のこのぼくに声をかけてくれたのだ。
それこそぼくにとってピート・シーガーはぼくの手本にして、目標、ぼくの生き方を決めた人物だから、その人の家を訪問して直接いろんな話ができるというのは、もうそれだけで言うことなしだ。まさにドリームス・カム・トゥルーだと言える。実際ピートはぼくたちをあたたかく迎えてくれ、お家で4時間たっぷり過ごし、いろんな話をしたり、歌を歌ってくれたり、バンジョーを弾いてくれたりした。天にも昇るような素晴らしい時間を過ごすことができた。しかしぼくにはピートに会えるなら、直接話をしてぜひとも許可を得たいひとつの相談事があった。それは『中川五郎、ピート・シーガーを日本語で歌う』というアルバムを作りたいというお願いだった。

1967年、ぼくが人前で歌うようになってから、ぼくは自分が最も影響を受けたピート・シーガーの歌を日本語にしていっぱい歌い続けてきた。「Waist Deep In The Big Muddy」、「Snow, Snow」、「My Name Is Lisa Kalverage」、「Sailing up my dirty Stream」「We Shall Overcome」などなど、その数は15曲か20曲近くになると思う。そうした日本語にしたピートの歌を集めてアルバムを作りたいと伝えたところ、彼の表情は一瞬何とも困ったような、戸惑ったようなものになった。そして「Beware(気をつけなさい)」と言って席を立つと、『Where Have All The Flowers Gone : A Singalong Memoir』(『虹の民におくる歌』という邦題で2000年に編集された日本語版が社会思想社から出版されている)という自分の著書を持って戻って来て、「ここを読んでみなさい」とページを広げた。
そこは『Guantanamera〜Translations Pro and Con, New Words to Other’s Tunes(グァンタナメラ〜翻訳の賛否両論、ひとの曲に新しい歌詞をつけること)』という第7章で、「『グァンタラメラ』のような素晴らしい歌は英語に訳さないようにとわたしはみんなに言い続けて来た」、「曲が難しすぎたりするのでなければ、どこの国のものであれ、もともとの言葉で歌ってみるようわたしはみんなに勧めて来た」と彼は書き、「よその人たちの言葉をちょっとでも覚えれば、その人たちの魂の中を垣間見れる」というロックウェル・ケントの言葉も紹介している。
ピートの目の前でその文章を読んでぼくは絶望的な気持ちになってしまったが、「それにもかかわらず、翻訳はどんな時も不可能というわけではない」と彼の文章は続いていて、ペルシアの詩人ウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」の翻訳者が、「死んだ鷲よりは生きている雀の方がまし」と言って、翻訳に取り組んだというエピソードにも触れている。

そしてぼくが文章を読み終えると、ピートは「そうだ、この本には日本の女性の詩人の写真も載っているんだ」と言って、茨木のり子さんの「わたしが一番きれいだったとき」を、いきなりアカペラで英語で全部歌ってくれた。片桐ユズルさんが英訳した「When I Was Most Beautiful」にピートが曲をつけたものだ。
つまりピートは翻訳は絶対にだめだと凝り固まった考えをしているわけではなく、ケース・バイ・ケースで、詩や歌詞の意味をきちんと伝えたい時は、自分の国の言葉に翻訳して歌うこともきちんと認めていたのだ。残念なことにピートの歌を日本語で歌うことについて、その場ではそれ以上突っ込んだ話をすることはできなかった。そしてぼくがピートの自宅を訪ねていろんな話をしてから2年6ヶ月後の2014年1月27日、彼は94年の生涯を終えてしまった。
「そんなのはだめだよ」とはっきり否定されてしまったかもしれないが、あの時ピートと彼の歌を日本語で歌うことについて、もう少し深く話をしておけばよかったと悔やまれてならない。そしてぼくは今もピート・シーガーの歌を日本語で歌うアルバムを作りたいという夢を持ち続けている。

|

2017/01/26

田家秀樹ブログ・新・猫の散歩 1/25 「あらためて、広島フォーク村。」

田家秀樹ブログ・新・猫の散歩 1/25 「あらためて、広島フォーク村。」

そんなに長い原稿じゃないんですけど、書いておりました。もう少しかかりますね。媒体、というのかな。去年、依頼されてそのままになってしまって、お尻に火がつく形でやっております。どこからの依頼だったかというと、広島公文書館。すごいでしょ。

 公文書を集めた広島の図書館。公文書ですよ。アメリカ政府が発行したとか、広島県に残っているとか、そういう類いの文書でしょう。そこが発行する「被爆70年と広島」という本の中に「広島フォーク村」という項目を入れたいので書いて欲しい、ということでした。

 そんな、大それた、と思ったわけです。こんな部外者で良いんでしょうか、と聞いたら、何のつながりもない人で詳しい人が望ましい。中国新聞の連載「小説・広島フォーク村」を読みましたから、ということで納得したわけです。確かに、何のつながりも背景もありませんからね。

 6000字くらいなんで、ボリュームは多くないですけど、プレッシャーはありますよ。何せ、公文書(笑)。おっと、笑っちゃいけない。そのために中国新聞の「小説・広島フォーク村」を読み直してたんですが、結構、面白かった。

 2008年にの連載なんで、かなり忘れてましたからね。自分で言うのもなんですけど、連載のままになってるのが勿体ないという感じでした。まあ、色んな人が現存してお元気なんで、難しいこともあったりします。でも、何とか締め切りは間に合わせられそうです。

 ということで、明日も広島フォーク村。もう少し頑張りましょう。曲ですね。拓郎さん、「いつも見ていたヒロシマ」。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」の特集アーテイスト、2月も拓郎さんになりました。初の二ヶ月連続です。やったね(笑)。FM802の2月のマンスリーアーテイストも拓郎さんです。じゃ、お休みなさい。

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

 

J-POP LEGEND FORUM | FM COCOLO

2017/01/30/月  21:00-22:00

1/9 ON AIR分

| | トラックバック (0)

2017/01/25

TOKYO SESSION –ROCKIN’GAMBLER フジテレビNEXT

0125f

【MC CLAN】
ムッシュかまやつ (Bar Monsieurオーナー)
KenKen (Bar Monsieur 店長)
シシド・カフカ (Bar Monsieurバーテンダー)
【第四夜SESSION CLAN】
浅井健一(Vo/Eg)
TOKIE(Eb)

金子ノブアキ from RIZE(Dr)
<ムッシュかまやつ コメント>
「20世紀のロッカーは、Live Fast Love Hard Die Young!!
だったと思う!!
21世紀は、ロックを骨まで愛して行き抜け!!みたいに思う!!」

Img_0202

| | トラックバック (0)

映画「恋妻家宮本」 遊川和彦監督に聞く

0125b

若い頃から映画監督を目指していて「35年かかってやっと願いがかなった」という売れっ子脚本家の遊川和彦(61)第1回監督作「恋妻家宮本(こいさいかみやもと)」(東宝配給)が28日から、TOHOシネマズ梅田・同なんばで公開される。「俺しか撮れない映画」という思いを遊川監督に聞いた。

遊川監督は広島大学卒業後上京。役者志望で無名塾の試験を受けたことがあるが、一時映画学校に通いながらテレビ製作会社に入りディレクターに。その流れの中で脚本家になった。「本当にやりたかったのは映画監督だったが、その後脚本家のレールを突っ走り、気がついたら60代に。今回、35年かかってやっとその運に恵まれた」

 当初は重松清の原作「ファミレス」の映画化にあたって、脚本を依頼されたという。「面白い小説だったが、重松さんに俺流の脚色を了承していただいて書いているうちに、これはほかの監督に渡して説明するのが難しいし、ひいては僕自身監督するのが一番いいと思った。でも自分からは言い出せない…」

 そこへプロデューサー氏から「どうせなら監督もしませんか」という声がかかった。「待ってました!」である。「50代の夫婦の話で、主演は阿部寛さんに決まっていた。その奥さん役にドラマで何度か一緒に仕事をした天海祐希さんにお願いしOKの返事をもらって、それで映画が成立すると思った」
これまで「家政婦のミタ」「女王の教室」など高視聴率と同時に話題のドラマが多く、業界に名をなしたが、そのうち「現場に声を出す脚本家」としてうるさがられたこともある。「僕は普通のことを言っているだけだと思っていたが、根が演出家志望だけに、垣根を超えていたのかもしれない。本音は自分の書いたドラマはそれなりの責任を持たなくてはいけないという思いだった」と振り返る。

0125a

「恋妻家-」は一人息子が自立し家を出たことで、夫婦が2人だけの生活に戻り、妻が離婚届にはんこを押して持っていたことが引き金になって家庭騒動に発展する。「2人がどうやって相手を理解し、元に戻ることができるか。妻は永遠の謎だと思ってはいるが、夫はそれをどう分かろうとするかが大事。妻も同じでただ正しいことよりも、優しいことを選んでほしい。それが言いたかった」

 「恋妻家」とは遊川監督の造語で「スタッフと話していて出て来た言葉。愛妻家にはなれなくても、恋妻家にはなれると思う。そんなテーマをタイトルに込めている」。若いころから好きだったという吉田拓郎の「今日までそして明日から」をフィーチャーした場面は映画の見どころになっている。「次回作は?」という問いに「さて…」と、笑みがこぼれた。

| | トラックバック (0)

2017/01/23

FM COCOLO 田家秀樹J-POP LEGEND FORUM 拓郎LIVE特集

1/23 FM cocolo 21:00-22:00

Take_2

FM COCOLO 田家秀樹J-POP LEGEND FORUM

J-POPシーンのレジェンド中のレジェンド「吉田拓郎」を
そのLive Album音源に着目して特集している
1月のJ-POP LEGEND FORUM。

Part-4の今回は、
80年代の「吉田拓郎」のライヴ・ステージをクローズアップ。
75年の「つま恋」オールナイト・コンサートに始まり、
日本に於けるコンサートの在り方を
常に革新していった「吉田拓郎」。
80年代のステージ活動では、
それがどのように変化していったのか?
その現場を実際に目撃した田家秀樹による証言とともに
80年代のLive音源でつづっていきます。
お楽しみに!

Radikoプレミアム会員 

 

|

1月23日 八甲田雪中行軍遭難事件

1月23日 八甲田雪中行軍遭難事件

Fullsizerender_48_2

| | トラックバック (0)

2017/01/21

1月21日番組

Soguchi

 ニッポン放送1月21日(土)15:30 ~ 17:00

スイスイサタデー 〜カロ・ソリーゾ!

ゲストは女優の天海祐希さん!最新主演映画「恋妻家宮本」の撮影秘話を伺いつつ、寄せられている沢山の質問に答えて行きます。
アナタがドライブで聴きたい曲のリクエストもお待ちしています!スイスイ気分で是非お聴き下さい!!!

Mats

BSフジ1月21日(土)16:00~17:55

HIT SONG MAKERS 栄光のJ-POP伝説 松本隆スペシャル~置き去りにできない歌物語~』(再)

Koyama

東京会議 BSフジ1月21日(土) 24:00~24:30

小山薫堂がメンバーにカレーライスを振る舞うところから始まった今回の会議。小山が気に入っているあるお店のものだと言うが、「純粋にお召し上がりいただきたい」という言葉に、松任谷正隆、小宮山雄飛、辛酸なめ子の三人は警戒心を抱く。そして三人の嫌な予感は当たってしまい…。東京会議、新年最初のプロジェクトが始動!


|

2017/01/19

1/19 ユーミンの誕生日

今日(1/19)は 松任谷由実 のバースデイ! 誕生日を記念してユーミン関連のコラムをドドンとお届け。まずは、80年代に入って初めてリリースされた「時のないホテル」。彼女を支え続けたギタリスト松原正樹 の大フィーチャリング

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

「アルファレコード」は遊びから始まったから成功した」ムッシュ

ムッシュ : アルファって結局、一発目は誰? 小坂忠? 違う?

川添 : 一番最初は小坂忠。

ミッキー : 小坂忠。成田賢。

川添 : それで、GAROになっ て、GAROでバーンと売り上げ上げ ち やった。当時、ミュージカル「HAIR /ヘアー」が終わった局面で、GAROのメンバーが「HAIR」に出てて、僕がオーディションで選んだ、歌の 歌えるやつを、ほとんどそこから引っ張 り出してきた。最初のタレントはね。で 小坂忠が、そのとき初めて細野晴臣をうちに連れて来たんだよ。「俺のギターで、 なんかちょっとやってよ」って言ったらいきなり一曲やったんだよ。そのビート には吹っ飛んだね。えらいセンスのいいやつだなあと思って、細野君は、それか らの付き合いなんだよ。

ムッシュ : ああ、そう。

川添 : ユーミンなんかも、そのころHAIR」の楽屋へ、うろちょろ出入りし てたよ。

ミッキー : まだ14歳くらい。

ムッシュ : 早熟だったんだね、彼女もね。

川添 : 早熟だよ。だって、いきなり俺のところ来て、「私、いい曲書くんですよ」って。聴いたらすごくいいんだよ。で、加橋かつみのアルバムの中にすぐ採用しちゃった。

ムッシュ : ああ、そうだよね。

ミッキー  : 彼女のライブのデビューはね、俺らの前座だった。ツバキハウス。

ムッシュ  : ツバキハウス。新宿の?

ミッキー そう。

ムッシュ 懐かしいなあ。アルファ・ミュージックって遊びの発想から始まったから、成功したんだね。だから、金のことやらなんかから入ってたら、絶対うまく行かなかったんだよね。あれ、やっばりフルに自分のアイデアが出たでしょ。

川添 : そうそう。

ミッキー : 好き勝手にしたからね。

ムッシュ : 金儲けしようと思って始めた もんじゃないからね。

川添 : 僕らの発想は、日本の音楽、なんでこんなダサイの? いくらでもカッコいいレコード作れるんじゃないの?というものだったの。

0119

- DANKAI PUNCH・黄金の60年代、「キャンティ」とその時代- より

|

2017/01/12

1月15日BS朝日3番組・熱中世代(“フォーライフレコード”設立)・鉄道・絶景の旅(再)(竜飛崎)・熱唱!昭和フォーク7(人間なんて)

1月15日BS朝日3番組
日本フォーク界の草分け的存在の小室等さんをゲストに招く。
  フォークグループ六文銭のリーダーとして活躍。1971年に上條恒彦をメインボーカルに迎えた「出発の歌」で第二回世界歌謡際グランプリを受賞。数々の名曲を残す。一方で
  現役ミュージシャンだけで設立したレコード会社、フォーライフレコードの初代社長も務めた。その当時の思いに鴻上が斬り込む。
  そして今回特別にスタジオで名曲「だれかが風の中で」を熱唱。
  小室等さんの音楽にかける情熱と名曲秘話に迫る。
小室等 “フォーライフレコード”設立 他
「厳寒の冬景色と極上の海の幸 
津軽海峡一周400キロの旅」・竜飛崎 他
数々の伝説を生んだ「フォークの聖地・つま恋」の名曲を特集!数々の伝説的なフォークのイベントが行われてきた「フォークの聖地・つま恋」が、2016年12月で幕を閉じる。1975年代、吉田拓郎はこの地でかぐや姫と共に日本初の大型野外コンサートを開催。2日間の夜を徹したコンサートの最後に「人間なんて」を熱唱し、6万5000人を熱狂させ、そのステージが伝説となった。

| | トラックバック (0)

2017/01/10

DVD必見

      DVD必見

|

2017/01/09

新曲「ぼくのあたらしい歌」Music Video のショートバージョンを公開

2017年2月8日 発売、『吉田拓郎 LIVE 2016』に特典収録されている、新曲「ぼくのあたらしい歌」Music Video のショートバージョンを公開!商品にはMusic Video+貴重なメイキング映像で構成された、みごたえ十分のトータル8分30秒にもなる作品を収録。

|

ほくのあたらしい歌MV

|

つま恋「国際リゾートに」…譲渡合意の社長表明

つま恋「国際リゾートに」…譲渡合意の社長表明

「ヤマハリゾートつま恋」(静岡県掛川市満水)の不動産や「つま恋」商標の譲渡を受けることで、ヤマハと基本合意した神戸市のホテル運営会社「ホテルマネージメントインターナショナル」(HMI)の比良竜虎社長が6日、掛川市役所を訪れ、市長に合意内容などを報告した。

 比良社長は、正式な譲渡契約の締結後、施設の改修工事などを行い、4月27日に新施設「つま恋リゾート 彩さいの郷さと」の営業を開始することを明らかにした。

0108

比良社長は6日午前、営業本部長らを伴い市役所を訪問。松井三郎市長との会談は非公開で行われ、終了後、記者団の取材に応じた。

 比良社長は、つま恋を「音楽の聖地に限らず、教育やスポーツ、文化などのすばらしい施設だ」と評価し、「広い敷地があり、アジアを中心に世界中の人たちが訪れる国際的な総合リゾート施設として開発したい」と今後の抱負を語った。

 そのための具体策として、「静岡空港やアジアの音楽大学と連携し、日本の音楽や文化を学ぶ学生たちを迎え入れるなど交流を深め、世界に発信していきたい」との考えを示した。

 会談では市長に対して、「新しく生まれ変わるため多額な投資が必要で、回収は数十年間かかる。長期的な事業継続ができるよう、官民一体の支援をお願いした」ことも明らかにした。

 3月末に譲渡を受け、プレオープン期間を経て正式開業するといい、4月9日の掛川・新茶マラソンについても協力する考えだ。

 一方、松井市長は「つま恋のこれからを話し合った。今までのような経営形態では資産を十分生かし切れない。新たな(事業)展開で国際リゾート施設になっていくと思う」と期待を込めた。さらに、事前に掛川に関する資料を送ったことを紹介し、「よく掛川の状況を把握されている。信頼出来る企業で安心した。支援は施設がどうなるのか全体像が見えてからになる」と話した。

2017年01月08日 13時13分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

| | トラックバック (0)

2017/01/06

小貫信昭の名曲!言葉の魔法第55回 吉田拓郎「今日までそして明日から」

吉田拓郎というアーティストについては語り尽くされた感もあるが、語ってきた人達は殆どが男性であり、その論調も、彼が登場した当時(1970年前後)の世間のイデオロギーとむすびつけたものが目立つ気がする。
学生運動が華やかなりし60年代後半を経て70年代となり、政治の季節が終わり、若者が内向的になっていく、ちょうどその境目に登場したのが拓郎…、という評価だ。これ、間違いじゃないだろう。ただ、彼にはアイドル的な人気もあったし、彼の歌は、そもそも屈託のないポップ・ソングとしても親しまれていたのである。もし、そんなイメージは消え去りつつあるのだとしたら、むしろ強調したくもなる。それでこそ、彼に対する評価のバランスも取れるハズだ。アイドルという言葉は誤解されるかもしれないが、長髪でナイーヴそうで、でも喋れば男性的な声の持ち主であった彼のことを、多くの女子学生たちが“仮想のボーイフレンド”として受け入れたのは事実だ。

  彼女たちがとった行動は、そんな拓郎に近づくことであり、ギターを手に入れ彼の作品を歌った。当時、彼のおかげで女性のギター人口が増加したのだった。もちろん女性だけじゃない。彼に影響された男の子達は、彼の歌を聴き、彼が影響されたボブ・ディランの存在を知った。そしてこれは総ての拓郎ファンに共通することだが、「日本語って、こんな生き生きとメロディに乗せられるものだったのか!」と驚嘆し、それはまさに、音楽の革命と表現しても過言じゃなかったのだ。

「そして」がつなぐ「今日」と「明日」

 あまりにも名曲が多いので、ひとつ選べと言われると困ってしまうが、ここ最近、再び脚光を浴びているので親しみ易いだろうと思い、「今日までそして明日から」を選ぶことにした。昨年、サントリーのBOSSコーヒーのCMで流れていたので、彼のことをよく知らない人達も、この曲なら耳にしたことがあるだろう。タイトルからして哲学的な雰囲気である。そう書くとムズカシ風に受け取られてしまうかもしれないけど、何のために生きるのか、みたいなことが、歌のテーマであるのは事実だ。

歌詞のスタイルは主人公の独白調であり、“わたし”は“今日まで生きてみました”という、そんな始まり方をする。“今日まで”と言われ、ちょっとドキッとする。このあと、どうなっちゃうんだろう…。心配になる。そして、どのように生きてきたのかを懇切丁寧に語るパートが続いていく。
さらに“そして今”からは、歌詞とメロディが手を携え、別の局面へと展開する。“わたしは思っています”と伝えられ、固唾をのむ。先ほどの“どうなっちゃうんだろう…”がぶり返し、身構えて歌声に耳を澄ます。すると、“明日からもこうして”と、変化の兆しはいっさいみせず、いったん終わるのだった。あれ、そうだったの…。ちょっと拍子抜け。

次のパートも同じメロディの繰り返しで、引き続き、どのように生きてきたのか懇切丁寧に語られていく。これまでは受動的な要素(誰かの力をかりて、とか…)だったけど、ここで能動的な要素(誰かをあざ笑う)も加わる。そしてそして、さらにさらに次のパートも同様なのであった。

非常に辛抱強いというか、変化しないと飽きられるかも、みたいなことは何処吹く風の作品構成だ。ここでいったん、歌のタイトルを思い出してみよう。「今日までそして明日から」。今日と明日には午前零時という境があるけど、実質的には連続している。ところがこのタイトルは、“そして”を入れてる。おそらく作者は、連続しているけど一個一個は別々なのだと意識することを推奨したいのではなかろうか。
さらに、敢えて同じパートを三回辛抱強く繰り返した理由としては、この構成にすることで伝えたかったことがあったからだろう。それは、そもそも「生きる」ということ自体が日々の「繰り返し」だという事実を、体感(聴感)してもらうためだったのではなかろうか。

自分を知る、とは、どういうことだろう?

 三回同じパートが繰り返されたあと、いよいよ歌はハッキリとした変化をみせる。そう。“わたしにはわたしの生き方がある”以降である。ここの部分、メロディの動きと言葉とが実に密接だ。言葉のイントネーション自体がメロディを呼び込んだようにも聞こえる。反対から言うなら、メロディを損なうことない言葉の並び、しかも言いたいことと合致する言葉の並びと千載一遇のチャンスをへて巡り会えた結果とも受け取れる。

主人公は、結論めいたものにも達する。私の生き方というのは、“自分というものを知るところ”から始まるんだと歌う。いわゆる“自分探し”ということだろう。ちなみにこうしたテーマは、今もJ-POPの歌詞に見られる。
こちらとしても、せっかくそう歌われたんだから、「自分を知る」とはどういうことか、本腰を入れて考えようとする。でも間髪入れずに、それすらも“どこでどう変わってしまうか”分からないのだと、否定的なことを言い始めるのがこの歌でもあるわけだ。ややこしい。一瞬、混乱してしまう。

この場合の“どこでどう変わってしまうか”は、ふたつの意味にとれる。結論めいたもの自体が変わってしまうとも、いったん知った“自分というもの”が変わってしまうとも、両方に受け取れる。でもそれも無かったかのように力強く立ち直り、“わからないまま生きてゆく”のが“明日から”の“わたし”だといいつつ、歌はエンディングへ進んでいくのだ。

最後の最後に分かるのは、この歌の主人公は“こうして生きていく”ことにしたらしいこと(あくまで、らしい、こと…)である。結局、“わたしの生き方”そのものの内実こそハッキリ歌われていないけど、それをムリに決めつけず、しかし“こうして生きていく”という意志においてはブレてない熱いものが伝わってくる、そんな作品なのだった。

この書き方では(もちろん僕の筆力不足もあり)なんかモヤモヤのうちに終わっていくような気もするけど、そもそも「生きる意味」なんてものがスパッと分かってしまったら、詰まらない人生だろう。もしそこに意味を見出すにしても、結局は「今」を感じて、「ああ生きてる」と実感出来るかどうかが肝心なことだと思う。
そんなこと考えながら「今日までそして明日から」という曲のタイトルを眺めてみると、真ん中の“そして”が支柱となり、「今日」と「明日」が同じ重さの分銅のように、人生という秤のうえに乗っかりユラユラ動いているようにも見えてくる。

映画の劇中歌として捉えてみると

 さて最後にこんな情報を。「今日までそして明日から」は、1972年に公開されてヒットした、『旅の重さ』の劇中歌であった。この映画を意識して作ったものなのかは不明だが、ストーリーと重なる部分も多い作品といえるだろう。なぜならこの映画は、自堕落な生活をおくる母のもとから家出をし、旅を続ける中で様々な経験をしていく女の子の物語だからだ。いわゆるロード・ムービーであり、そのあたりを思い浮かべると、まさにこの歌は、映画の主人公の心情を代弁していると言えるだろう。 

| | トラックバック (0)

2017/01/04

グレイスランド&蔭山敬吾のブログ 吉田拓郎の「ビート・ピッキング革命」89

Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABEL
グレイスランド&蔭山敬吾のブログ
 
1973年10月に上京し、企画制作部の中曽根ディレクター(天地真理、キャンディーズ、五輪真弓、本田路津子などを担当)のアシスタントになって、毎日必死で東京のサラリーマン通勤、本社勤務、レコーディング……に慣れようとしていた時期だったのに、なぜか、翌年の2月、つまり上京5カ月後に僕はロスに向かっていた。海外旅行など一度も経験していないどころか、飛行機に乗ったこともなかったのに。

「ディランとザ・バンドがいっしょに演奏をするのは今回のツアーのロス公演が最後らしい」という情報を耳にしたことが、ロス行きのきっかけではあったのだが、今考えても不思議なのは、当時の僕は、ディランとザ・バンドの関係にそれほど詳しいわけでもなかったし、彼等のサウンドに夢中になっていたわけでもないのに(ディラン中毒者にはなっていたが、ザ・バンドは地味でポップではなかったので好きなタイプのバンドではなかった)、「ほうか、最後になるんなら、ぜひ観とかにゃーいけんのー。拓郎さんも見に行くらしいけー」と思ってしまったことだ――どんな人間も、上京してしばらくの間は、躁状態か鬱状態のどちらかに陥る、と言われているが、その時の僕は躁状態になっていたのだろう。



**写真は、ロサンゼルスのフォーラムの建物と1974年2月14日のライブの模様。

A1

A2

| | トラックバック (0)

2017/01/01

新年

  新年

Fuji

|

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »