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2016年11月

2016/11/30

本日、11月30日は吉田拓郎の盟友である作詞家・岡本おさみの一周忌 大越正実

本日11/30は吉田拓郎の盟友である作詞家・岡本おさみの一周忌 大越正実

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2016/11/26

小林旭  熱き心に

小林旭 熱き心に

    たとえば、昭和六十年(1985) に世に出た小林旭の名曲『熱き心に』は、どのような形 で日記に登場するか-その年六月の記述を眺めてみよう。ちょうどこの時期 、阿久さんは新 聞に『ちりめんじゃこの詩』という小説を連載しており、毎日せっせと執筆をつづけている。 そんな合間、上京のおりに東京會舘でAGFマキシムのCMソング打合せ郡家淳氏(マザース代 表·ディレクター)、大森昭男氏(音楽プロデュース)、大瀧詠一氏(作 曲)"小林旭が歌う。 ( 85 . 6 . 6) 大瀧詠一さんと阿久さんが会ったのは、あとにも先にもこの一度だけ。まさに一期一会の会 話が交わされたことになる。右の打合せのあと、六月十五日のページに、「熱き心に」「熱き心にふれもせず」とタイトル案がふたつ、赤インクでしるされている。この時点で構想は胸のな かで固まっていたと推測できる。さらに二十四日、六本木の仕事場で『熱き心に』の詞を書き 上げた。この日はほかに、短いエッセイを11篇と詞を四篇書いている。 日記でうかがえる制作過程はこれだけだ。しかし、この短い記述から、この名曲を産むための阿久悠、大瀧詠一、小林旭という座組を作ったのはレコード会社ではなくCM制作スタッフだったことが明らかになる。詞にどんな思いを込めたのか--作詞家の胸のうちは後年書かれ た文章で知るほかない。 そろそろ世の中、何もかもが等身大になってきていて、しかも、すべてが有視界、夢に しろ、ロマンにしろ、手の届く距離しかあてにしないというのが現実になっていた。その 現実を反映して、歌もまた、電話で探せる範囲のドラマになっていて、ケタはずれのスケ ールとか、とんでもなく大きな男とかは登場させられなくなっていた。仮にそういう歌を 作ったとしても、歌って似合う個性の持ち主が少なくなっていたのである。 しかし、小林旭が歌うとなると話は全く別で、ぼくは、可能な限り美文調をメロディー にあてはめ、日本離れのした風景と、現実離れのした浪漫を書いた。 『愛すべき名歌たち』より この文章で阿久さんは、東京會舘での一期一会の会話についてもすこし触れている。大瀧さんが、クレージーキャッツの歌や初期の小林旭のコミックソング風な歌についてもっぱら語ったので、「ズンドコ節」みたいなメロディーができてきたらどうしようと、少々不安だったと。しかし、後日届けられた曲は朗々と美しく、阿久さんを満足させた。

日記に登場する音楽プロデューサーの大森昭男氏は、阿久さんよりひとつ年上。三木鶏郎が主宰する冗談工房に入社したのを皮切りにCM音楽一筋の人生を歩み、大瀧詠一、山下達郎、 坂本龍一、大貫妙子などを起用し、CMを通じてヒット曲をあまた生んだ方である。そんな人となりをインターネットで調べるうち、田家秀樹著『みんなCM音楽を歌っていた』(徳間書 店)という本に、大森氏と大瀧詠一氏の対談が収められていることがわかった。

大森  その時に「小林旭さんです」と言ったんですけど「やります」ともなんとも言いま せん。返事はすぐにくれなかったですよね。ただ,深い沈黙がありました。

大瀧  沈黙でした? 内心は、そっちで来たかという感じでね。(略)でも、85年になんで小林旭だったんだろう、AGFは。

大森  やっぱり「北帰行」ですよ。朗々と広がりのある歌というんで。ディレクターと演 出家とプロデューサーが「小林旭さんで」と言った時に、これはもう大瀧さん以外,私はやらないと決めてましたからね。

大瀧  それが自信ありげな表情に出ているわけですよ。僕はその時点でこれは天命と受け取ったから、そこで沈黙があるわけですよ。考え始めているんですよ、どのラインにしよ うか。 「さすらい」にしようか「北帰行」にしようか。それで沈黙になったんじゃないですか。(略)あれが夜中に出来た時はインターホーンで女房をたたき起こして「聴け!」って。

一生で1回だけですよ、そういうことしたのは。あんなことそれまでに一回もなかった。 大森  でも、その時点で作詞家は決めていたでしょう。

大瀧  阿久悠さんで決めてました。(略)「松本隆で」という声もありましたね。でも、僕は「小林旭に松本は合わないと思うから」って阿久さんにしたんですよ。

   この対談のおかげで、阿久さんに白羽の矢を立てたのがプロデューサーではなく、それまで阿久さんと面識のなかった大瀧さんだったことがわかる。

    阿久さんは一種のジョークとして、よく「ぼくと1番相性のいい作曲家は大瀧詠一さん」 と口にしていた。なにしろ組んで作った作品は『熱き心に』ただ一曲。それがヒットし、二十一世紀まで歌い継がれるスタンダード·ソングになったのだから、打率十割、はずれなしーという理屈である。

    私自身が大瀧詠一さんに一度だけお目にかかったとき、阿久さんがこのように語っていると 話したところ、大瀧さんはすこし困ったような表情になり、「ぼくもそう思ってます」と応え た。 大瀧さんには松本隆さんとのコンビで数多くの作品がある。たとえば、同じ八○年代に作ら れた『冬のリヴィエラ』(森進一)と『熱き心に』を聴き較べてみると、ともに男のダンディズムが匂う詞なのに、色彩のタッチが明らかに違う。『冬のリヴィエラ』の詞はメロディーに 気持よく溶け込んでいるが、『熱き心に』は阿久さんの詞と大瀧さんのメロディーがぶつかり 合ってできた奇跡的なハイブリッドのような気がする。まさに一期一会の名曲ー 奇跡生まれたのも、小林旭という唯一無二の触媒があったからこそ。

・・・などと、日記を糸口にあれこれ考えながら、私たちはすこしずつすこしずつ、そろりそろりと阿久悠という巨星に近づきたいと思っている。国民学校の校庭で深田公之少年が玉音放送を聴いてから今日までのあいだに、私たち日本人がなにを得て、なにを喪ったのかを、より鮮明に知るために……。

   「不機嫌な作詞家・阿久悠日記を読む」三田 完

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2016/11/24

吉田拓郎さんの名曲「流星」にのせた『ディーガ』新CM&スペシャルムービー公開

吉田拓郎さんの名曲「流星」にのせた『ディーガ』新CM&スペシャルムービー公開

CM11月25日(金)よりON AIR

 『ディーガ』特設ページ

【 TVCM 】

思い出の曲には、忘れられない思い出がある。

遠藤憲一さんをはじめとするオヤジたちの人生の一曲と、それにまつわる忘れ

られない思い出を綾瀬はるかさんが聞き出します。

吉田拓郎さんの名曲と共にお楽しみください。

 

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『ディーガ』は、番組の録画やブルーレイディスクを見るだけでなく、約2,300枚分

の音楽CDがためられて、ミュージックサーバーとして使用することも可能です。

そんな『ディーガ』の新しい楽しみ方を伝える今回のCMは、綾瀬さんがプレゼン

テーターとなり、55歳の遠藤さんを中心にその世代の25名の音楽好きの“オヤ

ジ”たち(平均年齢54.5歳)が、それぞれの“思い出の一曲”にまつわる熱いエピ

ソードを披露する、筋書き無しのドキュメントCM。CMソングには吉田拓郎さん往

年の名曲「流星」を起用しており、誰しもが感じたことのある“音楽の力”を思い

出させる内容となっています。

パナソニック株式会社は、女優・綾瀬はるかさんと俳優・遠藤憲一さんを起用した、

ブルーレイ/DVDレコーダー『ディーガ』の新CMを2016年11月25日(金)より放映

開始致します。また、 『ディーガ』特設ページでは、スペシャルムービーやメイキン

グ映像、綾瀬さん・遠藤さんへの特别インタビューも公開致します。

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2016/11/21

蔭山敬吾さんブログ 吉田拓郎の「ビート・ピッキング革命」87――伝説が生まれた瞬間を捉えた写真

吉田拓郎の「ビート・ピッキング革命」87――伝説が生まれた瞬間を捉えた写真 : 蔭山敬吾さんブログ 

中津川フォーク・ジャンボリーでの伝説の<「人間なんて」2時間熱唱>の模様を記録した貴重な写真が井口から届いたので、拓郎さんが上京してデビューして、その伝説のライブに至るまでの3年間を、時系列にして整理してみた。

●1969年、広島フォーク村の仲間たちと上京してレコーディング。拓郎さんが23歳、僕は19歳だった。

●1970年、広島フォーク村と拓郎さんは新宿厚生年金ホールでコンサートを行い、広島フォーク村は4月に『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』発表。拓郎さんは上京し、デビューアルバム『青春の詩』を発表。

●1971年、拓郎さんは25歳、僕は21歳で広島商大4年。拓郎さんは、アルバム「よしだたくろう オン・ステージ ともだち」を発表。そして、8月7~9日 、岐阜県中津川市にある人造湖「椛の湖(はなのこ)」で行われた「第3回全日本フォーク・ジャンボリー」に出演して、「人間なんて」を2時間にわたって熱唱。

この貴重な写真を送ってくれた井口のメールには、「 いつ、どこで、誰から…手にいれたか不明。責任は一切とれません」と書かれていた。「簡易ステージでした」とも。

画像は良くないが、 拓郎さん、小室等さん、井口等の熱演をはっきりと確認することができる。特に拓郎さんのシャウトぶりがはっきりと分かるこの写真は、まさに、伝説が生まれた瞬間を見事に捉えた1枚、と言えるだろう。

補足だが、この写真を井口が送ってくれたのは、先に僕が、Facebookで「第3回全日本フォーク・ジャンボリー」のステージのカラー写真(拓郎さん、井口、小室さん等が写っている)を見かけ、すぐにその写真を井口に送ったからだ。灯台下暗し、とはこのことで、まさか、井口がこんな貴重なモノクロ写真を持っているとは知らなかったので、この写真が届いたときはびっくりした。

伝説が生まれた一瞬を見事に捉えているこの写真が、拓郎さんのファンの間では、すでによく知られている写真なのかどうかは知らないが、僕は初めて見たし、とても貴重なショットだと思えたので、紹介させていただいた。

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2016/11/17

斉藤哲夫 / されど私の人生

■幸ちゃん斉藤哲夫をラジオに引っ張り出す
斉藤 ラジオ久しぶりですね。
坂崎 そうです、この番組自体はちょうど8年ぶりですね。
斉藤 早いね。
坂崎 ね、99年に来て頂いて。
   略
坂崎 哲夫さんと親しくお話しするようになつたのはいつだったっけな、キャニオンの時もソニーの時も違うと思うし。僕はBSで「フォーク大全集」とかやってた時に。
斉藤 あの辺だな。小室さんといっしょに「バイバイ」をやってた時に。
坂崎 ああ、そうだ。あれだ。
斉藤 あの辺からだね。
坂崎 そうだ。謎が解けた。そうですそうです。あの番組で絶対哲夫さんをお呼びしたかったってのがあったので。結構あの番組は。
斉藤 小室さんあんまり嬉しそうにやってなかった(笑)
坂崎 難しかったんじゃないですか、小室さんには(笑)そうそう、で、あの番組でね、結構僕は今まで憧れてたけど会ってない人をお呼びする事ができて。ほとんどの人とお会いできて。哲夫さんもそのおひとりで。いっしょに「バイバイグッドバイ」やって。
斉藤 やったよね。君のギター俺、借りたんじゃなかった? マーチン。
坂崎 そうでしたっけ。あの頃って、もう多分14、5年、13年前かな、だと思うんですけど。メインは歌の方ってお休みになってて。あ、そうだ、みんなあれですよ、「哲夫はどうした、哲夫はどうした」っていう風に。「今、あんまり歌やってないぞ」とか「トラックの運ちゃんやってるぞ」とかっていう風に。実は運ちゃんもやってたんですね。
斉藤 うん、もちろん運転手やってましたよ。
坂崎 その頃に僕は斉藤哲夫っていう人にもう一回唄って欲しいなってたいう思いが強くて。
斉藤 そんな大げさな。ライヴはやってんのよ。俺はさ、どっちかっていうと自分の歌を信用しないところあって(笑)絶対売れないだろうなってとこあってさ。未だに。だからいつもこちら側に仕事を持ってるわけよ。
坂崎 ちゃんとした堅気の仕事持ってるわけだ。で、歌は。
斉藤 好き勝手にやってるって感じ。
坂崎 その方がラクですか。
斉藤 ラクだね~。
坂崎 それはいつごろからですか。
斉藤 昔からよ。URC時代から積極的にライヴやった事ないしさ。人前出るの好きじやないもん。
坂崎 プロの歌手っていう感じじゃない。
斉藤 ないよ全然。
坂崎 じゃアマチュア。
斉藤 アマチュアだねどっちかっていうと。
坂崎 それがでもカッコいいんですよね。その頃が多分音楽から一番離れてた頃ですね。
斉藤 うーんと、そのトラックの運転手、またはバッタもん売ってる頃。
坂崎 バッタもん売ってた時期(笑)
斉藤 そうですね。やっぱり生活っていう子どももまだ小さかったしね。
坂崎 お嬢さんが二人。
斉藤 お嬢さんていう感じじゃない。娘が二人。
坂崎 だからそうですね、お父さんとしてはちゃんと仕事しなきゃいけないと。唄ってる場合じやないぞみたいな。
斉藤 そうそう。
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■業界人にファンが多い斉藤哲夫
坂崎 いや実はですね。斉藤哲夫って人は業界人に人気がある人なんです。この間もチューリップの上田さんに会った時にね、「哲夫さんといっしょにやるんですよ」って言ったら「おお、じゃ行く」って。「哲夫大好き」同い年なんですね。ホントに多いんですよね。隠れファン、隠れちゃってるのかな。隠れないでいいのに。
斉藤 昔ね、チューリップの安部さん(2014年没)、ギターの。彼から電話あってね、どういう電話だったか忘れちゃったんだけど「あなたの歌ステキよ」みたいな事を言われたことある。
坂崎 ああそうですか。「あなたの歌すてきよ」って言われてもねぇ(笑)でもね実際、小田さんもそうでしたもんね。
斉藤 そうですね小田さんもね。
坂崎 「クリスマスの約束」の事もメールでもたくさん来てるんですけど。小田さんといっしょに「悩み多き者よ」と「グッド・タイム・ミュージック」やって。
   略
坂崎 で、その小田さんもファンだったと思うんですよ。「秋ゆく街で」っていうライヴアルバムで「悩み多き者よ」やってるんですよね。
斉藤 やってるんですよ。
■拓郎「されど私の人生」カヴァー

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坂崎 あと拓郎さんが「されど私の人生」、「よしだたくろうオン・ステージ ともだち」っていうアルバムでね、「されど私の人生」を。僕もあれが最初かなぁ、「悩み多き者よ」ももちろん兄貴がシングル持ってたから。B面「とんでもない世の中だ」ですよね。あの赤い暗いジャケットでしたけど。
斉藤 そうそうそう。
坂崎 「悩み多き者よ」を聞いたのと同時期ぐらいかな、拓郎さんがライヴでとりあげて。
斉藤 ちょうどURCの二枚目のシングルが「されど私の人生」なんだよね。
坂崎 あれが出てからかな。
斉藤 ですです、出てから。
坂崎 哲夫さんは拓郎さんとの面識はあったんですか?
斉藤 全然ないんですよね。その後も二回ぐらいですよ会ったのは。
坂崎 ホントですか。
斉藤 はい。
坂崎 なんか、でも拓郎さんがライヴでねぇ。斉藤哲夫っていう人の歌を。
斉藤 ライヴで唄ってますけどね。
坂崎 会った事なかったんですかほとんど。僕は聴いてた時はお友達なんだろなぁって。
斉藤 全然。
坂崎 全然なんだぁ(笑)
斉藤 あの当時、えと今、泉谷しげるのマネージャーやってる伊藤明夫さん。
坂崎 あ、フォーク村の村長さん。
斉藤 フォーク村の村長さん。村長さんがね、ちょうどあがた森魚とね、怪しい手作りのコンサートやってる時にね、会いに来てね。
坂崎 はい。
斉藤 「うちの拓郎があなたの歌を唄いたいって。許可してください」っていうそんな話で。
坂崎 そん時じゃあ快く。
斉藤 そうですね。
坂崎 へぇ~、そういう事、そういう意味では業界内でもそういう隠れファンがすごく多くて、ねぇ。

 以下略
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ディランさん、授賞式欠席へ=書簡で「先約あり」―ノーベル文学賞

ディランさん、授賞式欠席へ=書簡で「先約あり」―ノーベル文学賞

ノーベル文学賞の選考に当たったスウェーデン・アカデミーは16日、今年の受賞が決まった米シンガー・ソングライターのボブ・ディランさん(75)が授賞式欠席を決めたことを明らかにした。

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2016/11/16

ONWARD CM / 元気です

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2016/11/14

ビートルズを聴いて素直に反応した全国の少年少女たちーイルカ、きたやまおさむ、そして吉田拓郎の場合

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たくろうパック④ / 伊藤友治

  ④
 
■投書の葉書から生まれた「春だったね」
アルバム『元気です。』 ( 72年7月、 CBSソニー) A面の1曲目に「春だったね」という曲が収められ ている。実は投書の葉書から生まれた歌だと桝田が明かした。 「放送で読む葉書や手紙は全て私が選んで拓郎に手渡すことにしていました。番組に葉書を送ってくる常連のリスナーは結構大勢いました。田口淑子さんという女性も、そういう常連組の一人だったのですが 葉書に「春だったね」という題名の詩を書いてきたことがありました。読んでみると、なかなか良く出来ている。これ、読んでみる? と差し出したら、彼はざっと目を通し、その詩がとても気に入ったようでした。それから間もなくしてからです。拓郎は田口さんの作った詩に曲を付けて歌にしました。 彼女は、それがきっかけとなってプロの作詞家になりました」 拓郎パックの中で生まれた歌や曲は他にもある。桝田が作曲の舞台裏を明かす。
 
「拓郎に会って話がしたい」という夜間高校の生徒をゲストとしてスタジオに招いた時のことである。 ひと通りの話が終わった後、拓郎は「君もがんばれよ。激励のために僕が1曲プレゼントする」と言って、 突然ギターを弾き出した。予め用意していた曲ではない。その場で閃いた旋律とリズムを刻んで新しい曲 に仕上げた。青年は思いがけないプレゼントに大喜びで帰って行った。
(注: 歌詞中の「心の中に傘をさしてはだしで歩いてる」は「たどりついたらいつも雨ふり」に使われた)
■放送中のスタジオで乱舞した拓郎
若き日の拓郎はお世辞にもお行儀のいい人間とは言えなかった。大の酒好きで酔うと手がかかる。
ところが、彼の中にはやんちゃ坊主と恥ずかしがり屋の少年が同居している。だから憎めない。年上の兄貴分達から弟のように可愛がられた所以でもある。 「僕は吉田拓郎というアーティストのファンだったのです」 私の取材に対し、小室はそういう言い方で拓郎と親密な関係にある理由を説明した。そして幼い少年の ように無邪気で素朴な拓郎の一面を物語る逸話を披露してくれた。
「拓郎は知る人ぞ知る、プロレスの大ファンでした。そんな拓郎をビックリさせてやろうと1計を案じて実行したことがあるんです」 小室が語るビックリ大作戦の一部始終はこうだ。 その当時、アントニオ猪木は女優の倍賞美津子と結婚して東京·港区六本木のマンションに住んでいた。 その1階下にはジャズ奏者、渡辺貞夫の住まいがあり、彼と親しく付き合う猪木夫妻は入り浸っていた。 「世界のナベサダ」の部屋を訪れていた小室とTBSテレビのディレクター、高橋一郎はそこで偶然猪木夫妻と出くわした。丁度、水曜から木曜日に変わる深夜であり、今夜は『拓郎パック』がある。妙案を思い付いた小室はナベサダの口添えを得てアントニオ猪木を誘い出すと、自分の車に乗せ、午前1時過ぎ に赤坂のTBSに向かった。 スタジオでは拓郎がマイクロフォンに向かって喋っている。頃合いを見計らってそこに乱入する計画だ。 副調整室にいた桝田は前ぶれなしの来訪者に驚いた。 「とてもデカイ男がスタジオの入り口に立っていました。顔を見ると、なんとアントニオ猪木さんなん です。小室さんが連れて来たことは直ぐにわかりました。彼らはスタジオに入る気満々のようでした。特に止める理由もないし、笑って「いいよ」、と合図を送りました」 何が起きたのか。拓郎は一瞬きょとんとした表情になった。だが、猪木の巨体を視線に捕えると「 あっ、 アントニオ猪木だ。猪木さんが来た。本物のアントニオ猪木さんがいる」と叫ぶが早いか、猪木に抱き付いて喜びを全身で表した。よほど嬉しかったのだろう。拓郎は生放送のことなど忘れたかのようにスタジオ内をぐるぐる駆け回った。その時の拓郎は完全に無邪気な少年に戻っていた。 拓郎にまつわる逸話を桝田から幾つも聞いた。彼は拓郎のことを話す時、弟を気遣う兄のような優しい 顔になる。私はそう感じた。  

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2016/11/13

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2016/11/12

たくろうパック③ / 伊藤友治

③ 
略(第3回全日本フォークジャンボリー説明)
■1971.10.7きたやまおさむパック最終回
 
北山 という事で吉田拓郎君が来週から木曜パックを担当なさるというわけですが。さてこれからの抱負みたいな、どういうふうなパックにしていくかだって。
拓郎 ええ、これですね、まったく皆目見当がつかないわけでして。ボクはパックインミュージックってのはあまり聞いてないんですよ、正直な話として。どんな事やってるかっていうのは知らないんですよ。たまにコータローに会って話してるんですけどね。
北山 なるようにしかならない。
拓郎 そうですね。
 
■『木曜パック」  拓郎の世界
10月14日午前1時。スタジオでギターを弾き語る拓郎の歌声が夜空を駆け巡った。 「初回は何を歌ったんでしょうね。私の記憶に残っていないんですよ。番組のオープニングは必ず拓郎 のギターの弾き語りで始める。そう二人で決めました。歌う曲は拓郎が選ぶんです。放送が始まる前から 弾き語りを始め、番組がスタートした時には、もう歌の途中になっている、そんな感じでやってもらいました」
番組の終了間際にはいつも同じ曲がかけられた。余り耳慣れない曲だった。
あれは何という曲だったのですか? あれは桝田さんの趣向だったのですか?
「『避暑地の出来事』という曲です。拓郎がどうしても使って欲しい と言うので、その通りにしてい ました。なぜ、その曲なのか、特に理由は聞きませんでした」
 
『避暑地の出来事(原題: A Summer Place)』は59年(昭和34 )に米国で制作された映画である。スローン・ウィルソンによる同名の小説をワーナー・ブラザーズが映画化した。テーマ音楽はマックス・スタイナーが作曲した。その後パーシーフェイスのカバー曲「夏の日の恋(原題: Theme from A Summer Place) 」として発売され全米で大ヒットした。
 
略 (映画説明)

 

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■自由奔放な喋りと、熱気溢れるスタジオ
 
拓郎の自由奔放なトークはやはり面白かった。聴取者を掴むコツをちゃんと心得ている。下積み時代に 培ったライブ公演やコンサートの経験が十分に活かされている。桝田の観る目は確かだった。案の定と言うべきか、 『拓郎パック』は直ぐに人気番組になった。 毎週、スタジオにはフォークシンガーやアーティストが入れ代わり立ち代わりゲストとしてやって来た。それが『拓郎パック』の魅力の一つでもあった。
「もちろん拓郎の人脈もありましたが、スタジオの中はいつも賑やかでしたね。みんなでフォークを盛 り上げ、パックを支えて行こうという熱気に満ち溢れていました。憶えている名前を挙げてみましょうか。 南こうせつでしょう、 RCサクセション、五輪真弓、あがた森魚・・・切りがありませんね。月に1度、最後の週だけ小室等が遊びに来ていました。彼は一足先に世に出てお金もあったんでしょうが、拓郎や井上陽水が売れる前から兄貴のように面倒を見ていました。食事代から酒代まで支払っていましたよ。拓郎や陽水は恩義を感じてか、
小室等の言うことはハイハイとよく聞いていました」
 
 

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たくろうパック② / 伊藤友治


略 (拓郎プロフィール)
 
■吉田拓郎か、別のフォーク歌手か?
桝田は前々から吉田拓郎の存在を知っていた。 「広島のフォーク村に、ちょっと面白い歌
手がいるのよ」 湯川れい子のひと言がきっかけになった。まだ売れていないフォークシンガーの拓郎が「古い船を~」 のアルバムを出していることを知った。
「拓郎の歌は七·五調の定型があり、やたらに長いんです。字余りソングの草分け的なシンガー·ソング ライターですね。私にはそれが画期的なことのように思えました。また彼には独特のカリスマ性がありました。彼の曲がかかると、アッと言う間に拓郎ワールドが出来上がってしまう。そんなフォーク歌手はいませんでした」
拓郎に対する桝田の評価はすこぶる高い。しかし、実際のところは「木曜パック」のパーソナリティ に起用してみたいと思う別のフォーク歌手がいた。関西を中心に活動していた加川良である。
 
略(加川良プロフィール)
吉田拓郎か加川良か。桝田は思案に暮れた。歌や曲はともかく二人がどんな喋りをするのか、自分の目と耳で確かめてみるしかない。まず拓郎のライブ公演に行った。どの歌も字余りソングばかりで面白いと思った。特に弾き語りの合間に喋る話が爆笑ものだった。これじゃ、まるでフォーク漫談じゃないか。そう思えるほど楽しめた。それに対し、加川の喋りは面白味に欠けた。下手ではないにしろ、上手いと言えるほどではない。結論は出た。あとは
拓郎と出演条件を巡る交渉次第である。
■出演(起用)の条件
実際に拓郎さんに会ってみて、桝田さんはどういう印象を持たれたのですか?私は桝田の語る「拓郎論」に興味津々だった。矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「拓郎は私より2歳年下です。自分の弟のようなものなんですが、器の大きな人物だなぁ、というのが第1印象でした。しかし、主張すべきところははっきりと主張する。その半面、シャイで恥ずかしがり屋な面も持ち合わせている。この男となら一緒に番組をやって行けると思いました」
出演の条件を巡っては、どんなやり取りをされたましたか?
「まず拓郎は、こんな風な言い方をしました」桝田はその時に拓郎と交わしたやり取りを再現してくれた。
[拓郎] 「やってみたいとは思いますが、TBSという会社の企画に当て嵌められるのは僕にとって大変きついんです。それは、どうなんですか?」
[桝田]  「毎週、放送は2時間ある。そのうち1時間半は君にやる。君の好きなようにやってもらって構わない。何を、どう喋ろうが君の自由だ。その代わり残る30分だけは僕によこしてくれ」
[拓郎]  「わかりました」
[桝田] 「もう一つ、僕の方から条件がある。
番組の中でかける曲は全て僕が選ぶ。君には口を出させない」
[拓郎]  「それもわかりました。桝田さんの条件に従います」
[桝田] 「最後に確認だけど、君は番組で何をやっても構わないが、ラジオは情報を伝えるものだ。そのことは絶対に忘れないでくれ」
桝田の再現するやり取りの中で、気になる箇所が1か所だけあった。「30分だけは僕によこせ」という件がありました。それは、どういう意味ですか?
彼は苦笑いしながら「よくぞ聞いてくれた」という表情になった。「当時のTBSには東大や一橋、早稲田、慶應など一流大学出のインテリがゴロゴロいました。確かにみな勉強家で博識なんです。私は学習院大学を卒業したのですが、先輩達からすれば、頭の悪い新米にしか見えなかったんでしょうね。
「お前はマルクスの資本論を読んだことがあるのか」、「もっと勉強しろ」と散々しごかれました。それで自分なりにテーマを見付けようと思い、沖縄問題に取り組むようになったのです。自分の担当する「パック』では、 30分だけ自分のテーマについて放送しようと考えていました」
 

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2016/11/10

拓郎さんとコーラス隊 / タクローと良子ちゃん!谷村新司 SHINJI TANIMURA OFFICIAL SITE

土居康宏さん                  加藤いづみさん

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タクローと良子ちゃん!谷村新司 SHINJI TANIMURA OFFICIAL SITE 

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木曜第Ⅰ部『たくろうパック』 ① / 伊藤友治

71年『パック』の10月改編
木曜第Ⅰ部『吉田拓郎パック』(10月14日~) ①
 
略(拓郎プロフィール)
 
吉田拓郎は71年10月14日に北山修の後を継いで「木曜パック」第1部のパーソナリティーになる。後に「オールナイトニッポン」や「セイ!ヤング」のパーソナリティーを担当することになるのだが「パック」は拓郎にとって初めてパーソナリティーを経験した番組だった。 拓郎を起用して新たな「木曜パック」に挑んだディレクターは67 年入社組の桝田武宗(同19生)である。
 
■桝田が『パック』の担当になるまで
桝田は、番組を作らせれば名人芸の腕前を発揮するけど、なかなか気難しい男だよ」そんな評判を聞いていたので、取材を申し込む時は少し肩に力が入った。ところが、電話口に出て来た桝田は礼儀正しく丁寧な話しぶりで私の取材を快諾してくれた。 桝田は今も放送に関わる現役である。
TBS放送センターにほど近い場所に事務所を構え、番組の制作会社を経営している。「私の方がTBSに出向きますよ。それから伊藤さん、TBSには『パック·イン·ミュージック』や『ヤ ングタウン東京』の昔のポスターが残っていますか? たぶん残っていないでしょうね。なぜか私の手元に残っているので持って行きましょう。今となっては貴重な物ですからTBSに寄贈します」
約束の日時に桝田は、畳一枚分はある大きなポスターを2枚、筒状に丸めて持って来
た。大柄な体にきちんと背広を着こなし紳士の風格を漂わせている。私と向かい合って座
った彼は眼光鋭く理路整然と話し始めた。桝田さんは新人研修でラジオ·スケッチをやった時のことを憶えておられますか? 「憶えています。今と違ってネットの検索が出来ない時代だったので苦労しました」 私は手始めに46年前の出来事から聞いてみた。
桝田は67年入社組の中で群を抜く優秀な新人とみなされていた、と他の同期生達から聞かされていたからである。 新入社員は10月1日に配属先が決まり、桝田はラジ
オ局の制作部に回された。「そりゃ~落胆しましたよ。入社するまでTBSが兼営局だなんて全く知らなかったのですから。研修中はテレビドラマを制作してみたいと思っていました」 桝田は元々就職しようという気がなかった大学2年の時に米国留学を思い立ったが、渡米の寸前になっ て十二指腸潰瘍を患い断念した。卒業したら米国に留学しようと考えていた。
しかし東大出の厳格な父親は「大学を卒業したら働くのが当たり前」と桝田の希望を受け入れようとしない。二言目には「○○銀行に行け」「□□社に就職しろ」と尻を叩かれ続けた。それでNHKとTBS の採用試験を受けた経緯がある。鬱屈した気分になった。だが、ゴネたり拗ねるのは大人げない。気を取り直して仕事に向き合うしかな かった。それなのに
担当させられた番組は『キンカン民謡のど比べ』だった。
「えっ、民謡かよ・・・と、どん底に落とされたような気持ちになりました。学生時代はジャズをやって いました。民謡なんて興味もなければ聞いたこともない。ズブの素人がどうやって番
組を作れと言うんだ・・・ そんな毎日でした」
そんな桝田に救いの手を差し伸べたのは60年入社の先輩、北山幹雄(同12生)だった。「桝田は洋楽の方が詳しいから別の番組に担当替えさせてやる」 その言葉に桝田は「助かった」と思った。それから洋楽系の番組に移り、湯川れい子と関わるようになった。
 
 
ようやく仕事が面白いと感じてきた頃だった。「北山修が降りることになった。加藤節男と交代して君が次の『パック』を担当してくれ」 制作部長の池田靖から『パック』の担当ディレクターになるように言い渡された。
 
(パック・イン・ミュージック伊藤友治 +TBSラジオ
 

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2016/11/08

男の子・女の娘(灰色の世界II) 中沢厚子

Lpok

富澤 ここにですね拓郎さんの「青春の詩」とい

うファーストアルバムが あるんですが、この中

の「男の子女の娘」という曲で拓郎さんとデュエ

ットしてるんですが、中沢さんの声が世の中に

初めて出たのがこの曲。

中沢 そうですね、はい。

富澤 で、ですね、なぜまた吉田拓郎さんの、

要するに当時のLPですよね、LPの中でデュ

エットするようになったんですか。

中沢 ね~、うふふふ。えーとですね、まず

拓郎さんのプロデューサー、浅沼さんですけど

私が中学の時にね、姉がギター教室に通って

たんですよ。それが浅沼さんのギター教室だ

ったんです。

富澤 浅沼さんのクラシックギターね、すごい

人ですからね。

中沢 ええ。それで私がちょこちょこその教室

について行ってたんです。 でまあ初めて浅

沼さんと出会ったっていうのがそれがきっかけ

なんですけど。それで、まぁ私がギターを弾く

ようになって。そのうちボロボロというかメロデ

ィーが出てくるようになって曲を作るようにな

って、それである時突然、呼び出されたんで

す。「拓郎のレコーディングをするから来てく

れ」と。それでソニーのスタジオだったんです

けど、そこに行って、もう今と違うんですけど

「せーの」で全部いっしょに録るんですよ。

バンドも、あの時マックスっていうバンドだっ

たんですけど。で、拓郎さんがその場でギタ

ーを弾きなが ら曲を教えてくれて。それでホ

ント3、4回唄って、もう「ホンチャン」でっ

ていう事で録ったのがこの「男の子女の娘」

っていう曲なんですね。

Kagdo00

富澤 なるほどね。これ70年の11月かな、出て

ると思うんですこのアルバムね。という事はも

ともとは浅沼さんは拓郎さんのプロデューサー

でもあってモチロンね、エレックレコードの専務

でもあったですよね。ですからその前にギター

の先生って事で知ってたっていう事ね。

中沢 そうなんです、はい。

富澤  偶然ですねそれまた。

中沢  でも私の中では拓郎さんていう人は知

っていたんです。モチロン 「イメージの詩」を

初めて聴いて。で、その人といっしょに唄うって

事になってもう本当に信じられなかったですね。

うーん、自分でもびっくりで。ええ、まだ高校生

だったんですけどね。

富澤 でもあれよく声出てますよ、かなりね。

中沢 ええー。うふふふ、いやいやもう緊張し

て唄ってますね。精一杯。あの時、あれで、

うっふふふ。

富澤 あとね、昔のプロフィールを調べてみ

ますと、中学2年の時にギターを習い始めた

というね。そのあとフォークソングに熱中し

て、森山良子さんのすごいファンだったって

事ですか。

中沢 あー、やっぱりあの、ギターを持って、

えーと唄う女性シンガーっていうことで憧れ

でしたね、うふふふ。

富澤 で、高校1年になるとこれスチューデ

ントフェスティバル、これは入会したってい

う。入会したのかな。

中沢 それは、してないと思う、うん。ただね、

お客さんとして見に行ったってだけですね。

富澤 なるほどね。もともとね、だから良子

さんもステューデントフェスティバル系だか

ら。金子洋明さん所のステューデントフェス

ティバルよく出てましたからね。じゃ、見に

行って、ますますね、憧れて、あんな感

じでいきたいという感じですかね。

中沢 うーん、そうですね。

富澤 あと、当時のフォークコンテストって

いうのは出てたんですか、かなり。

中沢 うん、あのオリジナル曲を作って、

ええいろいろコンテストには出ていました、

はい。

富澤 コンテストはどんな感じだったんで

すか、結構評判は?

中沢 そうですね、わりとコンテスト荒らし

をしていたかな、なんてふふふ。

富澤 いい感じだったのね。

中沢 うーん、そうですね。それなりのお

声を頂いた記憶がありますね、 はい。

    ・  ・  略  ・   ・   ・

富澤 そして「男の子女の娘」サブタイト

ルが「灰色の世界Ⅱ」ってなってるんです

ね。なんで「灰色の世界Ⅱ」かって調べた

らこの青春中には「灰色の世界Ⅰ」っつうの

があるのね。歌詞がね一箇所だけ同じ 所

があるの。「孤独をいつしか売りものにして 

さびしがりやと勘違いして」ってね。

だからこの「灰色の世界ⅠとⅡ」が裏表に

なってるんだね、きっとね。そういう感じが

したけどね。

中沢 初めて知りました。(笑)

-FM NACK5 富澤一誠 weekend party -

P1

J2

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2016/11/06

「僕の音楽キャリア全部話します1971Takuro Yoshida→2016Yumi Matsutoya/松任谷正隆」

松任谷正隆「僕の音楽キャリア全部話します1971Takuro Yoshida→

2016Yumi Matsutoya」

    ・   ・   ・

人が自分の限界を超えたところに何を見るんだろうー。そんなことも考えましたね。

七万五千人の観客もエクスタシーのようなものを感じていて。それを思うと、

あんなに強 烈なコンサートはない。

    ・   ・   ・

Photo

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2016/11/03

阿部寛&天海祐希らが大合唱! 吉田拓郎の名曲が劇中歌に『恋妻家宮本』

阿部寛&天海祐希らが大合唱! 吉田拓郎の名曲が劇中歌に『恋妻家宮本』

Eiga01

一足先に上映された「モントリオール世界映画祭」では、通常エンドロールが

始まるとすぐに席を立ってしまうモントリオールの観客が、全員最後まで席を

立たずに楽しんでいたほど。また、吉田拓郎ファンだという原作者の重松氏は、

実際に楽曲が使用された本作を観て「試写のあとの帰り道、気がつけば、ずっと

口ずさんでいました」とコメントしている。 そんな出演キャスト全員で歌い繋ぐ

「今日までそして明日から」はエンディング、そして吉田さんが歌う「今日まで

そして明日から」は劇中歌として登場する。

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2016/11/02

LIVE2016。会場全員でコーラスを唄った「ある雨の日の情景」。拓郎さんは44年前と同じ気持ちを抱いてくれただろうか。

LIVE2016。会場全員でコーラスを唄った「ある雨の日の情景」。

拓郎さんは44年前と同じ気持ちを抱いてくれただろうか。

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11月17日(木)午後10:50~NHK SONGSはKinKi Kids

11月17日(木)午後10:50~ NHK総合 SONGS 第400回

    KinKi Kids

ナレーション : 斎藤 工

Kinki_2

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