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2015年5月

2015/05/29

ニッポン放送・松本隆さん特集

Oota

金曜ブラボー 12日 金曜 13時~

 

パーソナリティ:望月理恵・上柳昌彦  SPゲスト:太田裕美さん

6月12日(金)の放送は・・・「たっぷり松本隆」

作詞家生活45周年を迎えた作詞家・松本隆作品を大特集!!

<スペシャルゲスト>「木綿のハンカチーフ」「さらばシベリア鉄道」

など松本隆さんの名曲を歌う、永遠のアイドル 太田裕美さん

Ootahiromi

ラジオの前のアナタから、松本隆さんの名曲を募集します。

金ブラの番組ホームページ 「インフォメーション」 に挙げた例を

参考にぜひご応募ください。

リストに載っていない松本隆さんの曲でもOKです

<プレゼント> リクエストを頂いた方の中から抽選で・・・

◆「横浜くんせい工房」より 「くんせい」 を1時間に3名様 合計15名様

◆ 「現金1万円」 を1時間に1名様 合計5名様

応募はコチラ! ⇒  kb@1242.com まで。

http://www.1242.com/bravo/

Matsu

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Saito

6月13日(土) 19:00~

 

斉藤由貴フルタイムコレクション 作詞家生活45年〜松本隆の世界 

作詞家・松本隆の世界を、女優・斉藤由貴のナビゲートでお届けする

プログラム。

松本氏が世に送り出した、数々のヒット曲、名曲を、たっぷりオンエア。

オリジナルのストーリーと共に、ゆったりと楽しんでください。

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2015/05/27

高橋真梨子が吉田拓郎、ザ・ピーナッツらの名曲歌うカバー集「ClaChic」

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高橋真梨子が吉田拓郎、ザ・ピーナッツらの名曲歌うカバー集「ClaChic」

音楽ナタリー

来年芸歴50周年の節目を迎える高橋。「ClaChic -クラシック-」は

彼女にとって3年ぶりのカバーアルバムとなり、本人が選曲を担当

している。収録されているのは河島英五「酒と泪と男と女」、

ザ・ピーナッツ「明日になれば」、吉田拓郎「旅の宿」といった昭和

時代を彩った楽曲の数々。いずれの楽曲もメロディや歌詞のよさ

を引き立てるため、リズム楽器を最小限に抑えたアレンジが施さ

れている。同時発売となった「LIVE Adultica」には、昨年2014年11月

に東京・国際フォーラム ホールAで行われたコンサートの模様が

収められる。

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4月ON AIRニッポン放送「吉田拓郎・僕のラジオwith 坂崎幸之助」聴取率首位獲得

放送作家 小谷さんtweet

20150526kotani

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2015/05/24

イルカのミュージックハーモニーゲスト森山良子さん

ニッポン放送イルカのミュージックハーモニー

ゲスト森山良子さん拓郎関連話2分20秒(編集済)

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2015/05/23

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木曜夜12時FM NACK5 Age Free Music!

 

(森山良子さんの拓郎関連話5分)

木曜夜12時FM NACK5 Age Free Music!

パーソナリティー:富澤一誠

5/21 森山良子とともに、フォークの時代の名曲を心ゆくまで

『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子

Moriyama

01. 今日までそして明日から

吉田拓郎さん抜きでは私の中に日本のフォークは存在しません。

若かりし頃の私が歌っていたのはあくまでもアメリカンフォークであって、

それをコピーしていたに過ぎないのです。 そんな私の前に現れた吉田拓郎は、

東京や関西のお坊っちゃま学生のアメリカンフォークコピー組を鼻先でせせら

笑う様に出現した。甘っちょろい事やってんじゃねーぞ!! とばかりに。私も

甘っちょろ組だったからこの人、何をしようとしているんだろう? と若干脅威

だった。吉田拓郎は、ここからフォークブームを表面ではなく、本当の自分を

自分の言葉でハッキリ強く歌にしてメッセージを送った。日本の若者たちに

音楽を通して揺さぶりを掛けた、そんなエネルギーに溢れていた。

THE ALFEEの坂崎幸之助さんが「拓郎さんの歌は、拓郎さんと同じ譜割り

で歌わないと何だか違うんだよね。」と言っていたが、正しくそうだった。

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2015/05/22

「言葉」を東出昌大が、「外は白い雪の夜」を太田裕美が朗読・松本隆 「風街であひませう」 

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「言葉」を東出昌大が、「外は白い雪の夜」を太田裕美が朗読

 
松本隆 作詞活動四十五周年トリビュート 「風街であひませう」

松本隆 コメント

歌詞から曲を取り去り、読まれると、言葉が裸になって立っている

ような気がした。ぼくの詞が古くならない理由が少しだけ覗ける。

年齢や時代や世代をすべて飛び越えた場所にぼくの言葉は存在している。

DISC 1「風街でうたう」(トリビュートアルバム)

01. 風の谷のナウシカ(安田成美) / 手嶌葵

02. 水中メガネ(Chappie) / 草野マサムネ(スピッツ)

03. 星間飛行(ランカ・リー[中島愛]) / クラムボン

04. 白いパラソル(松田聖子) / 斉藤和義

05. はいからはくち(はっぴいえんど) / やくしまるえつこ

06. 卒業(斉藤由貴) / YUKI

07. Tシャツに口紅(ラッツ&スター) / ハナレグミ

08. 探偵物語(薬師丸ひろ子) / 中納良恵(EGO-WRAPPIN')

09. ないものねだりのI Want You(C-C-B) / 安藤裕子

10. SWEET MEMORIES(松田聖子) / 小山田壮平&イエロートレイン

11. 驟雨の街 / 細野晴臣 ※未発表曲

DISC 2「風街でよむ」(ポエトリーリーディングアルバム)※完全生産限定盤のみ付属

01. キャンディ(原田真二) / 斎藤工

02. 夏色のおもいで(チューリップ) / 宮崎あおい

03. 言葉(吉田拓郎) / 東出昌大

04. 蒼いフォトグラフ(松田聖子) / 夏帆

05. はーばーらいと(水谷豊) / 山田孝之

06. 瑠璃色の地球(松田聖子) / 井浦新

07. 夏なんです(はっぴいえんど) / 加瀬亮

08. 魔女(小泉今日子) / 有村架純

09. 初戀(斉藤由貴) / 広瀬すず

10. レモネードの夏(松田聖子) / 中川翔子

11. 外は白い雪の夜(吉田拓郎) / 太田裕美

12. 空いろのくれよん(はっぴいえんど) / 永山絢斗

13. 哀しみのボート(松田聖子) / 小泉今日子

14. 卒業(斉藤由貴) / 斉藤由貴

15. 瞳はダイアモンド(松田聖子) / リリー・フランキー

16. あなたを・もっと・知りたくて(薬師丸ひろ子) / 薬師丸ひろ子

17. 風をあつめて(はっぴいえんど) / 松本隆

ディレクター:是枝裕和

※BGMなし

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2015/05/21

グレイスランド&蔭山敬吾のブログ 吉田拓郎のビートピッキング革命40

Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABEL

グレイスランド&蔭山敬吾のブログ

吉田拓郎のビートピッキング革命40

超弩級企画の編集は第4コーナーをまわったところ。騎手にムチを入れら

れた競走馬が全身を震わせながらゴールめがけて突進していくように、

僕もここのところ連日、全身を震わせています。原因はムチ打ちではなく

入稿業務過多による神経衰弱によるものですが(笑)。

    ・   ・   ・

    ・   ・   ・

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2015/05/18

矢島賢さんお別れの会

岡沢 茂さんFace book

矢島 賢さんお別れの会

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

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  5/17    153-0051

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

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2015/05/15

TBSラジオ6月14日(日)夜11時~11時55分「カバヤキ三太郎のごめんね青春!」

TBSラジオ

6月14日(日)夜11時~11時55分「カバヤキ三太郎のごめんね青春!」

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DJをつとめるのは、初代カバヤキ三太郎こと 生瀬勝久。

「なにが『ごめんね』なのかな?」「一方的にしゃべらないで

くれる?」など数々の名フレーズが飛び出します!

番組構成は、ドラマの脚本も手がけた 宮藤官九郎 が担当。

もちろん皆さんからの「ごめんね電話」も受け付けますが、

ドラマ出演者のあの方からも電話が…かかってくる予定です。

さらにさらに、番組内では、三島市の名士、永楽寺の住職の

ありがたい法話や聖駿高校のシスターからのお話、など盛り

だくさんの内容です。

ドラマのファンだった方も、たまたまラジオを耳にした方も、

楽しく面白くバカバカしい気持ちになれる55分です!

番組では、電話で出演して誰かに「ごめんね」したいという方を

大募集中です!

★毎日お弁当を作ってくれる奥さん、「美味しかったよ」も言わず

に「ごめんね」。

★HなDVDを隠している兄貴、いつもこっそり見ちゃって「ごめんね」。

★本当は大好きアイツ、いつもケンカばかりで素直になれなくて

「ごめんね」。

…などなど。

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※番組に出演していただいた方にはあの!「ごめんねウナギ」

ステッカーをプレゼント!!

「ごめんね電話」参加希望のあなた!

是非、下記の投稿フォームから応募してください!

また、カバヤキ三太郎さんへの質問や、番組へのメッセージがありましたら

こちらからどうぞ→ sp954@tbs.co.jp

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2015/05/14

「LIVE 2014東京国際フォーラム ホールA」が第34回 平成26年度 日本照明家協会賞「努力賞」受賞

第34回 平成26年度 日本照明家協会賞  受賞者一覧表

努力賞
吉田拓郎LIVE 2014東京国際フォーラム ホールA

Doryoku

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2015/05/11

カバヤキ三太郎のラジオが復活、「ごめんね青春!」劇中番組をリアルに

カバヤキ三太郎のラジオが復活、「ごめんね青春!」劇中番組をリアルに

昨年10月から12月まで放送された宮藤官九郎脚本の連続ドラマ

「ごめんね青春!」(TBS系)の劇中ラジオ番組「カバヤキ三太郎の

ごめんね青春!」が、6月14日、TBSラジオにて実際のラジオ番組と

して放送されることがわかった。

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DJをつとめるのは、もちろん“初代カバヤキ三太郎”こと俳優の生瀬勝久。

謝りたいことをリスナーが電話で相談する人気コーナー「ごめんね電話」

では、リアルなリスナーと電話をつなげていく。「何が『ごめんね』なのかな?」

「一方的にしゃべらないでくれる?」などの名フレーズも飛び出すこと間違

いなしだ。

この番組は、「ごめんね青春!」のDVD/Blu-rayの発売(6月3日)を記念して

放送されるもの。番組構成はクドカンが手がけ、ドラマ出演者の斉藤由貴

(シスター吉井校長)や坂井真紀(どんまい先生)、さらにはあの人やこの

人も、さまざまな形で登場する予定だという。

TBSラジオHP

放送局はTBSラジオ(関東1都6県 954kHz)、放送日時は6月14日(日曜日)

23時〜23時55分。

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2015/05/10

詩集『ビートルズが教えてくれた』から生まれた森進一の「襟裳岬」

TAP the POP

詩集『ビートルズが教えてくれた』から生まれた森進一の「襟裳岬」

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2015/05/09

矢島 賢さん ロング・インタビュー 8

【 あんまり好きじゃなかったですから。“今日おもしろかったな”

っていう程度でしたね。】

Q  琵琶法師のおじいさまの影響はどこかにあったりします?

A  どっかでそういう影響を受けちゃったのかなとは思いますけど。

音楽を受け取るのが感情なんですよね。だから感情的なギターを

スタジオでも弾いていましたよ。ちょっと譜面に合わせないみたいなね。

そういうのが喜ぱれてよく呼ばれたのかもしれないですね。だから音色

が大事になってきて、必然的に機材が大事になってきて。よくスタジオ

に行くと、こっちから逆に指定しましたもんね。コンプレッサーはどれくらい、

アタックはこれくらいにしてみたいな。

Q  当時の歌謡曲には歌手の意志は入っていたんですか?

A  入っていないです。南沙織や郷ひろみ君のデビューの頃は、レコード

会社に戦略みたいのがあって、まず営業でこの子はこう売り出していこ

うっていう方向がある。その路線上で、アレンジャーやサウンドはこういう

人を集めたほうがいいっていう戦略ができていたんです。そのうちだんだ

んミュージシャンの力が強くなってきて、クロスオーバーやフュージョン

といわれる時代になってくると、もうグチャグチャになってきていました。

昔(70年代前半~中盤)のほうが、レコードを売ることに関しては戦略的

ではありました。プロデューサーも、今でいうサウンド · プロデューサー

という感じではなくて、もっと大きなプロデュース。アーティストをどう

やって育てていこうかとか、そういうような大きなビジョンでプロデュース

していたと思います。

Q  参加した楽曲がヒットした実感はあリましたか?

A  当時自分が弾いたものがヒットした実感は全然なくてね。とにかく毎日

スタジオに入っていたから、あんまリテレビも見ない。ラジオも聞かない。

音楽を聴いているのは,輸入盤屋でかかっているのを聴くくらいだった

ので、あんまりわかってなかったですね。

Q  サンプル盤は送られてこないんですか?

A  送られてこなかったですよ。送られてきたらもういっぱいたまっている

と思うんですけど。だんだん、スタジオ · ミュージシャンもジャケットにクレ

ジットされるくらいから、「この間のアルバムです」ってもらったりということ

はありましたけど、それ以前はほとんどなかったです。

Q  それについて疑問は?

A  あんまり好きじゃなかったですからね。洋楽でジミ ー ・ぺイジや

ジェフ・ベックを聴いているので「どうしてこんな演歌っぽい曲やらない

といけないの」っていう思いもあって。「ああ、終わった」って。

「今日おもしろかったな」っていう程度でしたね。

Q  愛着という感じでもなかった?

A  愛着はあんまりなかった。「おかげさまでヒットしました」って言われる

ことはありましたけど、「ああ、良かったですね。ところで何でしたっけ」

みたしいな(笑)。

Q  クレジットがないことについては?

A  過ぎたことは考えないっていうか。それよりもスタジオのセッションに

行って、ギターがいい音していたりとか、いいフレーズ弾けたりとか、そう

いうことのほうが楽しかったですね。

Q  音作りについては、矢島さんに任されていたんですか?

A  アレンジャーが指定してくるのは、歪むか歪まないか、あとはコーラス

がかかっているかっていう程度で、プレイヤーに任されていました。その

中で、当時流行っていた音色を出してくれる人が呼ばれるという感じでし

たね。「少女A」の頃だったら、スティーヴ ・ルカサーのような音色に近い

人が呼ばれるという。

Q  自分の音を出すっていう考え方はありました?

A  他の方がどうかわからないですけど、僕はいつも自分がー番いいと

思う音を出していました。だから自分ならではの音色が多かったと思い

ますよ。時代とともに音も変わってくるのでその時でー番いい音を出す

ということを、機材を追求したりしてやっていましたから。だから、こういう

感じの音って言われて音作りをしたことは、ほとんどなかったですね。

Q  音作りへのこだわりは強かった。

A  それはもちろん。

Q  大村憲司さんや鈴木茂さんなどと参加されているコンピレーション ·

アルバム「NEWYORKJ(78年)では、レス ・ポールとストラトとムスタング

を使っていますね。中ジャケに記されています。

A  ムスタングは、たぶんソロで使ったと思います。

Q  このアルバムの参加の経緯はどんな感じでした?

A  こういう企画があるんだけど、1曲作ってもらえませんかっていう

感じでした。

Q  最後に、ソロ願望はなかったんですか?

A  一応、矢島賢&ヴィジョンズで「リアライズ」を1枚やりましたけど、

あんまり強くはなかったです。スタジオの仕事がそれなりにクリエイ

ティブな作業だったので、それまでワガママな仕事の仕方をしていま

したから、「こんなのなんで俺に弾かせるの?」って言ったりとか。仕事

だからやらなきゃいけないはずなのにね(笑)。だから、それほどスト

レスもたまらずに每日楽しくやっていましたよ。

  ( 終)

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矢島さんのご冥福をお祈り致します。

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2015/05/07

5/8クミコのオールナイトニッポンGOLDにゲスト松本隆さん

Kumiko

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ニッポン放送5/8(金) 夜10時~

5/8はクミコがオールナイトニッポンGOLDに登場!

15年前に改名するきっかけとなったのは

作詞家の松本隆さん。

その松本隆さんをゲストに招いて、音楽の力について

語っていきます。

松本隆氏、クミコANNで45周年の作詞活動語る | ORICON STYLE 

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あしかがフラワーパーク

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2015/05/06

矢島 賢さん ロング・インタビュー 7

90tamujin 90年代初期 (撮影 :  田村仁 )

Q  エフェクターもいろいろ試しました?

A  エフェクター · ブックに載るほど使いました。MXRの全製品であるとか、

エレクトロ · ハーモニックスの製品もほとんど使ったり。ただ、こういう仕事

だとあまり使えないものもありましたけどね。マエストロのリングモジュレ

ーターとか。これは使えないでしょうって。とりあえず新しもの好きだった

です(笑)。

Q  フェアライトIIを導入したのは?

A  ワーナーパイオニアでソロ · アルバム「リアライズ」(82年)を作った時に、

よせばいいのにサラウンドで作っちゃったんですよ。ミックスダウンする時に、

ものすごく時間かかって。途中でもうやめてほしいって言われてやめなけれ

ばいけないほど時間かかっちゃったんですけど。これは自分の望みどおり

のことをやるならスタジオ持ってないとダメかなと思って、自分のスタジオを

持つようになったのがきっかけでした。

Q  ー番忙しい時期のスケジュールの込み具合は?

A  朝10時がー番早い時間でそのまま空きがなくて夜中の3時とか。これ、

たまにじゃなくて、そういうー日わりと多かったですよ。

Q  それが毎日続くんですか?

A  そう、毎日。だからもうなんだかわらないみたいな。いつご飯食べたら

いいのみたいな。誰のレコーディングなのかもわからない。まず本人が

来て歌わない。曲のタイトルは書いてあるんだけど、あえてこっちが追求

しないから。

Q  それは何歳ぐらいの時ですか?

A  22歳ぐらいから30歳ぐらいまではずっとそういう生活でしたね。オフは

、レコードメーカーが休みの時。8月のお盆の時と暮れくらいですか。

Q  70年代は1曲どれくらいで録っていたんですか?

A  1時間以内で録り終わっていました。

Q  初見で、1時間で録っちゃうんですよね。それも全員が。

A  そうです。必然的にそんな凝ったことはないですけどね。当然、僕らの

場合は1曲1時間ですから、アルバム1枚1日って平気でやっていました。

Q  矢島さんの世代と矢島さん以降の世代ではレコーテディング方法の

違いが大きそうですね。

A そうですね。コンソール · ルームの中に制作スタッフとスたジオ · ミュー

ジシャンがいるわけですけど、会話をすることがほとんどなかったですから。

一緒に作っているっていう感覚はほとんどなかったです。僕らのあとの時代、

今君や松原君の時代では和気あいあいで、ディレクター にしてもミュージ

シャンにしても、一緒にお茶を飲んだりだして、「こうしようよ」っていう話を決

めたりすると思うんですけど、僕たちの場合は「行って弾いてお疲れ様」って

いう。だから鍛えられたってのもあったし、そういう中で自分が歌謡曲とは

システムの違うニューミュージック関係の仕事に呼ばれていくと、和気あい

あいとしていて「こっちのほうが音楽だよね」って思ったりしていました。

そういった意味では、歌謡曲はスピードはありましたけどね。

Q  ニューミュージックのアーティストのレコーディングのほうが楽しかった

ですか?

A  楽しかったですよね。変な言い方なんですけど、ギターパートがギター

パートでいられるっていうか。さっきの1時間1曲のぺースの時だと、たぶん

これはこういうふうにギター弾いて欲しいんだけど、こういうコード進行だと

無理だよなっていうのがほとんど毎日あって。ニューミュージックのアー

ティストだと、そこはある程度理解されている部分があって、ちゃんと音楽

ができるなっていうのがありました。

  ( 続く )

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2015/05/05

矢島 賢さん ロング・インタビュー 6

Q  80年には篠塚満由美さんの「Turning Point」に井上鑑さん、

クマ原田さん、リチャード · べイリー(元ゴンザレス、ジェフ · ベック。

後にインコグニート)と参加、同じメンバーで竹下景子さんの「私の

中の女たち」(80年)にも参加しています。

A  これはたぶん、井上鑑君にそいう話が行って、当時鑑君ともよく

ー緒に仕事をしていたんで、呼ばれた感じです。行ったらドラムが

リチャード · べイリーだっていう感じだった。ベイリーは、あんまり

譜面を読めなかったから、「そこはあと4小節あるから」とか、そう

いうノリで録音していました。

Q   中森明菜さんの「少女A」(82年)もクレジットがありませんが

矢島さんですか?

A  これも僕が弾いていますね。

Q  アレンジでのギターは、書き譜が多かったですか?それとも

ほとんどアドリブですか?

A  半々くらいです。書き譜であっても、ギター・プレイヤーが書いた

譜面じゃないから、自然なフレースじゃないって変えちゃう場合も

ありますね。「少女A」の間奏はアドリブです。

Q  TOM★CATの「ふられ気分でRock’n’Roll」(84年)なんかでも

弾かれています?

A  弾いていますね。
Q  TOM★CATのバンドのメンバーは演奏していないんですか?

A  やってないですね。あとは,チエッカーズでも弾いています。

誰なのか知らずに、呼ばれて入って「ギター弾いて下さい」って言

われて。ダビングなんですけどね。6曲くらいまとめて録って,

「何なんだろうなこれは」って思って、あとでチエッカーズって

わかったんですよ(笑)。

Q  河合奈保子さんの「さよなら物語」(84年)は?

A  これもやっていますよ。マキ(夫人でキーボーディストの矢島マキ。

旧姓は田代マキ、現在は嶋マキ) がキーボードを弾いて,オケは

フェアライトで打ちこんで、ギターは僕で。ほかは誰も弾いていません。

Q  堀ちえみさんの「ジャックナイフの夏」(86年) も矢島さんのギター

ですか?

A  そうですね。80年代の初めくらいにフェアライ卜llを買って、その

あとフェアライトⅢも導入したんですよ。これはフェアライトで打ち込んで、

そのあとギターを弾いてといった作業でした。

   ( 略 )

Q  美空ひばりさんともレコーディングされたんですか?

A  やったことあります。最後のアルバム「川の流れのように

~不死烏パートⅡ~」(88年)はやっています。

Q  石川さゆりさんとの共演のきっかけは?

A  たまたま知り合いのプロデューサーがやっていたんで、

「ちょっとー回手伝ってくれ」って言われて。「できるかな俺に演歌」

って思ったんですけど、入ってみたら,あまり演歌じゃなかった(笑)。

歌が上手なのはあたり前なんですけど、エネルギーがあるんですよ。

【 朝10時から始めてそのまま夜中の3時までとか。そういうー日は

わりと多かったですよ。】

Q  年代ごとの使用ギターはどんな感じですか? テスコのあとが

ストラトですか?

A  そのあいだにモズライトがあります。

Q  アマチュアの頃ですか?

A  そうですね。アマチュアの頃に月賦で買って。たぶん64年頃かな。

出来が悪くて反っちゃってダメになって。それからES-175になったん

ですよ。とりあえず仕事にしたいと思っていたんで、ある方に話をし

たら「いろんなことをできたほうがいい」って言われて。「まずジャズだな」

って言われて、ジャズだったらこういうギターかなって思って、神田商会

に行って買ったんです。

Q  スタジオ · ミュージシャンになってからは?

A  最初がストラトですね。ストラト弾いていてボリュームをもっと出したい

と思ってハムバッキングになって。その頃からスタジオの仕事がくるよう

になって、レス · ポールになってその次にSGになったんです。SGは何本

か使いましたね。3ピックアップのものとか。しばらくしてハムバッキングの

テレキャスターのシンラインになって。あれはなかなかいい音していました

けど。それで、またレス · ポールかな。いろいろ使ってみたんですけど、

335も使ってみたし、345も。ムスタングはだいぶあとですかね。

Q  アンプについては?

A  当時は、スタジオ・レンタルのアンプなんかなかったので、全部自分

で運ぶしかなくてね。アンプを何台も運ぶわけにはいかなくて。当然持ち

運べる量も限られてしまうので、その中でなんとか自分の音を出すのが

毎日戦いでしたね。当時はツイン · リバーブ、いわゆる通常売っている

銀パネです。でも、イマイチ気に入らなくて。ブラックフェイスのほうが音

がよかったんですよ。それで、たまたま成毛滋が使っていたブラック

フェイスを譲ってもらって、それをしばらく使っていました。そのあと、

高中正義と同時期くらいにブギーを使い出しましたね。そして、

マーシャルJCM800、ブギー。フェンダーのチャンプとデラックスが

いっも車に置いてあってケース・バイ · ケースで使い分けていました。

Q  アンプを持ち込んで音作りですか?

A  うん。でも時間がなかなかなくて。ギターって、実はいい音させるの

に時間がかかるので。マイクの角度とかもね。スタジオの仕事では、

それとの戦いでした。

Q  譜面を咀嚼する時間と音色を作る時間が必要だった。

A  そうですね。それを瞬時にやれないとね。あとでゆっくリダビング

っていう状況ではなかったですから。とりあえずその場で、完璧にで

きないといけないというのがあったんで。

Q  時代ごとに新しい機材がいろいろ出てきましたが、その都度興味

を持ちました?

A  「Guitar Player」って雑誌を、時どき輸入本員に行って買ったんで

すけど、だんだん機材を紹介するべージが増えてきて、よくチェック

していたんですよ。今はなくなったけど、渋谷にヤマハがあって、

そこで載っていた機材を見かけると買って、そのままその日の

セッションで使うことも多かったです。

  ( 続く )

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矢島 賢さん ロング・インタビュー 5

Q  ところで、アリスでも弾かれていましたよね。

A  あの頃はアリスが流行っていましたね。「遠くで汽笛を聞きながら」は

僕が弾いています。ツアーもやったりしました。

Q  ツアーに出たのはアリス以外では?

A  吉田拓郎、長渕剛ですかね。

95ya_2 95年

Q  杉田二部さんのッアーもやられていたようです。

A  ああ,やりました。あと、チャゲ&飛鳥は、田園コロシアムでのライブ

をやったことがありますけど。

Q  沢田研二さんの「思い切リ気障な人生」(77年) では、水谷さんと

ー緒に参加されていますね。

A  参加したのは覚えているんですけど、たぶん、あんまリ弾いてない

と思うんですよ。ジュリーは(井上) 堯之さんが多かったと思います。

あとは、もしかすると松木恒秀君がやっているかもしれない。沢田研二

さんの曲で、東海林修さんがアレンジをしてぃる曲は、わりと松木君

がギターを弾いていたことが多かった気がします。

Q  山口百惠さんの「ロックンロール · ウィドウ」(80 年)は矢島さんで

すね。また、クレジットはないですが、「プレイバックpart2」も矢島さん

ですよね?

A  はい、そうです。この頃だったら、僕か芳野藤丸君がよく弾いて

いました。

Q  その頃の機材は?

A  ラインが流行リ始めの時もあったんですけど、「ロックンロール ·

ウィドウ」が収録されているアルバム「メビウス · ゲームj(80年)に関

しては全部ライン録りなんですよ。グルーヴチューブが出していた

プリアンプと、ダン · アームストロングのコンプと、ボスのディストー

ション · OD-1でほとんど作っていました。

Q  ほとんどエフェクターは使わなかったんですか?

A  そうですね。ほとんどアンプに近い状況でした。

Q  ギターは当時はレス · ポールですか?

A  59年のレス · ポールですね。

Q  「ロックンロール · ウィドウ」も59年で弾いている珂能性はあります?

A  あったかもしれないですね。でも今は手放してしまってもうないです、

なんか音が枯れすぎちゃってダメになっちゃった。

Q  スタジオで活躍したギターはそのギターが多いですか?

A  ですね。
Q  今、59年レス · ポールって致千万円のものもあると言われてい

ますよ。

A  えっ、そ人なになっちゃったんですか。初めてニューヨークに行った

時にちょうどレッド · ツェッペリンが流行リ始めの頃で。ニューヨークの

楽器屋でレス · ポールの58年かな。それが置いてあって、2,000ドル

(当時72万円)でしたけどね、その時は(笑)。

Q  キャノンボールの頃からストラトはあまり使わなかったんですか?

A  使うこともありましたけれども、なかなか当たりのストラトに出会う

ことがなくて。本当にシングルコイルの音が欲しい時に使っていたくら

いで、あえて思い出のあるストラトっていうのがないですね。ハムバッ

キングのほうが愛着がありました。

Q  レス · ポールは何本くらいお持ちだったんですか?

A  当時はいっぱいありましたよ。いいコンディションのものが欲しいって

いうので、探していくうちに手元に4本5本集まってくる。そんな感じでした

ね。使うのはー本でしたけどね。

Q  チャゲ&飛鳥のデビューシングル「ひとり咲き」(78年)も矢島さんですか?
A  あれは藤丸くんです。名ソロですよね。

Q  同じ時代のスタジオ · ギタリスト同士だと音が似てくることがあ

るんですかね。

A  機材も似た機材というか、いいものを選んでいくとそこにいっちゃう

っていうこともあるし,聴いてる音楽も似たものを聴いているみたいな。

ある程度近くなることはあったと思います。

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2015/05/03

矢島 賢さんロング・インタビュー 4

Q  郷ひろみさんではどの曲に参加されたんですか?

A 彼のデビュー曲の「男の子女の子」(72年)とか。たぶん僕が仕事で

弾いて,初めてヒットした曲です。

Q  ひろみさんがカバーしたゲイリー · ムーアの「パリの散歩道」の日本

語バージョンの「愛しい他人」(83年)のギターも矢島さんですか?

A  それも僕がやっています。

Q  筒美京平さんの作曲した曲では、よく弾かれていました。

A  よく呼ぱれていましたね。僕以外には,水谷(公生)さんも呼ばていま

した。あと、ちょっと時代がたつと、今剛や松原正樹が呼ばれるように

なったんだと思います。

Q  京平さん以外でよくお仕事されたアレンジャーは?

A  船山基紀さんや萩田光雄さんとの仕事も多かったです。

Q  スタジオ · ワークの初期には、ジャズ · ドラマーの石川晶さんの石川

晶&カウントバッフローズにも参加されていましたね。

A  はい、いました。僕の前に水谷公生さんがいて。カウントバッファローズ

という名前になったのはもしかしたら僕が入ったくらいからかもしれません。

その前は、ゲンチャーズといっていて、そのころ水谷さんがやっていて、

彼のスタジオ · ワークが忙しくなっちゃったので僕にバトンタッチして。

それで、カウントバッファローズにもしばらく参加していました。

Q  その後、柳田ヒロ · グループに参加されて、吉田拓郎(当時:よしだたくろう)

さんのバックなどをやります。

A  柳田ヒロと、チト河内と、後藤次利と僕ですね。拓郎は「伽草子」(73年)

や「今はまだ人生を語らず(74年)なんかでギター弾いていますね。

Q  ガロの「GARO LIVE(73年)でも、柳田ヒロ · グループでやられて

いますね。

A  あの頃は六本木の香み屋かなんかでみんな騒いでいて。キャンティ

とかブレッドとかあったんですけど,「今度ライブやるんだけど来て」みたい

な感じで呼ばれました(笑)。当時は今のように理路整然として仕事になって

いるわけじゃなくて、呑んでいて盛リ上がって仕事になっちゃうのが多

かったです。

Q  ガロでは、トミー(日高富明)さんも,マーク(堀内護)さんもリード · ギター

を弾いていましたが、ギターの弾き分けはどうなっていたんですか?

A  あの頃はいい加減だから<全員で弾いちゃうみたいな(笑)。あとでなん

とかしてみたいな感じでした。

Q  70年中盤頃からは野口五郎さんのバックも担当されましたが、

きっかけは?

A  ある日本人とマネージャーから電話がかかってきて、六本木かなんか

の中華料理屋に呼ばれて、「バックをやっていただきたいんですけど」って

話があって。歌謡曲の仕事の仕方を当時は「巡業」と言っていましたから、

「えっ、巡業に出るんですか」って。「ちょっと待ってください」って言ったん

ですけど、押し切られてしまって(笑)。彼もギターが好きなので、僕の

ギターを気に入ってくれていたみたいで。

Q  いつ頃からですか?

A  「針葉樹」(76年)の3年くらい前かなと思うんですけど ·  ·  · 。

Q  バック · バンドのGORO SPECIAL BANDとしてもアルバムを1枚

(「GORO SPECIAL BAND」(79年)リリースしていますが、バック · バンド

がリリースするのは珍しいですよね。

A  これはね,五郎君がドラム叩きたくてしょうがなかったんですよ(笑)

(ギターとドラムで野口五郎も演奏)。この頃は京平さんの弟さんの

渡辺有三さんががディレクターだったんです。

(続く)

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2015/05/02

吉田拓郎×岡本おさみ対談 後編・ 新譜ジャーナル1984年7月号

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吉田拓郎×岡本おさみ対談 後編・ 新譜ジャーナル1984年7月号

吉田拓郎・岡本おさみの対談の第2回をお送りします。前回では吉田拓郎の"自己に徹底的に根ざし、小手先を排した姿勢"と、岡本おさみの"個人のスピリットを歌に注ぎこみたいという願い、そして そのための方法"が、お互いに、会話に妥協を排した分、明確に伝わったのではないかと思う。もちろん同時に、ひとりの人間としての精神風土が、ふたり共かなり近 いということも。
2回目の今月は、酒も進み、かなりリラックスした会話をお楽しみいただけると思います。最後には, 拓郎からかなり興味深い提案も出て・・・。(この対談は、ぜひ前号の第1回目から続けてお読み下さい)   撮影 磯田守人 協力 原宿フレンチ・クォーター SJはシンプジャーナル編集者

<個人に徹する>いうこと
岡本 次のアルバムはいつごろ?
吉田 夏だな。8月か9月、ま、オレのことだからどうなるか判んないけどさ(笑)。(1984.11.21 アルバム「FOREVER YOUNG」発売)
岡本 次もまたキー(鍵)はプライベートなこ とになるわけ? そこらへん、シンプジャーナルとしても聞いておきたいんじゃないか? (笑)
吉田  "次もまた"って言われるとキツイけどさ(笑) またそうなると思う。絶対自分を裏切りたくないから、そうなるね。もうその予想はできてるもん。作品はできてないけどさ (笑) 。
岡本 具体的には?
吉田 だから・・・やっぱり・・・何つうの、"他人は関係ない、ボクはボク"っ言うしかないよな "ボクの人生なんだから、放っておいてくれ"と。
SJ でも、僕達みたいな職業とか、立場に居て、周りを見ていると"他人のことは知らん"と、"オレはオレ!"つて生きていたり、 作品を作っている人が、他人にとっていちばんメッセージになっている、そんな感じがしますね。僕達より若い世代ー一 15才とか、16 17の、いわゆるティーン・エイジャーの人達 にとって。それは、 "歌"というジャンルに限らず、あらゆる分野で。
岡本 そうかな。
SJ ええ。で、その"自分のこと"っていうのが、以前のフォークの"私小説的なもの"とはかなり違う、高いレベルに来ているような気がするんですけど。
岡本 確かに面白い人は、いっぱいいるね。
吉田 居るはずだよね。居なきゃおかしい。 次々と子供が生まれてきてさ、好きでも嫌いでも僕らがうたってきた歌を一応は耳にしているはずじゃない?その中からワシャ嫌いとかオレは好き"とか言いながら、音楽めざすやつ、やっぱり居るわな。その中にはいろんなやつがいると思う。本当にそれこそ群雄割拠になると思うし、裏返せば自然陶汰もあるけどさ(笑)。ただ、ひとつの方向にだけは向かって欲しくないっていうのは、あるな。
岡本 それは絶対そうだね。
吉田 それだと、"戦争いこう!"になっちゃうからさ。そりゃまずい、と。気持ち悪いよな。そういうの、一時、3~4年前かな、ちょっと気持ち悪い方向に行きかけたかな、と 思ったことあったよね。おこがましいけどさ、自負心として、オレなんか一生懸命やってきたわりには、なんか違う方向行ってるなあ、と。その"違う方向"っていうのは、自分の好きな方向とか関係なくね。なんか全員がひとつの方向に向かおうとしてんじゃないかな、 とか、思ったね。
岡本 雑誌が悪いとこもあるよな(笑) 。
吉田 そういう方向にし向けたりするからな (笑)。
SJ 大丈夫、心は痛まない(笑)。
岡本 心は痛まない? (笑)。
吉田 まあ、雑誌によって性格あるからな。 シンプジャーナルは特にある(笑)。
SJ ただ、最近その、"ひとつの方向に走る気持ち悪さ"に近いニュアンスの印象を受けることがあるんですけど、最近やけに "ブルース・スプリングスティーンの詞"が多いような気がするんですが、特に新人の人達に。
岡本 それらしい影響を受けた人ね。

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SJ ええ。例えばスプリングスティーンの歌詞を三浦久さん(注:幾つかの大学で教鞭をとる傍ら、自らもシンガー・ソング・ライターとしてレコードを出している)が訳してらっしゃる。そんな感じの、文体も英語を日本語に訳したような感じで・・・。 岡本 うん、それはあるかもしれない。
SJ なんか、つまらないし、そういうのって不幸だと思う。
吉田 不幸かな・・・、それは判んないぞ。
岡本 まあ、そういうのっていつの時代にもあることはあるよね。ただ、余りにも一辺倒っていう感じはあるかな。 昔のディレクターってすごい面白くてさ、打ち合わせでも自分の好きなこと、やりたいことばっかり言ってたわけ。でも今は打ち合わせでまずウンザリするのが、最近のディレクターはすぐ「 "あれ風の感じ"でいきたいんですけど・・・」。自分の言葉で言わないんだな。
SJ なるほど。
吉田 とにかくみんな好きなようにやればいいんだよ。あっちこっちながめたり、流行りのファッションとか気にしないでさ。
SJ 本当にそう思いますね。で、さっき話した"スプリングスティーン風"は別にしても、確かにすごい個性的な、自分自身に徹した人達がこのところすごくたくさん出てきてくれて、そういう意味では僕達もこの本を作っててすごい楽しくなってきていますね。岡本さんのおっしゃるように。

<ワカメ>と<金字塔>

吉田 そう言えば何か書いてたね、岡本っちゃん。オレ、読んだぜ、新譜ジャーナルで。 なんか、"訣別の・・・" 冷たいことを(笑)。 (注:岡本氏の本誌連載エッセイ「うたのことばが聴こえてくる」の第9回 ('82年9月号) 吉田拓郎へ向けての「また会おうぜ、あばよ」 のこと)
岡本 あ、あれな(笑)。いや、あれを書いたから、今日、会いたかったわけよ(笑)。
吉田  "吉田拓郎はどこへ行くんだろう…" って。オレのことは放っといてくれって(笑)。
岡本 それともうひとつはさ、オレと拓郎が3日に1回は会ってると思ってるやつが、まだゴマンと居るらしいんだよな。
吉田 ああ、なるほどね。シンプジャーナルの世界だな。(SJに) オマエが悪いんだ(笑)。 オレと岡本っちゃんの関係ってのはさ、まずワカメ・・・・・。
岡本 ワカメの関係なんだよな(笑)。
SJ 何ですかそれ?
吉田 あのねー、ワカメがあんの。味噌汁に入れるワカメがあんだろ? あれじゃなくて、板ワカメっつってさ、ノリみたいので干してあるのがあんの。それをあったかいメシにかけてさ、うまいんだ、これが!岡本っちゃんのカミさんがね、それの地元なの。
岡本 いや、オレも地元だよ。
吉田あ、そっか。両方地元。で、それを昔送ってくれたんだ。最近、印税が入んないのか"訣別"されたからか、送ってくんねえんだ(笑)。
岡本 いや、復活させる(笑)。
吉田 あと、1こあんのはね。岡本おさみっていう作詞家……で、いいのかい? とりあえずは。
岡本 とりあえずはね。
吉田 岡本おさみっていうのは、シャイでね、すごいシャイ。要するに寡黙なんだ。いや、だったんだ。ところが今日会ったら、すごい饒舌じゃない(笑)。
岡本 最近全然寡黙じゃない(笑)。
吉田 ね。昔は寡黙だった!
岡本 そりゃ5年前だよ。
吉田 いや、10何年前から。「バイタリス・フ オーク・ビレッジ」の頃から。岡本っちゃんが台本書いてたんだから。
岡本 だってあの頃は、しゃべれる時代じゃないもん。
吉田 黙ーって書いてきて、渡すの。それからね、岡本っちゃんとオレの関係の中で、『ライヴ'73』っていうのがあるんだな。
SJ ええ。「落陽」が入ってるLP。
吉田 これはもうねえ、誰が何て言ってもね、 '73年だからね。あんな時代にあんなライヴできないから。あそこに参加した高中(正義) とかみんな、ホンットにね、自分のMY FAVORITE LPとして持ってるもん、大事にして。 田中清司とか、みんな持ってるわけ。あのライヴは最高だね。オレも持ってるけど、メロディーと詞が全部うまくいってるね、あれはもう、オレと岡本っちゃんとの最高の作品だね。
岡本 あれは、ぶっつけだったんじゃないかい?
吉田 ぶっつけ。
岡本 あれ、よく覚えてんだけど、何やるかっていうのがギリギリまで決まんなくてさ、あの曲はあの時あそこで初めて披露したんだよな。
吉田 そう。でもあのLPみんな好きだな。 今聴いても、悪くない。今だったら、やるじゃない? かぶせたり、ボーカルだけ変えたり。あれ、あのままだかんな。
岡本 あれ、一発で歌って、一発で録ったんだよな。
吉田 2日やったけどね。一日目、オレ、瀬尾(一三)と大ゲンカして、アレンジ変えて2日目を録ったんだけど、今でもみんな最高だって言ってくるね。特にミュージシャンが言ってる。
でね、オレ話ししたいのはこれだけね。岡本おさみの詞ってね、オレにとって、あの…つまり "リズム感"が無いのね。あの時代だから。あの時代、リズム感いらないから。いいたい放題、オレも、作りたい放題。でも、今は、時代が変わってるね、そうはいかなくなったんだよな、また。昔へ戻ってんの、本当は。で、松本隆のリズム感て、やっぱりす ごいわけよ、ドラムやってるからね。言葉が弾んでるわけ、リズムがあるわけ。きっとメロディー作るやつがね、詞を与えられると 「あ、こんなテンポ」って、なっちゃうのね。 でも、岡本っちゃんの詞は、全然なかったの。 ホント、さっき言った"書きなぐり"だったの。 で、それを歌にするのは大変だったんだけど、あの時代は、それが大変じゃなくて、そのことをたたみこんで歌っちゃった方がいいと。 そういう時代だったのね。だから、おこがましいけど"一時代を築いた"よね、オレは岡本っちゃんと。間違いなく。あの後、74年とか75年とか、岡本っちゃんが詞書いて、いろんな人がうたったよ。だけど、やっぱり駄目だったね、悪いけど。それは、作品が駄目っていうんじゃなくて、もっと他にも、例えば営業的にもね。オレはものすごい"金字塔" 立てたと思ってるもん。
岡本 それはそうだね。
吉田 日本の音楽少し変わったと思ってるもん、オレは。 "はっぴいえんど"から、オレと岡本おさみでまた少し変わったと思ってる。 だから、そん時はね、岡本っちゃんの詞に、リズム感を感じなかったわけ。ただ、その言葉に、もう、ホレたと。その頃オレも、自分のメロディーに、何ていうの、いわゆる自信無かったし。だから、ワッと書きなぐり、作りなぐりだった。だけど、時代が経ってくるに従ってね、やっぱり "こさえる"っていう作業が入ってきた時にね、駄目だったっていうね。岡本っちゃんの詞って、つまり・・・爆発力は、すごいあるんだ。でも、リズミカルじゃなかったのね、言葉が。
岡本 オレが書いたやつって、結局全部うたったの? ボツにしたのもある?
吉田 あるよ。「家族」。でも「家族」もライヴではうたったしね。マスコミのやつで、あれ聴いて泣いたやつもいる。あと、長いの。 それぐらいだよ、ボツは。
岡本 あの頃は大体、郵便で送るわけだよな。
吉田 そう。あの頃はって、ずっとあれだったけどさ(笑)。
岡本 そうか(笑)。
吉田  大体、岡本っちゃんのは曲つけにくかった。ところが、オレも昔はうたい放題だったからうたえたけどね、ところが今は、つけにくいね、自分以外の言葉で"いいたい放題" やられると。
岡本 でも、最近のオレの詞は、すごい(曲を)つけ易いって言うよ。
吉田  (すかさず)らしいね(笑)、それが判んねえ、オレ(笑)。
岡本 それはさ、こういうことをやってんの、真相を言うと。歌詞書くじゃない? 100行なら100行。で、それを削っていって、大まかな詞のカタチにするわけ。詞先行の場合は ね。今、半分以上、メロディー先行だから。
吉田 メロ先でやってんの? すごいねえ。
岡本 だけど、やり方が違ってさ、メロディーが来たからって、それに合わせるんじゃなくて、感じだけ頭に入れといてーーメロディ覚えないでねーー歌詞をバーって書くの。書きたいものを全部書いた上で、それから曲と付け合わせるわけ。
吉田 いやー、岡本おさみがメロ先も、って いうのは・・・信じられないね(笑)。
岡本 だろ? 宇崎竜童も、そう言ってた。 だけど今、半分以上そうだね。最近は、詞先でも配慮してると思うんだけど、例えば外国の曲とか、歌詞判んないんだけど、メロディーだけはなんとなく頭にあんの。でさ、歌詞書いていくじゃない? もちろんその時はメロディー無いんだけど、「あ、このメロディーに合わせて歌詞を整えよう」と。「メロディー付ける人は簡単だろうな」って、その辺の配慮は昔とは雲泥の違いよ。
吉田 雲泥の違い! 大人になったね、大人に!(笑) 失礼なこと言ってる(笑)。
岡本 いや、音楽が好きになったんだよ(笑)。 遅れて音楽を好きになったんだよな。オモシくて仕方が無いもん。体が3つあったら、やることいっぱいあるのになって、思うね。
吉田 面倒臭くなさそうだもんな。オレもう、他人のこと面倒臭くて(笑)。
岡本 全然。あれもやりたい、これもやりたい、だけど身はひとつ、だな。例えば、来月の終りまで20いくつ書くとしたら、そうしたら他のことはやれないよな。だけど、長い物も書きたい、とかさ。
吉田 岡本っちゃんこそ、小説書いてみればいいんだよ。
岡本 ウン。それも思うんだけどさ、やっぱり"歌"がオモシロイしさ。
吉田 小僧相手にしてもしょうがねえぜ(笑)。
岡本 それはもちろんそうだけどね。
吉田 小僧は小僧でやっていくって、自分でなんとか。岡本っちゃんはもっと"自分"を さあ・・・。
岡本 今思えば、昔は本気で"歌"にホレてるって感じじゃなかったんだな。10年なら10年、ホントに本気でやったのは、ほんの2~3人だしさ。今、ホントに楽しいんだよな。
吉田 楽しい?
岡本 ホントに。
吉田  "遅れてきたオッサンだな(笑)。
岡本 だから、植草甚一とか、すごいホレルわけ(笑)。あと、冒険小説にも凝ってるわけ。
吉田 ン? (とぼけて) ゲートボールに凝ってる!?
岡本 冒険小説だよ(笑)。
吉田 ビックリした(笑)。(岡本氏の顔を見て) あ、呆きれてんな「こいつまた、バカな……って (笑)。

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<映画>

吉田 ねえ、岡本っちゃんが最近作った詞でさ、いちばんオレが納得するっていう詞、何?誰に書いた詞? 岡本 何だろうねえ・・・。オレがさ、例えば今拓郎に書いてうたったらオモシロイなっていう、そういうこと?
吉田 というか、既成の作品の中で。オレと別れてからので。"別れさから!"(笑)。
岡本  (笑)でもさ、拓郎と別れてからでも、400近く書いてるからな。
吉田 その中でもこれが自信あるっていうの。
岡本 自信があるっていうか、願望として、 今、拓郎がうたったらオモシロイナっていうのは、ある。
吉田 誰かうたってんの?
岡本 葛城ユキがうたってる。「ダウン・タウン・ドリーム」っていうのがあるんだ。
吉田 それ、LPに入ってんの?
岡本 うん、こういう歌詞なんだ。
♪ヘッド・ライトが流れる街に
酒を 浴びせ 酔いどれている
  男の夢はどこに住む
  さまよう ダウン・タウン・ドリーム

  胸の中に埋めたサキソフォン
  傷跡が吹く悲しいメロディー
  男は男にこだわっていてよ
  ダウン・タウン・ドリーム
こういう言司なんだ。
吉田 盗作だ(笑) !"男は男にこだわっていて"、オレのうたってることの盗作だ(笑) 。
岡本 (笑)いや、オレは去年からさ、北方謙三っていう作家がすごい好きだったのね。
吉田 ああ。
岡本 もう、熱狂的に好きだったから、彼に贈る歌を作りたいと思ったわけ、ファンとして。ただそれだけのことなんだけどね。でもその中で思ったことはさ、北方さんは男が男にこだわっている主人公、男が男にこ だわっている作品を、一貫として書いてきている人だと思うわけ。で、オレの"今"の中にはさ、そういうことが"作品"だって思っているわけだよ。さっき話したみたいに。
吉田 あなたがね。
岡本 ウン、僕が。そういう主人公を生み出すことが、何かを伝えられる唯一の方法だと思っているからね。 吉田 ああ、そうか。
岡本 今までだったら誰かに贈る歌を作るなんてことは、考えられないわけよ。だけど今は簡単に書けちゃう。その事がドキドキしちゃうわけ。その主人公を好きで好きでしょうがないから。
吉田 岡本っちゃん、映画を作らないかい?
岡本 いいねえ! だから今、歌をつくる、いいね、映画もいい、小説も、いいね、だからさ。

(終)

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矢島 賢さんロングインタビュー 3

【長渕剛はー緒にやっていておもしろかった。こっちが全開でギターを

弾いても負けないから。】

Q スタジオ · ワークとして、矢島さんのクレジットのあるー番古いレコードは

井上陽水が72年にリリースした「陽水IIセンチメンタル」ですが、それ以前で

参加していた作品はありますか?

A 天地真理(71年デビュー)、南沙織(71年デビュー)、郷ひろみ(72年デビュー)、

桜田淳子(73 年デビュー)はその前でしたっけ。その辺でも実はギターを弾いて

いるんですよ。あと、ドリフやっていましたよ。「8時だョ!全員集合」のステージで。

キャノンボールを作ったんだけど、最初はそんなに忙しくないわけですよ。

それでたまたま新音楽会っていう会社があって、そこから行ってくんない?って

言われて、週にー回行っていました。

Q 岡本章生とゲイスターズ(「8時だョ!全員集合」の専属バンドで、日本の5大

ビッグ · バンドのひとつ)のメンバーだったんですか?

A メンバーではなくて、サポート参加のような感じでしたね。

Q 南沙織さんはいっ頃からやりましたか?

A 最初の頃からやっていたと思うんですけど、「傷つく世代」(73年)は、

エリック · クラプトン(デレク · アンド · ザ · ドミノス)の「いとしのレイラ」だなと

思って弾いた記憶があります。当時のアレンジャーや作曲家も洋楽をもち

ろん聰いていて、僕らもやっぱり洋楽を聰いていて。弾いていると、「ああ,

あの曲にインスパイアされたな」とかなんとなくわかるんですよ。似たよう

なものを聴いているけだから。当時アメリカで流行っている音楽や機材を、

日本の音楽産業全体が追い求めていた時代だったんで。なので、よりそう

いう流行に対応できるミュージシャンがスタジオに呼ばれる機会が多かった

んだと思います。

(続く)

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2015/05/01

そらまめさんの広島フォーク村「新しい海へ」そらまめの部屋5/1更新

そらまめさんの広島フォーク村「新しい海へ」そらまめの部屋5/1更新

ついに一年遅れが恒例になってしまいました!

またまたまた昨年のフラワーレポートですよ!

「ひろしまフラワーフェスティバルと第二回吉田拓郎展」

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矢島 賢さんロングインタビュー2

矢島 賢さんロングインタビュー 2

Q 最初はカントリーのギタリストを目指していたんですか?

A ローディになる時に野口さんとひとつ約束があって、「何も教えないよ」

って言う。「知りたけれぱ自分で勉強しなさいよ」っていうスタンスだったん

ですよ。幸い、僕あんまリカントリー好きじゃなかったんで(笑)。たまたま

いろいろな出会いの中で野口さんと出合って、彼の口一ディになることに

なったので、もともとカントリーのギタリストを目指してということではなかっ

たです。

Q キャノンボール時代には、シングル「夜の紋章のなかで」(71年)をリリース

していますが、キャンプ回りがおもな仕事だったんですね。

A そうですね。一応レコード出しているんですけど、それは縁起ものみた

いで、ちゃんとやってなかったというか(笑)。やっぱりベースキャンプの

演奏のほうが主だったんです。北は稚内の最先端のキャンプでやったり

とか、岩国でやったりとか、もちろん立川とか。戦争が多かったので、全盛

でしたからね。それで、バンドでいろんなキャンプを回っていたんですけど、

将校クラブっていうのがあって,そこは男だけだとよくなくて。じゃあ,ゲスト ·

ボーカルを頼もうっていうので五輪真弓さんにお願いして歌ってもらってい

ました。だから本当にいろんなものやりましたよ。R&B、カントリー、もちろん

ジミへンとかあの辺もやりましたね。だから、そこではすごくいい勉強にな

りましたよ。

Q キャノンボールからスタジオ・ワークへ移行したきっかけは?

A 野口さんのローディをやっていた時に、もう業界の中にいましたから。

その時に、コーディネーターや、メーカーのディレクターに知リ合いが自然

とできたんです。その時に譜面が読めたほうがいいっていうアドバイスを

もらって、とにかく必死になって譜面を勉強しました。なので、キャノンボー

ルの時にはもう譜面が読めたんですよ。それで「譜面も読めるんならスタ

ジオやらないか」って声かけてもらって。

Q 自然とバンドからスタジオ · ワークへ移行したと。

A そうです。でも、当時のスタジオ · ミュージシャンって、自分たちがやりた

いこととは違うというか、みんなあまりやりたがっていなかったんですよ。

でも行くとお金がもらえて、好きなアンプやエフェクターを買ったりできる

んで(笑)。半分嫌だけど、半分好きなことにお金をつぎ込めるからって

スタートした感じです。

Q 一番初めのスタジオ · ワークは覚えていますか?

A どこのメーカーか覚えてないんですけど、着物のメーカーのコマー

シャルだった記憶がありますね。なんで自分が呼ばれるのかわからな

いけど,「とにかく音を歪ませて下さい」って言われてね。「着物なのに

なんだろうな」って思いながらやったのが一番初めての仕事でした。

なんだかよくわかんないですけど(笑)。

Q その当時使ってぃたギターやアンプは何ですか?

A ストラトと、ビンテージじゃなかったけどレス · ポールを使っていました。

アンプはツイン · リバーブでしたね。ツイン · リバーブはツマミ全開でも音

が小さかったので、本当はマーシャルが欲しかったんですけど、当時は

高くてね(笑)。当時で45万円くらいしていましたから。とても手が出なくて、

仕方がないからツイン・リバーブに、エクステンションのスピーカー付けて、

ツマミはとにかくフルテンみたいな感じで弾いていました。レス・ポールを

使うことが多くなるんですが、音色うんぬんよりも、ストラトだとシングル

コイルなのでどうしてもパワーがないじゃないですか。ハムバッキング

のほうが音が大きいからみたいな理由でギターを選んでました。

(続く)

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