矢島 賢さん ロング・インタビュー 7
90年代初期 (撮影 : 田村仁 )
Q エフェクターもいろいろ試しました?
A エフェクター · ブックに載るほど使いました。MXRの全製品であるとか、
エレクトロ · ハーモニックスの製品もほとんど使ったり。ただ、こういう仕事
だとあまり使えないものもありましたけどね。マエストロのリングモジュレ
ーターとか。これは使えないでしょうって。とりあえず新しもの好きだった
です(笑)。
Q フェアライトIIを導入したのは?
A ワーナーパイオニアでソロ · アルバム「リアライズ」(82年)を作った時に、
よせばいいのにサラウンドで作っちゃったんですよ。ミックスダウンする時に、
ものすごく時間かかって。途中でもうやめてほしいって言われてやめなけれ
ばいけないほど時間かかっちゃったんですけど。これは自分の望みどおり
のことをやるならスタジオ持ってないとダメかなと思って、自分のスタジオを
持つようになったのがきっかけでした。
Q ー番忙しい時期のスケジュールの込み具合は?
A 朝10時がー番早い時間でそのまま空きがなくて夜中の3時とか。これ、
たまにじゃなくて、そういうー日わりと多かったですよ。
Q それが毎日続くんですか?
A そう、毎日。だからもうなんだかわらないみたいな。いつご飯食べたら
いいのみたいな。誰のレコーディングなのかもわからない。まず本人が
来て歌わない。曲のタイトルは書いてあるんだけど、あえてこっちが追求
しないから。
Q それは何歳ぐらいの時ですか?
A 22歳ぐらいから30歳ぐらいまではずっとそういう生活でしたね。オフは
、レコードメーカーが休みの時。8月のお盆の時と暮れくらいですか。
Q 70年代は1曲どれくらいで録っていたんですか?
A 1時間以内で録り終わっていました。
Q 初見で、1時間で録っちゃうんですよね。それも全員が。
A そうです。必然的にそんな凝ったことはないですけどね。当然、僕らの
場合は1曲1時間ですから、アルバム1枚1日って平気でやっていました。
Q 矢島さんの世代と矢島さん以降の世代ではレコーテディング方法の
違いが大きそうですね。
A そうですね。コンソール · ルームの中に制作スタッフとスたジオ · ミュー
ジシャンがいるわけですけど、会話をすることがほとんどなかったですから。
一緒に作っているっていう感覚はほとんどなかったです。僕らのあとの時代、
今君や松原君の時代では和気あいあいで、ディレクター にしてもミュージ
シャンにしても、一緒にお茶を飲んだりだして、「こうしようよ」っていう話を決
めたりすると思うんですけど、僕たちの場合は「行って弾いてお疲れ様」って
いう。だから鍛えられたってのもあったし、そういう中で自分が歌謡曲とは
システムの違うニューミュージック関係の仕事に呼ばれていくと、和気あい
あいとしていて「こっちのほうが音楽だよね」って思ったりしていました。
そういった意味では、歌謡曲はスピードはありましたけどね。
Q ニューミュージックのアーティストのレコーディングのほうが楽しかった
ですか?
A 楽しかったですよね。変な言い方なんですけど、ギターパートがギター
パートでいられるっていうか。さっきの1時間1曲のぺースの時だと、たぶん
これはこういうふうにギター弾いて欲しいんだけど、こういうコード進行だと
無理だよなっていうのがほとんど毎日あって。ニューミュージックのアー
ティストだと、そこはある程度理解されている部分があって、ちゃんと音楽
ができるなっていうのがありました。
( 続く )
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