矢島 賢さんロング・インタビュー 4
Q 郷ひろみさんではどの曲に参加されたんですか?
A 彼のデビュー曲の「男の子女の子」(72年)とか。たぶん僕が仕事で
弾いて,初めてヒットした曲です。
Q ひろみさんがカバーしたゲイリー · ムーアの「パリの散歩道」の日本
語バージョンの「愛しい他人」(83年)のギターも矢島さんですか?
A それも僕がやっています。
Q 筒美京平さんの作曲した曲では、よく弾かれていました。
A よく呼ぱれていましたね。僕以外には,水谷(公生)さんも呼ばていま
した。あと、ちょっと時代がたつと、今剛や松原正樹が呼ばれるように
なったんだと思います。
Q 京平さん以外でよくお仕事されたアレンジャーは?
A 船山基紀さんや萩田光雄さんとの仕事も多かったです。
Q スタジオ · ワークの初期には、ジャズ · ドラマーの石川晶さんの石川
晶&カウントバッフローズにも参加されていましたね。
A はい、いました。僕の前に水谷公生さんがいて。カウントバッファローズ
という名前になったのはもしかしたら僕が入ったくらいからかもしれません。
その前は、ゲンチャーズといっていて、そのころ水谷さんがやっていて、
彼のスタジオ · ワークが忙しくなっちゃったので僕にバトンタッチして。
それで、カウントバッファローズにもしばらく参加していました。
Q その後、柳田ヒロ · グループに参加されて、吉田拓郎(当時:よしだたくろう)
さんのバックなどをやります。
A 柳田ヒロと、チト河内と、後藤次利と僕ですね。拓郎は「伽草子」(73年)
や「今はまだ人生を語らず(74年)なんかでギター弾いていますね。
Q ガロの「GARO LIVE(73年)でも、柳田ヒロ · グループでやられて
いますね。
A あの頃は六本木の香み屋かなんかでみんな騒いでいて。キャンティ
とかブレッドとかあったんですけど,「今度ライブやるんだけど来て」みたい
な感じで呼ばれました(笑)。当時は今のように理路整然として仕事になって
いるわけじゃなくて、呑んでいて盛リ上がって仕事になっちゃうのが多
かったです。
Q ガロでは、トミー(日高富明)さんも,マーク(堀内護)さんもリード · ギター
を弾いていましたが、ギターの弾き分けはどうなっていたんですか?
A あの頃はいい加減だから<全員で弾いちゃうみたいな(笑)。あとでなん
とかしてみたいな感じでした。
Q 70年中盤頃からは野口五郎さんのバックも担当されましたが、
きっかけは?
A ある日本人とマネージャーから電話がかかってきて、六本木かなんか
の中華料理屋に呼ばれて、「バックをやっていただきたいんですけど」って
話があって。歌謡曲の仕事の仕方を当時は「巡業」と言っていましたから、
「えっ、巡業に出るんですか」って。「ちょっと待ってください」って言ったん
ですけど、押し切られてしまって(笑)。彼もギターが好きなので、僕の
ギターを気に入ってくれていたみたいで。
Q いつ頃からですか?
A 「針葉樹」(76年)の3年くらい前かなと思うんですけど · · · 。
Q バック · バンドのGORO SPECIAL BANDとしてもアルバムを1枚
(「GORO SPECIAL BAND」(79年)リリースしていますが、バック · バンド
がリリースするのは珍しいですよね。
A これはね,五郎君がドラム叩きたくてしょうがなかったんですよ(笑)
(ギターとドラムで野口五郎も演奏)。この頃は京平さんの弟さんの
渡辺有三さんががディレクターだったんです。
(続く)
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