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2013年3月

2013/03/27

「制服」を語る会

ニッポン放送うえちゃんのごごばん にて3月29日(金) 1時台に今年も「制服」を聴く会開催。

堂本剛が尾崎、ドリカム、ASKA、拓郎、アッコを“カバ”

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2013/03/24

たくろうのともだち / よしだ・たくろうの世界

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■僕とフォーク・ソングちゃん

フォーク ソングなんて、今さら僕には、どうでもいい。 僕の歌っているのは『僕の歌』でしかなく、それは、フォークなどと 言う、何やら、まやかしがったものでもないような気がするし.....。
そも、フォークシンガーとは、何ぞ? などと聞かれる毎に「僕はフォークシンガーではないでしょうネ」とか答えるみ。「では、お主の職業は?」「ハイ、プロの歌手ではないでしょうか。」ここにつきるのである。どうしようもないよな。そして、まあエエではないの! プロとか歌手とか、色々、あってもヨカンベー!! と、こうなってしまう。
であるからして、この際、その種の話は、やめにしたいのである。 さて、この、まやかし(どうも、あまりいい言葉ではないが)がかったフォークソングとか言うものを、僕が初めて、耳にしたのは、高校2年の時、一級下の女の子に失恋した頃の事だ。友人の貸してくれたテーブに、とにかく、変な声? たいした事無いギター? これでいいのかネと思いたくなる様なハーモニカ? (その頃、僕はホントニ、そう思った)のボブ・ディラン殿の『風に吹かれて』が入っていて……。ウン、あれが最初だと思う。まあ、ひとつもいいとは思わなかったけど、その友人語るところによるボブ・ディラン ストーリーには、正直言って、あこがれた。そのうち、どこからか、ハリガネを見つけて来て、写真を見ながら、あのハーモニカホルダーを、必死になって作ったものだ。(当時は、まだ市販されていなかった) 『風に吹かれて』を練習したなー。 ギターも、歌い方まで、ディランの 真似をしたっけ。そう言えば、やみつきになるにしたがって、何とかディランみたいに生きたいと言う気持がエスカレートして、大学1年になって、家出まで真似してしまった。2週間で、帰ったけど。 大学2年になって、2度目の家出 (これは、親を説得して、合法的 ? なものであったが)約半年、千葉の検見川という所にある、広徳院とか申す、お寺にイソウロウ。

とにかく広い墓地のソージなどしながら、 「ウーン、せつないのー」などと、タメ息をついていたものだった。この頃から、エレキギターに魅せられて、栄養失調気味で広島へ帰ると、すぐ、グループを作った。 思い切って、R&B風と言うか、それ臭い音を出すグループにしよう!!と、キンクス、ローリングストー ンズ、スペンサー・デイビス・グルー プetc. などのレパートリーに取り組んだ。まだソウルブームなど日本では、考えられもしなかったが、除々に、R&Bというものが広まりつつあった事は確かだ。『ハングオンス リーピー』で、ライトミュージックコンテスト中国五県1位になり、翌年、ホールドオンで再び1位、グランブリでは惜しくも入賞を逸したが、これは審査員の感覚の問題で、『あれは、まさしく、我々が優勝していたのだ !』と今でも、あの頃のグループのリーダーはボヤイている。その時、1位になったのが、例のマックスで、彼等とは、その後、一緒にレコーディングしたりステージ活動をやったりする事になるのだが……。 エレキを弾きながらも、やっぱり、ディランのレコードだけは、忘れ難く、時ある毎に、フォークのステー ジへも立っていた。フォークのコンテストでも全国大会で3位に入賞したり、(やっぱり僕は才能があったのであろう???)、まあ、賞金稼ぎとしては、割と優秀な方だった。 そんなワケで、僕は、アマチュアの時代(今をプロとして)色々な音楽をやっていた事になり、別にフォークと呼ばれるものばかり、やっていたワケでもないし、『ブラ・フォー』 などは、むしろ、好きでない方に属していたのだから、今さら、 『フォ ークとはネー』とか『フォークシンガーちゅうもんは』など、言えたぎではないのである。 そうなんだ、あの高2の時、作った曲から今日まで、それは、『僕の歌』であり、また、 『僕の歌』でしかないのである。スクナクトモ 『フォークシンガー様』にはなりたくないな。今のところ。

■僕とギターちゃん(略)

■僕と浅沼ちゃん

ライトミュージックのコンテストが毎年あるが、広島へよく審査員として来る男がいた。見るからに、やさしい顔つきで、 (顔だけ見ると今でも、とても30代には見えないネ) 笑うと、すごく可愛いい男だった。 こいつが、とんだ毒舌で、僕のグル ーブと言えば広島はおろか中国、四国、北九州、あたりにも、名の届く、名実共に、最高のバンドで、どのパーティーにも、 G・G・クラブ、あるいは岩国の米軍キャンプetc.から引っぱりだこだ。 その、僕等に対して、ボロクソに言った男が、浅沼勇、現エレックレ コード専務他雑用である。しかも, 広島では、アマチュアグループの教祖的存在にある我々を、ステージでコケにした罪は重い。 僕は、ものすごーーーく頭に来た。 『何でー、あの野郎、R&Bをワカッテネーんだな』とフテクサレなが ら帰ったものである。ちょうど、しかも、そのステージと言うのが、我々のグループの全国グランプリ出場壮行会だから、たまらない。それに、おまけつきで、2位になったグループを、ベタほめだ。 まったく、ケシカラン奴なんだ。 その男と、奇しくも、今度はフォーク (あの時はロック) とやらの世界で逢おうとは、思ってもみなかったし、思いたくもなかった。 しかし、やっぱり、なるようになっていたのかも知れないな、運命と いうやつでサ。 今度は逆だった『浅沼の言ってるフォークだ何だは、終ったよ』と、僕の方が、態度もでかく出たもんな今回は。
浅沼サンという人は、とてもじゃないが、はかり知れない男だ。それが、何故か、僕には、時々、すごく頼りになる人であったり逆に、全々、バカにしてみたくなる様な人であったりスル。 結構コワイ男と、もっぱらのウワサだけど、僕は全々コワクない。 なぜなら、彼は現在、精神的に年令が逆行しているかの如く見えるからである。とても可愛いいのだな。 パンタロンを気にしたりetc、クラシックや、チェット奏法などでは、一 級品のくせに、たくろう流のギターにかかると、手も足も出ない(言いすぎではないのだ)そんな、この頃なんだからネ。『ウッドストック』 を8回、『プレスリーオンステージ」 を10回以上、見に行った男、浅沼勇とは、あの広島以来、そして誰かの歌じゃないが、「明日からもこうして……」長いつき合いになりそうで ある。お互いに、ケナシ合いながらも。早く、子供作れよ!!余談だが、彼の妻(奥さんと呼ぶには、子供っぼく、ムジャキな女性なので)は、僕と同じ年らしく、実にチャーミングな、可愛いい女である。一度、酔っ払って(ムロン僕が)『オイ!浅 沼!今度、お前の女房貸せ!』と言 ったそうだが、どうも、デッチ上げ の臭いがするぜ。

(新譜ジャーナル別冊よしだ・たくろうの世界)

カテゴリー「吉田拓郎」より分離独立

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2013/03/16

TYIS会費払込取扱票

TYIS会費払込取扱票届く

20130316

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2013/03/15

渡辺 徹

3月13日文化放送 大竹まことゴールデンラジオ ゲスト渡辺徹のしゃべくり

渡辺 徹 泣きたい夜には

吉田拓郎/作曲 岡本おさみ/作詞 後藤次利/編曲

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2013/03/13

SATETO・日清パワーステーション

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"SATETO-1988" ツアーには、"特別企画"と も言えるメニューがついて いた。通常のホール・コンサート ツアーの合間をぬって、名古屋のハートラン ドと、大阪のバナナ・ホー ルと、東京のパワー・ステーションで、ライヴハウ ス・コンサートが行なわれ たのだった。 「まだやったことのないこ とをやりたい」 拓郎のそんな希望の中に、ライヴハウスがあった。 今でこそコンサートには、 "段階"ができた。つまりライヴハウス→ホール→武道館、球場という段階だ。でも、拓郎は、そんな"段階" とは無縁だった。なにしろデビューして、いきなりと言っていいくらいすぐ、ホールだった。ジァンジァンとか、さそり座という小空間のライヴを体験してはいる。でも、当時は"ライヴハウス“という存在自体がなかった。東京のライヴハウスの草分けとも言えるロフトがオープンするのは、拓郎がメジャーになってからだ。つまり、強引な言い方をすれば、拓郎がメジャーになったことが、全国にライヴハウスを生んでいくという場面を作ったとも言えるのだ。それは、妙なたとえだが、王様が巷のまん中に、突然現われたようなものでもあった。 6月16日、パワー・ステーションでの拓郎は緊張していた。拓郎は、「どんなステージでも緊張する」と、よく Jo ロにする。でも、この日は特に激しく緊張しているよう だった。5万人を前にするのとは違う緊張が、至近距離 の客席にあったのだろう。青ざめた表情がひきつって見 え、無神経とも思える"拓郎コール"に、顔をゆがめた りもした。野外イベントでは恒例になり、"祭りの雄叫び" に聞こえる"拓郎コールも、ライヴハウス空間には不釣合とも言えた。目の前の拓郎。彼は、5万人の前と変わらぬパワーで歌い、そして、ここ数年のコンサートでは見たことのないような饒舌さで、近況について語った。 そんな姿は、"飽きてしまったスタイル“とは違う、コンサートの手ごたえを見つけているようにも見えた。
 
(吉田拓郎HISTORY 1970-1993)

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1988.6.16の日清パワーステーションの公演がFM東京にて1988.8.7 ON AIR。
 
曲目
 
冷たい雨が降っている
すなおになれば
リンゴ
眠れない夜
落陽
メドレー (イメージの詩~君去りし後~たどり着いたらいつも雨降り~春だったね~ジャスト・ア・RONIN~あの娘といい気分~元気です~あいつの部屋には男がいる~おろかなるひとり言~7月26日未明)

Ps01

 
アナ 拓郎さん、4年ぶりのライヴということでしたがいかがでしたか。
拓郎 いや、ホントに。ありがとうございました。
アナ 今までほんとに大きな所でやっていらした拓郎さんが、今回、そのライヴスポットで、手の届く距離でコンサートをなさろうとしたのは何か理由があるんですか。
拓郎 いやー、ま、あのたいしたアレはないんすけどね、ただとにかくコンサートツアーめんどくさくなって。でイベントみたいなのがなんかしゃらくさくなってきて。で、なんかやってない事をやりたいってのが。ライヴスポットってあんまりそのライヴスポットと呼ばれるようになったからはね、ま経験ないんですよね。東京では昔ジャンジャンて所に出てましたけど当時まだライヴスポットっていう感じじゃなかったですからね。そういう意味じゃライヴスポットっていう、呼ばれてる所にね、1回出てみたい。まぁ、ムリ言って。出てコケました。
アナ えぇ、はは。
拓郎 あんなに近いとは思わなかったです。
アナ ふふふ、ねぇ。今まで本当に大きな会場大きな会場とやってらしただけに、すごく新鮮さも、えーあったと思うんですけれども。
拓郎 そうです。やっぱ緊張します、あんなに近くに人がいると。
アナ 拓郎さんがですか。
拓郎 うん、なんか変な顔で歌えないとかね。なんかギターを弾いてる指が気になったりとかね。あの変な事がすごい気になってね、結構気が散ってましたね。
アナ お客様も、この距離で。最初にもお客さん言ってましたけど"拓郎さんの存在をこの距離で確認するんだ"っていう。それをきょうこの放送で皆さまも味わっていただけたら幸いだと思います。
拓郎 はい。
アナ えー客席に、アルフィーの坂崎幸之助さんがみえています。
坂崎 はい。どうも。
アナ 坂崎さん、やっぱりいらしていたんですね。
坂崎 もうねぇ、久しぶりですからね。あのーこの前に東京でやったんですよね。そん時僕行けなかったんで。うん、今日はすっげー楽しみにしてる。
アナ 拓郎さんにしては、本当に初めて、手が届く距離、ですけれどもそのへんは。
坂崎 こういうなんか、ライヴハウスみたいな感じの所ってのは、レコードでしか聴いた事がなかったんですよ。あの「ともだち」っていう
アルバムがあったんですけど。古い話ですけどね。あれがなんかそういう感じなんで。そういうなんかね、身近なね。あの、多分しゃべりも多くなるんじゃないかとあの人のことですから。うん、そういう期待もあるんですが。
拓郎 今いたの?
坂崎 いたんですよー。いやいやいや、正面に、どうぞ。はい!
アナ いかがでした?坂崎さん。
坂崎 いやいやいやいや、うーん。いや感激しました。もう、泣きそうですね。うん、ホントに素晴らしいですね。やっぱりあの、ずっとやっていただきたいですね。本人あんな事言ってますけどね。もうねぇうまいんですよ、ああやって人の気持ちを揺さぶりながらやるのが。まぁ"まだ次のツアー決まってない"とかなんか言ってましたけど。うん、絶対またやってくれると思います、拓郎さんのことですから、うん。
アナ きょう来てるお客さんの中で、"拓郎さん何やってても生きてることそのものがライヴだ”。
坂崎 そうですね。ホントにそう。あのー 、あの人がいりゃあいいんですよ。別に演出とかね、いらないんです。あの、みんなそう思ってると思うんですね拓郎さんのファンのかたがたね。なんかだって声が、全然衰えてないでしょ。うん、あの全盛期っつうか、いつが全盛だかわかんないんですけど、うん、全然変わってないんでね。うん、すごい安心しました。もっと老けちゃってるかというね、ちょっと不安があったんですけどね。ええ、大丈夫ですね。期待してますこれからも。
アナ 拓郎さん、坂崎さんああいうふうにおっしゃってますが。
拓郎 はいどうも。すいませんでした、坂崎さん(笑)
アナ ずっとやってほしいっていうのは、まぁみんなね。ええファンの方はみんな思ってる事だと思いますが。また拓郎さんは"俺は俺"ってお っしゃるんですか?(笑)
拓郎 そうですねぇ。まぁあの、やっぱりやりたい時にやるのが一番いいみたいですね。
アナ ええしかし、4年ぶり。この4年間で、いろいろご自分の中で変わったものとかがこのライヴで出ましたでしょうか。
拓郎 出てましたね。自分で確認しましたけどね。"ああ俺、変わったな"と思いました。
アナ どういうふうに。
拓郎 あのう、根がだいたい根本的にはすごいこう基本的には明るい男なんですよね。それが、一時ちょっと明るいくせにステージでなんかあんまり素直じやないっていう感じだったんだ。等身大じゃなかったんですよ。やっぱりツッパッてたり、ポーズもあったし。今度のステージは、そういう意味じゃまたあのお客さんには申し訳ないんですが、冷 たく突き放しましたけども。あの非常に僕としてはマイペースでした。で、所謂コンサート終わった時の疲労感というものも心地よかったです。
アナ あのとりあえずこのらいヴすぽっとが終わって、ええ次の事、まぁ坂崎さんも"またやってくれるよ”っておっしゃってましたけどお手本がありませんでしょ、拓郎さんの場合。
拓郎 そうですね、まぁあのニュー・ニュージックっていうふうに呼ばれてる中でね、やっぱ凡例ってのはあんまりなかったですね。
アナ ですよね。
拓郎 非常に不幸ですけどね。
アナ じゃあ次はどんな凡例を作っていらっしゃるんでしょうね。
拓郎 まぁあの音楽は要するに基本的にすごい好きなわけだから音楽から離れる事はできないわけでしょ。そうすっとやっ ぱりレコード作ったりコンサートやったりってことがメインになると思うんですけどね。まぁあの、また次レコーディングに入ることになってるし、それから夏はちょっと、ちょっとしたあの友達とやるジョイントみたいなのも決まってるらしいし。そういうのまた体験して、勉強します。
アナ とりあえずコンサート活動しばらくは絶対やり続けていただけそうですね。
拓郎 そうっすね。はい。
アナ まぁ約束は、拓郎さんの場合ないのかもしれませんかせ・・
拓郎 約束なんて破られるから美しい、っていう詞がありますが
アナ はい(笑)えーでも待つのも自由ですもんね、待ちましょう、はい。
拓郎 そうですね。
アナ ホントにきょうはこういう手の届く距離での素晴らしいライヴを ありがとうございました。
拓郎 ありがとうございました。
アナ 吉田拓郎さんでした。

西へ行く者は西へ進む えのきどいちろう
僕のデスクは壁に向って据えられていて、駐車違反の反則金納入用紙や映画の試写状や 伊勢丹の商品伝票(スラックスのすそあげ受け取り用)や色んな忘備メモなんかが、そこ にピンで止められている。そして、今、僕は 一枚の写真をそこに止めた。学生服を着た少年の写真である。
彼は「永遠に王にならない王子」である。 ギターを持っている。 文化祭か何かのステージで、何か歌ってい るのらしい。彼は痩せていて、活発そうで、歌うのに夢中になっている。
僕が「そこをどけ!」と怒鳴れば、たちまちひるんでしまって、それでもしばらくして何か言い返して来そうな、つまり彼はありふれた高校生だ。 情けないくらいに若く、思慮もなく、経験もない。頭のなかには妄想だけがあって、そのことを実現していく手だては見たところ見つかっていそうにない。彼が吉田拓郎なのである。ハーモニカ・ホルダーとフォーク・ギターという例のボブ・ディランスタイルでふらりと東京へ現われ、アンダー・グラウンド・ミュージックのシーンを自在に駈け廻り、そうかと思うと汽車に乗り、日本中のライブ・ハウスに独得のひねくれた節廻しを届かせ、ついにはヒット ・メーカーになってしまった男。吉田拓郎。吉田拓郎。彼は、しかし、「王」になってしまった。
僕は想像する。彼の遠く高い「王城」を。 僕はそこに行ってみる気はないが、たどり着く為には幾つもの企みが張りめぐらされているような場所。
彼はそこで絶望していると思う。
これは賭けてもいい。絶望しているのだ。 そして彼は正しい。その絶望には正当性があるから。それは常に彼の主張であり、行動 の規範でもあったことだ。彼は無為とー、延々と続き、個をひねりつぶそうとする膨大な退屈と闘っているのだ。彼以外の多くの人達はそのことに関して無頓着である。あるいは無神経である。ひとは個人でしかないというのに。個人が、個人であることを闘おうとし、そのことに意志的であれば、必ず彼は巨大な無為にまわりを取り囲まれることになる どんな楽天もそこには通用しない。無神経な者たちはたぶんごまかしてしまうのである。 自分自身の死に向きあった不安定な現在を 。 彼は「王城」の窓から市街を見おろし、つぶやいている筈である。「絶望が足りないんだ」と。
つまり、彼の城には何もありはしないのである。あるのはただ大画面のテレビ・モニターとビデオ・カセットとマスター・テープと乱雑にアンプにつながれたまま置かれているギターだけだ。 テレビ・モニターは馬鹿みたいに部屋を青く照らし、リモコンひとつで消してしまえるくだらなさゆえにそのまま放っておかれる。
まさか想像もしなかっただろう。僕の目の前で歌っているこの少年は。少年は自らを理由に駈けただけである。もちろん責任なんてない。
彼はいつしか「王城」にたて込もり、あるひとつの妄想にとらわれるようになった。王殺しー、殺してしまうのである。王の息の根を止めれば、彼は再び「永遠に王にならない王子」に戻れるかも知れない。そして今度は逃走するのである。全速力で、決まりのない道を。もう二度と人生の無為などにとらわれることのないめちゃくちゃな速さで、でたらめな道を。
あぁ、神様、僕の魂に無為にとらわれることのない速度をください。そして、彼の神様は彼の救いを!
今回、吉田拓郎がツアーを再開して、僕が想うのは以上のことだ。 僕には拓郎に向ける言葉がない。彼の王殺しが成功したのかどう か、君達は客席で目撃することになる。けれど、僕の目の前で歌っている少年に対してなら、本当は僕はこう言いたい。お前を信じて 闘ってる奴だっているんだぜ。実際のところ、 僕がそうだ。
(SATETO 1988ツアー・パンフより)
吉田拓郎は歌いたいときにか歌わない 村上 龍
 
吉田拓郎の歌を久しぶりに聞いて懐かしかった。彼の歌は何も変わっていない。「ウィ・アー・ザ・ワールド」でボブ・ディランのソロボーカルを聞いたときと同じ気分になった。ディランも何も変わっていなかった。変わらないというのは、とても難しいことだが、吉田拓郎やディランはそんなことを意識してやっているわけではない。たぶん変わりようがないのだと思う。本当は誰だって同じなのだが、奴隷根性の悲しい人間は社会的に変えられてしまうのだ。変わらない人は、そのために何かを犠牲にしているのだが、それを楽しんでもいるから悲しくないのだろう。吉田拓郎はきっと本当に歌いたいときにしか歌わない、わがままなシンガーだ。その彼が歌いだした。ファッショナブルなガキ達の反応が楽しみだ。
 

Ps00178

 

Ps0278

 
 
 
 
 

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2013/03/12

ラジオDJ広場・サタデーナイトカーニバル 1980.6明星

ラジオDJ広場・サタデーナイトカーニバル 1980.6明星

東京の夜の電波は、ニュー・ミュージック界が独占 東日本編

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●TBSラジオ954KHzサタデーナイトカーニバル

DJを10年も続けている吉田拓郎。彼の音楽仲間であり、親友でもある小室等。意外なことにこのふたりが、レギュラー番組でコンビを組むのは、初めてなんだって。コンサートで全国をまわる間に出会った人たちの思い出を中心に、青春とは何だろうかって探っていくのが聴きどころだよ。もちろん音楽もたっぷり。まだレコードになっていないライブ・テープなんかを、ジャンジャン聴かせてくれるのがグー。拓郎、小室の新曲も、まずこの番組で放送するというから、エア・チェックの用意をしておくといいんじゃないかな。

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2013/03/05

TYインフォメーションサービス更新

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TYインフォメーションサービス開始について

2013年4月5日より吉田拓郎会員制公式情報サービス「TYインフォメーションサービス」を開始することとなりました。

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TYISとは       

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  入会案内

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2013/03/01

3/4 幸拓ANN GOLD

番組HP:

☆拓郎さん・坂崎さんがリスナーために熱唱?!
☆吉田拓郎がグラミー賞を語る
☆リスナーのために、とっておきの卒業ソングを選曲
☆あなたの最後の恋、紹介します。

http://starstruck99.cocolog-nifty.com/130301ktr.mp3

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