よしだたくろうの母 吉田朝子さんその③ ・週刊平凡毒蝮三太夫シリーズおふくろ第34回
■拓郎を背負って、職捜しに
朝子さんは、明治40年8月3日、朝鮮の京城で生まれた。父が軍人で、朝鮮の陸軍病院に勤務していたためだ。ひとりっ子でなに不自由なく育った。旧制高等女学校を卒業、単身、日本へ渡り、同志社大学に入学。 3年後、朝鮮へもどり、母校で英語の教師を1年間つとめた。
◇
23歳のとき、朝鮮総督府の役人だった吉田正広氏(当時36歳) と見合い結婚。長男(現在38歳)、長女(現在32歳)が生まれた。終戦の年の12月、おなかの中にいた末っ子のたくろうと2人の子を連れで、命からがら日本ヘたどりつく。夫の郷里、鹿児島県大口へ。 遅れて引き揚げてきた夫と再会したのが21年の1月。たくろうが生まれたのは、それから3か月後、21年4月5日である。 「拓郎の生年月日が22年とか23年とか、いろいろな説がありますが、21年です。母親の私がいうのですから、まちがいありません」
生まれてから娘時代まで、そして結婚してからも、苦労ひとつしたことのなかった朝子さんの人生は、終戦を境に、まったく、明暗、ところを変えた。
「ええ、ええ、あのころが、いちばんつらかったです。長男がリヤカーひいて、私が後から押して、カボチャを売って歩きました。カボチャなんてどこの家にもあったけど、鹿児島弁で、 ぐらしか(気の毒だ)といって、 買ってくれるんです "いままでいい生活してたのに、ああやってカボチャなんか売って、ぐらしかなあ“ っていって・・・ 1 つ、買ってくれるんです。 なんか私にできる職はないかと思って、拓郎を背負いましてね、歩き回りました。ところが私の乳が出ないもんですから、拓郎が乳をほしがって泣くんです。背中で拓郎が泣くと、私も泣く・・・・。 おイモのアメを1つ買ってしゃぶらせて、大口の町を、朝から晩まで、ほんとに足を棒にして、歩いて歩いて職を捜しました。それでも、なんにも、仕事、なかったです。 拓郎は、ものごころつくまで"ぼく体が弱かったの、オッパイがなかったからよねぇ、母ちゃん"といってました。赤ん坊のときのそういう苦労があったせいでしょうね。あの子は、乳房をこうやってまさぐるのが好きでねぇ。中学3年、いや高校の1~2年くらいまで、まだ、こうやってしゃぶってました。 なんにも出ない乳をねぇ・・・・。
主人の実家へ引き揚げたんですけどね、主人は農家の次男坊でしたから、兄嫁たちは財産でもとられると思ったんでしょうね、なにかとつらくあたりましたねえ。16本ある柿の木1本、切らせてくれませんでした。 たまに売りにくるお魚を買って焼いてると、遊んでて魚を食べてる、と近所にふれ回られたり・・・・。 でも私、じっと耐えました。 なにくそという気持ちもありましたし、いつも、先に光明があると信じて生きてきました」
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<なにくそ、という気の強さがたくろう君の血の中にも流れているようだ。 それにしても、向こうっ気の強いたくろう君が、高校2年まで、しなびたおふくろさんのおっぱいをしゃぶってたなんて、楽しくなるなあ・・・・>
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