よしだたくろうの母 吉田朝子さん⑥ ・週刊平凡毒蝮三太夫シリーズおふくろ第34回
■「生きてる限り働かなきゃ・・・・」
広島商科大学2年のとき、たくろうは、コロムビアの第1回全国フォークフェスティバルで3位に入賞。それがきっかけでコロムビアにはいった。だが、4か月め、レコード界の裏面を見て絶望。広島へ帰って復学し、 「おれは実力でプロになってみせる」とその日をねらった。広島商科大学に在籍5年。そして、その夢はついに実現した。
毒蝮 53歳で定年になってからは、お茶とお花を教えて暮らしてこられたわけですね。
おふくろ 芸は身を助くですねえ。いまは心臓も悪いし、足も悪くて、出歩くのに杖をついていますけど、多いときは50~60人のお弟子さんがおりましたから・・・・。
毒蝮 それにしてもも波乱万丈の人生ですね。これからはもう少し楽に、ゆったりしたらどうなんです?
おふくろ 年金もついたし、恩給もありますしね、生活にはこまらないんですけどね。でも人間生きてるかぎり働かなきゃいけないんじゃないですか?
毒蝮 いま、この家で娘さん夫婦といっしょに暮らしてらっしゃるわけですね。 ときどきはたくろう君の新居へも行かれるんでしょう?
おふくろ はい。でも、東京には住めませんね。電話で拓郎に「もう東京には行かないよ」といいましたら、『ガキが生まれたら来いよ!なんて申してました。まだできてはいないようですけど・・・・。
毒蝮 そのうち、『おふくろ、ガキが生まれたら、来いよ!』 なんていう曲を作るんじゃない ですか (笑)
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<妻としてしあわせな人生だったかどうかはわからない。ただ3人の子供たちにとっては、これほどたよりになるおふくろさんはいなかっただろう。
帰りの飛行機の中から、遠くなっていく広島の街の灯をながめながら、ぼくは人生半ばにして突如苦労を味わい、いまなお働きつづけているおふくろさんのことを考えつづけていた>
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息子・よしだたくろうのひとり言。
「おふくろは自分の体も弱いのに、女手ひとつで育ててくれた。 おやじと離れていたから、女のくせに男になんなきゃという意識があったと思う。だから、ひとことでいえば"お父さん" 。
女としては薄幸の人で、昔の話を聞くとかわいそうだ。なんかにすがんなきゃ生きられないのに、なにもすがるものがなかった。だからといって、めんどうみでやろうというと、我が強いからいやだというんだな。 大学のころ、バンドの連中と酒飲んだり、女をひっぱりこんだり、ひどいことをしたけど、 理解があって、おやじみたいにめんどうみてくれた。それはうれしいんだけど、また逆に、女だてらに・・・・と、いやだったね。 親を自慢するのは大嫌いだけど、あえていえば、人間・吉田朝子としては尊敬できる。 おふくろとしては好きじゃないな」
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週刊平凡1972.8.31号
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