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2012/12/31

よしだたくろうの母 吉田朝子さんその④ ・週刊平凡毒蝮三太夫シリーズおふくろ第34回

Ty8_4 その④

 

■夫や子供と離れ、単身広島へ

 

たくろうが3歳になった冬、雪の降りしきる日だった。一家は、ついに大口での生活に耐えきれず、家を出た。べつにあてはなかった。鹿児島市へ出、ある倉庫を借りて、細々と暮らした。そのころ、『ラサール高校(鹿児島の名門校)が創設されたばかりだった。 校長が知り合いだったのでたずねると、ちょうど寄宿舎の舎監を捜しているという話。さっそく話がまとまって、朝子さんは舎監になった。夫や子供と離れ、休みの日だけ家へ帰るという生活。だがこの2年間に、彼女は生徒といっしょに図書室へ通い、栄養士の国家試験にパスした。このとき、朝子さんはじつに43歳。 外地勤務が長かったため、なかなか職にありつけなかった夫 も、このころ、ようやく鹿児島県庁へ就職した。
毒蝮 舎監をやりながら取った栄養士の資格を、こんどは広島で生かすわけですね。
おふくろ ちょうど教育長と知り合いだったもので、長男の大学受験(立教大学)の帰りに広島へ寄ったら、盲学校(在校生200 人)の栄養士の職を世話してただいたんです。
毒蝮 それでまた単身、広島へ 移られたわけでしょう。でもま あ、ご主人や子供たちと離れた生活が多いですね。

 

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おふくろ 宿命なんですね。考てみると、ほんとに主人とは縁の薄い夫婦でした。
毒蝮 ふつうねえ、家庭というと、亭主が働いて、女房は家を守る、ということですけど、そこまでお母さんがしなければならなかったというのは、ご主人の収入じゃやっていけなかったからですか?
おふくろ そうです。県からもらうお金が2万5000円ですからね。郷土史の本を1冊つくるのにいくらという予算があっても、主人は学者肌で、そのなかからもうけようとすることのできる人じゃありませんでしたから・・・・。あとになって、経済大学や短大の講師などやって、月に10万円くらいにはなったんでしょうけど・・・・。. たまに正月なんか家へ帰ってくると、20万、30万とくれました。
毒蝮 盲学校で定年まで10年間、勤められて・・・・。
おふくろ それで53歳で定年になったとき、借金してこの家を建てたんです。(目の前のテーブルをさし)このテーブルがそのとき2000円で買った、たったひとつの家財道具でした。 これが子供たちの勉強机にもなり、食卓にも、応接台にもなったんです。ですから、わが家では記念のテーブルなんです。

 

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