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2017/02/27

すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ③ : 2010年3月号

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■ 自分では書けない詩を

重松 さっき、等身大という話があったんですが、僕たちの世代は拓郎さんが『KAHALA』(アルバム『マラソン』収録、83年)を歌ったときに、 えっ、拓郎さんが? って。

吉田  ああ、ハワイだからね。

重松  拓郎さんには、やっぱり『落 陽』( 73年)のイメージがあって、苫小牧から仙台へのフェリーに乗っている拓郎さん、あるいは竜飛崎や隠岐の都万の海岸に立っている拓郎さんは見えるけど、ハワイはないだろうって。 でも、よく考えてみたら、あれは岡本おさみさんの詩で、拓郎さんは旅は嫌 いなんですよね。

吉田  ええ、旅は好きじゃないですね。あれはあくまで、岡本さんの詩の世界。

重松  でも僕たちは勝手に、ギターケース下げてフェリーに乗っているのが吉田拓郎だと思い込むわけです。例えば『ローリング30』( 78年) の詩だって松本隆さん。たぶん、作詞家は拓郎さんへの当て書きなんだろうけど、そういうのを歌うときには、自分の世界とは違うんだというのは気にならないんですか?

吉田  すごく気になりますよ、そり ゃ。岡本さんの詩も松本さんの詩も、もらったときにいい詩だなと思うけ ど、オレには書けないや、とかオレの世界じゃないな、とは思うんです。しかし、いい詩だな好きだなと思えばそれは歌にしたい。岡本さんの詩でも 「ひとつのリンゴを君がふたつに切る」 (『リンゴ』より、アルバム『元気で す。』収録、72年) って。僕はリンゴを食べると歯茎から血が出る(笑)か ら食べないけど、こんな詩はオレには書けねえやと思うから、じゃあこれを歌にしてみたらどうなるか、好奇心からやっちゃうんですよ。僕は絶対に フェリーでサイコロ転がしているじいさんと話をするような旅人じゃないですからね(笑)。

重松  ほとんど虚構、フィクションですよね。でもやっぱり歌の力って怖いなと思うのは、拓郎さんがフェリーに乗っているようなイメージが投影されてしまう。これが作曲家として他人に 提供するだけだったら違うでしょうけ ど、自分の声で、自分の体で歌うというのは、やはり自分のある部分の反映 じゃないですか。それって怖いことですか、それとも楽しいことですか?

吉田  すっごく楽しいことだけど、いまのお話を聞いていて、きっと聴いている側の混乱はたまらんだろうなと思 いましたね(笑)。『結婚しようよ』を 歌っておいて、旅でサイコロ振るおじ いさんに出会って、挙げ句にハワイのカハラ·ヒルトン・ホテルがいいよ、 その上、『ローリング30』で30歳過ぎて転がる石になれって……。どれなんだよ、お前は(笑)

重松  そして最近では、『ガンパラナイけどいいでしょう』(アルバム『午 前中に…』収録、09年)と歌ってみたり。おかしいなあ。そうなるとまた聴 く側が、40年間の中で勝手にピック アップして、許せる拓郎と許せない拓郎を分けていく。

吉田  それについていま言えること は「ごめんなさい、すみませんね」し かなくて。僕がもし聴く側にいたら、 確かに混乱はすごいでしょうね。そんなヤツを好きにならない (笑)。

重松  そういう矛盾。拓郎さんは本の中で「とにかく自分には矛盾があるんだ」と書いていますね。「矛盾がいいんだ」とも。

吉田 矛盾はものすごくあります。それがいいと言ったのは間違いかもしれないけど、バラバラな自分は意識していますよ。明らかに一貫性がない、言ったことをやり通せないんです、絶対に。昨日言ったことを今日は忘れている。それらを全部含めて「ええかげんな奴じやけ ほっといてくれんさい」 (『唇をかみしめて』より) って(笑)。

重松  そうか、あのフレーズに帰ってくるんだ。納得します。

吉田 僕はだから、刃を突き付けられたらもうダメ。ほんとダメです。「すみません、いままでのことは全部嘘で した」って言っちゃう感じですね。つまり「あんたは何なんだ」と言われて 「オレはこうだ」と言える強い何かを持ち合わせていないんです。

重松  しかし、オーディエンスも中津川世代だったらもう60歳くらいにな っていて、普段は「人生を語らず」じゃないと思うんです。でも年に一度、コンサートではそこを味わいたいとい うような、身勝手なものがあります。

吉田  それは絶対にやらなきゃいけないでしょう。だからまた、ツラい人生が続くんですけどね。年に一度だったら『人生を語らず』( 74年)『落陽』 『今日までそして明日から』( 71年) を、やっぱり歌わなければいけないと僕も思っていますよ、歌う限りは。

重松  この前( 06年)のつま恋コンサートでは、『落陽』の前に「やってあげるよ」と言ってくれた(笑)。「みんな聴きたいでしょ?」って。

吉田  そう。でもサービス精神でやるというのと、やってる最中にシラーッとなって、やらなきゃよかったな、という感じは常に隣り合わせですからね。それこそ、三波春夫さんが「お客 様は神様です」と言いながら『おまんた囃子』を歌い続けたのは偉いなあ、あれを考えれば吉田拓郎はまだまだあの域に達していない、頑張ろうって思って『春だったね』(アルバム『元気 です。』収録)を歌うしかない、という思いもある。

重松  やっぱりライブっていうのは、 全国ツアーという形式じゃないにしても、これからもおやりになるんでしょ う?

吉田  ライブは絶対に必要だと思いますね。アルバムだけだと、自分がさっぱり分からなくなってしまうような気がする。もうツアーじゃなくてもいい、という僕なりの考えがあって、来 年はここで歌うぞという場所は、具体的に頭の中にあります。

重松  そうなんですか。

吉田  まず、最初の歌はここから始める。それにはコンサート会場じゃないところがいい。誰もここでは歌っていない、というところ。

重松  うわっ、ファンはその言葉をとにかく聞きたかったんです。

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■自らの青春を傷つけないために

重松 音楽の愛し方って、別にオリジ ナル曲を発表しなくても、好きな歌を好きなメンバーで演れればいいんだ、 という演奏そのものを楽しむ行き方もあると思うんですよ。でも、五万人を 集めてしまった拓郎さんとしては、そういう行き方はやっぱり取れないですか?

吉田  僕にはそっちへ行かないという意地というか、音楽をやっていく上でのある種のプライドがあるんですよ。 これだけは絶対守り続けるというのは一点だけで、それは新作を作り続けること、旧い曲だけで生きていくことだ けは絶対にしない。必ず新しい言葉、曲を作る。新しいメロディと新しい詩を書き続けるということだけはさぼりたくないし、それをやめちゃうと、生意気かもしれないけど、自分の青春を傷つけちゃうような気がします。

重松  それは、拓郎さんが東京へ出てきたときの決意でもあったわけですね。

吉田  そうです。友だちの車に乗せられて上京したときに、絶対に自分のオリジナルで勝負しようと、オリジナルで東京中心の文化にいちゃもんをつけようと思っていたわけです。プロダク ションはどこでもいいし、歌う場所だってどこでもいい。しかしそれは、有名な先生に作ってもらう曲じゃ絶対にないんだというのが僕の中にあっ オリジナルであることが、僕なりの「若者の証し」だった。その若者を、その吉田拓郎を、僕は裏切れない。他のところは全部嘘だったとしても、そこの部分だけは、絶対に大事に していくんだと。「あの吉田拓郎」は 嘘つきじゃなかった、ということだけは守り抜きたい。

重松  なるほど。例えば映画監督も小説家も、漫画家もそうですけど、以前に書いた作品をもう一度書くことはできません。だけど、歌手や作曲家はクリエーターであると同時にパフォーマーでもあるわけだから、30年前の曲もやらなきゃならない。

吉田  そう、やっちやうんですね。

重松  それってラクといえばラクかもしれない。そこにすがろうと思えば一曲ヒットがあれば、何とかなるかも しれない。でも、ラクはラクだけど、飽きてしまったときとか、その曲が自 分から離れてしまったと感じたとき、それを分かりながら歌うのって、それはやっぱり嘘だと思うんでよ。

吉田  まさにそうですよ。

■「飽きる」と「疲れる」の違い

重松  新曲を作る拓郎さんと、みんなが聴きたがっている『落陽』を歌う拓郎さんの間には、実は一致しないものがある。

吉田  一致はしないですね。いまおっしゃった「飽きる」というのも人間の心理として仕方のないことでね。みんなは「飽きた」とあまり言いたがらないけれど、ものを作る人というのは 、 音楽家であれ小説家であれ、途中で作業としての創作に飽きることがあるはずなんです。歌うことは作業じゃない、と言う人もいるかもしれないけど、それは作業の一環なんです。そうすると、例えばワンツアーの中で 『落陽』を北海道から沖縄まで歌って回ったら、どこかで必ず飽きてしまいますよ。「飽きた」とは、そんなことは恥だと思っているのか歌手は誰も言わないけれど、僕はやっぱり飽きると思う。そして、歌うことに飽きる以前に、曲作りという作業に飽きるようなことが起きたらどうしよう、という恐怖感を僕は強く持っています。だっ て、曲を作る作業に飽き、ギターを弾くことに飽きちゃったら、もう引退しかないわけですからね。ただ、飽きるというのも何かをずっとやり続けてきたから飽きるわけで、何もしないでぼぉーっとしていたら飽きることもない。ぼやーっとしていることに飽きる人は珍しいのであってやっぱり、何がをやってきたから飽きも来るんじゃないかと、僕は思っているんです。

重松  建前としては、同じツアーの中の『落陽』でも、北海道と東京ではそれぞれ違う、厳密に言えばワンステージ、ワンステージ違うんじゃないかという、理想論みたいなものがあるじゃないですか。

吉田  それはあるけど、でも飽きてしまう。ブルース・スプリングスティー ンが全米を回って「どの街にもオレのファンが待っていてくれる限り、オレはそこで歌うんだ」って言う。でも僕 は、待っていてくれても、全部の場所で歌いたいとは思わない。こことここだけで勘弁してよって(笑)。スプリングスティーンは偉いと思うけど、それは僕には言えないですよ。

重松  その「飽きる」ということと 「疲れる」という言葉は、ほぼ同じですか、それとも違います?

吉田  重松さんは、小説を書いていて、どうなんですか? 僕にはよく分からないけど、長い小説を書いていて途中で飽きちゃいませんか?

重松  僕の例で言えば、一年がかりで連載していく小説って、実はだいたい半分くらいで飽きちやうんですよ。も ういいや(笑)って。だからすぐに本にはしないこともあります。この前 「これじゃダメだ」と1週間ほどホ テルに入って、いつもなら半年ぐらい連載して書くはずのものを、二週間ほとんど不眠不休で書き続けたら、最後まで集中力を保てて飽きなかったです。結局、さっきおっしゃったように、やり続けるから飽きるし、飽きたあとまた何が別のことをやっちゃうんですね。つまり、次に何か新しいものが見えるから、いまやっていることに飽きるんだろうなという感じがするんです。だから、新しいもののほうへ行きたい、ここには留まっていたくな い、それが飽きるということかもしれないという気もします。連載を始めると、一応ラストシーンまではこれにお付き合いしなければならない。

吉田  それはそうでしょう。途中でやめられたら、編集者も読者も困ってしまう(笑)

重松  ただ、「飽きる」と「疲れる」 を比べると、飽きるっていうのはまだ余力を残していると思うんですよ。で も、疲れるというのは消耗して休みたい、になる。飽きるというのは、飽き たあとに別のことをしたいということ じゃないですか。だから、いまの音楽に飽きた、歌うのに飽きた、と言うときの「飽きた」は……。

吉田  そういう意味では、僕は疲れたりなんかしていない。音楽に疲れたことなんか一度もないです。飽きることは何度もありましたが、疲れることなんか、ないです。

重松  じゃあそこからもう一歩踏み込んで、あの「吉田拓郎を解散したい」 という言葉で行くと「吉田拓郎であること」に、拓郎さんは飽きませんか?

吉田  もうウンザリですよ。

重松  だけど、疲れてはいない、と?

吉田 ええ、疲れてはいない。飽きち やってはいるけど疲れてはいない。吉田拓郎を利用する快感も知っていますからね。ただ、吉田拓郎っていうのがなきゃいいな、と思うときは飽きているんでしようね、きっと。

重松 『月刊PLAYBOY』( 86年11 月号)のインタビューを読んでみた ら、「飽きた」って言葉がいっぱい出てくるんですね。85年のつま恋のあとですけど。

吉田  ああ、あのころ。

重松  映画『Ronin』(注8)に出演して、他に何もない、もうやり尽く した、飽きたって。「飽きた」というのが拓郎さんのキイワードみたいにな っている。

吉田 「飽きる」がね……。

重松  でも、疲れたとは一度もおっしゃっていない。だからそこが、ファンたちが「拓郎は絶対に音楽はやめない、信じてもいいんだ」と思ったところなんです。

吉田  だって僕、音楽ってものに行き詰っていないですよ。音楽の壁にぶち当たって自信をなくして去っていく人は過去にも何人もいたわけだし、あるいは音楽に挫折し潰されて消えていっ たり、もっと言えば亡くなってしまったり。そういうことも含めて言うと、僕は一度も音楽で壁にぶち当たった気がしていない。おそらく僕が生半可な ミュージシャンで中途半端だからかもしれないけど、僕の音楽の悩みなんて、悩みに入らない。「ああ、曲ができない」なんて騒いでいても、「お前、それは苦悩に入らないよ」というくらいのレベルのもので、ビール一杯飲んで一晩寝れば治る程度です。苦悩して数カ月も頭をかきむしるクラシック作曲家や、薬に突っ走らなきゃならないほど音楽で苦悩する連中とは違います。なんか曲ができないな、と思うときは、きっと飽きちゃって、やる気が起きていないだけのことなんです。

重松 昔の拓郎さんの言葉に「向上心 のあるやつとは才能のないやつのこと だ。才能がないから向上心があるんだ」というすごいフレーズがあって。

吉田  そんなこと言っていましたか。 すごすぎますね、それ(笑)。

重松  おそらく向上心そのものに疲れちやうときってくると思うんです。 だから、飽きることはあっても疲れないって、とても嬉しい話だなと思うんです。日本人って、飽きるという言葉 を嫌がりますけど。

吉田 嫌がります。だから僕は嫌われる(笑)。

重松 要するに、飽きっぽいというのは必ずマイナス評価です。でも、飽きっぽいということは切り替えが早いということでもあるわけでしょう。そういう面では、拓郎さんは今後もいっぱい飽きるでしょうけど、疲れないだろうなと思います。では、「吉田拓郎をもう一回やれ」と言われたらどうですか?

吉田  それは、さっき言ったように、飽きるというより疲れちゃうかもしれない。ただ、生まれ変わるなら、吉田拓郎に生まれ変わりたい。同じがいいです。やっぱり、中津川でアンプが切れて、ああいうことになって、こういうことになって、また重松さんに会ってグダグダ一言っている、同じように。 それがいい。他の自分は想像できな い。これしかない、と思うんだ。

重松  それを聞いて、とても嬉しいです。

■ジョン・レノンとボブ・ディラン

重松 拓郎さんは「生まれ変わっても吉田拓郎」とおっしゃいましたが、も し、ジョン・レノンが40歳で死なずに70歳のレノンがいたら、どうなっていたと思います?

吉田   それよりもっと大問題は、ビー トルズがどうなっていたかですよ。 対比としてローリング・ストーンズが対極にいるわけでしょ?  60歳、70歳でもいまもやっている。あれは果たして美しいのか?

重松  それとも老醜を晒しているのか?

吉田  どちらかは分からないけど、少 なくとも僕らの畏敬の念はあるじゃない。ビートルズは、ストーンズのように『サティスファクション』1曲で畏敬の念を持たれるようなバンドじゃな いと思うのね。ストーンズにはなれない。もし全員が元気でいたとしても、 ビートルズは終わってしまっているような気がする。そうすると、ジョンは ひとり、ポールもひとり。となると、 ビートルズほどの影響力をジョン・レノン個人が持てたかどうか。僕は首をひねるんだ。彼が亡くなっているからこそ、というのがある。比較がいいかどうか分からないけど、ジェームス・ディーンに近い感じがしますね。

重松  確かに、ジェームス・ディーン が生きていたらまずい気がします。生きているとまずい人って、世の中にはいますよね。死によって人生が美しく 完結したというか。

吉田  70歳近い年齢になったジョンが世の中を変えたかとか、音楽を変えたかとかいうと、ビートルズ以上のことはやっぱりできなかっただろうと思う。

重松   20代で決定的なことを成し遂 げた人が、例えばスポーツ選手のように、「体力の限界です」みたいに、そのまま引退するというのも、ある意味で幸せだろうな、とは思いますけど。 ボブ・ディランのようにクリスマス.・アルバムを出したり、グラミー賞をとったり、活動し続ける楽しみは確かにあると思いますが。拓郎さんは、ディランには行きませんか?

吉田  ボブ・ディランについて行くのをやめようと思ったのは、『血の轍』 ( 75年)を出したころでしたね。なんか宗教的な匂いがしてきて、これはあかんと。ファンだけど、ディラン.・フォロワーズになりたいとは思わない。ディラン以降では、ホイットニー・·ヒューストンとは寝てみたい (笑)とは思ったけど、あとはそんなに好きになったミュージシャンはいませんね。僕は、だいたいが飽きっぽい人間だし、音楽でもそうなんだろうなあ。

 

■根気と才能

重松  小説でもそうなんですけど、飽 きているのにそれが言い出せず、やめ られなくて続けていると、最終的に疲れちゃうような気がします。

吉田  僕の音楽もそうだけれど、文学、物を書く仕事って、やっぱり根気強い人がやっているんですかね。

重松  やっぱり机に向かい続けることができるかどうかでよね。それはある種の、必要最低限の才能と言ってもいいかもしれない。

吉田  なるほど。

重松  長編小説は3分じゃ書けません。言ってみれば、ひらめきだけでは小説にならないので、やっぱり書き続ける時間が必要です。何カ月もひとつの作品と向き合うこともそうだし 、短期決戦もある。僕、この前のカンヅメ のときは、2週間デ200時間近く座り続けたんです。ぶっ続けで30時間 ぐらい座り続けた日もある。ということは、オレには、少なくとも座り続ける才能だけはあるんだと。

吉田  それはすごい才能ですよ。

重松  もちろん、作品の出来とはなんの関係もないと言われれば、それまでなんですが。ただ、音楽も同じですよね。若い奴らが女の子にモテたくてギターを始めたりするけど、練習し続けるだけで、それは立派な才能、根気があるわけでしょう。

吉田  ほんとですね。

重松  そこからプロになったりするわけだから、書き続ける根気、指を動 かし続ける根気があるのが才能の第一歩だと思う。 向上心というより、やっぱりシンプルに根気ですよね。で、いまの状況に飽きてしまって、 「これ、やめた」と言うことはあったとしても、 とにかく土俵は割らないというのも、やっぱり根気なんだと思います。だから、拓郎さん、飽きっぽいけど根気は絶対にあるんじゃないでしょうか。

吉田  僕の場合で言うと、長文を書く根気がなくて、早く決着をつけたくなって、400字詰め2、3三枚で結論出しちゃうんです。だから明らに僕は根気がないと思っているけど、これは根気とは違うんですかね。

重松  短気なんでしょう(笑)。僕自身は、ラストシーンってなにも考えずに書いていますね。

吉田  あ、ラストを考えないんですか?

重松 考えません。とりあえず始め て、あとはなんとなく終わりに向かえばいいな、と。ラストが分かっていたら、拓郎さんのように早くラストまで行きたくなるのかもしれませんが。た だ拓郎さんのエッセイ集のタイトルではありませんが、「自分の事は棚に上げて」言うなら、間奏を延々と楽しむように書いていく小説って、いいですよね。終わりになかなか向かわな い。終わりをあせらない、というのも ひとつの才能かもしれなくて。例えばジャズなんかで、ひたすら……。

吉田  アドリブを続ける。

重松  そう、終わりに行かなくてもいい。

吉田  なるほど。エンディングのことは考えない。

重松  考えずに行って最後はフェードアウトでもいい、というような終わり方でもいいと思うんです。。無理に終わりに持って行こうすると、早く終われる程度の話になっちやう。

吉田  ああ、よく分かるな。

重松  やっぱり僕らも、パソコンやワープロのキーボードを叩いている時間が無条件に楽しいんです。だから、ずっと言葉を紡いでいたい。同じように、ギタリストでギターを弾くのが嫌 いな人っていないと思うんです。

吉田  それはもう、全然いないです よ。仕事に関しての根気というのは、 僕も重松さんもあるほうだと思うけど、他のことになると、僕は途端に根気がなくなる。そういうことはないで すか?

重松  僕はですね、飯を食っている途中で飽きるんですよ(笑)。会席料理なんかいちばんいいところで飽きちゃって一緒に食べている相手に「これ あげる」。

吉田  それは嬉しい (笑)。

重松  それと、ずっと家で仕事してますから、家に飽きる。だから、引っ越 し魔なんです。サラリーマンだったら夜帰ってきて寝るだけですけど、僕は24時間、家にいますから、家の風景を消費しちゃうんです。

吉田 あ、なるほど。風景を消費する。僕もそう言われればそうかな。東京へ出てきてからだけでも、もう18カ所か19ヵ所、引っ越していますから。なんか1カ所に落ち着けないんです。 せっかちなんだな。でも、せっかちだけどきちんとしている。よく分かんないな、自分が(笑)

重松  僕も上京30年で、13回引っ越してます。引っ越しリストというのを作っていて、いつでもできるように、印鑑証明はこことかチェックリストがあるんです。 拓郎さんと同じで、段取りが好きだから引っ越しが好きなのかな。

吉田  というところで、そろそろここを引っ越して、メシということにしましょうか。

 

(2009.11.28 東京·芝にて)

構成/鈴木耕  撮影/TAMJIN

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すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ② : 2010年3月号

すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ② 2010年3月号
 
■演じる自分を意識しながら
 
重松 拓郎さんは90年代に入ってから、いろんなエッセイや発言で「オレは実はA型で整理整頓好き」と話し始めて、でも、ファンは「拓郎が整理整頓しちゃいけない」みたいに思っていて、本人の意識とファンの思い込みとの間にギャップがあったような気がします。そういうのは負担でした?
吉田  いやあ、それはね.....。今日初めてお話しすることかもしれませんが、僕はね、70年代、80年代、そして90年代の途中ぐらいまで、ある種、自分で自分のポーズを取っていた。けっこう自分で"吉田拓郎をやって"いた。だから、"ほんとうの吉田拓郎"が出ているのはごく最近の話で、少し前までは”吉田拓郎を演じて" いる部分は、自分で分かってやっていたんですよ。「あ、オレはいま演じているな」とか「ここは芝居だからな、ポーズなんだからな」ということを明確に意識していたわけです。
重松 意識して自分を演じるというのは、そうとうに疲れますね。
吉田  そうです。例えばもうずいぶん 昔になりますが、明石家さんまさんと対談して、そのころ僕はごく軽い煙草を吸っていたんですが、さんまさんから「ハイライトにしなはれや、そんな軽いの拓郎さんらしくもない」と言われてね。「あ、吉田拓郎は軽い煙草じゃなく、ハイライトでなければいけないんだ」と思い、そういうことがみんなの中にあるとしたら、それはいつから出来上がったイメージなんだろうとふと考えるようになったんです。自分の言動が作り上げたものだというこ とを大前提として百歩譲っても、僕に無関係に勝手に出来上がったものもいっぱいある、ということも含めてですね。それは、疲れますよ。
重松 分かりますね、それ。しかしファンは、荷造り好きで整理整頓が趣味で配線にこだわる吉田拓郎の姿を、まったく想像していないんですよ。むしろ想像できないというほうが当たっているかもしれません。1980年代の前半だったと思うのですが、ラジオで聴いた拓郎さんの発言で強く印象に残っている言葉があります。あるバンドが解散したという話題になったとき、 拓郎さんが「いいなあ、オレも吉田拓郎を解散したい」と。
吉田  ええ、解散したいって言っていましたね、確かに。
重松  でも、ソロのミュージシャンは解散できない。
吉田  75年の「つま恋」をやり終えたときに、1度やめたいと思ったことは記憶しています。あの場所に、5、6万人の人間が集まったっていうのはすごいことだなということ と、しかしその中には、中津川フォー クジャンボリーを引きずっている連中もいる、というのが見えたと きにね、もうやめたいと確かに思っ た。あれ、嫌なんですよ。もう縁切りたいですよ、あの中津川のようなこと とは。
重松  サブステージのアンプが壊れて、「メインステージを占拠せよ」と いうやつですね。
吉田  あそこでヒーローになってしまった吉田拓郎というヤツを、75年ごろに僕は嫌いになっていた。それで、あの吉田拓郎と訣別したいというのがあるんだけど、ファンはそれを許さない。「あれがお前の姿じゃないか。『結 婚しようよ』( 72年)なんてお前の真の姿じゃない、仮の姿だ。分かっているんだ拓郎よ」なんて言われたら、 「冗談じゃない、お前は何も分かってねえ!」って言いたかった。
重松  あのころのインタビューでの苛立ちみたいなものは、そういう思いがあったわけですね。
吉田  インタビュアー側にも、そういう僕の物言いを期待するような雰囲気があった。それを今日も言わなきゃな らないのか、と思いながら話しているうちに、もうやめたいなと思ったんですよ。あの"中津川の吉田拓郎"をもう忘れてくれと。中津川はなかったことにしてくれ、と。
重松  篠島のことも、もういいと。
吉田 僕の性格からして、終わったことはもう言うな、というのがとても強い。それが歳を取るにしたがってますます強まって、前のことを言われるのが非常に快適じゃない。だから、ステージをやっていながら、客席で「タク ロー!」と叫んでいるあいつは、ちっとも変わっていないなと。あいつを裏切るべきだ、あいつの期待にはもう応えないでいい、応えるのをやめよう。 そう思ってしまうと、先週あったことも捨ててしまえ、かなぐり捨てたほうが快適だ、というふうになっちゃったんですね。
 
■時代に嵌め込まれたという意識
 
重松 昔の自分と訣別したいというのは、やっぱり引き裂かれているということですか?
吉田  "あのときの吉田拓郎"とか "ああであったはずの吉田拓郎"というのがずっと続いてきたわけで、それらを全部なくしてしまえば幸せかって言えば、それは自分でも分からないですけど。少なくとも、それを捨てても僕は幸せに生きていく自信はありますね、いまは。
重松 でもね、拓郎さん。拓郎さんはあるインタビューで「オレは時代を作ってなんかいない。もしかしたら、時代が吉田拓郎を作ったのかもしれない」とおっしゃっていましたけど、あ の中津川はまさに時代そのものだったわけですよね。もし、あのときアンプが壊れなかったら、つまり、普通に持ち時間で演奏が終わっていたらどうなっていたんでしょうか?
吉田 中津川があろうとなかろうと 、僕はメジャーなミュージシャンには絶対になっていたと思います。その自信はあったんです。ただ、あれによって出来上がった拓郎ブームはかったで しょうけど。
重松 中津川に過大な「意味」ができてしまった。岡林信康の言葉は「私たち」であり吉田拓郎は「私」であるという分析など、いろんなものを背負わされることの始まりだった。
吉田  そうですね、あそこから始まりました、すべてが。あのころは、オー ディエンスのほうが音楽の幅を規定していました。客席がほとんど大学生で、音楽を聴きに来ているのか理屈をこねに来ているのか、よく分からないという状況で。
重松  そこが「時代が吉田拓郎を作った」ということでもあるでしょうけど、まるで観客がティーチ・インをやりにくるような雰囲気だったそうですね。メジャーで売れてしまうと「帰れ!」コールがあったりとか。
吉田  チケット代を払って参加している以上、自分もここに何かを残して帰 りたい、みたいなね。鑑賞団体などが主催するようなコンサートに呼ばれると、終わったあと、反省会ですよ(苦 笑)。 「さっきの三曲目の意味が伝わらない」とか「あの二番の歌詞はあれでいいのか」とか言われた日には、これはいったい何なのかと。中津川から引 きずってきているのは、音楽状況じゃないんです。音楽を演奏するのに、そんなことを言われる筋合いはないと考えている僕のほうが、こいつらより絶対に正しいんだ、とずっと思っていましたね。
重松  でもそれは、吉田拓郎というミ ュージシャンの出現の仕方に、深く関わっていると思うんですよ。例えば拓郎さんの最初のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろ う』( 70年)は、いわゆる全共闘時代の匂いに満ちているといってもいいん じゃないですか。
吉田  あれは、上智大学全共闘OBたちの闘争資金稼ぎのひとつとして作ったものですからね。なんとなく僕のアルバムみたいに言われていますけど、 僕の曲は『イメージの詩』を含めて 二、三曲だけです。時代の産物と言えるでしょうね。
重松  そういう時代の空気……。
 
吉田  有名な秋田明大の、日大講堂でのアジ演説とかも入っている。でも、彼が日大全共闘の輝けるリーダーだったなんてこと、いまは誰も知らない。当時はヒーローで、それこそスーパースターですよ。彼のアジ演説は、ある意味では時代を表現する日本の文化遺産だともいえる。でも若者は知らないし、誰も、あれが何だった のか、ということを問い返そうともしない時代ですよね、いまは。
重松  あの時代を回顧しようとか見直 そうという流れは、最近になって盛ん になっていますよね。同時代を体験し た世代だけでなく、あの時代を知らな い若い人たちが、まったく未知の歴史 的出来事として知りたい、と思い始め たのかもしれません。僕らの世代は微 妙に知っているから、逆に目をそらしてしまうというか、それこそ微妙です (笑)。
吉田  でも、あの全共闘運動って何だったんですかねえ。正統なムーブメントだったんだろうか。
重松 既成の世の中を壊したい、という思いは多かれ少なかれ誰にでもありますよね。拓郎さんもそうだったでしょ?
吉田  それはもちろん。でも、そこまでは分かるんだけれど、どうしてあんなに仲間内で激しく対立しなければならなかったのか、そこがどうしても理解できない。世の中を変えようという目的は、みんな同じだったはずでしよ?
重松  そういう状況に、拓郎さんは違和感を持っていたんですね。
吉田  広島大学では、しょっちゅう火炎瓶が飛んでいましたよ。68年ごろかな、ある日、そこの何かの集会みたいなものがあって、歌ってくれと呼ばれて『イメージの詩』を歌っていたら、二番の歌詞のところで「やめろ、やめろ!」って吊るし上げみたいになって、頭にきて帰ったことがあった。 呼んだヤツから「やめろ」って言われる。何なんだこれは。彼らはいったい 何がしたかったのか、何を考えていたのか、僕にはいまだに分からない。東京へ来たら、今度は上智大全共闘。それで、彼らのスローガンが「逆流からのコミュニケーション」、まるで分からない。「東京中心の逆三角形の文化---大きいほうが東京で小さいほうが地方---この逆三角形を変えるんだ」 と言うんですけどね。
重松 谷川雁さんの「工作者宣言」と同じような思想かもしれませんね。で も、『イメージの詩』が、上智大学全共闘の制作じゃなく普通にレコード会社から出ていたら、また展開は変わっていたでしょうね。
吉田  だからね、やっぱり「僕が時代 を作ったんじゃなく、時代のほうが僕をそこに嵌め込んだ」というのが当たっているし、それを僕は認めますね。
 
■等身大であること
重松  いま振り返ってみると、ほんとうに重たいものをムリヤリ背負わされてしまって、迷惑だったと思う気持ちが強いと思うんですが、逆にリアルタ イムで、まさに自分と時代とが抱き合 っている、自分が時代を撃っているという、何か選ばれた人だけの快感とか恍惚みたいなものは、感じていませんでしたか?
吉田  それはもう、圧倒的に感じていました。例えば『新譜ジャーナル』 『ヤングギター』などの当時の音楽誌が取材にくるのは分かるし、女性週刊誌などで、派手にスキャンダルめいたことを書き立てられることも多かった けれど、『月刊明星』なんていう芸能アイドル誌が「表紙になりませんか」 と言いに来たときには「あ、やっちゃったぜ」と思いましたね。こういうところまでが頼みに来るのは、「オレ 勝ったな」ですよ。あのころ、いわゆるフォーク界では「あっち側」「こっち側」という言い方をよくしていました。つまり、「新しい我々がこっち側で、旧い芸能界があっち側」という意味です。その旧い芸能界が頭を下げて来た。テレビからも出演依頼が相次いだ。僕はテレビにはほとんど出ませんでしたが、『月刊明星』は面白かったな。だって『月刊明星』では沢田研二や天地真理との対談ですよ。一方『新 譜ジャーナル』では高田渡が相手 (笑)。高田渡がどうというわけじゃな いですけどね。だから「オレは勝ったな」ですよ。
重松 中津川世代が拓郎ファン第一世代だとすれば、僕なんは拓郎さんより、17歳下の、まさにフォーライフ世代なんです。だから僕たちにとっては、ミュージシャンたちが地方から東京を目指し、博多や広島から上京していく中で、拓郎さんは一番成功した人というイメージ。原宿の「ペニーレーン」でいつも飲んでいる……。
吉田  お金持ちになっちゃった。
重松  そうそう、そうなんです。だから僕たちは、上の世代と違って、別に拓郎さんに政治性は背負わせてはいないんですが、でも「拓郎は広島の根性を見せなくちゃいけない」とかね。一 方で軟弱なニューミュージック的な音楽が流行っても、「拓郎は軟弱じゃないぞ」というこれまた勝手な決めつけもあったんだと思うんです。政治性のない年下の世代の拓郎さんへの何かの背負わせ方というのも、拓郎さんにとってはあまり心地のいいものじゃなか ったんでしょうね。
吉田  うんうん、重松さんがおっしゃった背負わされ方というのは、確かにありましたね。いまはなくなったけど、バブルのころに六本木にあった有名な洋服屋さんで僕は服を買ったりしてたんだけど、そこであるとき店員さんから、「今日は下駄じゃないんですか?」って(笑)。あ、オレは下駄を履いているイメージなんだ。そういう硬派イメージが、どこまでも僕について回っている。
 
重松  そういう硬派イメージを裏切る部分が、時々顔を出す。例えば『新譜 ジャーナル』だったかな、拓郎さんの交遊録を特集した記事があって、その中に高橋幸宏さんが入っていた。 何で拓郎さんがYMOのユキヒロと付き合っているわけ? それをショック だと思うファンもけっこう多かったんですよ。いろんな新しい音楽が出てき て、ニューミュージックなどというおしゃれさやテクノポップのスマートさに何が対応しきれない僕たちの、最後に拠って立つ場所が拓郎さんだったっていう(笑)。
吉田  すっごく分かりやすいですね、 それ。ラジオなんかでの言動とか、血の気が多いという噂などが語られれば語られるほど、僕は硬派になっていく。かまやつひろしさんなどが、あっちこっちで僕の武勇伝というのをしゃべるわけですよ。そうすると、それがひとり歩きし始める。
重松  たくさんの武勇伝……。
吉田  僕は、そんなにケンカなんかし てないですよ。そりゃ、血の気は多か ったから、多少はやりましたが(笑)。 でもね、音楽って気分ですよ。昨日は 『唇をかみしめて』( 82年)という気分だったけど、今日は『となりの町のお 嬢さん』( 75年)を歌いたいと思ったりする。それが音楽なんだけど、そっちはほったらかして「唇をかみしめて」こそが吉田拓郎だというのは、やっぱりおかしい。
重松  そういう状況の中で、拓郎さん は、いわゆる歌謡曲のアイドルの作曲家としても重要な活動をして、ひとつの時代を作った。アイドルへの曲提供 というとてもポップな仕事は、拓郎さんにとってもガス抜きになったんじゃ ないですかね。
吉田  それはもう、すっごく楽しかっ たです。東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったかって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って 作業する。「歌って、こういうふうに歌うんだよ」なんて教えるときの気持ちよさといったら、もう(笑)。
重松 特に女性アイドルとの仕事が多かったですものね。ただ、拓郎さんのそういう部分を、ファンは見まいとしてきた感じもあります。それはさっきのお話に戻りますが、女系家族の末っ子の拓郎さんの"おんな性"みたいなもの。ところが、中津川やつま恋や篠 島で『人間なんて』を歌う拓郎さんを 男たちは求めちゃって、"おんな性"を無視しようとした。
吉田  なるほど。
重松  ところが拓郎さんは、90年代に入ったあたりから、エッセイやラジオでそういうファンの気持ちをあえて無視するように、自分の思いを語り始めますよね。そして40代の半ばに、 先ほどおっしゃった、父親の足跡を追 った「フィールド·オブ·ドリーム ス」の鹿児島があった。僕もいま46歳で、当時の拓郎さんの年齢とあまり変わらないんですが、そのころに拓郎さんの持っている家族観みたいなものに、そうとう大きな変化があったんじゃないですか? 吉田   年齢的に幾つでどうなるのか、何がきっかけになったのか、引き金はよく分からないけれど、親父が死に 、おふくろが亡くなったころに、オレは死というものをきちんと受け止めてい ないな、という感じがあった。親父と おふくろがいないことの重大性が、自分の中で感じられ始めたというか ……。兄貴はまだ健在だったとはいえ 「役に立たん、この男は」との思いも あったし。それはある種、老いという 年齢を重ねてくることと関連してい ると思いますね。若いときには気づか なかったことというのはたくさんある わけだけど、特に、家族への思いと か、あるいは自分がいったい何を求め て東京に来たのだったか、若いときは 何をしたかったのか、何に向かってハ ングリーな気分っ走っていったのか。そういうことがリアルタイムではまったく分かっていなかった。結局、朝目覚めたらヨーイドンで走り出すだ けの生活。それが20代から、30、40代まで続いてきて、ただただ忙しかった、という感じでしたね。だから、僕の20年は他の人の40年分くらいの密度で、あれこれ考える暇なん てなかったようなものだけど、ようやくこのところ考えるようになった。そういう感じですかね。
重松  そう考えられるまでに、40年の時間が必要だった。
吉田 そう。だから、「ああいう拓郎はよくない、吉田拓郎はこうでなくちゃいけない」とかいまだに言っている人に出会ったら、「あの吉田拓郎というおじさんの言っていることは間違いなんだよ」って意見してあげようと思う(笑)。かつて70年代、大人たちは吉田拓郎という若者をふざけた野郎だと否定したけれど、その何割かはきっと正しかったのだ、というのが少し 自分の中で見えてきた。そう思うと、言葉は非常にありふれているけど、等身大ということが自分の中でとても現実味を帯びてくるわけです。そういうことが最近、僕の中では大きいです よ。

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重松  アルバムにも『176.5』 (84)というのがありますね。 拓郎さん自身の身長をタイトルに付けたことも、まさに等身大ということですよね。
吉田  そうです。卑近な例で言えば、今朝なんか「オレ今日、重松清さんと対談するからさ」
と奥さんに言ったら、「すごいな、そんな人と会えるなんて」と言うから「いいじゃないか、オレは吉田拓郎だよ」(笑)、「そうよね、吉田拓郎よね」というところに、 ピンポーンって宅配便。
そしたら奥さん「ちょっと出て」「お前、吉田拓郎にちょっと出てはないだろう」 (笑)。そういう生活がいまあるんだな、これが等身大か、とも。
 
重松  いいですねえ、そういう会話 (笑)。昔、拓郎さんはテレビショッピングが好きで、電話注文で「お名前は」と聞かれて「吉田拓郎です」と言ったら、向こうが一瞬「えっ?」となるのが好きなんだ、と話していましたね。 吉田 はいはい、あのタイミングがた まりません(笑)。 重松 そういう面では、やっぱり吉田 拓郎を背負うしかない。でもそろそ ろ、背負ったものを降ろしていきたい という感じなんですかね。
吉田  圧倒的に思うのは、63歳という年齢を前提にした場合、自分が気持 ちいい人生とか、気持ちいい時間をより多く過ごしたいということ。まあ、 誰でも思うことだろうけど。若いときは、嫌な時間になるか楽しい時間になるか分からないけどとりあえずやってみよう、でした。いまは、考える力と考えるキャリアを持っているわけだから、今日は楽しくなさそうだと思ったら、まず断る。
重松  ああ、そうか。
吉田  そういうことが大事だと思うようになったということです。今日はあの人だったら会ってみたいな、ビールを飲むのもいいな、と思えたらそこへ 飛んでいく。この人とビールはきついな、だったら行かない。50歳過ぎたころから強く感じ始めましたね。今日は重松さんだから言いにくいけれど、 作家との対談とか、いろいろ話は来るんです。でも、面倒くさそうだなと思うことのほうが多い。
重松 今日は、私でよかったんでしょ うか。
吉田  とても嬉しい。こんなに内面の話をするのは、こういう場ではまったく初めてです。重松さんのおかげですよ。
 
つづく

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2017/02/22

すばる・吉田拓郎ロングインタビュー・重松清 ① : 2010年3月号

すばる2010年3月号
 
吉田拓郎ロングインタビュー ①   聞き手 重松 清

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風の噂によれば、吉田拓郎さんは大の対談嫌いだという。仲のいい少数の ミュージシャンたちなどの他には、あまり個人的な付き合いもしないともいう。そんな彼に編集部から対談のオフ ァーをしたところ、こんな返事があった。
「かつて某有名作家と、ラジオ番組で対談したことがあります。始まって5分と経たないうちに、僕には彼の話の内容がまったく分からなくなりました。もちろん僕の頭のせいでしょう が、それ以来”作家は苦手“という偏見が埋め込まれてしまったようです。 しかし、重松清さんとなら、ぜひ一度お会いしてみたいと思っています」
一方、重松さんからは、
「拓郎さんとお会いして話ができるなら、こんなうれしいことはありません。拓郎さんの曲はほとんどすべてギターで弾き語りできます。ぜひ、お願 いしたいと思います」との返信。
そういうわけで初冬のある日、都内のホテル。最初は重松さんがインタビユアーという様相で、対談が始まった。
 
■"女系家族"の中で
 
重松 拓郎さんは鹿児島のご出身でし たよね。広島に移ったのは確か九歳のときと。
吉田  小学二年生のときです。最近は、何歳とか言われると計算できなく なる(笑)。二年生の終わりまで鹿児 島にいて、三年生のときにおふくろについて広島に行ったんです。
重松  お母様は広島の方なんですか?
吉田  いや。母方の祖母が広島ですが、,おふくろはどこの生まれか、僕は知らないんですよ。うちは引き揚げ者だということもあって、僕はそのあたりの詳しいことをほとんど知らない。 一家は朝鮮の羅南というところで暮らしていたらしいけど、僕は日本に引き揚げてきてから、1946年に鹿児島で生まれたんです。でも、なんで鹿児島だったのか、親父の生きてきた環境 というのがよく分からない。あとで知ったんですが、どうも親父は吉田家の養子だったらしい。
重松  お父さんは養子だったんですか?
吉田 はい。もともと吉田という姓じやなかったようです。僕もあとになって親父が養子だったということを知ったのですが、おふくろにきちんと確かめたことがなかったんです。母方の祖母が広島の出だということは分かっているんだけど。
重松  鹿児島から広島へ移った事情というのは、どういうことだったんですか?
吉田  僕はまだ子どもだったから詳し くは分からなかったけど、終戦後間もないころで、鹿児島での暮らしはラク じゃなかったみたいですね。おふくろ が栄養士の国家試験に合格して、それで広島に仕事がある、と。親父は地方史の調査の仕事を鹿児島県庁でしていたようで、鹿児島に残ったんですね。 そこから両親の別居が始まった。それが、僕の知る限りの理由ですけどね。
重松 それで、拓郎さんはお母さんについて広島へ移ったんですね。
吉田  そうです。子どもたちは「どっちを選ぶか」と言われて、僕も姉もおふくろを取っちゃつた。おばあちゃんも一緒に広島に移ったので、親父だけが鹿児島に残ってやもめ暮らしが始まるという……。さっぱり分からない話でしょ? 僕にもよく理解できない。
重松 拓郎さんは、三人きょうだいの末っ子でしたね。
吉田  いや、ほんとうは四人なんです。朝鮮にいるころに長女(恭子)が生まれて、それがいちばん上だったんですが、病気で亡くなったらしい。次に兄貴、姉貴といて、僕が末っ子です。
重松  お姉さんとは7歳違いですね。
吉田  うちのきょうだいは全員7歳違 いなんです。つまり、僕と兄貴とは14歳も年が離れていることになる。
重松  かなりの年の差ですね。そういう年齢差で、しかも末っ子だったというのは、その後の拓郎さんのいろんなことに影響していますか?
吉田   していると思いますね。末っ子ということと、もうひとつ”女系"と いうことが。
重松  女系家族……。
吉田  兄貴は哲郎というのですが、鹿児島時代は中学高校と鹿児島ラ·サールへ行っていて、あそこは寮だから、 結局、家にはいないんです。広島に移ってからも、家にいるのはおばあちゃん、おふくろ(朝子)、姉貴の宏子と全部女。その中で僕はずうっと育っていくわけです。あとになって、ああ、オレは女の中で育った末っ子なんだ と、特に東京へ出てきてから強く感じるようになりましたね。すごくバラン スが悪いんですよ、自分の中で。
重松  ずっとお姉さんと同じ部屋で、けっこうその影響を受けたと、ご自分でもおっしゃっていましたよね。
吉田  はい、ありますね、それは。姉貴は歌謡曲が大好きで、しょっちゅう 聴いていた。そういうのにすごく影響 されています。親父は鹿児島にいて、 男らしいものが家には何もない。しかも、後におふくろがお茶の先生なんか始めちやって、もううちには女の人ばっかりが出入りしている。僕自身、その当時はかなり女っぽかったような気がしますね。僕はおふくろに習って、 茶道師匠の資格を持っているんですよ、母から「吉田宗拓になりなさい」 なんて言われて(笑)
重松  ああ、それは吉田拓郎というイ メージが壊れる...... (笑)
 
■吉田家の崩壊と再生
 
重松  14歳違いのお兄さんは、ジャズピアニストでしたよね。
吉田  まあ、本人はそのつもりでいたみたい。
重松  レコードも一、二枚出している、と拓郎さんはエッセイでお書きになっていましたね。お兄さんからの音楽的な影響はあったんですか?
吉田  ゼロ、まったくゼロですね。ただ、音楽を目指したというそのスタイル、形のよさということにだけは影響 を受けたかもしれない。音楽をやるとこんな人生が送れる……と。兄貴は立教大学に進んだんですが、学生時代に独学でピアノを学んだそうです。それで東京のクラブやなんかで、アルバイ トでピアノを弾いていた。夏休みに、そういうところで働いているような女の人を連れて、広島に帰ってくるんですよ。
重松 車で?
吉田  ええ、車でガールフレンドと一 緒に里帰り。幼い僕から見ると、すごく都会の香りがするいい女なわけで, ああ、音楽やるとこういうふうになれ るのかなあ、それなら音楽やってみてもいいなあ(笑)と。
重松 終戦後まだ早い時期、しかも外地から引き揚げてきてピアノをやるというお兄さんも、かなり想像外ですよ
吉田 まったく。兄貴っていうのは、まるで勉強なんかしない、ちゃらんぽ らんなヤツでね。親父は逆に真面目一方で、だから、頑なに兄貴には名声と出世を求めていて、立派な男になってほしいと熱望していたんです。親父は小学校しか出ていなくて、学歴とかそ ういうものに非常に卑屈になっていて、それを息子たちに強く求める。姉貴は女だということでそうでもなかっ たけど、兄貴と僕にはそういう要求が強かったですね。特に長男への期待は過大なぐらいあって、ラ・サールに行っていたから、立教ではまるで満足していない。もちろん望みは東大だった。
重松  それじゃ、ピアノをやり始めたとか聞いたら、ただじゃすまなかったんじゃないですか?
吉田 もちろん、烈火のごとく怒ったんです。ピアノだ、レコードだ、挙げ句にそういう女の人を連れて帰って来 たりしたから、もう兄貴には見向きも しなくなった。
重松  でも、拓郎さんも結局、音楽のほうへ行ってしまった。お父さんがお亡くなりになったのは、確か73年で したね。ということは、もう拓郎さんはデビューしていた。お父さんはどう 感じていらっしゃったんでしょうか。
吉田  それはもう、話にならないです。つまり、僕のデビューは”吉田家 の崩壊"だというふうに、彼は晩年には思っていたみたいです。でもね、親父が死んでずいぶん経ってからなんですが、東京で僕がある種のサクセスを してから、鹿児島へ行って親父の働いていた場所とか生活の跡を「フィール ド・オブ・ドリームス」じゃないけれど、探して回ったことがあるんですよ。親父は県庁などで、郷土史家としてとても地味な仕事をしていたわけですが、その当時の知り合いの方なんかにも話を伺いました。そうしたら、 「拓郎さんが最初に出された本があり ましたよね。あれをすごく喜んで読んでいましたよ」とかね。あ、なんだ、親父も息子の自慢をしていたのかって。
重松 『気ままな絵日記』(立風書房、72年)ですね。お父さんも、けっこう 嬉しかったんだ。
吉田  そこで初めて、親父のことが少 し理解できたような気がしました。それまでは「吉田家は最悪だ。もうこの家は終わった。この家の男どもは、なんでこんなことになってしまったん だ」と、ずっと言い続けていた親父でしたからね。姉貴には異常なほど「ヒロコ、宏子だけだよ、可愛いのは」っ て言っていましたけど(笑)。
重松  しかし、"吉田家崩壊"とはいっても、お父さんはいわゆる父親らしいことはなさってこなかったんですよね。ずっと鹿児島に残っていらしたわけですし。それに対する反発は、拓郎 さんやお兄さんにはなかったんですか?
吉田 兄貴はね----、彼はもう亡くなってしまいましたが、晩年にいろいろ聞いたところでは、実は兄貴はすごく 親父を愛していたらしいですね、好きだったらしいです。僕から見ると、親父はどこか風来坊、放浪の男なんで イメージ的には。男のひとり暮らしというせいもあったんでしょうが、フラリと東京へ遊びに来てストリップ見て帰る、なんて噂を聞いて、なん だ、けっこう面白い男だったんだなあ、ってね。そういう姿に兄貴は憧れを感じていたらしい。そう考えるととても分かりやすくて、兄貴も同じようなヤツだったんですよ。風来坊で、息 子や女房をまったく顧みずに一生を終えましたけど、本当に適当な男だったですねえ。僕といつ会っても、テキトーなことばっかり言っている、そういう男でしたから。だから、「吉田家」 ということで考えたら、血は、吉田正広という親父から長男の哲郎へ、色濃くつながっています。
重松 吉田家の血統は、拓郎ではなく哲郎へ受け継がれている、と。
吉田 哲郎の息子は一発で京大へ入っちゃった。ここに、正広の願いは実現 しつつあるのかもしれません(笑)。
重松 拓郎さんのお兄さんに対する感情というのはどうだったんでしょう。 14歳も離れていると、いわゆる兄弟というよりは、もう少し遠い感覚だったんじゃありませんか?
吉田  年齢的には、もう親子に近いか もしれませんね。でも、親父も兄貴も 風来坊みたいなところがあったし、その意味で、僕のリスペクトは親父に対 しても兄貴に対してもゼロですよ。認めていない。家庭人としても最悪だし、男としても尊敬できない。
重松 確かにお話を聞いていると、お二人とも家庭人としてはかなり失格。 拓郎さんは微妙な立場ですよね。
吉田  兄貴とは年が離れているし、何より家にいない。もう他人のような感 じでしたね。おふくろの晩年ですが 寝たきりになったりして、いろいろ世話しなきゃならなかった。それを僕は経済面で、姉貴が肉体的精神的にそばにいて面倒をみたんですが、兄貴は一切他人事のようでした。兄貴に「おふ くろは、やっぱり長男に世話になりたいと言っている。考えてみてくれよ」 と言っても「誰に言ってんだ、ばかやろう」ですからね。そういう意味では、14歳差の兄弟っていうのはちょっと離れすぎていましたね。向こうも僕を子ども扱いにするし。
■異国で見た夢
重松  お兄さんは12、3歳で引き揚げてきていまよね。ということは,、向こうでの暮らしの記憶もあったわけですね。デラシネとか昔はよくそういう言い方をしたんですが、お兄さんの 生き方の根っこにも、それがあったんでしょうか。
吉田 吉田家は確かに、朝鮮では下働きの人やお手伝いさんがいるようないい暮らしをしていたようです。ばあややじいやもいたと、兄貴はよく自慢話のように言っていましたからね。そういう暮らしに対する思い出が、逆に兄貴を根無し草みたいにしたんじゃないかとも思いますね。
重松  お父さんは向こうでどんな仕事をなさっていたんですか?
吉田 それもよく分からない。何が軍関係の仕事らしい、というぐらいしか聞いていませんね、僕は。とにかく、かなり裕福な暮らしだったとは思います。兄貴は晩年まで「拓郎、朝鮮のあの家の跡へ行くとな、ブランコの下に絶対金塊が埋まっているぞ」って。何をバカなことを、という話をマジな顔で言うのを聞いていると、兄貴にとって向こうはよほど天国だったんでしょ うね。
重松  吉田家にとって、朝鮮に葬ってきたひとつの歴史があって、そして引き揚げてきてまったく別の、もうひとつの歴史が始まった、というわけですね。
吉田  そうです。"第二次吉田家"とでもいうんでしょうか。僕がいま支えているわけじゃないけれど、僕が中心になる吉田家というのが東京での僕の仕事ぶりから始まるわけで、それは、以前の"吉田さんち"とはまるで違う人生観、家庭観になっているんですね。親父、兄貴の吉田家とは切り離さ れた 「家」です。そちらの流れは、兄貴の息子に受け継がれていくのかもし れません。
重松  そうですね。14歳差というのは大きい。これがもし、2、3歳の差だったら、もっとお兄さんとぶつかっていたかもしれませんね。
吉田 絶対に。僕、二度殴っているんですよ、兄貴を。彼が広島に帰ってきては酔っ払って悪態つくたびに、「表へ出ろ」って外へ引きずり出して兄貴を張り倒しているんです。で、「怖い弟だな」なんて言いながら悪態をやめない。だから、年が近かったら、もっと激しい殴り合いになっていたでしょうね、きっと。
■虚弱少年の過保護時代
重松 拓郎さんは小児喘息でとても虚弱な少年時代を送った、と聞いていますが、ひ弱だったということが、その後の性格形成みたいなものに及ぼした影響って、やっぱり大きいですか?
吉田 いまでもその影響は大き いと思いますよ。小学校、中学校に半分くらいしか行っていないということは、いかに同世代 の子どもたちから遅れてしまうか、という話ですからね。肉体的な弱さということもあるけれど、やっぱり学業で遅れるわけですよ。小学校といえども、これはツラい。 1回喘息の発作が起きると、一、二週間は休んじゃう。子どもって成長が早いで しょ。小学校高学年から中学くらいでは、半月ほど休んで学校へ行くと、なんか同級生たちがすごく大人に見えるほど成長している。だから、家にいて僕は悶々としている。学業が遅れる、成長も遅れる、それから社会勉強にもついていけない。そういうことがすごくショックだった。高校三年くらいで 体が元気になってきて、みんなと対等になったと思えたときは、やっと自分がまともな人間になれたような気がしたほどです。遅れている自分が嫌だったですね。
重松  じゃあ、吉田少年としては、コ ンプレックスがけっこうあったんですね。学校を休んでいる間は、何をして いたんですか?やっぱり音楽を聴いていたとか。
吉田 喘息は寝ていなくてもいいんです。発作のとき以外は普通に生活できますから。まだテレビの時代じゃないので、本を読む、ラジオを聴く、それ から漫画雑誌をひたすら読み続ける。 『おもしろブック』『少年ブック』『少 年画報』とか。確か八日が発売日なのに、七日の晩に親父に頼んで本屋に行って買ってきてもらうぐらい漫画三昧。  たぶん、そのあたりで、歌謡曲とか流行の歌を聴き始めたんでしょうね、自然に。
重松  お父さんはそうとう厳しい方で、お母さんも仕事をなさっていたのだから、あの当時だったら「漫画なんか読んじゃいけません」 とか止められても不思議じゃな いと思うんですが、わりとそう いうところの理解はあったわけですね。
吉田  いやいや、親父は理解なんかまるでないですよ。漫画を買ってもらったのはたまたまですけど、僕が具合悪くて寝ていても「さっさと起きて学校へ行 け」と言うタイプでした。おふ くろが常に僕の側に回って甘やかし、ガードしてくれたんで
重松  おばあさんがいてお母さんがいて、さらに7つ上のお姉さんがいて守られてた……。 吉田 えぇもう。女三代にわたって愛され、守られ、完璧に過保護状態で真綿にくるまれていた (笑)。
重松  それこそ、宮崎先生でしたっ け、『夏休み』(アルバム『元気です。』 収録、72年)という曲の中の"姉さん先生"というような、年上の女性の背中におぶわれているような原風景、そういうのがずっとあったわけですね。
吉田  それはたぶん、自分が女系の中で育ったからというのは別にして、単純に女好きということもある(笑) でも、年上の女性に強い憧れを持っていたのは確かでしょうね。映画の女優 さんとかね。若尾文子さんなんか好きでしたねえ(笑)。
重松  年下の女の子を引っ張っていくというようなタイプじゃなかったんですね。
吉田 僕は体が弱かったせいで、学校では同級生や下級生の女の子にはまったく相手にされなかった。相手にされ ない以上、リードもしようがないわけです。学校では「吉田君は体が弱い」ということで、異性は僕に興味も何も示さないですよ。だから、高校のときもそうだったけど、まるでモテない。 モテないから、好きな女の子に遠くから仄かな想いを寄せるしかないという、典型的なモンモンと悶える虚弱な少年という感じでした。家でいろんなことを妄想するタイプの少年でした。
重松  その"モンモン" なんですが、高校時代に中学のときから好きだった女の子と宮島へデートに行く計画を立てて、すべての段取りを頭の中で決め て電話したら本人がいなかった、という話を聞いたことがあります(笑)。
吉田 まったくよくご存知で。それって、最低ですよね、僕は。
重松  そんなふうに、わりと頭の中で綿密なストーリーを組み立ててしまう タイプなんですか? あの道の何歩目でキスしてとか(笑)。
吉田 前の日だったかどうかは覚えていないけど、下見はしてます(笑)
重松  下見まで。
吉田  この辺で押し倒そうとか、もう妄想も犯罪スレスレ (笑)。
重松  そういう計画性はいまでもある とご自分でもおっしゃっていますね。 例えばハワイへ行くときに、予定は何日間だから服はこういうコーディネー トでとか、準備がすごく綿密らしいですね。
吉田  そうです。計画や荷造り大好き。もうほんと、好き。
重松 整理整頓も大好きだとか。
吉田  はい。うちはきれいに片付いていないと嫌だし、配線なんかが見えるのは大っ嫌いで、後ろを這わせてきれ いに留めて隠すとか。もう病的に整理好きですよ。
 
つづく
 

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