TAKURO YOSHIDA CONCERT TOUR 1989
READING “Dear Mr.T” COPY BY TOHRU FURUTA
たった一回の会見で最近の吉田拓郎を語るという暴挙。
【 「ひまわり」のミックス・ダウン中のこと、ある質問に対して、吉田拓郎はこう答えた。】
インタビューの途中に雪が降りはじめ、インタビュアーは、あろうことか吉田拓郎(敬称略)にこう聞いた。
積もりますかねえ。
とんでもない質問である。 商工組合の寄り合いじゃないんだから。 普通であれば、聞かないふりでもして、やり過ごす類の質問と言える。
しかし、吉田拓郎は答えた。
1988年12月、「ひまわり」のミックス・ダウン中の吉田拓郎は、ごく普通の口調で、こう答えた。
いや、俺にはわからん。
どはははは。 実に的確。 パーフェクトな回答。 吉田拓郎は、常套句的世界とは未だに疎遠な人のようである。
「積もりますかねえ」
「この分だと、今夜は積もるだろうねえ」
多くの人が、中身のすっからかんな、こうした常套句で日常生活を埋めていく。
「今がいちばん可愛い時期ですからねえ」
「ところで、気になるお値段ですが……」
ドアの開け閉めのようなそうした言葉が、毎日くりかえされる。 ミュージシャンも例外ではない。 アルバムという、10曲いくらのパッケージ商品。 3分数10秒の色恋沙汰。 コンサートという、2時間半の詰め合わせショー。 メンバーを紹介します! ベース、誰々! イエーイ!
どれもこれもが、お天気の挨拶のように毎日毎日365日、べつに1年単位で区切る必要もないけれど、うるう年なら366日、繰りかえされる。
「積もりますかねえ」という問いに、「いや、俺にはわからん」と答えたその人は、1985年夏、今後一切の音楽活動を止めるというようなことを宣言したかしなかったか……とにかく、常套句のような音楽シーンから退いた。
が、意外に早く復帰する。
【 1988年、音楽シーンに復帰した吉田拓郎は、しみじみと穏やかに、自らの周囲を見渡していた。】
1988年4月。 ツアー、そして新しいアルバムのリリース。 前年の暮れには「夜のヒットスタジオ」で「アジアの片隅で」を歌い、さらに同じくテレビでは吉田拓郎が登場するビールのコマーシャルが流れるという伏線があった。
本人がどう考えていたかは知らないが、吉田拓郎は再び音楽シーンにおいて、最も重要な現役ミュージシャンとなるであろうと多くの人が期待したはずである。
しかし、どうやらそうはならなかった。 コマーシャルの吉田拓郎はビール瓶より小っちゃくて、心ある人の胸には、こんな思いが去来した。 これは何かの間違いであろう。 おそらく第2弾あたりで、どっかーんと吉田拓郎の巨大な顔かなんかが画面いっぱいに現れるのだ。 そうに決まってる。
だがしかし……。
まあしかしそれは、寂しいことではあったが、ごくごく小さなことではある。
新しいアルバム「マッチ・ベター」については、本人自身がこう語っている。 LPが市場に出て、ある種の共感を得たとするじゃない。 で、「なんで受けたんだろう」って結果論的に考えて、そこをバネにして何かやるかも分からないけど、これまた共感がなくて(笑)。
そう言えば、チェッカーズみたいな「眠れない夜」はあまり好評でなかったようだし、そのほかの8曲では、吉田拓郎は同じことを繰り返し繰り返し語っているように見えた。
今のままでいい。
いや、もっと。
人間は、トシをとると話がしつこい……。
なんてことはないのだろうけど。そのリフレインのエッセンスとも言える佳曲が、2曲。
「MR.K」と「現在の現在」。
そして、ここがいちばんのポイントだと思うのだけれど、その2つの思いの中を行ったりきたりしながら、吉田拓郎の歌は、とても穏やかだった。 しみじみと穏やかに、自らの周囲を見渡して物思いにふけっている。 そんな感じだった。
【 “ゆうべの たわいなく わけもない いらだちが 胸を突き 身体をねじらせる” 「ひまわり」 】
新作「ひまわり」。
“ゆうべの たわいなく わけもない いらだちが 胸を突き 身体をねじらせる”
久しぶりの重い早口でそう歌う、冒頭のタイトル曲がいきなり穏やかじゃない。
不穏だ。
吉田拓郎、久々の不穏の響き。 この不穏の響きを最後に聞いたのは、確か「大阪行きは何番ホーム」だった。 「ひまわり」というタイトルの不穏な歌。
“こんな 意気地なしの 男達が 追いかける あてどない 長い夢”
あごをひいて言葉をたたみかける吉田拓郎の図。 思い浮かべて、ついコーフンしてしまったり。
“そこに 天使なんか いるはずがない 現在を殺せば ウソも一つ増える”
言葉とメロディの鋭く歯切れのよいその絡み合いは、過去に作られた作品で言えば、たとえば「英雄」や「制服」を連想させる。 そしてもうひとつ、吉田拓郎の名曲リストに新たに加えられる曲がある。 J・Dサウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」にも似た軽やかなリズムのロッカ・バラード、「その人は坂を降りて」。 この曲は、タイトルそのまま。 人生の下り坂を歌った曲だ。 人生には昔から、上り坂や下り坂や曲がり角や交差点があると言われている。 脇道や裏道なんてのもあると言われている。
“なだらかな 坂道を 降りて行く 二度と戻っては こないだろう”
常套句世界とは疎遠な人吉田拓郎も、歌の中ではときおり、こうした伝統的な比喩を使用する。 まあ、そんなことはあるとしても、この曲は充分に魅力的だ。 ふと口ずさんだようなシンプルな音符の並びの中に、微妙に人を気持ちよくさせるマジックを秘めた吉田拓郎ならではのメロデイ・ライン。“人は 自分が 変わって行くことや 互いの季節も 知らぬままに 昨日の中にいる 息をひそめながら”
基本的には、突き抜けたような明るさのある曲だが、そのボーカルに、ときおり不穏な空気が漂う。
明るくて、険しい。
2コーラスめに絡む、軽やかに美しいピアノ。 ベース・ラインがまた、シンプルではあるけれど、体に気持ちいい。 前の方がよかったという意見は、間違ってはいないと思うよ。 俺、やっぱり「元気です。」を聞くと「いいなあ」と思うもん、最近のよか。 「春だったね」とか聞いていると、「すげえな、俺」と思っちゃう(笑)。 「元気だな、この歌」とか。 でも、あれをキープして20年てのは、そんなのは嫌だな。 俺は、文句言われても変わりたい。
アルバム単位の話であれば、前のほうがよかったという意見は、今回も通用する可能性が高い。 が、何もアルバム単位で考えなければいけないということはないだろう。 「ひまわり」や「その人は坂を降りて」は、「春だったね」や「人生を語らず」などと並ぶ吉田拓郎名曲リストに加えることのできる名曲である。 そして、しみじみと穏やかに自分の周囲を見渡していた吉田拓郎が、傍らに置いたジャケットを手に取って席を立ったような、そんな2曲である。
【 コンサートについての復習と、発言には責任を持たない吉田拓郎の“大変なステージ”宣言である。】
ツアー“SATETO 1988”について、本人はこう語っている。
ドメスティックなツアーを何十年も同じパターンでやってきて、「飽きたな」というのが強くてね。 その「飽きたな」のひとつには、ファンの連中ともそろそろ縁を切りたいというのがあったわけでしょ。 それを2年半ぶりでやってみて、まあそれほど斬新な気持ちにもなれなかったし、そうかと言ってこっちが新しかったのかというと、俺もそうでもなかったかなという気がするし。 こっちもあっちも大して進歩していないという確認はできたかなと思う。
僕は、5月20日の新宿厚生年金でのコンサートを見た。 年令からくるものか、体調のせいか、単に久しぶりだったせいか、原因は定かではないが、吉田拓郎の声の調子は明らかに悪かった。
でも僕は、充分に楽しめた。
“魂を揺さぶる”とか“生きるか死ぬか”なんてこととは無縁のコンサートである。 あわただしい休日の遊園地みたいな、最近の多くのコンサートとは明らかに一線を画する安息のライブ・ショー。 観客は、いつまでも席に座ったままだ。 「イメージの詩」が、メドレーの中で、ラジオから流れるヒット曲のように、無造作に歌われる。
とてもよくしゃべる吉田拓郎。
コンサートの吉田拓郎も、アルバムと同様穏やかだった。
今回は違うらしい。
発言には責任を持たないと言う吉田拓郎が語る。
今度は大変なステージだよ。 あれをやったからだよね。 あれをやっとかないと、1回。 お茶でよくあるんだけど、お茶会やって席にお客さん迎えるときに、きれいな水をまいておくわけ。 で、手洗いがあって、そこで手を洗って入ってくるという。 そうしないで入ってくる客ってのは、無礼な客なの(笑)。
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吉田拓郎には実際のところ、新しい歌なんか作らなくても充分なだけの、美しい歌のストックがある。 吉田拓郎が偉大なる歌手であり、作詞家であり、作曲家であり、ミュージシャンであるということを、本人も含めて、多くの人に認識させるための材料は、もう充分にそろっている。 しかし、吉田拓郎はまた新しい歌を作り、新しいステージに立つ。
今度は大変なステージだよ、と本人が語った今回のツアー。
吉田拓郎のコンサートを見に行くときには、たとえば、オープニングはどの曲だろうと考える楽しみがある。 愛奴のど派手なツイン・リードとフェイクされたボーカルににすっかり驚かされた「おろかなるひとり言」。 めったやたらと力が入って、うなるように歌われた「ああ青春」。 比較的最近では、日本武道館のライブがいきなり「イメージの詩」で始まり、思わず血湧き肉躍ってしまった。 そんな記憶がある。 そういえば去年の、アコースティック・ギターで歌われた「冷たい雨が降っている」もまったく予想できないような選曲だった。
さて、今回は何から始まるのか、いや、何から始まったのか、かな。
このパンフレットをコンサート前に読んでいる人、コンサート後に読んでいる人、まさかコンサートの最中に読んでいる人はいないと思うけれど、そんなみんなに届けられるツアーについての本人の発言は、前述した打ち水の話と、こんな話だけだ。
どんなリハーサルやってどんなステージ作ろうとか、全然考えてない。 お正月に温泉につかって、3~4日もあれば間に合うでしょう。 「今度は大変」と言っておきながら、この風情。
しかし。
コンセプトだの演出だのを積み重ね過ぎてその日その時その場の発見やコミュニケーションがすっかり抜け落ちたライブよりも、ぎてその日その時その場の自分自身に敏感な吉田拓郎のライブが( 状況次第で退屈になってしまう危険性も含めて )数段スリリングなのは、どうしようもなく事実である。
【 吉田拓郎は、ガラスが張られていることに気づかず、ドアの横から外にでようとしてガラスにぶつかった 】
最後に再び、山中湖ミュージック・イン・スタジオで行われた昨年12月のインタビュー( 元々は吉田拓郎の機関紙のためにおこなわれたものなのだが )からのエピソード。 僕と、もうひとりのインタビュアーは、吉田拓郎とは初対面だった。 同行してくれた、こすぎじゅんいち氏がふたりを紹介する。
よろしく……。
吉田拓郎は、ふたりとは全く視線を合わさずに、挨拶の言葉の語尾を飲みこんでしまうようにして、頭を斜めに下げ、ソファに腰掛けた。
これは傲慢な態度であろうか。
そしてその後、インタビューの準備をするあいだに、吉田拓郎は周囲にいた人達にこんな話をする。
いやあ、今、部屋で風呂に入ってたら、ベッド・メイクの女の人が入って来て、まいったよ(笑)。 全然気にしないねえ、あの人達は。 こっちは出るに出られなくて、風呂の中で小っちゃくなって。 かっこ悪いよねえ、大の男が(笑)。
たった1回会っただけの僕の深い吉田拓郎研究によれば、吉田拓郎という人は、再三言うようだけれど、経験によって感覚を鈍化させてしまわない、稀有な人物である。 初対面のインタビュアーに「いやいや、遠いところわざわざどうも」などと、パターン通りのあいさつなどしない人である。
さらにもうひとつの出来事。
インタビューが終わって、席を立った吉田拓郎。 その人はドアの横がガラス張りになっているのに気づかずにそこから出ようとして、ガラスにぶつかった。 そして、ほとんどの人がその事実に気づかなかったにも関わらず、ひとりでしきりに照れて騒ぐ。
おーっ、まいった。 俺、もう……でも、これガラスないように見えるよねえ! いやーホントにもう……(笑)。
怪我などなくてなによりでしたが、吉田拓郎さん( 敬称略さず )、拓郎さんはホントに未だに純情可憐な大人の人。
いつまでも変わらずに変わり続けていくんだろうなあと、そう思います。
今でもそうなのだがスキーや海水浴に行くたびに、決まってものもらいになって困る。かつて訪ねた医者いわく「まぶたに脂肪の固まりがあるんですね。 そういう時はサングラスした方が…」 やった!! と思いましたね。 まだ10代でしたから。 堂々とサングラス!! 「いやー、眼がちょっとね…」と言う時の快感。
でもそれ以来10数年、僕は、平面的なわが顔をうらみつつ、うまく鼻筋に乗っかるサングラスを捜し続ける苦行をしいられているのです。
シンプジャーナル編集長 大越 正実
しかしなんかけっこう近頃の若い人達はちょっと基本的に横柄な人が多いんじゃないかと思う。僕は仕事をさせていただく立場であることが多いから、たまたまその仕事先の担当者が社会人になって間がない人だったりすることもある。 で、電話なんかで話をしたりするんですが、「○○ですね」 「うん、そう」 「○○はどうしますか?」 「ああ、じゃあこっちでやるから」なんて会話になったりする。 時々むっとする。
エディター&ライター 西井 一実
そう言えば拓郎氏には、やっぱり社長業は似合わなかったと僕も思う。 たまにフォーライフの社長室に顔を出しても、拓郎氏は所在なげで退屈そうだった。 そして、「おっ、いいところへ来たな。 一局やろうぜ」と嬉しそうに将棋盤を持ち出すのだった。
で、僕も仕事のことを忘れてバチリバチリということになる。 もちろん、将棋の腕前は僕の方が上で( もっともこの件については拓郎氏にはかなりの異論もあろうが )、お互い、相手の手の悪口を言い合いながらの30分。 でも、それでもけっこう会社はうまくいっていたようだから、拓郎氏、実はなかなか有能な社長だったのかもしれない。
週刊プレイボーイ副編集長 鈴木 力
拍手が鳴るか罵声が飛ぶか、客席を睨みつけるように拓郎はステージに立った。 70年代初めのフォークシンガーは7、8組のジョイントコンサートはあたりまえで、しかし互いに群れることなく、会場の若者に自分の言葉と音で挑んでいた。 きっともう「帰れ!」コールに激怒した拓郎など神話なのだろう。 たが今は反撥もなく秩序のある熱狂に囲まれ、拓郎は何を歌うのか。 時代と日なたぼっこをするのが拓郎ではない。
フリーライター 石原 信一
2月8日 北海道 北海道厚生年金会館
2月12日 福島 郡山市民文化センター
2月15日 大阪 大阪フェスティバルホール
2月16日 大阪 大阪フェスティバルホール
2月21日 広島 広島厚生年金会館
2月23日 福岡 福岡サンパレスホール
2月27日 愛媛 松山市民会館
2月28日 高知 高知県民文化ホール
3月3日 長野 長野県民文化会館
3月10日 愛知 名古屋市民会館
3月12日 静岡 静岡市民文化会館
3月15日 東京
東京ドーム
セット・リスト
1.チェックインブルース
2.パラレル
3.楽園
4.夕陽は逃げ足が速いんだ
5.冬の雨
6.Woo Baby
7.ひまわり
8.恋唄
9.約束~永遠の地にて~
10.ああ、グッと
11.シンシア '89
12.その人は坂を降りて
13.望みを捨てろ
14.春だったね
15.抱きたい
16.帰路
アンコール
17.六月の雨の中で
18.七つの夜と七つの酒
19.ロンリーストリートキャフェ
20.この指とまれ
21.英雄
MUSICIANS
VOCAL&GUITAR TAKURO YOSHIDA
DRUMS KIYOSHI KAMATA
BASS EIJI AMAMIZU
GUITAR HIDEO SAITOH
KEYBOARD HAJIMU TAKEDA
KEYBOARD YUMIKO KAMATA
- 再びHISTORY 1970 - 1993 -
3月15日、東京ドームのコンサートは、単に東京ドームだという器の問題とは別に、注目される子とがいくつかもあった。 そのひとつは、彼が古い曲をほとんど歌わなかったことだ。 「ひまわり」の中の曲を中心に組み立てられたコンサートは、拓郎が「ひまわり」というアルバムをどう受けとめているか、を感じさせた。
それが「ひまわり」で、新しいヒューマンな拓郎を表現した彼の、'89年の“一度は通らないといけない場面”だったように思う。 “ONE LAST NIGHT IN つま恋”以来4年ぶりの、5万人規模のコンサートを、それまでと同じ質のもので流してしまうわけにはいかない。
それが、新曲中心のラインナップだった。
ただ、客席には、そう思わない観客も少なからずいた。 彼らは、ステージで次々と新曲が披露されることに、明らかに不満の色を浮かべ、ある者は、アンコールを待たずに席を立った。 “待ち焦がれていた拓郎”に対する、客席の想い。 なつかしい曲を聴きたい、“つま恋”を再現してほしい。 そう思っていた客が、たくさんいたはずだ。 でも、そんなふうに予定調和的なイベントを繰り返さないのも、吉田拓郎だった。 2回目のアンコールで、彼は「ロンリー・ストリート・キャフェ」を生ギター一本で絶唱した。 そこには、5万人も東京ドームもなく、吉田拓郎がいた。 ドームで、生ギター一本で、あれだけの歌を聴かせることのできるアーティストが、何人いるだろう。
'89年。
東京ドームは、拓郎にとって、80年代の終わりにつけておかなければいけない区切りだったのだろう。
拓郎は11月21日から、80年代最後のツアーをスタートさせる。 “TAKURO YOSHIDA TOUR 1989-90”。
サブタイトルにはこうあった。
「人間なんて」 。
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