吉田拓郎と愛の歌 ('82オールナイト・ニッポン 最終回より)
吉田拓郎と愛の歌 ('82オールナイト・ニッポン 最終回より)
僕のところに取材に来る人達は、だいたい、あるの思い入れを持ってやって来る訳です。つまり、今の"やさしさ"とか"愛の歌"を歌っている人達を『何とか、コケおろして欲しい。』という期待感をもって、インタビューに来る人達が多くて、ここ1~2年疲れました。何とか、酒を飲まして、何かを言わせようとして。それで、僕が何か言うと、「イヤー、痛快。痛快。それでいいんです。」みたいな感じで。こうしたことに、もう、疲れてしまいました。
さて、その"愛の歌"ですが。
彼らは「とにかく、愛の歌が多すぎる。」と言います。僕も確かに、愛の歌がたくさん増えたんだなぁ、と思ったりします。そこで、「愛の歌を」歌っていると思われるLPを2枚ぐらい選んで聴いてみたんですが、この時、「僕らはちょっと、頭を使ってレコードを聴かなくてはいかん。」と思う訳です。ただ単に、きれいな声で歌っているから愛の歌だとか、別れをどうのこうの歌っているから愛の歌だとか、そういうのではなくて、もっと、じっくりと、脳ミソを
働かして聴かなくてはいかんと思います。
そうして、例えば、○○さんが歌っている愛の歌をじっくりと、自分なりに分析してみると、本当の意味での愛の歌、-まあ、愛の歌は個人個人、思い入れが違うだろうから、その定義なんていうのはないと思うのですが、- 僕なりに考えてみると、愛の歌はないなぁ、と思い、不毛に満ちていると思えたのです。
愛に満ちた歌というのは、そうザラに世の中にころがっている訳はない、と僕なんかは思ったりします。が、まあ、愛の歌と思われる歌、誰さんが好きだとか、別れたとか、一緒になりたいとかいう歌を聴いたのですが、どの曲も僕の中に愛の歌とは伝わってこなくて、
(僕の感性が鈍いのかも知れませんが、)愛に満ちた歌は皆無に近い、と思ったのです。
愛というのは、テーマが非常に大きくて、どんな歌でも作れる、という反面、テーマが奥深くて大変なんだ、ということもあります。テーマが大きいので、詞を書いている人達の作詞の能力、テクニックなどはいらん、ということもあるですが、愛の歌ぐらいは、なんとか、シッ、ピシッと決めて欲しいという感じがあるのです。
メッセージみたいのなら、言いたいことを言っちまうというのがありますが、- まあ、愛の歌もメッセージということには変わりありませんが - 何となく、詞の表現力がメチャクチャ幼稚だと、僕は思いました。文学からの借り物も多く、「ああ、○○の小説から引用しているな」と感じられたりして。愛というのは人類の永遠のテーマです。もう、いつまで追及しても果てることのない大きなテーマです。例えば、『雨の中で君を見かけて、君が泣いていた。君は
きっと悲しいことがあったのだろう。 僕はつい、君の肩に
両手をまわしてしまった…。』
こういういうのを愛の歌というのか? というと、こういうのは本当は、愛の歌とは言わない。 こんな歌なら、誰だって作れるなと思うし、逆にこういうのでいいなら、どっかの作詞家の大先生に書いてもらった方が、テクニック的にすばらしいし、うまくまとまってるからいいんじゃないかと、極端な話、思ったりします。
しかし、仮にも、恥ずかしながらも、テメエで詞を書いていて、その詞によって、みんなが感動するならば - 聴いているみんなが、何かに吸い込まれていくような雰囲気になっていると、歌っている人自身が自覚して、「みんな自分の歌に感動しているなぁ」と思ったら - その段階から、もっと自分自身を磨かなきゃいかん、と思う訳です。まぁ、ことニユーミュージックの限りでは、メロディーは別として、詞の世界で、自分を一生懸命磨いているな、どん
どん鋭くなっていくな、と思われる人はほとんどいないよう
な気がします。
それだから、今の日本のロック、フォークには革命がない。70年代初期に、自分達で歌を作るんだという革命があって、それがそのまま今にきてしまっている。 欧米の場合は、70年代に、フォーク、ロックの詩人達が皆、自分の体を苛んででも - たとえ麻薬漬けにしても、LSDを使っても - 自分を追及するという時代があったのです。言葉の追及とか、詞のイメージの追及とか、その為なら、麻薬でも、LSDでも、何でも使う。その結果、欧米ではロック革命がいっぱいあった。この人が出てくるとギターのフレーズががらっと変わるとか。音楽の流れが変わるとか。ジミ・ヘンが出てくるとギターが変わるとか。ジェフ・ベック、クラプトンがが出てくると変わるとか…。
そういう革命が常にあって、本当に彼らが自分を貪欲なぐらい磨いているなと感じるのですが、日本の場合、そういう画期的な音楽革命が全然感じられない。まぁ、自分を含めて、「いかんなぁ」と思っているのですが、今の日本、やっぱり、相変わらずコピーだし。「ヨロシク!!」と言いながらロックンロール。アメリカの50年代のロックンロールが今、日本で流行っている。日本の音楽はアメリカの50年代へ逆もどりするのか! 70年代にやった、日本語のフォーク、ロック革命はどこへ行ってしまうのか! と思うと、もう、情なくなってしまう。
最近のニユーミュージックの詞の世界に限れば、ごく一部の人は、研ぎすまされたすばらしい詞を書いていますが、大半は、言葉の分野で低下の一途、と感じる訳です。これは、もう、ミュージシャンがいけない。もっと自分に厳しくなくてはいかん。金儲けは、いい作品を作れば後からついて来るんだから、そんな"営業"じゃなくて、もっと、創作、制作のことに一生懸命やって欲しい。自分を崖っ淵に追い込んでもいいから、こうなりやマリファナ吸ってもいいから、というような気持ちでやって欲しいのですが、何か、健康優良児が詞を書いているという気がして仕方ない。
まぁ、それ程厳しく自分自身を追求しているのかな、みんな? という感じで、もう1回、彼らのレコードを聴いてみて下さい。 本当に自分を追求しているか、と思いながらレコードを聴くと、その結果は、はっきり言って、笑いますね。僕はもう、正直言って、腹が痛くなるぐらい笑ってしまいました。それ程に、自分の体を痛める、精神を悩ますぐらい、自分を追求している人はいないと思います。 全然、自分を
鍛えていない、という気がして、もう、笑います。
そうなると、こんなのでヒットするなら、俺でもできる、もう、誰でもできる、というような感じで、音楽家であるという意味がない。だから偉そうなことを言わず、バカに徹すればいいのに。 ところが、言ってることはポーズが多くて、人前ではきれいなことばかり言って。きれいな歌歌ってる裏では、何やってるか分かんないくせに、調子に乗るんじゃねぇ! と、もう、本当に怒りました。が、怒る反面、自分を磨いてないな、と思って笑いましたが。
まあ、僕は人のことを言ってますが、自分を含めて、自分自身をもっと追求しなくちゃいかん、ミュージシャンとして追求しなくちゃいかん、と思います。 何か、営業マンとして自分を追求しているのではないか、という気がして、僕も自分で、いかんと思ってる訳です。ですから、もっと自分を磨く為に、(かっこいいが)旅に出て、もう1回自由になる、という気分でいるのです。
とにかく、そういう訳で、"愛の歌"なんて、そう世の中にザラにころがっていません。やさしさとか、思いやりとか、別れとか、そういうことを歌えば、それが"愛の歌"なんだ、ということは大まちがいで、人の生き方とか、その人が生きているということの奥の奥を追求する、ということが、本当の意味での愛の歌ではないかと、僕は思うので
す。
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