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2006/12/30

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(2)

吉田拓郎90年代へ・・・・・。・パチパチ読本 1990年 No.1(2)

●体、大きかった。
吉田 ヒョローっとね。背高いけど、やせぎすでサ。 今から考えらんないモヤシみたいな体つきだった。
●今度のアルバムのタイトル『176.5』って、身長でしょ?
吉田 うん。大学の時から身長はのびてないみたいよ。身長は短くなってるっていう噂もある。(笑)
●でも、その頃の米軍キャンプって、ベトナム戦争の最中でしょ。 60年代の後半で。
吉田 そう。すごいっすよ。あれは演奏した人間でないとわからないけど、白黒ショーっていってた。
●ヒワイな意味じゃなくて (笑)
吉田 白人と黒人のことね。すごいんだ、対立が。 黒人の好きなリズム&ブルースとかやると、黒人がドーッと入ってきて白人は出てっちゃうし、ビーチボーイズなんかやると、また白人がドーッと入ってきて黒人は出てっちゃうの。こっちは楽しくてサ。
●赤あげて、白あげて、みたいで。(笑)
吉田 白黒ショーって言ってた。(笑)
●曲はどんなのを。
吉田 あの頃だから、スペンサー・デイヴィス・グループとかのコピーやってましたね。やっぱりリズム&ブルースじゃないかな、俺の音楽は。ダウンタウンズのリード・ボーカルの奴がサム・クックとか好きで。上手かったよ。オーティス・レディングとか。
●リード·ギター?
吉田 僕、リード・ギター。(笑)
●オリジナルをやるようになったきっかけというのは何だったんですか?
吉田 夏に海水浴場かなんかで演奏してくれっていうのがあって、そのうちに親衛隊がついてきてて、親衛隊の娘たちが、ビートルズは自分で曲作るのに、ダウンタウンズは、自分で作れないからダメだとか言うようになって発奮してサ。ロックでオリジナルやらないのは、もうモテない。(笑)で、つたない詩で一曲作ったのが最初。
●どんな曲だったという。
吉田 ダウンタウンズのヒット曲だったんですけどね。「好きになったよ、女の子」っていう。(笑) 元のメロディーは「たどり着いたらいつも雨降り」なんですけどね。あのメロディーで詩が違うの、全然。 それでライト・ミュージック・コンテストに優勝したんです。中国、四国地方は優勝するんだけど、東京に来ると落っこちちゃう。3回出たんだけどね。 でも、当時はホラ、生意気だから、今でも落ちた奴っていうのはそう思うんだろうけど、俺たちも言ってたよね。審査員に目がないんだよ。(笑)
●今のアマチュアの人たちと状況は違ってたでしょうね。
吉田 圧倒的に違うのは、とにかく、一杯いるよね、今。メチャクチャ多いでしょ。で、メチャクチャ多いのに、オリジナリティなくて、みんな同じことやってるっていうのがすごいよねえ。僕たちの時代、絶体、違うことやんなかったらうけないの。同じことやってたんじゃ全然ダメなんだよね。アマチュアでも絶対に同じことしないって思ってた。今、"イカ天"とか見てると、同じだしね。ま、僕たちの頃、歌うグループも少なかったしね。
●バンドでプロになろうとはした。
吉田 ソロは嫌だったのね。プロになるのならバンド、だって、ビートルズなんだから。(笑) バンドで渡辺プロとか行ったけど、相手にしてもらえなかった(笑)
●それはコネがあって。
吉田 コネはなかったんだけど、東京の歯科大学に行ってる奴がいたから、そいつが場所を調べておいて、前もって、広島から出てきたんですが、何時頃行きますから、とか言ってサ。で、チャーリィ・石黒サンが出てきてくれて、一応話はしたんだけど、その後全然。
●オリジナル曲ばかり。
吉田 テープにオリジナルを20曲くらい入れて、聴いてくれて渡したんだけどサ、聴いてもらえなかったんだろうね、やっぱり。田舎者は相手にしてくれなかったっていう。
●どんな恰好して行ったという。
吉田 覚えてないなあ。ま、でも長髪だったですよ。 みんな。とにかくビートルズですから。(笑)絶対。 世界一うまいと思ってたのね。世界だよ。日本じゃない (笑) 広島にいて世界に通用するバンドだと思ってた。東京に行ったこともないのにサ。広島でやってるだけなんだけど、世界に通用するって思ってたもんね。リード・ボーカルには、お前のそのフィーリング、世界一じゃないかとか。(笑)
●その時、"成功"っていうのは、何をさしてたんですか。
吉田 全部ビートルズだよね。(笑)  あれは成功ってもんだもん。世界ツアーをやる、とか思ってた。(笑)
●その頃って、GSの全盛期でしょ。 GSに対してはどう思ってたんですか。
吉田 グループ・サウンズっていうのは、位置づけとして低かったですよね。申しわけないけど、僕らの意識の中ではバカにしてきたね。やってる音楽が下手だったとか。オリジナルの曲で、いい曲があるとかっていっても、それは作曲家が作ってたわけでしょ。どっちかというと。スパイダースがたまオリジナルやってみても、それ以外は、だいたい自分たちのバンドで作らないで作曲家が作ってましたしね。それは、アメリカン・ポップスの昔のヒット・ソング作りと同じシステムだと思ったし。でも、申し訳ないけど、なにより、演奏が下手だと思った。
●あいつらなら、勝てる。
吉田 勝てるっていうより、勝ってる(笑) だって、世界一なんだから。(笑) あいつら東京でエラソーな顔してるけど、俺ら世界一なんだから。(笑) あんなもん、俺たちがナベプロ行ったら、もう、(笑) すぐデビューするもんだって決めてたからね。(笑)  広島の女の子たちにも、半年たったら、俺たちデビューしてるからって言ってた。とんでもない話だよね。甘くなかったですよ。(笑)
●卒業はした。
吉田 した。一応大学は、東京でもうやってたから、2年遅れたけど。大卒。(笑) ナベプロ行った時、みんな大学生だったから、大学も大事だ。学歴も尊重だとか言って、これでダメならあきらめようぜっていう約束があったから解散したんだけどね。
●音楽で喰えるなんていうことも考えられない時代だったという。
吉田 そうねぇ。テレビでザ・ヒット・パレードとか見てたけど、あれなんかスターは出てきても、音楽やってる、音楽で喰ってるっていう感じしなかったものね。スターっていっても小さいし。僕らの夢はビートルズだったわけだから。(笑) 世界をかけめぐるっていうね。あそこまでいかないとスターじゃないって (笑) それどころか、結局東京でデビューすることの方がえらいおおごとだったけどね(笑)
●子供の頃からそういう夢想家だったんですか。世界を夢みてるみたいな。(笑)
吉田 いやぁ、ないっすよ。そんなもんは。とにかくビートルズが、何ていうのかな、妄想家にしたてあげたんですよ。みんな夢見たもん。あんなふうにアメリカの女の子をキャアキャア言わせてみせるって。(笑) 本気だったから。信じられないけどね。高校の頃なんか授業中、仲間だけで、小説書いてんの。 小説っていったってつたないんだけど。それは、本当にビートルズみたいに世界を席巻する小説なわけよ。お前の話、面白えとか読みあったりして、夢は世界だったんだよねぇ。

吉田拓郎のデビューは、エレック・レコードという会社だった。モチロン、今はもう倒産してしまって存在しない。'75年にシュガー・ベイブのデビューLPをリリースして、3か月後に消滅した。メジャーなレコード会社ではない。当時フォーク・ソン グと呼ばれていた音楽に、メジャーなレコード会社は見向きもしなかった。つまり、誰も売れると思わなかったのだ。髪の毛の長い、汚らしいヒッピーまがいの若者・・・そんな連中のやっているわけのわからない音楽、としか見られていなかった。
時代だった。
拓郎がデビューすることになったいきさつも、まさに、そんな中だった。 彼らが作っていた広島フォーク村に、東京から上智大学の学生運動をやっているメンバーが訪ねてくる。"全共闘"と呼ばれた60年代後半から70年代にかけて日本中の大学をおおった学生運動の波の中のことだ。
"逆流のコミュニケーション"
それが彼らのキャッチフレーズで彼らは「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を作った。 メジャーなレコード会社がフォーク・ソングを手がけるようになるのは、吉田拓郎からだ。'72年1月 にCBS・ソニーが発売した「結婚しようよ」は、ヒット・チャートの2位にランキングされる"大ヒ ット曲“になる。CBS・ソニーの1枚目のLP『元気です。』は、'72年のLPチャートに14週1位にランキングされた。連続13週である。そして、そのことで、拓郎はフォーク・コンサートの会場で、”帰れ帰れ 裏切者“のバ声をあびることになる。

吉田 何か、全然死語だね。(笑) 死語。ホントに過去のことになっちゃったね。学生運動って何だったんだとか。でも、俺は広大(広島大学)じゃなかったから、学生運動に直接たずさわっていたわけじゃないけどね。外から見てたけど、すっげえなあ、広島大学はって思ってた。
●時計台が燃えたりしてたんでしょ。
吉田 そう。それ横目に見ながら広島商大に通ってた。(笑) 何だうちの大学は、とか思いながら同い年で同じ学生なのに、むこうはすごいことやってるのに、うちは平穏な大学だなあとか、つまんねぇとこ入ったなって思ったもん。あっちは燃えるもんがあっていいなと思った。そうなると。俺は結局、音楽しかなかったし。広大の理工学部だったかな、学部祭に呼ばれて歌ったもん。「イメージの詩」を。終わってから自己批判させられたよ。(笑) どういうつもりでこの歌を作ったんですか? とか聞かれて。 恋の歌っていうニュアンスで作ったって言ったら、 そんな歌うたってる場合か、とか言われた。(笑)
●広島フォーク村は、どうやって。
吉田 俺は途中から呼ばれたんだけど、僕ら広島でやってる奴らから見ると、やっぱり大阪と東京がメインで、でも、広島は広島のオリジナリティを追究したりしてて、でも、固まってなかったんだよね。それが固まったらパワーになるんじゃないかっていう。ただ、広島でオリジナルやってるの僕くらいだったから。デッカイ面してるのは。(笑) おこがましいんだけど、広島でサ、人気あったの、僕って、(笑) それが良くなかったんだけどね。調子にのって。(笑) オレ、すげぇうけるなとか。(笑) たとえば、河合楽器なんだけど、ギター教室やってくんないかって言われて、俺、ギター我流ですよ、とかいって。我流でもいいから、君のギターをみんなやりたがってるって、我流のギター教えるんだよ。(笑) で、50、60人習いに来て。お金入るわけ。音楽って趣味で我流で始めてアマチュアなのにお金になる。これはおいしい。(笑) たぶんビートルズでも思ったと思うよ。少しでも近づいたんだよね、ビートルズに。音楽は おいしいって。 (笑)
●で、レコード デビュー。
吉田 なにしろ、エレック・レコードですからねえ (笑) 明日のことがわからないっていう会社だからね。通信販売の会社だったから。その前、上智の、学生運動に敗れた連中が運動を停止したくないっていうんで、マスコミの場で、逆流のコミュニケーションっていうテーゼで何かやろうって、で、音楽が不可欠だろうって、日本中探して歩いていたんだね、たまたま広島に来てフォーク村に遊びに来て、お前たちやんないかって声かけられて。俺たち何のことか全然わからなかったけど、ま、レコードになるんならいいや. (笑)そのテープをエレック・レコ ードが買いとったわけ、でも、そんなこと僕たちに関係ないから、広島に帰ってたら、エレックから「イメージの詩」がシングルで出たわけ。俺、広島のレコード屋で、エ? 出てんのって聞いたら、ひどいの。(笑) 長いのを短かく切ってあって、編集が下手で、リズムが裏になったりグジャグジャなの。(笑) で、東京のエレックに電話してひどいじゃないですか、こんなの恥ずかしいよ、俺、とか言ったら、文句あるならやり直しに来いって。(笑) で、やり直してレコードになった。
●無茶苦茶といえば無茶苦茶。 (笑)
吉田 でも一応レコード・デビューだからやった、みたいな気もあったし。ま、はめられたんだけど(笑)
●世界の第一歩だ。(笑)
吉田 世界の第一歩がレコードの配送から始まってるからねぇ。(笑) 情けなかったなぁ、あれだって社員なんだからね。
●月給制?
吉田 月給なんだなぁ。印税じゃないんだよ。印税知らなかったもん。本当に。知ったのって、エレックやめてCBS・ソニーに引っぱられて。その時、お前、エレックってどうなってるんだって聞かれて、わかんないけど、給料は結構もらってたよ(笑) 給料分くらいちょうだいって言ったんだけど笑われて。 (笑) お前、それで満足してんのかって言うから、暮らしていくには十分だし、ボーナスももらったんだとかって言ったら、お前ボーナスもらってんのか。(笑) うん。俺、社員だったからって言ったら、 また笑われて。(笑) そうじゃないんだって印税の説明されたの。
●月給っていくらだったの。
吉田 3万5、6千円。うん。大卒だから一応。(笑) 大卒初任給。(笑) それで、月給3万5、6千円なのに、俺は世界に通用すると思ってたからかどうか知らないよ(笑) 家賃3万5千円のマンションに住んでた。(笑)
●どうやって暮らしてたんですか(笑)
吉田 よねぇ。(笑) ずーと前借りがたまってて部屋代はずーっと前借り。(笑) でもさあ、金なんていくら借金したって、俺は、今に、億かせぐ予定だから構わねえや。(笑) エレックの社長なんか、やっぱり金のなる木だと思ってたんじゃないかな。2年目かなんかにボーナスに10万円くれたんだよ。で、僕にとったら、当時の1万円札10枚ってすっごい金ですよ。これは大事にしなくちゃって。でも、貯金しなくちゃっていう発想がなくてサ、家においてマンションのカーテンに洗濯ばさみで10枚吊るして毎晩見ながら一枚ずつ使ってくの。で、最後の2枚ぐらいのときに、ヤバイと思って初めて貯金したの。世界をめざすにしては、ちょっと悲しい話だったけど (笑) でも、それでも、何ていうのかなぁ。ブロっていうのかなぁ。印税じゃなくて給料なんだけど、一応レコード出してるし、ファンレターもちょこちょこ来るようになってたし。ラジオで流れたり。快感はあったよね。
●で、「結婚しようよ」になる。
吉田 不思議な時代だったよねぇ。(笑) いきなり、帰れ!帰れ!だもの。(笑) 自分では何だかわからないですよ。歌わせてもらえないんだから。(笑) どこだったか町の名前は忘れたけど、関東地方の近郊でやった時、あがた森魚や高田渡が出てて、僕が最初だったんですよ。で、ステージに出ていったらいきなり帰れ!帰れ!ですからね。歌わないで帰ってきましたよ。(笑) そしたら、俺が帰ったらそいつらもほとんど帰ったんだって、じゃ何だ、俺のこと歌わせないために来てるのかって。(笑)
●鮮明に覚えてる?
吉田 覚えてるなぁ、一番ひどかったのは、金沢の卯辰山っていう相撲場があるんですけど、そこのステージが土俵の部分に作ってあるわけ。客席の方が高くて、すりばちみたいな底にステージがあるのに、客席から一斉にアキカンとか飛んでくるから、逃げられないんだよ。(笑) 珍しいコンサートだった (笑)
●「結婚しようよ」は歌ってました?
吉田 歌えないよ。それからは怖いもの。(笑) 75年のつま恋が初めてですよ。あの時だってもし、5万人が一斉に騒ぎだしたらどうしようと思って恐る恐るでしたよね。イントロが始まったら客席がワッと湧いたんで、ああ、大丈夫だったって。(笑)
●フォークの貴公子っていう呼ばれ方はどうだったんですか?
吉田 最高でしょう。(笑) これ以上の称号はない。 あのね、本当にプリンスだった頃の笑い話だけどね。 青森に行ったんですよ。まあ、会場は、ほとんど女の子。男はいないんだから、だから2000人くらいの女の子がグァーッと入ってキャアキャア言ってるでしよう。ハッキリ言ってフォーク・ソングのス テージじゃないですよ。アイドルのステージ。(笑) 俺は郷ひろみよりすごいんじゃないかと思ってた (笑) で、キャアキャア言って、全部終わるでしょ。 "また来るぜ"とか言って。楽屋から出ていくと、 旅館まで女の子がダーッと並んで列を作ってくれて るの。
●旅館まで!
吉田 旅館までつながってんの。会場から。何キロ もありますよ。そこをずーっと綺麗に女の子が列になってる。そこを通っていけば旅館に着くわけです (笑) マネージャーは、「拓郎、裏口は女の子が一杯 いるからヤバイ。表から帰ろう」。でも、俺はそっちを通りたいの。(笑) 結局、手を振りながら旅館まで行ったの覚えてるけどね。あんな気分いいことないよ。(笑) あれ気分悪いっていう人いたら、変だよ。 王道じゃない、それ。

 

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