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2005年9月

2005/09/30

TAKURO YOSHIDA TOUR 1989 - 90 人間なんて

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TOUR 1989(前記事)を3月に終えてレコーディング、同年11月TAKURO  YOSHIDA TOUR 1989 - 90 敢行! サブタイトルは「人間なんて」。ツアー・パンフは巨大、新聞紙とほぼ同じ大きさ。

 - HISTORY  1970 - 1993 - から少し。

11月21日から、80年代最後のツアーがスタートした。 “TAKURO YOSHIDA TOUR 1989 - 90”。 サブタイトルにはこうあった。

    『 人間なんて 』 。

なつかしい曲が並んだ。 「イメージの詩」があった。 「落陽」があった。 「祭りのあと」があった。 そして、歌詞を今の言葉にした「人間なんて」があった。バックには二人の“新顔”がいた。

やはり'89年に解散したオフコースのギタリスト、松尾一彦と、ベースの清水仁が加わっていた。

最大の観どころは、コンサートの中盤だった。 拓郎は、生ギターにハーモニカホルダーというスタイルで、登場したのだ。

「なつかしいかい?」

そう照れたように、客席に聞く。

「今日だけ思いきりなつかしがって、90年代にいこう」

「今日までそして明日から」があった。 「僕の唄はサヨナラだけ」 「リンゴ」 「高円寺」 「ハイライト」 「襟裳岬」 ……。

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アンコールは 、90年代最初のアルバム『 176.5 』の中の曲「俺を許してくれ」だった。 “ 176.5 ” という数字は、彼の身長でもあった。 身のたけのままのアルバム。 等身大の自分の歌。

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'90年1月10日。 「176.5」の発売日が、90年代の幕を開ける武道館公演だった。

異様な熱気だった。 異様というのは、これまで見たことがないという意味だ。 30代から40代にさしかかる客が大半を占めている。 親子づれも少なくない。 そんな客が生き生きとした眼で、顔を紅潮させながらステージを見ている。 それでいて、どこかしみじみした静けさもある。 きっと、ひとりひとりが、拓郎の歌に、自分の人生と青春を重ねているのだろうと思った。

 20年が経った。

そして、今もまだ客席にいて、ステージには拓郎がいる。 そのことだけでいい。 誰もが、そう思っているようだった。

「80年代は、いい時代だったんじやないのかな。 いろんな音楽が、花開いたよね。 70年代みたいに、“これしかない” じゃなくなってきた」

80年代についての彼の言葉は、彼が現役であることの証明でもあるのだろう。 そして、このとき武道館は、拓郎にとって、古いものも、新しいものも、同じように楽しめる場面が来ていることを物語っていた。

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アルバム「176.5」は、拓郎が、ここ数年やってきたコンピュータとの取り組みが、一段落したアルバムでもあったのだろう。 

日本の音楽は、ようやく、“年齢別マーケット”から卒業しようとしている。 10代向けでも、大人向けでもない。 存在感を持ったアーティストが、評価される時代が来ている。 しかも、過去の存在としてではなく、現役で、だ。

「80年代、ダラダラ過ぎてきたようだけれど、やはり、吉田拓郎という人は、いた、と思う。 そして、90年代もいよう。 いる、ことが王道なんだと思う。 」

  依然として、彼の前に道はなかった。

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  - コピーby 藤井徹貫 -

「期待は裏切らない。 でも、応えない。 そこが難しい」と笑う人。

「期待してるでしょ。 コンサート会場でお祭みたいな雰囲気に浸りたい、と。 それを裏切るつもりはない。 だけど、お願いみたいな ものに応える気もないだけ」と、どこまでも“俺流”の人。                                                    

「高い入場料を払ってんだから、ナニやっても自由だって……そうはいかない。 きた以上は俺のもの。 そこに来るまではデカい面してても構わないけど、コンサートが始まったら俺のもんですからね。 勝手は許さない」と、キッパリ言う人。

吉田拓郎はいつまでも自分の流儀でやろうとする人だ。 だから、いつだってボクらの思い通りにはなってくれない。

例えば、前回のツアー。 ギターの弾き語りで「ロンリー・ストリート・キャフェ」をやった。 別に拓郎の弾き語りを期待していたわけでもないが感動的だった。

歌とギターの格闘に、腹の底から吐き出すような声にしびれた。 が……。

「1曲で充分。 “もう何曲か聞きたい”って、みんな言うけど、“5曲やったら、おめえら飽きるぞ”と思ってるよ。 それに今、弾き語りでやりたいのなんて、アレしかなかったんだもの。 まあ、こういうとナンだけど、俺は弾き語り上手いからね。 1曲で充分。 10曲分の価値はあるんじゃない?」なんて、あるインタビューで話している。

何が見たい? 何が聞きたい? そう自分に向うと、ボクらはサービス業の吉田拓郎なんて見たくない。 皆様のご期待通りの吉田拓郎を演じましょうなんて茶番劇にも付き合いたくはない。

今、あの人は何を歌いたがっているのか?

ボクらは、その一点だけでつながっているのかもしれない。

「イプ・モンタンが言ってましたよ。 久米宏さんが“あなたのように年をとればとるほどステキになる秘訣は?”って訊いたら、“いくつになってもNoに対してはNoと言うことが大事だ”って答えてた。 そうですよね。 年をとると、Noだとしても面倒臭いもんだから、“ま、いいか”でお茶を濁そうとする。 やっぱりそんなことじゃよくないね。 だから、今は俺も考えない、人の意見を聞かない。 考えると、アレコレ見えちゃって、体が動かなかったりするから。 人から意見を聞くと、“なるほどね”なんて思ってスピード感がなくなるから。 ヤル言ったらヤル、ヤラナイと言ったらヤラナイの。 そこは守らないと、人間として小賢くなるばかりだもの。 だから、コンサートも始まった以上は考えない。 やっちゃったものはもう知らない」という。

今、吉田拓郎は何を歌いたがっているのか。 その答えは、開演のベルを待つしかないようだ。

「自分の書いた曲、自分が作ってしまった作品についての自分の中での正当な評価は、5年なり、10年経たないとできないね。 例えば『サマルカンド・ブルー』ってアルバムがあるけど、あれは作ってるときから“ああ、失敗だ”と思ってた。 でも、今それがすごく好きになってる。」

事実、前回のツアーでは『サマルカンド・ブルー』から「ロンリー・ストリート・キャフェ」 「パラレル」 「七つの夜と七つの酒」 「君の瞳に入りたい」などを歌っている。

また、『LIVE'73』から「望みを捨てろ」を歌ったりもした。 それについては…「今、本当にうたう歌だなって思った。 あのときはちょっと若すぎたな、と。」

この歌を初めて聞いた頃のボクはというと、中学生であったが、オレのオヤジもこんな思いをどこかに抱いていたのだろうか……もしそうなら放っといてもらいたいなどと思った。 そして、岡本おさみの作詩ではあっても“妻や子供のために”なんて言葉をあの人が歌うことが少なからずショックであった。

しかし、あれから16年。 歌う人も変われば、聞くほうも変わる。 初めて聞く人がキャッチする感覚も、また違っているだろう。 昔はよかったなんて言う気はない。 それほど今に退屈していない。 だけど、「望みを捨てろ」のように、“かつての足跡に新しい息吹を”と思う気持ちは隠せない。 それが古い船に乗り込む新しい水夫の横顔だから。

「1枚1枚のアルバムや1回1回のコンサートが、その1回こっきりなんですよ。 人生をトータルなコンセプトで貫こうなんて思ってません。 もともと自分でエネルギーの維続性のな人間だと思ってるから。 瞬発力はあるつもりだけど。 だから、あるとき“このテーマはいい!”と思ったとしても、それがいつまでも続くわけではない」と変わる自分を見ている人。

「でも、いつも身の周りで一番近いことをやってるつもり。 今はこんな感じでいるとか、今はこんなのが歌いたいとか」と変わり得ない自分も認める人。

自分の中の矛盾を手軽に帳尻合わせしない人。 自分の中の二律背反を、どっちも俺だ!と言える人。 それがあの人の“俺流”である。 それが好きなのだ。

その人が生命力のあるメロディと、強烈な言葉で歌うから、ボクらは惹かれる。 その人の今を見たいから、ボクらはここにきた。

ここに集まった中の一人として言わせてもらえるなら、ボクは吉田拓郎のロックンロールが聞きたい。 “聞きたい”と言うのはあまりも狭義なので“感じたい”としてもいい。 それは掻き立てる激しさで、それは転がっていく情熱である。

「やせっぽちのブルース」 「SCANDAL」 「お前が欲しいだけ」 「男と女の関係は」などスタイルもスピリットもロックンロール然としたものも、「大阪行きは何番ホーム」 「I'm in Love」 「言葉」などうねりを感じるものもまとめてロックンロールと呼びたい。 吉田拓郎のシャウトと共に生きている歌と言ってもいい。

それらの歌を聞いたとき、ボクは尋常でいられるだろうか。 このコンサートの後でボクはある人のように歌いたくなるだろうか。 あの人のロックンロールに応えるだけの力がボクの中に残っているだろうか。

中学生の頃、ボクは吉田拓郎になりたい、と思っていた。 その頃、燃えていた火が、今でもボクの中に残っているのか。

吉田拓郎のロックンロールを感じるということは、ボクにとっては、それを見つめ直すことである。 拓郎の今に触れることは、自分の今を確認することでもある。

'88年のツアーでは、“よし。 まだ大丈夫”と思った。 「制服」を聞きながら、頭の中でゴーッと言う音が鳴り、体は器だけ残し中身は空っぽという状態にはまったから。 まだまだ自分の中で燃え尽きていない何かがありそうだと思った。 その日、帰ってから「制服」を歌った。

前回のツアーでも“まだ行ける”と思えた。 それまで特別好きというわけでもなかった曲「君の瞳に入りたい」でコレダ! と思った。 ロックンロールを感じた。 その日も帰ってから歌った。

もし、コンサートの後で歌いたくならない自分がいたら……。 錆びついて重いだけの鎧を脱ぐだろう。 人も悪く言う前に自分の鎧を脱ぐことから始めるだろう。

ボクだってそうだが、誰かのせいにした方が気楽だ。 でも、自分たちが陳腐な鎧を着ていることを棚に上げるような人間にだけはなりたくない。 だから、ボクはここで“オレにもロックンロールはあるか”を感じたい。 もし、なければ去るだけだ。

他の誰もそうあるべきだなんて思わない。 ただ、ボクが吉田拓郎をカッコイイと思い、18年も聞き続けてきた底には、あの人の歌の中に“お前はやっているか”とい響きを感じていたから。 激しい人から生まれた歌はたくましく。 自分に正直に書いた歌は、知らず知らずに他人にも正直さを突きつけるものだからである。

だからと言っても、やっぱり吉田拓郎は吉田拓郎であり、ボクはボクなのである。 “あなたがいたから、あなたの歌があったから、ボクは今ここにいる”そんな思いはあっても、何ひとつあの人のせいにする気はない。 大人しくサラリーマンの生活を歩けなかったことも、オレは歌うんだと思い続けていることも、自分流の生き方だから。

それでも、吉田拓郎の歌で震えたいから、心を震わせたいから、ここにきた。 吉田拓郎と出会って1年目の人も、10年目の人も、10年以上の人も、ここでは関係ない。 同じように心を震わせようではないか。

「冬の旅が好き。 九州の冬もいいじゃない。 冬の長野にも思い出はあるし……なにか?って……まあ、いろいろよ。 ホッケがうまそうな(ちなみにキンキは飽きたとか)北海道もいいね。 冬の旅が好きだから元気でしょう。 なぜか冬はドラマが生まれるんだ」

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- コピー by 石原信一 -

拒食症の シャム猫が

ベランダの バジルの葉を噛んでいる

キャットフードの 食べ過ぎだろう

今日で彼女から 電話が10日ない

どうやら俺に マンネリズム

冷蔵庫のビールが きれている

ケチのつきはじめってやつは

こんなとこから 起きるものだ

ブラインドに 引っかけて

セーターが ほころびた

地下鉄のドアは 俺の前で閉まった

煙草のフィルターに 火をつけた

ピザにタバスコが ビンごとこぼれた

深爪を切った

そのうち俺の頭の上に

ファントムでも 落ちてくるにちがいない

アンラッキーの隣で

くすくす笑うラッキー

一発逆転は 深夜の電話

彼女の声 「いま すぐ 会いたい」

そこで考える どうもうますぎる

いや まてよ

風邪で10日 寝てたってこともある

待ち合わせの シングルバー

30分過ぎても 彼女はこない

まばらの客の 眠そうな会話

「秋のパリコレは 期待はずれだった」

「上司のAは セクシャルハラスメント」

「まもなくドルは 急落するだろう」

「車の丸型トレンドは 当分続くらしい」

だから どうした

45分過ぎても 彼女はこない

日本人が待たされて 不快になる平均時間

ハンバーガーショップ 1分

喫茶店 5分

レストラン 10分

どこかの新聞に 書いてあったが

バーで女を待っている 男の時間は

どこにも見あたらなかった

バーテンが 気の毒そうな顔をあげるのと

椅子ふたつ向こうの 知らない女が

こっちを見るのと同時

もちろん 女の視線を選ぶ

すっぽかされた同士 ワンナイトスタンド

柑橘系のコロンに 誘われて

席を立った時

息をはずませて 彼女が店のドアを開けた

おそらくは イリュージョン

確たるものは 目の前にない

ベネツィアグラスの

ウイスキーが

2杯目なのか 3杯目なのか

約束を破ったのは

きみなのか 私なのか

裏切りではない

そもそも錯覚からはじまった

この街に さだかなものなどなく

舟をこぐ手も あやしくて

だからときどき 指を切って

赤い血を確かめる

1秒ごとに すり抜けるから

ひとおもいに 追憶に身をゆだねる

緑なす 野辺があった

太陽はさんさんと 少年に降り注いだ

焼きたてのライ麦パン1斤を食べ

1リットルの牛乳が飲めるほど

元気だった

唇も触れないのに

愛した女がいた

遠い日は 目に見えないことは

どうしてこんなにも 鮮明なのか

街の波に 呑み込まれるのが恐くて

ラッシュアワーの階段を 逆に走った

肩がぶつかり 脚を蹴られ

痛みが私の輪郭を 形どってくれた

その形が あいまいになったのは

某国の戦争のテレビニュースを

女の手枕で ながめた頃からだ

だから 約束など

交わさないほうが よかったのだ

きみも 私も

形など 失くしたのだから

舟に横たわった 頭上はるかに

幾万光年の 星がまたたき

過去の光だけが 確かだとわかる

微動だにせず 息を殺していても

今日から明日に 河は流れる

ならばせめて 舟をこごう

行く先が イリュージョンの大海でも

私はきみに 会いにいく

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ツアースケジュール

11月21日 福岡 福岡サンパレスホール
11月22日 長崎 長崎市公会堂
11月24日 宮崎 宮崎市民会館
11月26日 神奈川 神奈川県立県民ホール
12月 1日 石川 石川厚生年金会館
12月 5日 広島 広島厚生年金会館
12月 6日 香川 香川県民ホール
12月 8日 兵庫 神戸文化ホール
12月 9日 大阪 大阪フェスティバルホール
12月14日 北海道 北海道厚生年金会館
12月17日 栃木 宇都宮市文化会館
12月20日 愛知 名古屋市公会堂
12月21日 静岡 静岡市民文化会館
12月25日 千葉 千葉県民文化会館
12月27日 埼玉 大宮ソニックシティホール
  1 月6日 宮城 宮城県民会館
1  10日 東京 日本武道館

セットリスト

1.お前が欲しいだけ
2.パラレル
3.街角
4.サマータイムブルースが聴こえる
5.祭りのあと
6.ひまわり
7.落陽
8.憂鬱な夜の殺し方
9.外は白い雪の夜
10.イメージの詩
11.人間なんて

~アンコール1・弾き語り~
12.今日までそして明日から
13.旅の宿
14.花嫁になる君に
15.ハイライト
16.高円寺
17.リンゴ

~アンコール2~
18.言葉
19.抱きたい
20.俺を許してくれ
(俺を許してくれ)

結論、拓郎より上手いシンガーはいるけれど、拓郎より巧いアーティストはいない。

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2005/09/29

自分の事は棚に上げて ⑱

木曜日は目覚ましなくても早くに目が覚めるのが不思議です。

またまたコンビニで日刊スポーツ買ってきました。

一面はタイガースの大きな記事!

うしろからペラ~(この表現どうも変)

お、今朝は縦長です。

「香車好き」というタイトル。

将棋の話題ですね。「香車とはまるで反対の慎重すぎる一面が

将棋の中で香車をうまく使って相手に勝ちたい気持ちを強くしている

ようだ」との事。

「将棋の駒のそれぞれの動き方が僕たちの人生にも似ている」と

続けています。

さて切り抜いてっと、裏は「小泉チルドレン教育実習」の記事。

ひょえ~。

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2005/09/28

文芸ポスト

  book-bungeipost

文芸ポスト秋号発売中です。田家秀樹【小説・吉田拓郎】連載中。

月間カラオケファン11月号に拓郎の記事が掲載されています。(1ページだけ)

新しい情報は何もなかったので購入しませんでした。

しかも拓郎の記事以外は演歌ばかりですし。

読者ターゲットがよくわからなかった雑誌kamzine5月号の記事です。

小室さんが語る拓郎でした。

【追記】simpleさんのサイト「君に会ってからというもの僕は」にて

DVD発売情報が掲載されています。(特設掲示板)

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2005/09/25

FM NACK5 フォーク・ルネサンス 2005 ②

FM NACK5 9月19日放送 フォーク・ルネサンス2005 
   PM 4:00~11:15

    パーソナリティー 坂崎幸之助
  ゲスト      泉谷しげる編

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シンシア

        くにまる合唱団

9月28日(水)放送     文化放送「くにまるワイドごぜんさま~」 午前11時過ぎ

色づく街/南沙織
シンシア/よしだたくろうとかまやつひろし

 「色づく街」は、作詞・有馬三恵子、作曲・筒美京平コンビの歌で、プロデューサーの酒井政利さんによれば、「南沙織の作品からどうしても一曲をあげろといわれたらこれ」という程の名曲。「とにかく色彩感を出したかったんです」と酒井さん。当時はカラーテレビが普及し、若者のファッションもカラフルになってきており、社会全体が「カラーの時代」になったことを受けて、この曲のコンセプトが作られました。「私が『色を出して欲しい』と投げかけたら、有馬さんが苦心して『黄色い枯れ葉じゃ当たり前だから青い枯れ葉にした』と言ってました」するとマスコミの一部からは「青い枯れ葉などない」と見当外れな批判を浴びせられたそうですが、酒井さんはどう言われようと「青い枯れ葉」というのは感覚的な言葉で、名表現だと思う…と評しています。そして、その素晴らしい詞にぴったりな曲をつけたのが、天才・筒美京平さん。色彩感たっぷりのアレンジも絶品です。当時、南沙織さんは・・・この後拓郎の話題も

       本文全体はこちらくにまるワイドごぜんさま~【くにまる合唱団】

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2005/09/24

FM NACK5 フォーク・ルネサンス2005 ①

FM NACK5 9月19日放送 フォーク・ルネサンス2005
   PM 4:00~11:15

    パーソナリティー 坂崎幸之助
  ゲスト      泉谷しげる編

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2005/09/22

自分の事は棚に上げて ⑰

今朝は小雨が降っていましたが自転車に乗ってコンビニへ「日刊スポーツ」買いに。ほほう「女と男は永遠にバランスの戦いなのだ」なのだ。昔の女性と男性の事。「男がいかに愚かな生き物であるか」と続きます。

そして現在の様子を書いてます。「男女平等」「民主主義」は深々と人々の心の根のあたりにに宿るに至らないとの事。

女と男はパートナーとしてともに人生を生きるときに絶妙のアンサンブルを繰り広げることができる、と書いてます。それには互いのバランス感覚を養うことが必要、とまとめてますね。

最後はどこかで聞いた?拓ちゃんのパートナーが「大」の字で眠っているのだそうです。そしていずれ「犬」や「太」のような形になるかも知れないそうな。なぜなら今のところ彼は「点」でしかないから、との事。

「女」と「男」というように「女」を先に書くあたり、配慮して書いてるところがよくわかります。江戸時代の庶民は大変に妻の方が強かったらしいですね。落語なんかにもその辺り、よく出てきますが。

「婦人公論」の記事となんだか見事にリンクしているようで、ご夫婦で絶妙のアンサンブル、といったところでしょうか。

本日のカタカナ~。「ハバタイて」、「ホッタラカシ」、お、二つだけでした。

きょうはきれいな長方形のコラムです。さて切り取ってと、うわっ裏には、あの「杉村太蔵議員居残り補習」の記事が・・・とほほ。

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婦人公論10/7号

fujinkohron

本日発売(10/7日号)婦人公論の特集「もう一度、夫婦」。〈「どんどん強くなる」なんて言われながら〉
【 吉田拓郎と20年、今が一番アツい二人です森下愛子 】

何はともあれ書店に行ってみますか。内容見て買うかどうか決めます。やっぱり妻は強し、なんでしょうか。

       http://cm.chuko.co.jp/~fujin/

   

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2005/09/20

T's-R更新

takuro8-2

T's-R、久々の更新ですね。(たまに更新があると何かあったかと

逆に心配したりして・・・)

「大阪行きは何番ホーム」、いい曲ですね。

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南こうせつ・のってけラジオ

南こうせつ・のってけラジオ ②-2005年9月1日(木)
         ニッポン放送 -午後1:00~3:30

テリー伊藤氏夏休みの為【南こうせつ】がパーソナリティー。

拓郎のエピソード部分を掲載します。アシスタント: 林家たい平

    【 南こうせつと仲間達のコーナー・拓郎編 】

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2005/09/18

讀賣新聞・編集手帳に「コンサート・イン・つま恋」の記事

本日9月18日(日)讀賣新聞朝刊第一面「編集手帳」は

DVD「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート・イン・つま恋」の

記事です。

讀賣と言えば発行部数日本一の新聞ですから

これは凄いことですね。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050917ig15.htm

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フェスティバルホール

いつもお世話になっているコムチャンさん主宰の

「きまま日記」にて17日大阪フェステイバルホール

のコンサート情報がアップされています。

おなじみsimpleさんのサイト「君に会ってからというもの僕は」にも

情報が寄せられています。

       http://homepage1.nifty.com/simple2/

scanch9-18

拓郎ファン、ローリーさんのサイト内「DIARY」(9月15日)で

またまたROLLYが拓郎について語っています。

                http://www.rollynet.com/

【なにしろ私にとってLEDZEPPELINやQUEENより吉田拓郎が

 音楽の原点なんですよね。】

との事。う~ん素晴らしい。

ROLLYはヘビメタさん に9月20日、27日にゲスト

出演します。

27日は最終回 DEATH!

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2005/09/16

NACK5 J-POP MAGAZINE ( 5 )

'05 8月27日(土)FM NACK5 J-POP MAGAZINE

     【 吉田拓郎インタビュー・後編 ② 】

      
   ♪ ああ青春(一瞬の夏より)

田家: あのお聞きいただいているのはですね去年のツアーの中の抜

   粋曲をまとめた「一瞬の夏」というアルバムの中の「ああ青

   春」。去年のツアーこれから始まったんですけど1975年のつ

   ま恋のね1曲目、これだったんだよ。

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2005/09/15

自分の事は棚に上げて ⑯

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今朝も日刊スポーツ買いにコンビニへ。

朝、6時頃だったんですが、なんか高校生くらいの女の子3人が

コンビニの前に座ってぺちゃくちゃ喋ってました。

おにぎりとかお菓子食べてました。

 ・ ・ ・ ・ ・

日刊買って帰り、

ぺら~と後ろからめくってと・・

安達裕実の記事でかー!しかもピンク色~。

で、その右下にコラム発見しました。

「時代の流れ実感した選挙」。

ふーむ、内容はびっくりするようなものではないですね。

と、言うよりこの頃例のカタカナ表記の方が気になって、

またもありました、「ウンザリ」「カンチガイ」「ヨロシク」ない、

「不要なヤカラ」、「コンニチ」と、またたくさん使いましたね。

妙なところを気にし始めてしまいました。

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木曜日は日刊スポーツ

木曜日になりました。

本日は日刊スポーツ「自分の事は棚に上げて」の日ですね。

ラジカセ修理中のため連載中の2本が中断しております。

明日からテープ起こし再開の予定です。

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2005/09/11

パシフィコ横浜情報お知らせ

今夜のパシフィコ横浜でのコンサート情報が

simpleさんのサイト「吉田拓郎-君に会ってからというもの僕は」

掲示されています。

情報提供は Takuro Mania主宰の K-a-さんです。

午後8時半過ぎに既に第一報が入っています。

それにしても速い! 

コンサート特設掲示板です。

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2005/09/09

燃える38時間 Takuro Yoshida Island Concert in Shinojima

燃える38時間 Takuro Yoshida Island Concert in Shinojima

M1

M2

7/25

東京駅16番ホーム、10時12分発の新幹線「ひかり69号」の発車のベルが鳴り終わった。 まさに、そのドアが閉じようとした瞬間、大あわてで電車に飛び乗った男がいた。 その男こそ、7月26日~27日にかけて愛知県篠島で行われた大イベントのヒーロー吉田拓郎なのである。 

座席に落ち着いた拓郎は瀬尾一三をはじめとするミュージシャン、スタッフたちと一緒に談笑、まだ緊張感はみられず、そこには爽やかな一人の男の笑顔があるだけだった。 新幹線は定刻、12時13分に国鉄名古屋駅に到着した。

M3

7/25 1:00p.m.

拓郎一行は2台のチャーター・バスに分乗し、一路、名古屋港へと向かった。 名古屋港で快速フェリーに乗り替える。 天気は快晴、波は静か。 おかげで船に弱い拓郎も船酔に悩まされずにすんだ。 船内での拓郎はというと、自分で持ってきた愛用のアサヒ・ペンタックスを顔面に固定し、所せましと走りまわっていた。 途中で、映画撮影用のチャーター船に乗っていた山本コータローと出会い、激励を受ける。

7/25 2:00p.m.

拓郎一行は篠島の特設埠頭に到着した。 すでに篠島へ来ていた若者たち(早い者は10日も前から篠島へ来ていたという)が目ざとく拓郎を発見し、拓郎に早くも大声援を送る。 その数、約400人。 拓郎も両手を天に突き出してそれに応えた。 一行はマイクロバスでホテルへ直行した。

7/25 6:00p.m.

予定されていたリハーサルは、準備に時間がかかって7時の開始となった。 島の人たちとの取り決めで午後9時には終わらせなければならなかったので、拓郎の持ち時間は正味1時間しかなかった。 スタッフは時間がないということに焦燥感を抱き、神経をピリピリさせているようであったが、当の拓郎はといえば、虫よけスプレーを全身にかけながらのリラックスムード。 が、しかし、時折みせるその視線の厳しさに拓郎の偽らざる心境がにじみ出ていた。 

M4

7/25 10:00p.m.

旅館の大広間にて大食事大会。 それから翌26日、午前4時頃まで拓郎はミュージシャン連中と酒を飲み続け、メチャメチャに騒いだ。 なんというバイタリティー、なんと恐ろしい男(?)であろうか。

7/26

コンサート当日の昼、瀬尾一三、松任谷正隆、長渕剛、バックのコーラス・ガールたちは海辺行き、海水浴と日光浴をして篠島の夏を楽しんでいた。 拓郎は泳げないためか、精神統一のためか、一人で部屋に閉じこもったまま。 緊張感は確実に高まりつつあった。 自分との闘いはすでに始まっていた。

M5

7/26 Early Morning

会場への客入れが開始された。 前夜から、会場入口付近はすでに長蛇の列であった。

7/26 6:00p.m.

海に向かって建てられたステージが夕陽に映える。 そして、その夕陽が今、赤く染まった三河湾に沈もうとしている。 落陽! 拓郎も16000人の若者達も、いったい何に対してこれからサイコロを転がそうというのだろうか? 会場を吹き抜ける潮風の涼しさを感じるには、まだまだ時間が必要だった。 それを証明するかのような熱気に包まれた会場のあちらこちらから「タクロー!タクロー!」のシュプレヒコールが湧き起こる。 ある者はメガホンを片手に音頭をとり、ある者はギターで拓郎の曲を演奏する。 会場に集まった若者たちは、その時、ステージに登場した「幻のタクロー」をすでにみつめていたのかもしれない。

7/26 6:50p.m.

一台の車がステージ・サイドに乗りつけた。 スタッフに両脇を守られた拓郎が現われた。 その表情をはっきりと見定めることはできなかったが、体中からエネルギーが発散されていた。 ステージにあがる直前自分で自分自身にカケ声をかけている。 気力の集中…。

7/26 7:00p.m.

ステージにその姿を現わした拓郎。 赤いハチマキ、白のスラックス、そして、ピンクのTシャツに浮き出た「TAKUROH '80」の文字に、白のギター・ストラップが鮮やかにクロスしている。 場内はいうまでもなく、興奮のるつぼと化した。 オープニング『ああ青春』のイントロが流れた途端拓郎が叫んだ。 「ヤルゾーッ」 若者たちも、それに負けないような大声で呼応した。 

        生きてる後味悪さ

        胸に噛みしめれば泣ける海

        ああ青春は燃えるかげろうか

若者たちも声を合わせて歌った、「かげろうか」という言葉を自分にぶっつけながら。 オープニングからクライマックスを迎えた感じだった。 しかも、そのクライマックスは、エンディングまで続いたのだ。 壮烈だった。

「みんな篠島へようこそ。 今日の主役は俺じゃない、君たち1人1人だ。 そして、忘れてはならない地元の人たちに拍手!」 場内に拍手の渦が湧き起こる。 それを確認したあと、拓郎は叫んだ。 「朝までヤルゼーッ」

今回のイベントが企画された時、拓郎はこう言った。 「親とか学校とかの社会の縁など考えず、自分というものをみつめるために篠島へ来いよ。 そして、俺たちの手で短い間かもしれないが、俺たちのコミュニケーションを作り出そうよ。 島を選んだ理由も本当の意味での開放感の中で、何事にも縛られずに俺たちの世界を持ちたいと思ったからだ」

篠島へ来た者は、拓郎のその言葉の意味を身をもって知ったことだろう。 拓郎のエキサイティングな魂の息吹きが点滅しているかのように、赤とオレンジのライトが点滅する。 さらに、それに呼応する若者たちの叫びが「ウォン、ウォン」というウネリとなって海に広がっていく。 言葉にならない迫力。 みんなの心臓の鼓動を無視するかのように、拓郎の魂の叫びが若者たち心の中に新たな鼓動を脈づかせ始めたようだった。

M6

7/26 8:00p.m.

拓郎は小休止に入り、ステージからその姿を消した。 その時、前列の観客が拓郎の姿を求めるように立ち上がった。 すぐに後ろの席から「スワレッ!」の大コールが湧き起こり、その騒ぎは収まった。 会場にはすでに一つのコミュニケーションが成り立っているのだということが、この一瞬で確認できた。 会場の秩序も治安も、すべて自分たちで作りあげていた。 一つの世界を作りあげていた。

7/26 8:30p.m.

瀬尾グループをバックに拓郎が再び登場した。 場内を狂ったような叫びが支配した。 「俺は観客が見えなくなると狂ってくるんだよな」 夜の野外の魔力は、拓郎が言うまでもなく、すでに観客をも飲み込んでいた。

「今日は体調がものすごくいい。 お前らはもう、こうなったら客じゃねぇよ、仲良くやろうぜ。 知って曲ならなんでもかんでもみんな一緒にうたおうぜ」 この言葉に観客は全員総立ちとなった。 そして、拓郎と一緒に声をふりしぼってうたった。 この大合唱はエンディングまで続いた。

7/26 11:30p.m.

ステージにギター一本抱えて拓郎が登場した。 再び大歓声が起こる。 観客は次から次へとリクエストを出した。 面白かったのは、リクエストで『旅の宿』が出た時、拓郎が「俺が伴奏するからお前らがうたえ」と言ってギターを弾いたこと。 もちろん観客は何のためらいもなくうたった。 『ポーの詩』『じゅんちゃん』のさわりの部分をうたったり、観客とのコミュニケーションも素晴らしいものだった。

M7

/27 1:30a.m

松任谷グループをバックに拓郎が現われた。 観客の勢いはさらに盛り上がり、その勢いは衰えることがない。 コンサート終了まで、あと3時間弱。 みんなもっとずっと長く、拓郎と一緒にいたいのだ。 時として時間というものは、甘いドラマを作ったりするものだが、この篠島に集まった若者たちも、数々の時間のドラマを作りあげつつあった。 それを感じたのだろうか、拓郎は言った。 「もう、しゃべりで時間をつぶすのはもったいない。 ガンガン続けてうたっていくぞー!」 『知識』から始まって拓郎は狂ったようにうたいまくった。

M8

7/27 2:30a.m.

長旅で疲れたのだろうか、会場のはるか後方の砂地に何人もの人が寝ていた。 ここから見るとステージはマッチ箱のような大きさだ。 そのイルミネーションの変化が幻想的でさえあった。 青白い光、赤からオレンジそして紫と、実に鮮やかだった。 拓郎のボーカルがここからでもハッキリと聞こえる。

M9

/27 3:30a.m.

観客はもう総立ちだった。 みんな疲れを忘れ、いや疲れを知らず必死に拓郎と一緒に叫んでいる。 会場後方で寝ていた若者も、元気をとりもどして、またその群れの中へ入っていく。 上半身裸になり、脱いだ服をうち振る者、ノボリを狂ったように振る者、とにかく、みんな目がギラついていた。

7/27 4:00a.m.

「最後だあー」と拓郎が叫んだ。 「ウォー」という大喚声が轟く。 若者たちの顔が歪む。 泣き出す者が続出する。 みんな最後の力をふりしぼって叫んでいる。 何に対して叫んでいるのか、そんなことはどうでもいい、とにかく篠島へ来て叫んでいるのだ…。 「人間なんて」の大合唱が続く。

7/27 4:24a.m.

東の空が少しずつ白んで来た。 それか合図でもあったかのように拓郎はステージからその姿を消した。 若者たちは拓郎を求めて声の限り叫んだ。 大熱狂の渦はいつまでも場内を包みこんだままだった。 タクロー タクロー……

M10

 - 拓郎は70年の鎮魂歌ではない -      石原信一

ニューミュージックの大規模なフェスティバルが日本列島各地で過熱した1979年夏、   <吉田拓郎・アイランドコンサート・イン篠島>をその一つに加えることはできない。> まったく異質なムーブメントだった。 

1969年の「ウッド・ストック」以来、音楽で連帯する若者の野外コンサートは世界的に燃え広がった。 日本でも「箱根アフロディーテ」 「中津川フォーク・ジャンボリー」と、今は幻となった音楽史的なコンサートが生まれた。 拓郎がかぐや姫と「つま恋多目的広場」に5万人の若者を集めたのは1975年夏、その観客動員数の記録はいまだに破られていない。 頂点だった。 

頂点というのは数字だけでなく、コンサートに参加した若者の参加意識、あるいは熱度であった。 アーティストと観客の間には、お互いに若者文化を作り上げようとする、ただ音楽だけにとどまらない時代への欲求があった。 少なくとも若者は聴かせられる群れではなかった。

だがその若者文化は以後、音楽の部分だけで切り取られ、ニュー・ミュージックという名でメジャーな音楽産業に導入される。 音楽は音楽のためだけのものになった。

<吉田拓郎・アイランドコンサート・イン篠島>は、音楽が再び文化に蘇るかの賭けだった。それは70年代を若者の旗手として走り続けた男が運命としてなさねばならなかった行動なのかもしれない。 時は79年7月26日、多分の危険をはらんでいた。 「つま恋」から4年、拓郎世代と若者の多くは社会人となり、あるいは結婚し、子どもが出来、そして若者文化などというものは時代の幻想だったのかもしれないと思い込み、それぞれが生活するために日常の中で雑多なクビカセを負っていた。 彼等が再び連帯するために熱くなり、コンサートを開くのは難しい状況だった。

そして79年のニュー・ミュージック・シーンを自分達のサウンドとして各地のコンサートに押し寄せているのは、拓郎よりも二、三世代も離れた若者であった。 はたして拓郎を知らない世代が拓郎のために集まるのか!? 例え集まったとしても、コミュニケートは取れるのか!? ただ音楽を聴くためだけに野外を埋め尽くす観客ならば<吉田拓郎・アイランドコンサート・イン篠島>は、むなしかった。

M11

篠島は愛知県知多半島南端の小島である。 名古屋から名鉄で河和まで、そしてバスで師崎まで走り、船で篠島まで渡らなければならない。 オール・ナイト・コンサートが可能な野外地域は少なくなり、やっとみつけた会場ではあったが、地理的にはあまりにも不便すぎた。 「つま恋」は観客が集まっている広場に拓郎が出向いて行った観があった。 今回はこの篠島まで、コミュニケートしたければ出かけてこいというのだ。 強気なコンサートの裏には、本来コンサートとは何であったのかということを問いかけるポリシーと、拓郎の時代は今日存在しうるのかという試行がみえた。

そして幕は上がった。

午後6時45分、大ボリユームの「ローリング30」が4トン車32台分の音響装置からあふれ出した。 拓郎自身の集大成を思わせるこの歌がイントロであった。 篠島の暮れなずむ空に拓郎コールが飛び始めた。 その声はアイドルをむかえるような黄色い悲鳴ではなく、ワォーッと獣が獣に吠えるような若者の野太い声であった。 砂浜の会場には日焼けした男女が2万人も集まっていた。

拓郎は自分より若いその男女の群れを熱くみつめながら、ホテルのマイクロバスわステージ裏につけて飛び降りた。 砂地のためか足がもつれた。 眼が引きつっている。 潮風にカーリー・ヘヤー気味の髪が乱れ、その顔は修羅にもみえた。 緊張していた。 ギターを握りしめると、口に含んだ水を衣装のピンクのインドシャツに吹き付けた。 少しは落ち着いたのか深呼吸をひとつすると、前線に向かう戦士のように勢いよく階段をかけ上った。

そうだ。 まぎれもなく戦いにちがいなかった。 初めて拓郎を目の前にする若者がいる。 彼等に何を歌い何をいえばいいのか!? まだ終わっていないのだと叫んでところでわかってくれるか!?  篠島の地元民達は拓郎をどうみつめるのか!?  そして、ステージ前群がっている報道人達は70年代の終鴛を確認しようとしているのか!? 

すべての観客が、拓郎のステージングひとつで敵にも味方にもなりうる要素を含んでいた。 その2万人はただ拓郎を聴きに来たのではない。 これだけははっきりと感じた。 実に「つま恋」以来4年ぶりに何かが起こりうる危機感と可能性を胸に抱いて、拓郎はステージにすっくと立った。

< 朝までやるからな。 朝までやるぞ! >

2万人の観客に叫ぶというより、自分自身に檄を飛ばしたようにみえた。 「つま恋」の時と同様に、「ああ青春」が最初の歌でありバックも松任谷グループだった。 だが今は確実に79年、「つま恋」の時と変わりがないということは拓郎の自己顕示欲の象徴だったのかも知れないが、その分どこか淋しい孤立感がしないでもなかった。

< 始めからそんなに頑張ると、あとで疲れるぜ。 好きにやんな。>

一曲終わるごとに激しいコールを送る観客に向かい拓郎は苦笑い気味にいった。 若い彼等にはエネルギーがあった。 鋭い刃物のような切り口で迫ってくる拓郎のヴォーカルに、彼等も負けてはいなかった。 精一杯の叫びをステージに投げ込んだ。 若い彼等にとって拓郎は多分に刺激的だった。 グイッと胸をえぐってくる歌の言葉は、ニューミュージックというジャンルには入れたくないほどメッセージ的で煽情的だった。 エレクトリックなサウンドでない生身の荒々しさがあった。 それを懐かしく聴く者と新鮮に聴く者がいて、新鮮に聴いた若い彼等は初めての刺激に煽られた。

日はどっぷりと暮れていた。 ようやく拓郎も観客もコンサート・ペースを掴んだらしくひとつの流れに向かって走り始めていた。 その流れのふち、ステージ・サイドで小さな騒ぎが起こっていた。 仁王立ちになって構えているのは精悍な顔をした地元の漁師だった。 彼は途方もなく大きい祭(コンサート)に興じたあまり、関係者以外立入禁止のエリアまで入ってしまったのだ。 それをとがめた係員と激しくいい争っていた。 

<ここをどこだと思っとる。 ワシらの島じゃ。 出ていけとは何だ! 火をつけてみんな燃やしたろか?! あとは警察にいきゃあいい。 腕に自信があるならこっちへこい!>

拓郎は騒ぎを知らないまま祭をすすめていた。 消防団が間に入ってやっとおさまったが、もしかしたら拓郎に一番すなおに反応したのは、この漁師だったかもしれない。 ちりめんじゃこ漁とたまの海水浴客や釣人のための民宿で生活する2600人の島の人にとって、拓郎という存在はスターというより、祭のみこしだったのではないか。 胸のわだかまりを晴らす起爆剤に拓郎は十分に成りうる男だった。

< 子どもがいたらもう寝かす時間だ。 みんな、そんな人妻がいたら親切にしてやれよ >

瀬尾グループの熱っぽいステージを演じながら、拓郎は観客の中をのぞくようにしていった。 拓郎を懐かしく聴いている者へのやさしさだった。 ゴザの上に3人の男の子を並べて寝かせつけようとしている20代後半の女性がいた。 おばあさんが側で子ども達をウチワであおいでいた。 大阪堺市からやってきた家族だった。 「夫から夏休みをらって、祖母が子どもの世話を手伝ってくれるというから、やっと来れた」と語った。 彼女にいつから拓郎を聴いているのかとたずねたら、静かに笑っただけで答えなかった。 何か想い出でもあるのかと問い直したら、子どもをちらりと見てまたも笑った。 おばあさんはシワだらけの手であいかわらず孫にウチワの風を送っていた。 拓郎の歌と共に自分の人生を、流れをみつめている者があちこちにいるはずだった。

拓郎の妻、美代子夫人は初めて夫のコンサートを照明灯のやぐらの上で見ていた。 < 彼が最後のコンサートになるかも知れないというので、かけつけてきました。>

やはり拓郎には80年を目の前にして自分の時代が果てるかもしれないという危惧感があったのだ。 妻にいったのは正直な気持ちだったろう。 そのつもりで夫人もステージの拓郎を、その眼にしっかり焼きつけようと凝視していた。 だが拓郎からそれを裏切る言葉が次々と発せられた。

< つま恋はもういい。 本当にもういいと思ってるんだ。 今日の篠島をきっかけに俺はまたやるよ! >

いったい拓郎はステージの上から何を見たというのだろう!? 歓声がわき起こった。 この時、したたかな拓郎と観客に手ごたえのあるコミュニケートが生まれた。 誰もがやがて80年代を迎える。 生きている限り。 拓郎は確かに70年代の英雄゛った。 そしてその証明として、4年前の「つま恋」があったような気がする。 だが「つま恋」がいかに素晴らしくても遙かな過去だ。 どこかで切って捨てなければ新しい時代はやってこなかった。 拓郎がコンサートの在り方を「つま恋」の一夜に執着すればするほど、それが真実であっても出口はなかった。 時代をもとへは戻せなかった。 だからこそ、いまこそ拓郎は「つま恋」を捨てた。 そして捨てるに十分な観客を篠島にみたにちがいなかった。 

拓郎は'80の文字が鮮やかなネーム入りのシャツに着がえた。 手拍子がアップ・テンポになった。 拓郎を知らない者も、懐かしむ者も、島の人も、世代を地域を超えて全員が総立ちになって空をあおいだ。 なす色の夏の夜空が東の方から明け始めた。 時は進んでいた。 事実だった。 だから生きなければならなかった。 拓郎は再び歌い始めることで生きようとしていた。 観客もそれぞれが生きようと思った。

生きていく者達の歌「人間なんて」が大コーラスで始まった。 海の水平線がくっきりと朝焼けに浮かび出した。 拓郎は絶叫をその彼方に投げた。 何十回も何百回も。 そして明日がやって来たことを、獅子のような光る眼で確認すると両手を天に突き出した。

時、4時23分。 終わりではなく、始まりだった。   

               人間なんて

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● 時間

7月26日(木)PM7時~7月27日(金)午前4時23分。 拓郎は8時間激唱。

● 篠島(愛知県)

知多半島南端、三河湾に浮かぶ周囲6キロ、島民2700人(650戸)の島。

● ステージ

コンサート全製作費6000万円。 機材4トン車32台分。 スタッフ280人。 

篠島を借りるにあたり、8ケ月を要し、ステージ作りは2週間。スタッフはこの日のため全力投入。

● 警備

普段、島の駐在さんは1人。 この日のため所轄半田署から警察官75人、地元消防団員30人、ガードマン40人、アルバイト、スタッフ関係者含め350人。

● トイレ

ベニヤ作りの仮設トイレ、女子用30個、男子用10個、立ちション用2列。 

● ノボリ

「拓郎軍団」、「広島組」、「拓郎を泳がせる会」、「THE拓郎」など色とりどりのノボリが会場内に林立。

● 会場

島の裏側埋め立て地。 広さ約6000坪。

● 売店

会場内45軒。 外18軒。

● 客

その数、約16000人。 7割近くが男性。

● 船便

知多半島突端、師崎から篠島まで4キロ。 平常1日10便。 この日は伊良湖、鳥羽から船を借り集め、ピストン輸送。

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2005/09/08

自分の事は棚に上げて ⑮

takublog727-2

木曜日になりました。

この頃、時が過ぎるのが速く感じられます。

今朝も日刊スポーツ買いにコンビニへ。

後ろからペラッ。

自分の事は棚に上げて⑮、ありました。

きょうのは横に長いですね。

「友」についてでした。

人と人の巡り会いというのは不思議ですね。

縁といいますか。

友達の多い人、少ない人、

異性に人気のある人、同性の友人が多い人、

さまざまです。

朝からあまり長い文書けません。(頭が回転しないようで・・・)

●          ●

前から気になってましたが、拓ちゃんてカタカナ好きなんで

しょうか?

今回も「ウラヤマシガッテ」、「コトノホカ」などの表記がありました。

何か意味合いを込めてカタカナにしているのでしょうが。

●          ●

きょうも暑くなりそうです。

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2005/09/07

日刊ゲンダイ

 昨日「きまま日記」のコムチャンさんから日刊ゲンダイ

     拓郎記事の情報を寄せていただきました。

     コムチャンさん、いつもありがとうございます。

     スキャンしてアップしました。

     まだお読みでない方はどうぞ。

     日刊ゲンダイ記事はこちらから。

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2005/09/06

T's-R

T's-R久々の更新ですね。

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2005/09/05

つま恋レポート案内

つま恋レポート続々アップ中です。

いつもお世話になっている、なるさんの 王様達のピクニック

りゅうさんの よもやまりゅう でも3日(土)

のつま恋のレポートがアップされています。

昨日ご紹介した、k-a-さんの Takuro Mania でもレポート完成して

います。

みなさん、雰囲気が伝わってくるような詳細なレポートです。

お疲れのところありがとうございます。

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2005/09/04

南こうせつ・ニッポン放送のってけラジオ ①

南こうせつ・のってけラジオ -2005年9月1日(木)
          -午後1:00~3:30

テリー伊藤氏夏休みの為【南こうせつ】がパーソナリティー。

拓郎のエピソード部分を掲載します。アシスタント: 林家たい平

泰平: かぐや姫を再結成するきっかけみたいなのは?こうせつさんが言い出した?

こうせつ: そうなんですよ。えーあの正やんとパンダさんに、あのちょうど僕は広島でずっとねピースコンサートっていうのをや
ってきて、ちょうど戦後60年にあたるんで、「どうかな、これ1回だけやりたいんだ 」と、要するに「3人でやった方がインパクト強いからどうかなぁ」って言ったら、もう大賛成してくれて。で、あのもうリハーサルをやってですね、本当にもう昔の覚えてないようなギターコードとか、わかるでしょ泰平さん。ギター弾くからね。それからコーラスとか思い出しながら、あのうまい事いきましたね。で、あの助っ人に森山良子さんも来ていただいて。で飛び入りでね大友康平さん、うーん1曲歌ってくれました。まそういうね、今年の夏はねいい思い出できましたね。
泰平: いやー本当に目の前にかぐや姫が復活したのを目の当たりに見た人は感激したんじやないでしょうかねぇ。
こうせつ: そうですねぇ広島のサンプラザホールって大きなホールなんですけどもね、あの5000人ぐらいのお客さん集まりまして。
泰平: もうそこだけしかやらないんですか?
こうせつ: そう。そうなんです。
泰平: えー!? 他では見られないんですか!?
こうせつ: それでね、吉田拓郎さんがね、ええ今年になってその春でしたかね、ええとつま恋、静岡県につま恋という所があるんですよ。ここはもうね野外音楽コンサートの聖地といいましょうか。と言いますのが30年前にかぐや姫と拓郎とでねオールナイトコンサート。で当時はねまだ公園の整備ができてなかったわけですから、ダーっと人を入れるとですね、1回で5万人以上入ったのね。であの時は警察発表で7万人。主催者発表は5万人。普通は反対なんですよ。警察が7万って言ったら主催者は10万て言うの多めに。なんだか知らないけど主催者が、税金の関係かな?(笑)5万って言っちゃって。(笑)でもまあね、7万は集まってました。すっごい人でした。で、そこで、えー「もう1回やろう」と、拓郎さんが。
泰平: あ、かぐや姫と。
こうせつ: はい。というね、もうそれは「拓ちゃん冗談でしょ」と僕はね。そしたら「冗談じゃない、やる」って言うんだもん。だって去年がんの手術して「大丈夫ですか?」って言って。で1回ツアーでもなんかねぇ息苦しくなったとか言って。で、あんまり「いやこれは本当なんだ」って。で確かめるためにもう1回会ったんですよ3人と拓郎と4人で。ご飯食べに行ったのね。そしたらガンガンビ-ルを飲んで、健康をアピールするの。(笑)あはは。
泰平: ははは、無茶してるわけですかね。(笑)
こうせつ: で「やろうやろう」っていうことで結構盛り上がってきましてね。んで来年とりあえずやる、という事になりましたんで。あんまり「やるやるやる」って言うからひょっとして誰にも内緒でがんが進行してんじゃないかって(笑)、そんな事はないか。(笑)そんな事はないと思いますけどね。ま、でも元気が良くてむ、拓郎さん。拓郎さんもツア-が始まったのかな。秋のツアー始まってますんで。
泰平: 四畳半フォークと呼ばれたのは、当時はどう思っていたんですか?
こうせつ: 神田川って歌があまりにも売れたためにイメージが、あの人たちはもうせまーい四畳半のね歌を唄う貧しいグループなんだと(笑)言われたのは、しょうがないかな、と。(笑)あきらめて、それはそれでいいかなと、いう事ですね。・・・リスナーから「来年のつま恋、非常に興奮している」というメールを受けて・・・  
泰平: 普通だったらですね、楽しみにしてる、なんですけど興奮してる!
こうせつ: ははははっ興奮してる!(笑)これはね、親父達はね、これは燃えますよ。(笑)少年のあの日々が目の前でまた展開されます。我々だって何が起こるか、またわかりませんよ。当時はみんな10代20代だったから良かったと思いますけども今度は40代50代60代ですから、もうじじいとばばあが生きるか死ぬかですよ。
泰平: かぐや姫も誰も欠けてないのが良かったですね。(笑)
こうせつ: いいこと言った!(笑)グループで欠けるともう成立しないですよ。(笑)
泰平: なんか遺影とか置いてあるの淋しいですもんね、つま恋のステージの上に、ね。(笑)
こうせつ: はははっ。ほんとね追悼コンサートにならないようにがんばろう。(笑)

続く

 

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NACK5 J-POP MAGAZINE ( 4 )

'05 8月27日(土)FM NACK5 J-POP MAGAZINE

     【 吉田拓郎インタビュー・後編 ① 】

田家: で、えぇ、ま28日からツアーが始まる、明日から始まる

   わけです。私はこれから広島に向かって拓郎さんはもう

   広島に行ってるわけですが、ま、今年の夏のですね、そ

   ういう拓郎さんにまつわる話としてはですね、発表があ

   りました。つま恋をやるという。

続きを読む " NACK5 J-POP MAGAZINE ( 4 )"

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つま恋レポート

9月3日つま恋エキジビションホール での拓郎コンサート・レポが

早くもアップされています。

いつもお世話になっているk-a-さんのHP&ブログ、Takuro Maniaです。

http://www.bea.hi-ho.ne.jp/kamkam/takuro/

コンサート中、メモを取りそれを見ながらの再現です。

大変に詳細なレポートです。

k-a-さん、お疲れのところ、ありがとうございます。

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2005/09/01

自分の事は棚に上げて ( ⑭ )

t8-12-1

9月になりましたね。(本日は防災の日ですね)

昼間は暑いですが、朝晩随分涼しくなりました。

さて木曜日ですから朝からコンビニへ。

日刊スポーツ買ってきました。

ペラペラ~(本当は後ろからペラ、でいいんです)

あらら~ペ・ヨンジュンと黒柳徹子さんの大きな記事・・・

の右下の方にこぢんまりとコラム発見。

「幸福のオモチャ」というタイトルです。

子どものころ持っていたオモチャが成長するに

つれて1つずつ減っていく。

男は「夢」にとことん振り回される運命。

現代社会はストレスが充満していて味気ない。

何でもいいから幸福と感じるオモチャを1つ手に入れよう、

という内容です。

「こいつを眺めているだけで至福の時」。

あそこのあのギャラリー覗いている時かなぁ。

切り抜いて保存保存っと。

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