77年大いなる人・拓郎×岡本おさみ対談① 決定的な出会いは『旅の宿』 と「フォーク·ヴィレッジ」
二人だけで直接会って話すのは本当に久しぶりだった。いや正確にいうと10数日前二人は会っているのだが、その時は他にも大勢の人をまじえた席であった。それだけに二人の間には、ある種の懐かしさと共に、緊張感さえただよっているように思えた。話は過去の思い出ばなしからゆるやかに入っていったが、次第に現在あるいは「歌」の話になっていくと熱い炎が二人の間を飛び交いはじめ、時にはぶつかり合い、時にはすれちがい、笑いや共感の輪をつくりだした。そして、それぞれ固有の確固たる世界と信念で生きてきた二人の男の"生きざま"が、相手の世界と鏡のように反射しあいながら、"いま"に生きる男の心情を浮きぼりにしていった。
【 決定的な出会いは『旅の宿』 と「フォーク·ヴィレッジ」 】
まず初めに”歌作り“という部分での二人の出会いの話からでもしていただけますか。
拓郎 岡本おさみの詩ではじめて僕が歌を作ったのは『ハイライト』という曲でね、確かジァンジァンでコンサートをやる少し前だっ たと思う。それを高田渡ふうのブルース進行で歌っていたら、岡本ちゃんが「そんなふうにサラッと歌われたんじゃかなわない、そう いう詩ではないはずだ」って言ってさ、いろ いろ批判されたのをよく覚えている。
岡本 そうそう、ジァンジァンでコンサートをやろうということになって、僕がノートに詩を書いて、拓郎ところに持っていったんだ よね。その中から最初に曲になったのが『ハ イライト』と『花嫁になる君へ』だった。
拓郎 それで『花嫁--』のほうは岡本ちゃんも納得したんだけど、『ハイライト』のほうは気に入らなくてさ。あの歌はオレ、ステー ジで少し茶化して歌っていた。だからお客さんがゲラゲラ笑うわけ。それが当時の岡本お さみには耐えられないことだったんだよね。
岡本 そういう体質なんだよ…。
拓郎 あんなふうに笑われる歌じゃないんだ って盛んに言ってたよ。俺の詩のとらえ方が 岡本ちゃんにとってはまったく感違いにしか思えなかったんだろうけど、俺はあれでいいんだと思っていたから、それで押し通した。 だけど「おまえの解釈は違っているんだ」と 言われて、でも俺は「ちがわねえよ」ってツッぱって、結局当分一緒に歌作りはできないということになり,やらなかったんだよね。 そのあとは、もう『旅の宿』になっちゃう。
岡本 『旅の宿』の前に、それ以外に何もなかったんだっけ…。
拓郎 いや、『こっちを向いてくれ』ってのが あって、ステージではずっと歌っていたけれ ど、レコーディングしたのは『旅の宿』よりあとだった。
岡本 やっぱり「旅の宿』からかな。なんか溶け始めたなって感じになったのは…。
拓郎 そうだね。あの『旅の宿」の詩を電話でさ、いい詩があるから書きとめてくれって言われて受けとった時はね、とにかく最初の "ゆかたの君は、ススキのかんざし…"というところだけで、いや…、これはすごいんじゃないかって体にブルッときたもん。でもまあ『旅の宿』をやるまでは、本当にあんまり 二人は合わないんじゃないかって感じだったよね。ただ当時ニッポン放送の「フォークビレッジ」という番組で一緒に仕事をやってたから、縁が切れなかった。それがその後にい い方向の結果を生んだんじゃないかな。
岡本 そう、僕が構成やって、その上しゃべ らされたりもしていたから、最低限のコミュニケートが拓郎ともできた。
拓郎 一応俺がパーソナリティでしゃべって いたんだけど、その間ずっと岡本ちゃんが目 の前にドーンと座っているわけよ。それでレ コードをかけている合い間に、ああじゃ、こうじゃって、いろいろ話しながら番組を作っ ていた。結局俺と岡本ちゃんというのは、あの番組を通して知り合い、何らかのコミュニケートをしていたんだよね。
岡本 拓郎がしゃべって、僕が番組の構成をやっていたから、実際いやでもマイクをはさんで、必ず定期的に顔を合わせていた。それ があとにつながったと言えるかもね。
拓郎 俺の前にこの番組のパーソナリティをやっていたのが佐良直美で、ジミー時田の時から岡本ちゃんがやっていたというから、この番組の主みたいに当然のごとく岡本ちゃんが LFにいて俺たちも必然的に会うようにな ったわけ。そうやっているうちに『旅の宿』 ができてうまくかみ合うことができた。やっぱりこの曲が決定的な事件だったね。一番最初の『ハイライト』では決定的にやばくなっ たのに、その後うまくいくようになったのは…。
岡本 だけど『花嫁になる君に』が、『ハイラ イト』の危機を救ったようなところがあったんじゃない。
拓郎 それはあったろうね。ただあの頃は、 岡本ちゃんと話をして、歌作りの途中で詩を こう変えようとか、メロディをこう変えよう とか、そういうことはまったくなかったよね。 作られてきた詩にそのままメロディをつけて歌うとかさ、たとえば「拓郎、そこのメロディおかしんじゃないか」とか、岡本ちゃんからもそういう話は全然なかったし、「こういう メロディになったから、岡本ちゃん、ここち ょっと詩を変えてよ」なんて話もまったくな かった。あの頃は、とりあえずレコードになるとか、作品が商品になるんだみたいなこと をまるで考えてなかったからね。とにかくス テージで歌う曲ということだけで作っていた
岡本 『旅の宿』も確かそうだった。シングル盤のレコードになるなんて考えてもなかった。 拓郎がステージでやっていて、すごく反響が 多いから深夜放送かなんかで流したんだよね。 そうしたらたちまちリクエストのトップになったったという話を聞いた。そうきいたとき、僕 としてはどういう歌がみんなに受けるいい歌 なのか、何もわかっちゃいなかったから、ただへエーッって驚いていた。 その後レコーディングのとき、スタジオに 行ったんだけど、ステージでの拓郎の弾き語りばかり聞いていたものだから、どうなるのだろうかって本当に興味深々でしたよ。とい うより実は恐ろしくてね…(笑)。だってダンボール箱をもち出してきて、それを叩いてリ ズムをとっていた。ドラムの音じゃダメだといってね…。なんかわけがわからなかったけれど、それを見てて、やっぱり音楽家っての はすごいなって......(笑)。
拓郎 このレコーディングはどうなるんだって心配そうに言ってたもん。
岡本 だけど、ミュージシャンには、ドラムじゃなくてダンボールを叩くというのが、ある種の感覚的な判断なわけでしょう。最後には、こういうサウンドでまとまるんだってい う構想があったわけでしょう?
拓郎 いや、それがまるでなかった(笑)。
岡本 でも、あの時僕はすごい尊敬したんだよね、ミュージシャンと呼ばれる人たちを。
拓郎 いや、実のところは俺も一体どうなる ことかって思ってた(笑)。アレンジやってい た石川(鷹彦)だって、そう思っていたはずだよ、あの時は……。
岡本 僕はマンドリンの音が入った時に、ワーツすごいと思った。
拓郎 そう、マンドリンを入れて、ハーモニ が入った瞬間に、これはいけるって俺も思 ったよ。
岡本 僕としてはとにかくダンボールを使ったのをみて、まずミュージシャンというのは尊敬に値いする人々だと思ったわけ(笑)それで、もうこれ以上絶対に口だしはしちゃいか ん、自分の領域じゃないと思った。
拓郎 いや ダンボールの中に布切れ詰めこんで、その前にマイクを立てて叩くわけなん だけど、そうするとバスドラの音がするのよ。 でも、あれは感覚的にすすんでたというかキマッてたね。できあがりを聞いた時、これは絶対、間違いなく売れると思った。 でも、それよりも何よりも、あの歌は詩がすごかったよ。詩の勝利だよ。あんな詩はもうなかなかできないんじゃないかな…?
岡本 最近でもないもんな。結局ね、こういうことが言えると思うんですよ。当時、言ってみれば洋風な曲を作りたいっていう気持ち が僕にもすごくあったわけだけど、その辺のところは、今度僕が書いた「旅に唄あり」 という本で、やっと何年かぶりに種明かしし たのだけれど、この数年で僕が旅をしながら見た風景というのは、まさに日本以外の何ものでもなかったわけです。で、拓郎もあの頃 の歌っていうと、ブルースっぽいというか、 そういう感じの歌を多く作っていたけれど、 その中には常に妙に日本的なところのあるものが多かった。『ともだち』という歌にしてもね。で、とにかく洋風のというか、アメリカ やイギリスのレコードを聞いて、それにただかぶれてしまって歌を作るんだ、というのとは違うものが拓郎にもあるということがわかって、それで何かものすごく気軽になったみたいなところが僕にはあった。今だから言うのだけれどね…。
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