77年大いなる人・拓郎×岡本おさみ対談③言葉とメロディの真剣勝負 二人の頂点『ライブ'73』
【 言葉とメロディの真剣勝負 二人の頂点『ライブ'73』 】
拓郎 ところで、二人でいろんな曲を作ったけど『ライブ'73』(拓郎のライブアルバム)が 最大の勝利だったと思うね。メロディも詩も対等で、五分五分の勝負をしているし、とにかくあれはすべての面ですごいLPだったと思うよ。 特に『落陽』なんて最高、俺は今でも何度きいても酔いしれるね。
岡本 あれは本当に短期間で作ったよね。ものの1か月かそこいらだった。
拓郎 詩がパーッとできて、それにワーッとメロディつけてさ。そうやってものの一か月で作った曲ばかりなんだけど、俺はあのLP の中の曲ってすべて気に入っているね。ちょっとまずかったなと思うのは『望みを捨てろ』 という曲ぐらいだ。
岡本 その辺はまったく同感だね。
拓郎 それから『晩餐』なんて詩は、最初歌になるかかどうか心配だった。テーマは気に入 ったんだけど「岡山で戦車が......」なんていう詩のところは、一体メロディになるだろうかって思った(笑)。岡本ちゃんの詩だと、あの頃は何でもメロディにできたって感じ。あの時はそれに乗っていたしね…。 で、昨日俺はたまたま小林倫博(フォーライ フの新人)と一日一緒にいたのね。彼が詩を、 俺がそれに曲をつけていま太田裕美のLPを作ってるわけ。で彼の詩の中に”ニュース" という言葉があった。「小林、悪いけどこのニュースって言葉はメロディに乗らないよ。ニュースって言葉自体がもうメロディじゃないんだよ。そこ変えてくれないか」なんて言ったんだけど、考えてみると、俺は平気でニュ ースなんて言葉にもメロディをつけて歌っていたんだよね。それから”積極的“という言葉もあったわけ。今の俺にはその言葉もメロディにならないと思った。まあ、俺が歌うのならともかく、太田裕美の歌でしょ。「積極的、 積極的、積極的」って三つにするんだったら、 彼女にも歌えると思うんだけど、一つだけだったらフレーズとして、裕美にはちょっとキ ツイんじゃないかって気がして「変えてよ」 って要求したんだよ。だけど俺だったら歌っちゃっていたもんね。自分ではそういう言葉を書かなかったろうけど、やっぱり岡本ちゃんの持って来た詩なら、歌っちゃったという 時期が確かにあったよ。 で、話は戻るけど『ひらひら』なんて歌も最高の傑作だと思うし、『野の仏』もすさまじ い曲だしさ、あのLPはすごいよ。とにかくあのLPの頃の岡本ちゃんの詩は、すさまじ くいいよ。メロディともピタッと合っていると思うし、俺としても最大の自信作のひとつ だね。だから、あの辺の作品をとやかくケチ つけるやつがいたら、ブッ殺してやるみたいなところさえある(笑)。
岡本 でも、その少し前あたりの弾き語りの曲、『祭りのあと』とか『制服』なんかも僕は好きだし、いいと思うなあ~。
それから、あの頃僕が一番面白かったのは、 拓郎のステージを聞きに行って、自分の歌が初めて聞けるってこと。それが最大の楽しみ だった。例えば僕の書いた詩に、拓郎が目の前で曲をつけていったり、逆に彼のメロディ があって、僕がその前で歌詞をはめていく言葉をいじくりまわす…なんて作業をやっていたら、お互いにつまらないことになっていたと思うンだな。人間だから互いに「ああして くれ、こう変えてくれ」っていうつまらぬ話 になってトラブルも起こったろうけどね。 でも、そういうことを全部飛び越えちゃって、 とにかく歌として完成したものを初めてきく、というのはものすごく快適なことでしたよ。 ほら『七人の侍』という映画があったでしょ。 なんかよくわからないのが七人集まるんだけど、要するに野武士の盗賊を倒すという目的が同じでね。そういうことだと思うんで すよ。我々もお互いに勝手に作業を進めるけど、目的は同じだった、というような…
拓郎 うん、結局ね、岡本ちゃんといい雰囲気で仕事ができるようになったキッカケというか、結びつきは、恐らくLFのあの番組にあったと思うね。番組の合い間のCMを流している間の短い時間に、何か非常に凝縮された話をしていたんだと思うだよ。「岡本ちゃん この頃おもしろくないんだよ」とか、その辺 の一言ふた言の会話が非常に大きかったんじ ゃないかな。どんな話をしていたのかは、もうまったく記憶にないんだけれど、そうでなかったら、「岡本おさみの詩じゃなけりゃ、やんねえよ」なんて話にはならなかったと思うんだけどね。
岡本 確かに、あの番組の時以外に二人で会って、人生について語り合うなんてことはま るでなかったから、他人から見ると不思議な結びつきだったかもしれないね。
【 商品としての歌でなく 作品本位の歌作りだった 】
岡本 でも、僕の側から言うと、どんなものを書いても拓郎は曲にしてくれたからね。それがすごく楽しかった。つまり、例えば長谷 川きよしだと、知り合ってから8年くらいたつけど、出来た曲は8曲しかない。平均1年に一曲というと、もうお産と同じでしょう(笑)。 そして彼に言葉を渡すと、すぐに電話をしてきて「ここのところの意味は?」とか、もう 大変なのね。そうやっているとお互いにベターッとした付き合いになるし、それに彼の場合、字数が一番と二番とまったく同じじゃな けりゃダメなわけ。それだと従来の歌作りと同じでつまらないし、きよしと仕事となると、 すごく体中がかたくなって、縛られた感じに なるんですよ。ところが拓郎との場合は、変な言い方をすると何にも考えなくてもいいっ て感じ。ただ詩の行数くらいは責任として合わせなくちゃいけないという程度で(笑)。
拓郎 そうだね。確かに長谷川きよしのために作った岡本ちゃんの詩を見ていると、きよ しには悪いけど、曲作りの作業としてはずっ と楽だって気がするね。岡本ちゃんもものすごく気を使って作っている感じだもの。でも俺の場合はものすごく気を使ってくれていな い、その辺りでは(笑)。
岡本 それがね、こっちにとってはものすごい快感なわけなんだよ(笑)。
拓郎 それにしても、あの字余り、字足らずをどう処理しろっていうつもりだったの、あなた(笑)。でも一つ言えることは、あれで洋風なメロディに日本語を乗せるってことの難かしさを打破できたと思うんだよ。やっぱりいつまでも七五調の詩にメロをつけていたら、 たとえ曲は向こう風でも詩はいつも日本で,、いい歌はできなかったと思う。日本語をいかに西洋風のメロディに乗せるかが、俺にとっていつも大テーマだったわけだけど、岡本ち ゃんと組んでやったら、それが割と簡単にできちゃったんだよね。
岡本 とにかく評論家の先生みたいに、お互いに難しい話はせずに、自由にやれたから楽 しかったよな。
拓郎 そう、楽しかったね。それで結果的にも売れたわけだけど、例えば『旅の宿』が売れた時でも、別にどうってことないみたいなところがあったし、それはそれで偶然のことみたいなね…。我々はあの頃、商品として歌を作るなんて意識はなかったし、あくまで作品本位に作業していたと思う。
岡本 そういう意味でも、僕が一番感動したのは『おきざりにした悲しみ』の時だった。
拓郎 それは歌を商品として考えたらね、『旅の宿』の大ヒットのあとに、『おきざり」をシングル盤で出すって手はないよ。ある意味でファンの人やレコード会社を裏切ることになるしね。まして『ライブ'73』にいっちゃったら『旅の宿』のイメージなど、どこかへぶ っとんじゃって、どこにもつながってない。 レコード産業はイメージ産業だと言うけれど、 そんなこと全然関係ないって感じでやってい たじゃない。『おきざりにした悲しみ』はいい歌だから、これをシングル盤にしようじゃな いかってことだけだった。今だったら、あの重い歌詩で、あんな重いメロディの曲、まず シングルになんかしないはずだよ。『旅の宿』 のあとだから、もう少しハッピーな、それふうな曲のほうがもっといいだろうとなるのが今の発想だよね。突然「生きてゆくのは, ああ、さみしいね…」で始まる歌を出すなんて、ちょっとキツイよ。
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