2020/01/22

松田聖子や吉沢秋絵の曲を手がけた理由 プロデューサー/アレンジャーの瀬尾一三が語る

松田聖子や吉沢秋絵の曲を手がけた理由 プロデューサー/アレンジャーの瀬尾一三が語る

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音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組『J-POP LEGEND FORUM』。

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年1月の特集は、「瀬尾一三2020」。今週と来週の2週に渡って、去年、音楽活動50周年を迎えた70年代以降の日本の新しい音楽のプロデューサー、アレンジャーの先駆けである彼の作品集の収録曲を特集していく。今週は収録曲の前半9曲について、田家と瀬尾が裏話をトークしていく。

田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO『J-POP LEGEND FORUM』案内人の田家秀樹です。今お聴きいただいたのは、中島みゆきさんで「涙 - Made in tears-」、オリジナルは1988年のアルバム『グッバイ ガール』から。今月2020年1月の特集は「瀬尾一三2020」。プロデューサー、アレンジャー、作曲家、音楽監督、シンガー・ソングライター、中島みゆきさんを手掛けるようになって32年です。1月8日に瀬尾さんが手掛けられた曲を集められたコンピレーションアルバム『時代を創った名曲たち 3〜瀬尾一三作品集 SUPER digest〜』が発売されました。瀬尾さんが70年代から2000年代まで手掛けた全17曲が収録されています。今週と来週は、そのアルバムの全曲紹介をお送りいたします。という話は、去年の1月もしておりまして。実は去年の1月も瀬尾さん特集でございました。ということはですね、新春恒例のじじい放談(笑)。

瀬尾一三(以下、瀬尾):本当ですよね。こんな70歳越した2人でこうして話しててもいいんですかね(笑)。

田家:恒例、高年齢ですよね(笑)。でもそういう年齢にもかかわらず、こうやって毎年1カ月の特集が組めるのはちゃんと作品があるからですよね。

瀬尾:そう言っていただけるのはありがたいですね。

田家:そして『時代を創った名曲たち 3〜瀬尾一三作品集 SUPER digest〜』が発売になりました。

瀬尾:ほんとですよね、なんという……。僕が頼んだわけじゃないんですけどね(笑)。

田家:こういうコンピレーションシリーズって、例えば徳永英明さんとかご自身で歌ってらっしゃる方によるものが多いですけど、瀬尾さんのアルバムは歌ってる人が皆違いますからね。

瀬尾:作品集として出していただけるのも本当に特殊な感じですよね。

田家:曲を選ぶ大変さというのもあるかと思うんですが。

瀬尾:僕は実際、選曲にはタッチしてないんですよ。一作目を出したときに、あるアーティストから「なんで僕の歌が入ってないの?」という声が聞こえてきまして、「いや、僕は選曲にはタッチしてないんだよ」っていう。なので、その辺のことはアーティストの皆さん、文句は言わないでください(笑)。

田家:なぜ今週と来週は中島みゆきさんの「涙 - Made in tears-」から始めるのかと言いますと、瀬尾さんが初めてアレンジを手掛けた曲がこれだったということです。

瀬尾:そうですね、これは1988年に彼女と初めて協力した思い出の曲です。

田家:もう32年も経つわけですね。この曲はアルバムの中に入っておりますが、来週詳しく話そうと思っております。今週は先ずですね、今回のアルバム1曲目に収録されています六文銭で「私の家」からお送りいたします。

田家:1972年に発売された1stアルバム『キングサーモンのいる島』収録の曲ですね。六文銭、小室等さん、原茂さん、及川恒平さん、橋本良一さん、四角佳子さん、色々なアーティストの方がいらっしゃいますね。この曲をアルバムの1曲目に持ってきたっていうのも、選曲されたスタッフの方がこの曲から始めたいということで?

瀬尾:そうですね、小室さんとは以前から親しくさせていただいていたので。これが、べルウッドというレーベルから出た最初の作品で、君もちょっとやってみてくれないかっておっしゃっていただいて。僕も会社から独立してすぐの初期の頃だったので、結構覚えてますね。

田家:1972年にアルファミュージックをお辞めになり、シンガー・ソングライターとしてもデビューなさったその年に。でもこの六文銭は、「インドの街を象にのって」という曲が私はとても好きで。

瀬尾:その曲入れたらよかったですね。まあ僕は選曲に関わっていなくて、文句も受け付けていないので(笑)。

田家:まあ、色々あるでしょう(笑)。お聴きいただいたのは六文銭で「私の家」でした。

猫「各駅停車」

田家:2曲目はこちらです、1974年発売、猫の6枚目のシングル「各駅停車」 。作詞が喜多條忠さん、作曲が石山恵三さんです。これは、猫、変わったなあって思った曲ですね。

瀬尾:そうですね、デビューの「地下鉄にのって」は吉田拓郎さんプロデュースで、拓郎さん色が強かったですもんね。これは僕色がちょっと出てるかもしれませんね、ホーンとか使ってて。

田家:猫は当時、常富喜雄、田口清、内山修という早稲田の学生によるバンドでした。当時から交流はおありでした?

瀬尾:そうですね、元々僕は関西出身なので早稲田の人のことはそんな分からなかったんですけど、僕が東京に来てからは色々な人を通じて知り合って。それで色々と根っこを作って、1枚目は吉田さんが担当したということで、次は任すよって僕が言われて。2枚目のアルバムは僕が全曲担当しました。

田家:このホーンを使うっていうのは、どういうアプローチだったんですか?

瀬尾:僕はよくカテゴライズでフォークっていう風によく分けられるんです、出身はそうですけど僕自身はそういうジャンルに拘って考えていないので。だから、この作品の前にやってた「よしだたくろう LIVE ’73」の時からホーンたくさん入れてR&Bっぽくやってますし。だからそんなに、フォークというジャンルの区分けはあまりないんですよね。

田家:猫のメンバーはどういう反応だったんですか?

瀬尾:どうだったんでしょうね、揉めることは揉めました(笑)。多少は文句を言うメンバーもいましたけど、

田家:これはおれたちの音楽じゃない、フォークじゃないみたいな?

瀬尾:うーん、そういうのはアルバムのこの曲だけだったんだけど、この曲が目立っちゃって。だからまあ、僕の腹の中では「ほらね?」って言う感じでしたね。

田家:アレンジャーを加えるなら、メンバーだけで作った作品とは違う要素が入らないとね。

瀬尾:やっぱり先細りになってしまう可能性もあるじゃないですか。他の要素を入れたら広がりが見えるかもしれないっていうアレンジで、こういうプロデューサー・アレンジャーというポジションでやらせていただきました。

田家:お聴きいただいたのは、『時代を創った名曲たち 3〜瀬尾一三作品集 SUPER digest〜』2曲目、猫で「私の各駅停車」でした。続いては3曲目、1974年かぐや姫で「なごり雪」。

かぐや姫「なごり雪」

田家:かぐや姫の1974年リリースの3枚目のアルバム『三階建の詩』の中の曲で、イルカのカバーでもヒットしました。瀬尾さんのキャリアの中で、かぐや姫は欠かせませんね。

瀬尾:ここで最初のキャリアの礎になったことを色々やらせてもらったので、これ以降は僕は正さん(伊勢正三)のスタッフに入ってしまうんです。南こうせつさんは石川鷹彦さんとか水谷公生さん、正やんは僕が曲を見るという形になって、そのまま「風」まで続いていくんですけどね。

田家:「22才の別れ」と「なごり雪」は、正やんが最初に書いた「三階建の歌」収録の2曲なんですよね。

瀬尾:そうですね、それも僕がオリジナルの方をやって、「風」の方は石川鷹彦さんがやってましたけど。

田家:以前この番組で、正やんの特集をした際にゲストでご本人に来ていただいたんですけど、このアルバムの最後の2曲だけが残っていて「お前が書くんだ」って言われて、しょうがなく書いたって話されていましたね。

瀬尾:でもそれが名曲となって、最終的に皆に愛される曲になって。だから彼もすごいなと思います。残り物に福があるじゃないですけど、最後に任されたのがとてもいい曲だったので。

田家:その時に彼のソングライター・スキルを感じたと。3曲目はかぐや姫の「なごり雪」でした。4曲目はこちらです。石川セリさんの「虹のひと部屋」。

石川セリ「虹のひと部屋」

石川セリの名盤『ときどき私は…SERI』の制作裏話

田家:同時代・同世代の小うるさいじじいのリスナーとして、この曲が収録されていたのは拍手でありました。石川セリさんの名盤『ときどき私は…SERI』の中の1曲「虹のひと部屋」でした。アルバムの中でも特に印象的な曲で、作曲と編曲ですもんね。これはどういう思い出がありますか?

瀬尾:これはですね、当時のフォノグラムレコードっていうところのディレクターの本城さんに書いてみないかって言われて、それで書かせてもらってアレンジしたんです。この時に初めて矢野顕子さんとかともやって、楽しかったですよ。

田家:このアルバムは、松任谷由実さんの「朝焼けが消える前に」とか、下田逸郎さんの「SEXY」とか、この人がこんな曲書くんだっていうものが入ってまして名盤ですね。

瀬尾:この業界にいる小うるさくないおじさんおばさんは好きなアルバムですね(笑)。

田家:やっぱりちょっと違いますよね。

瀬尾:色っぽいいい女ですよ、人妻ですが(笑)

田家:お聴きいただいたのは、『時代を創った名曲たち 3〜瀬尾一三作品集 SUPER digest〜』の4曲目、石川セリさんで「虹のひと部屋」でした。続いては5曲目、大貫妙子さんで「じゃじゃ馬娘」。

大貫妙子「じゃじゃ馬娘」

田家:1978年発売の大貫妙子さんの3枚目のアルバム『ミニヨン』の1曲目。このアルバムのアレンジは瀬尾さんと坂本龍一さん、プロデュースは評論家の小倉エージさん。

瀬尾:これはですね、小倉エージの考えでそうなったんですが、僕がやったのはいわゆるLAサウンド。教授がやったのはヨーロッパサウンドという区別の仕方をして。それでその後の大貫さんが選んだのはヨーロッパサウンドでしたね(笑)。

田家:ですから、その後の大貫さんを聴いてらっしゃる方には意外な曲かもしれませんね。

瀬尾:そうですね、こういうこともあったので大貫さんも自分の行く道が見えたんじゃないでしょうか。

田家:このプロデュースをしている小倉さんは、元々URCのアート音楽出版というところのディレクターで。瀬尾さんはその頃からお付き合いがあったんですよね。

瀬尾:学生の頃から知ってたんですよ。

田家:同じ神戸の音楽シーンで。

瀬尾:輸入盤漁りをしてたんですよ。「これ持ってる?」って訊いて、持ってなかったら優越感に浸るみたいな。持ってなかったら、あっちこっち探しに行ってこれいいよ、あれいいよ知らないの? っていう競争をしていました。

田家:その時から、趣味が近かったんですか?

瀬尾:そうですね、同じようなとこが好きで。あいつが威張ってるのを見るとすごい腹が立ってね(笑)。

田家:で、瀬尾さんはURCからデビューされて、小倉さんはディレクターになると。少しづつ立場が違ってるわけですもんね。

瀬尾:そうですね、最終的に彼はいわゆる評論家になっていって、僕はものつくりの方に移っていって。

田家:その後、プロデューサーとアレンジャーとしてそこで出会って。複雑な何かというのもあるんですか?

瀬尾:そんなことないですよ、それはそれで面白かったんですが、大貫さんにとってこれが良いことか悪いことか分かりません。でもLA、ウェストコーストサウンドっていうものに決別はできたと思います。

田家:お聴きいただいたのは、アルバム5曲目の大貫妙子さんで「じゃじゃ馬娘」でした。続いては6曲目です。1979年CHAGE and ASKAのデビューシングル「ひとり咲き」。

CHAGE and ASKA「ひとり咲き」に芝居的要素を入れたかった

田家:デビューシングルからやってらっしゃる。

瀬尾:そうですね、これは世界歌謡祭に出た時のものだと思います。歌謡祭とレコード用を同じくしたいと言われて、レコーディングを先にやってしまったんですけど。初めて彼らに会った時は素朴な2人で。ASKAがちょっと鼻が詰まった声で、それが魅力的だったんですけど。これは演歌っぽく、情念っぽくしたいなと思ってました。歌舞伎の舞台ではないけど、屋台崩しがあってそこから出てくるみたいなものをイメージして作ってみました。最後に半音上げてるのも、元々そんな曲じゃなかったんですけど。当人たちは何も知らなかったんでびっくりして目が点になってましたけどね。「あれー」みたいな(笑)。

田家:(笑)。でもアレンジによって曲のスケールが何倍にもなってましたね。

 

瀬尾:それは本当に屋台崩しがしたかったんですよ。舞台が上から崩れて、後ろから違うものが出てくるみたいな。それくらいの変化を音で作りたかったんですよ。

田家:あれ、1回目か2回目のツアーで屋台くずしやってませんでしたっけ?

瀬尾:それはちょっと行ったことないんですけど(笑)。

田家:それも瀬尾さんのアイデアなのかと思ってました。

瀬尾:いやいや、僕はそれでこの曲にちょっとこう、いわゆる芝居的要素を入れてみようと思ってアレンジしました。

田家:2作目の「万里の河」はフォーク演歌っぽくアレンジされてますけど、これはちょっと違いますもんね。

瀬尾:そうですね、これはある意味、世界歌謡祭っていう意識もあったので、他のエントリーの人より目立とうっていう僕のスケベ心があったんじゃないでしょうか。

田家:なるほどね、そういう意味ではある意味CHAGE and ASKAの生みの親と言っちゃっていいんでしょうね。

瀬尾:最初の頃はね。でもこのイメージを払拭するのに彼らは大変だったと思いますよ。「SAY YES」までいくのも大変だったと思います。

田家:なるほど。お聴きいただいたのは6曲目CHAGE and ASKAで「ひとり咲き」でした。続いては7曲目です。松田聖子さんで「花一色 ~野菊のささやき~」。

松田聖子「花一色 ~野菊のささやき~」

田家:作詞‎が松本隆で、作曲‎が財津和夫。これは6枚目のシングル「白いパラソル」のB面曲で、A・B面ともにこのコンビで書かれた曲であり、松本さんが初めて書いたシングル曲だった。で、東映映画『野菊の墓』の主題歌だったと。これはどういう経緯だったんですか?

瀬尾:これは財津さんの方からアレンジして欲しいと頼まれて。その時に甲斐祥弘さんに「赤い靴のバレリーナ」だったかな、それも頼まれて。だから、あともう一つ、杉真理さんからも『ピーチ・シャーベット』の3曲も頼まれてて。その時に録りました。

田家:瀬尾さんにとって、聖子さんはどういう風に映ってらっしゃったんですか?

瀬尾:ごめんなさいね、この頃のアイドルさんはね、スタジオに来ないんです。全部仮歌なんです。仮歌の女性がラララって歌いにくるだけだったので、申し訳ないんですけど松田聖子さんと仕事してるっていう認識がなかったんです。M1、M2みたいな感じで来るんですよ。

田家:あー、誰が歌うか分からない感じになってたんですね。去年の特集の時にですね、瀬尾さんはアイドルに対してどういうスタンスだったんですか? って伺った際に「シンガー・ソングライターだけやると決めた」と仰ってたんです。でも、なんでアイドルやらないのかって言えば、今仰ったようなことですよね。

瀬尾:そうですね、結局ご本人がオケ録りにいらっしゃらないので。僕にとってアイドルっていうのは顔のない誰かっていう感じなので、やってるうちに「この曲はどの人のために頑張るんだろう」っていうのが分からなくなってくる。やっぱりシンガー・ソングライターの方が直接話もできるし、意見も聞けるしっていうことで、アイドルから遠のいていくっていうことがありましたね。

田家:それはレコードが店頭に並んだり、テレビで歌ってる時のクレジットを見て「あ、これになったんだ」と気づくみたいな?

瀬尾:それもありますし、飲み屋で飲んでたら「あれ、どっかで聴いたこkとあるな。え、もしかして俺?」ということもありました。でも歌ってるのはこの人じゃなかった、仮歌の子だったようなって。松田聖子さんが悪いんじゃなくて、当時の音楽業界がそうだったってことなんですけどね。

田家:なるほど(笑)。7曲目、松田聖子さんで「花一色 ~野菊のささやき~」でした。続いて8曲目です。稲葉喜美子さんで「ゆりこ」。

強く印象に残った女性シンガー・ソングライター、稲葉喜美子

田家:稲葉喜美子さんは横浜出身で、日本放送のフォーク番組『フォーク・ビレッジ』の出身だったと。

瀬尾:この人は気性の激しい人なんですけど、強い気性じゃなくて。感受性が強い人で、この時も曲が終わってから出てこないから気になって見たら泣いていて。

田家:なんとなくイメージはお酒とタバコって感じでしたけどね。

瀬尾:そうですね、とてもナイーブな人で。女性のシンガー・ソングライターの中でも好きなタイプですね。

田家:この曲はスタッフさんが選んだと思うんですけど、これが選ばれると嬉しいでしょう?

瀬尾:そうですね、「おっ、これ選んだか」って思いましたね。

田家:あまりヒットしたわけじゃなくて、でも個性的な人でしたよね。

瀬尾:やっぱり知って欲しかったし、こういう人もいるって知って欲しかったので。これを選んだ人には心で拍手しました(笑)。嬉しくて。

田家:でもこれ1983年ですよね。中島みゆきさんと出会う5年前。当時って稲葉喜美子と中島みゆきさんって当時のシーンでは重なるところがあったようにも思います。

瀬尾:そうですねえ。内情は違うところがありましたが、もしかしたら女性のシンガー・ソングライターへの、僕の耐性というか。順応できるようになったなと思いますね。

田家:それまでは男性が多くて女性シンガー・ソングライターはあまり手掛けてらっしゃらなかった?

瀬尾:アーティストの中でこういうタイプの人が初めてだったんです。強い人はたくさんいたんですけどね、誰とは言いませんが(笑)。

田家:その中でもこの方は強く印象に残ったと。お聴きいただいたのは稲葉喜美子さんで「ゆりこ」でした。続いて9曲目、吉沢秋絵 with おニャン子クラブで「なぜ? の嵐 」。

田家:いやーこの曲の流れが面白いですね。

瀬尾:そうですね。人間って本当に勝手だと思いますよ、そんなのは嫌だとか言いながらこういうのも時々やってみたくなるっていう人間の性(笑)。

田家:いろいろな曲を手掛けましたという例としては、これほど分かりやすい曲はないですね(笑)。『スケバン刑事Ⅱ-少女鉄仮面伝説-』の主題歌で、作詞が秋元康さん、作曲が山梨鐐平さん。藤岡孝章(元・まりちゃんズ)、板垣秀雄(元・ウィークエンド)と組んだ男性グループ「Do!」の山梨鐐平さんです。長渕さんの曲を書いたことありますもんね。そういうので選んだのかと思いました。

瀬尾:僕は選んでないからね(笑)。でも、それにしてもの並びは面白いですよね。

田家:そうですよね(笑)。河合奈保子さんとか中森明菜さんとか、富田靖子さん、工藤静香さんなども手掛けていたと。

瀬尾:さっきまでの話はなんだったんだってことですよね(笑)。

田家:さっきの話でいくと、この人たちはレコーディングに来てないってことですよね。

瀬尾:河合奈保子さんは来たかな、他は来てないですね(笑)。

田家:言っちゃった(笑)。9曲目は吉沢秋絵 with おニャン子クラブで「なぜ? の嵐 」でした。

田家:J-POP瀬尾一三2020年part2、70年代以降の日本の新しい音楽のアレンジャー・プロデューサーの先駆け瀬尾一三さんに特集する1カ月。今週はPart3『時代を創った名曲たち 3~瀬尾一三作品集 SUPER digest~』前編でした。今流れているのは竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」。今週は前編でしたが、まだ中島みゆきさんが出てきませんでしたね。1作目の時はアイドルとか全然出てこなかったでしょう。それはちょっと、入れないようにしてたっていう……?

瀬尾:まあ僕は選んでないですけどね、でも他に入れたいのがあったんじゃないですかね。別に避けてた訳ではないと思いますね。

田家:この3作目によって全貌が見えてくるっていう(笑)。全貌ということで言うとですね、2月10日に瀬尾さんの本が出版されます。『音楽と契約した男 瀬尾一三』瀬尾一三を知らずに日本の音楽は語れないですね。

瀬尾:そんなことないですよ、宣伝の方が選んでくれたので。

田家:スペシャル対談も4組ありまして、萩田光雄さん、松任谷正隆さん、山下達郎さん、亀田誠治さん。どんなお話をされました?

瀬尾:楽しかったですよ。全員バラバラでやって、彼らもお互いを知ってないから、僕だけが各々を知っているので、各々にコンタクトを取ってOKもらって3時間くらいそれぞれ喋ってましたね。皆やっぱり同じ業種で喋るってことがないみたいで、お互いのあるある話とか、4人ともいろいろなことを結構喋ってくれました。

田家:へえ〜。来週はこの本についても深く掘り下げたいと思います。今週はこの辺りで。

瀬尾一三
1969年フォークグループ「愚」として活動。1973年ソロシンガーとしてアルバム『獏』を発売。同年に『LIVE`73』を吉田拓郎と共同プロデュース。その後、中島みゆきをはじめ、吉田拓郎、長渕剛、德永英明 他、今作品に収録された日本のポップス、ロックシーンの黎明期から現在まで燦然と光輝くアーティストたちの作品のアレンジ(編曲)やプロデュースを手掛け、中島みゆきにおいてはコンサート、『夜会』『夜会工場』の音楽プロデュースも務めている。2017年、自身の作品集第1弾『「時代を創った名曲たち」~瀬尾一三作品集 SUPER digest~』を発売し、好評を博した。2019年に第2弾、2020年1月に第3弾の発売が決定。その同時期に音楽活動50周年のアーカイブ書籍の発売も予定されている。

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソナリティとして活躍中。

 

 

 

 

 

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2020/01/20

153-0051 ・ ラジオ再び

153-0051 ・ ラジオ再び

 

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2020/01/19

田家秀樹ブログ・新・猫の散歩 ・浅川マキさん、10周忌。

田家秀樹ブログ・新・猫の散歩 ・浅川マキさん、10周忌。

 

命日、昨日だったんですね。気が付いたのは今日なんですが、昨日、一日、彼女の曲を聴いてたんです。何でかというと、FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」の特集が日本の音楽プロデユサーの草分け、寺本幸司さんなんです。
裏方ですからご存じない方の方が多いでしょうね。僕らより一世代上。でも、パイオニアの一人。そして、彼がプロデユースした最初のアーテイストが浅川マキさんでした。彼女を寺山修司さんと結び付けたのも彼ですね。
他にもリリイ、イルカ、桑名正博、下田逸郎、木田高介というような人たちをプロデユースしてます。そういう人たちを一週ずつ語って頂こうという一か月。何で、2月にしたかというと、マキさんの10周忌の色んな催しが1月末から2月にかけて開かれてるからですね。
これはほんとに偶然なんですけど、浅川マキさんの出身は石川県。金沢はゆかりの街になるわけで、今、金沢のライブハウスやCDショップ、ロック喫茶、画廊などで浅川マキ展が開かれているようです。寺本さんも行ってたようですね。
マキさんと言えば、カメラマンが田村仁さん、タムジンです。拓郎さんが仁さんに頼んだのはマキさんを撮っていたからですね。拓郎さんの「元気です」のあの横顔ジャケットは浅川マキ風に撮って、という依頼があってのことだったそうです。
タムジンと言えば、みゆきさんも全部彼が撮ってますからね。今、金沢の各地で開かれている浅川マキ展も仁さんの写真が展示されてるはずです。で、明日、みゆきさんのツアーで金沢に行くわけです。ストーリーが出来てるね(笑)。
もっと言えば、みゆきさんのツアーのベースの富倉安生さんは、浅川マキさんの代表アルバム「裏窓」に参加してると思いますよ。彼はトランザムで拓郎さんの「つま恋」にも出てたわけで、色々巡って、彼もみゆきさんで金沢に行くわけです。
ツアーの取材には、そういう面白さもあるんです。とは、いえ、金沢各地のマキさん展に足を運ぶ余裕はないと思いますけど。若い時ならねえ、そういうフットワークもあったんですが、今は、疲れないようにするのが精一杯。ほんとに情けない。
僕もツアー取材がこれでおしまいだろうな、という感覚をひしひしと感じております。でも、そんなに寒くなさそうなのが救いですね。というわけで、浅川マキさん、一日遅れの10周忌。曲ですね。彼女の名作「こんな風に過ぎて行くのなら」を。じゃ、おやすみなさい。

 

🌙 女ともだち[ 4 ] 撮影/吉田拓郎 浅川マキ(文) 1984年月刊カドカワ8

 

 

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2020/01/17

153-0051・ミーティング

153-0051・ミーティング

 

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中島みゆきは進化し続ける「天才」 プロデューサー瀬尾一三が語る

中島みゆきは進化し続ける「天才」 プロデューサー瀬尾一三が語る

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音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年1月の特集は、「瀬尾一三2020」。去年、音楽活動50周年を迎えた70年代以降の日本の新しい音楽のプロデューサー、アレンジャーの先駆けである彼の作品集の全曲紹介と中島みゆき43枚目のアルバム『CONTRALTO』を特集していく。2週目の今回は、前回に続き、中島みゆきのアルバムをピックアップ。

田家秀樹(以下、田家):こんばんは、FM COCOLO『J-POP LEGEND FORUM』案内人、田家秀樹です。今流れているのは中島みゆきさんの「観音(かんのん)橋(ばし) (TV-MIX)」ですね。1月8日に発売になった中島みゆきさんの43枚目のアルバム『CONTRALTO』からお聴きいただいております。アルバムの中に2曲TV-MIXが入ってます。今週の前テーマは、この曲です。今月2020年1月の特集は「瀬尾一三2020」。プロデューサー、アレンジャー、作曲家、音楽監督、シンガーソングライター、中島みゆきさんを手掛けるようになって32年です。先週と今週は中島みゆきさんのアルバムの全曲特集、今週は2週目の後半の曲をご紹介いたします。こんばんは。


中島みゆきアルバム『CONTRALTO』全曲トレーラー


瀬尾一三(以下、瀬尾):こんばんは。よろしくお願いします。

田家:インストゥルメンタルで番組が始まると気分がちょっと違って、先週と今週ゆっくりした気持ちで始まりますね。でもアルバムは最後の曲「進化樹」の後にTV-MIXが2曲入っていて、あの余韻がいいですね。

瀬尾:そう感じていただければ嬉しいです。彼女からアルバムの中に2曲TV-MIXを入れたいっていう要望があって、それで入れました。

田家:瀬尾さんはアルバムの話は他の場所でもお話されているんですか?

瀬尾:初めてですよ。このアルバムについて話すのは今回が初めてです。

田家:瀬尾さんの中で、今回のアルバムで何か今までと違うと思っていることはいくつかあるんでしょうか?

瀬尾:彼女がつけた『CONTRALTO』というタイトルが代表していて。うた歌いとしての本来の姿へと近づくでもなく戻るでもなく、それを確認している感じがしましたね。

田家:なるほど。今回はそんなアルバムの後半をお聴きいただくわけですが、その前にですね、この曲から始めたいと思います。1988年の中島みゆきのアルバム『グッバイ ガール』から「野ウサギのように」。

中島みゆきとの出会い

田家:なんでこの曲で始めたかというと2つ理由がありまして。1つは来週と再来週が、瀬尾さんのキャリアを改めて辿る2週間で、この曲は、瀬尾さんが初めて手掛けたアルバムの中の曲だからですね。で、もう1つは去年の〈夜会VOL.20「リトル・トーキョー」〉の中でこの曲を歌われていました。瀬尾さんとの出会いの30周年記念を2人で祝われているようでした。

瀬尾:いやいや(笑)。そんなことはないですけど、舞台のところのシチュエーションでどの曲を選ぼうかという時に彼女が選んだっていうことはありましたね。

田家:でも彼女の中ではきっと、30周年というのがあったのではないでしょうか。

瀬尾:うーん、人の心は分からないですからね。特に複雑怪奇な人の心は分かりません(笑)。

田家:今年6月頃に〈リトル・トーキョー〉の映画が公開されるんですよね。昨日から始まったツアーが終わった後ですかね。この〈リトル・トーキョー〉は、「夜会はもしかしたらこんなことをやりたかったんじゃないか」っていう内容だったんですよね。

瀬尾:89年から始まったんですけど、僕としては89年にこれに近い形でできれば良かったのになって思ってます。

田家:音楽に寄りながら、エンターテイメントになっていてストーリーもあって。

瀬尾:ずいぶん時間はかかりましたけどね。ある意味、夜会の理想型に近い形ができたのかなって。

田家:これまでで一番楽しかった夜会ですね。

瀬尾:本人も歌って踊ってましたしね(笑)。

田家:これはぜひ映画館で観ていただけると楽しめると思います。「野ウサギのように」でした。
田家:こちらはアルバムの6曲目「観音橋」ですね。アナログ盤で言うとB面の1曲目になるんですけど、これの1個前の収録曲「 齢(よわい)寿(ことぶき)天(そら)任(まか)せ」がオリエンタル風で、「観音橋」は童歌風に。

瀬尾:ちょっと懐かしい感じを出したかったんです。曲のメロディも言葉遣いもちょっと昔話っぽいので、童歌っぽくしてみましたけどね。

田家:先ほど何気なくB面の1曲目と言ってしまったんですが、それも意識されていたんでしょうか?

瀬尾:そうですね、やっぱり僕らってアナログ世代なので、頭のどこかにはA面B面っていう考え方がありますね。

田家:みゆきさんのアルバムは、アナログ盤でも発売されてますもんね。やっぱりアナログの音って違うと思われますか?

瀬尾:先日アナログ盤の試聴をしてきました。僕がアナログに聴き慣れてるだけかもしれないですけど、音質について言うと、アナログでしか出ない音域というか、空気を伝わってくるものがすごく感じられますね。なので、その辺の音の出方のところがアナログならではっていうところがあります。

田家:なるほど。『CONTRALTO』っていうタイトルもそうですが、、どんな風に聴いて欲しいとか、ここを聴いて欲しいというポイントもあるんでしょうか?

瀬尾:僕の中では一種の原点回帰というか。本人も含めた上で温故知新ではないですけど、元をちゃんと見つめてみようっていうのがあるのかもしれません。

田家:この6曲目の「観音(かんのん)橋(ばし)」も『CONTRALTO』的だなあって思って聴いておりました。
中島みゆきの「場所感覚」とは?

田家:このトイピアノって言うんでしょうかね、これはどういうイメージだったんでしょう?

瀬尾:先ほど仰ってた童歌風っていうのもあって、ちょっと僕のイメージではオルゴール風な感じがあります。少し昔話風な感じ、蓋を開けると記憶も戻ってくるみたいな感じで。旧いアルバムの写真を見ているような感じにしたかったんです。

田家:時間の流れもちょっと変わってくるような。「橋を渡らない こちらの異人のままでいる」っていう歌詞に表れる中島みゆきさんの場所感覚といいましょうか。

瀬尾:僕の個人的な感情ですが、幼少期の頃に、父親の仕事の関係で何度も引っ越しや転校を繰り返しておりまして。転校してその地域に慣れるっていうこととか、そういうことが重なって、歌の中の歌詞にもあるように、どこかその見えない結界があってそこに入ることの覚悟とか、馴染む馴染まないっていうこと、相手がどういう迎え方をしてくれるかっていうのは子供の頃からすごく感じていました。なので、とてもこの心情はよくわかる気がします。何か見えない線がありますよね。

田家:これは日本中どこでもあることでしょうからね。そういう人たちに届けばいいなという曲です。中島みゆきさんで「観音(かんのん)橋(ばし)」でした。
田家:続いて、アルバム7曲目の「自画像」です。改めて聴くと、アルバムの10曲の中でも一番バラエティを感じさせる曲ですね。

瀬尾:これを初めて聴いたときは、「いろいろなものに手を出してくるな、趣向を凝らしてくるな」と思ったんですけどね。

田家:これは自画像というだけあって、ご自身のことを重ねたくなりますが。

瀬尾:まあ彼女はクリエイターなのでね。100%彼女のことである必要はないけど、この物語のどこかに彼女が投影されている部分があるかもしれません。

田家:そしてこういうジャジーな曲調。

瀬尾:基本の形はあるけど、あまり形に捉われないようにっていう感じがしますよね。これは言い過ぎかもしれませんが、僕的にはフランク・ザッパ的なことをやりたかった。撮るときには「もうコードとか全部無視して」って言ってたんです(笑)。

田家:それで皆も承知しておもしろがってる感じで?

瀬尾:それはもうツーカーなので、すごい楽です。

田家:さっきの「観音(かんのん)橋(ばし)」との落差がいいですね。それでは、自由で前衛的な「自画像」を聴いてもらいましょう。

瀬尾:最後のあれはね、僕の個人的アイデアで入れてしまったんです。なんていうか独白的です。「このまま行くか行かないか」っていう救われないで終わるよりかは、自分の映っていた鏡を割って次のステップに行って欲しいと思って割ったんです。

田家:なるほど。このデリカシーに欠ける女性が、デリカシーが欠けていることに苛立って。

瀬尾:そうですね、このままの状態でいるというのでなくて。一旦バシャーンって壊してしまいました。

田家:自分に気が付いたんでしょうね。お聴きいただいたのは「自画像」でした。これはあなたかもしれません。
田家:お聴きいただいてるのは8曲目「タグ・ボート(Tug・Boat)」ですね。こういうのが聞きたかったという人が多いだろうなあっていう曲ですよね。

瀬尾:ある意味ショートフィルムになるようなストーリーなので、それを表現できればと思って作ってるんです。

田家:イントロは、霧に煙ってる夜の港っていうのが見えてきますもんね。で、物の見方がみゆきさんらしい。

瀬尾:これは彼女のよく題材にする、”日の当たらない人に日を当てる”っていう。豪華客船とそれを引っ張るタグボートとの比較を寓話的にやっているだけなんですけどね。これは僕の中ではアニメーションなんですよ。擬人化されたタグボートの。曲のリズムも船のエンジンの音とかを意識して作っています。それと、外用に出ていく船と湾内で仕事がないタグボートとの対比がうまく出ればいいなと思っています。

田家:この曲って歌も優しいですもんね。地声っていうか、演技的ではない。
ナレーター的な感覚で歌っている

瀬尾:そういう意味ではね、これは僕の考えだと、中島みゆきはあくまでナレーター的な感覚で歌ってると思うんですよね。だからタグボートでもなく、豪華客船の方でもなく、それを見つめてるナレーターみたいな感じで歌ってると思うんです。

田家:「大いなる人々の水平線」の後の部分ってまさにそれですね。カメラが引いていって、彼女の歌声が大きくなっていって、両方とも澄んでしまうというか。まあでもこの曲が進むにつれて、表情が変わっていくっていうのもアレンジでしょう?

瀬尾:だって世界が変わるんですもん(笑)。だから僕の頭の中では、タグボートにたるや、客船にたるやっていうか。客船は荒波の中に突っ込んでいくし、タグボートは港に戻っていくわで、どうやってまとめようって思った作品ですね。

田家:夕靄の中に帰っていくんですもんね。改めて歌を聴くと、なるほどなと思われると
思います。曲が進むにつれて、映像も変わっていく。まさに見事なアレンジの妙という感じでしょう。そして最後にタグボートって繰り返すところのあどけなさというか、明るさ。

瀬尾:タグボートだからですよ(笑)。そこはタグボートになっているので、自分の引っ張る役目が終わったら帰っていくっていうね。世の中にはいろいろな幸せがあるから、全員が同じところ、日の当たるところを目指すのが本当の幸せなのか? っていうことですよね。だから自分たちなりの幸せを見つけた方がいいっていうことじゃないですか?

田家:途中までは、客船もタグボートも両方視野に置きながら、最後はタグボートになっているわけですもんね。私はやっぱりタグボート寄りっていうか。その視線も「CONTRALTO」だなと思いました。

瀬尾:「私はやっぱりタグボートの方に日を当てたい」っていうのが中島みゆきだと思うので。

田家:私は「タグ・ボート(Tug・Boat)」の人生にシンパシーを感じてるのよっていうね。それが最後の明るさやあどけなさに繋がってると考えたら、また新しい聴き方ができるんじゃないかと思っております。
田家:アルバム9曲目「離郷の歌」ですが、また曲調が変わってきましたね。ワルツのような。

瀬尾:彼女は比較的ワルツな曲が多いんですが、これは出だしでもうやられますよね。「屋根打つ雨よりも 胸打つあの歌は」っていうこの比較の仕方は詩人ですよね。

田家:瀬尾さんがそう言うと説得力ありますよね。故郷を離れてっていうのは、彼女の中で年々流れているひとつのテーマでもあるんでしょうけど。これもドラマ『やすらぎの刻〜道』の主題歌で、倉本さんの書いた脚本と結びつけているものがここにあると思わせてくれますね。

瀬尾:中島みゆきは倉本聰先生が書いた脚本を先に見せてもらってるので、その中にどこかシンパシーを感じて書いてるんだと思うんですけど。

田家:やっぱり脚本があって生まれたアルバムなんですか?

瀬尾:彼女は主題歌を頼まれるとき、脚本やあらすじを読まないと書かないので。僕も回覧板のように脚本を渡されて、アレンジを考えるんですけどね(笑)。

田家:でも倉本聰さんの視点とみゆきさんの視点がすごく出てるなあと思いましたけどね。

瀬尾:そうですね、着眼点ということで言うと彼女はやっぱりものすごいものを持っていますよね。相手の心に入るような視点を突いてきます。

田家:ドラマの方も、人の人生は思うようにはいかないんだっていうことがテーマになっているように思います。この曲もそういうことなんでしょう。
中島みゆきの声・質感で意識したこと

田家:今回のアルバムのみゆきさんの声、質感っていうことで意識されてることはありますか?

瀬尾:うーん、このアルバムタイトルのように音域ですよね。自分が歌うのに一番いいところをもう一度見直してみようみたいな。全体的にこのアルバム以前とは違う印象があると思います。湿った感じはないですよね。中島さんは僕の想像できないところまで物事を考える人なので、たくさん考えて出たのが今回のアルバムだと思います。極端なことを言えば、誰でも歳を重ねていくわけじゃないですか? その中でも「20代みたいな歌い方してください」っていうファンもいますけど、20代の歌い方は20代、30代には30代のっていうことにしてくれないと、20代の歌い方してくれっていうのは無理ですよね。

田家:「離郷の歌」っていうのは、今の歌い方ですよね。

瀬尾:今しかできない歌い方っていうのをファンの方にも大事にしていただきたいんですけどね。

田家:特にそれを感じられる曲でした。
田家:これもドラマの主題歌でした、10曲目「進化樹」。1枚のアルバムに4曲もドラマ主題歌が入ってる。でもサントラアルバムでもないんですもんね。

瀬尾:主題歌に使っていただけるのはありがたいことですけど、でもそれだけにおんぶに抱っこするのも失礼な話だから、アルバムとしての統一を出したいっていうことでこの曲もとても考えましたし、他の6曲も彼女はとても考えてると思います。

田家:その中の最後の1曲が「進化樹」。ずっしりと重い曲ですね。進化樹っていう品種があると思ったんですよ。

瀬尾:彼女は本当にこういう造語を作るのも得意ですよね。家系図的なものを、人間を樹に喩えて、人類は進化したのかどうなのか? っていう問い。これもまた原点回帰なんですけど。

田家:歌ったなあっていう感じでしたね。世代が七つ八つっていうのは一つの時間の流れですし、八つ世代を遡るとどこまで戻るんだろうなあ、江戸時代とかですかね。

瀬尾:いいやもっともっと向こうでもいいんですよ、喩えですから。

田家:それだけ歳が重なって、幾億年歩いても人間は果たして進化しているんだろうかっていう大きな問いですよね。これは最初に聴いた時、どう思われました?

瀬尾:これはもう、全部含めて「中島みゆきだ!」って感じがしました。

田家:ですよね、これぞ! っていう。

瀬尾:根本的に流れる彼女の一本の筋っていうのがずれることなく、ドラマや倉本聰先生の書いた脚本にうまくマッチしてるんだと思います。だから倉本聰先生も彼女に歌を頼むんだと思いますよ。

田家:倉本聰さんもここまでのものが出てくるのかって予想できたのか聞いてみたいですね。

瀬尾:最初出来上がったときに、倉本聰先生だけに聴かせたんですよ。その時に倉本聰先生は「うーん、中島みゆきは天才だな」って言ってましたよ(笑)。

田家:みゆきさんもずっと進化してますよね。

瀬尾:そりゃそうですよ、彼女は進化し続ける天才なので。だからそこに付いていけるように、我々も精進していかないと。それができなかったら、僕なんかとっくに捨てられてると思うし、待ってくださいって言っても待ってくれないから。並走するのだけで必死ですね。待ってくださいって言いたくなる時もありますけど、口が裂けても言わないです(笑)。

田家:年が明けて2020年に今思うこと。僕らは進化し続けているのだろうか? 人間はどこから来て、どこへ向かうのだろうか? そういう永遠のテーマを感じさせる曲です。

瀬尾一三2020年part.2、70年代以降の日本の新しい音楽のアレンジャー・プロデューサーの先駆け瀬尾一三さんに特集する1カ月。先週と今週は中島みゆきさん特集、最新アルバム『CONTRALTO』全曲特集をお送りしました。今流れているのは竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」。アルバムを作って今、改めて思うことはなんですか?

瀬尾:改めてっていうか、次はどんなのがくるのかっていうのが楽しみな反面、当面はラストツアーがうまくいくことだけが頭にいっぱいですね。

田家:昨日から始まりましたラストツアーですね、私も同行取材させていただいているはず。73歳の音楽ジャーナリストの最後の旅だと思っております。

瀬尾:じゃあ僕も72歳の最後の旅ということで。

田家:最後まで無事にっていうのは自分のことでもあります。

瀬尾:そうですよ、僕のことでもあります(笑)。

田家:さっき仰っていた「中島みゆきに付いていくのがやっとだ」ってどういうところなんですかね?

瀬尾:彼女のクリエイトする姿というか、どういうものを彼女が求めてるのか。僕が思っていることが本当に合っているのか。そこに僕がいる資格はあるかっていうとこまでも考えますね。

田家:最後のツアーはどう終わるんでしょうか。来週と再来週は瀬尾さんのコンピレーションアルバム『時代を創った名曲たち3 ~瀬尾一三作品集SUPER digest~』の全曲紹介です。それではまた来週。

 

 

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2020/01/15

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第29話 小室等

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第29話 小室等
21020/01 /13に公開
“ペニーレインで雑談を”も2年目に突入!21020年1回目は、あの歴史的名盤「プロテストソング(1978)とプロテストソング2 (2017)」を小室等さんから伺います。

 

 

 

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2020/01/14

2020.1.14 伊集院光とらじおとゲスト瀬尾一三

TBSラジオ

2020.1.14 伊集院光とらじおとゲスト瀬尾一三


【タイムフリー】拓郎LIVE '73話&「中島みゆきさんとは絶対合わないし、一緒にやったら刺し違えると思っていたけど、実際一緒にやったら全然違った」伊集院光とらじおと音楽プロデューサー・瀬尾一三さん!2020年1月14日(火)

 

 

 

 

 

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2020/01/13

153-0051・半歩でも前に

153-0051・半歩でも前に

 

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2020/01/06

TYIS 新年のご挨拶

TYIS 新年のご挨拶

 

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謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
旧年中は格別のご厚情を賜り、誠にありがとうございます。
2020年が明るく素晴らしい年になりますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

スタッフ一同元気に、さらに一層の努力を重ねて業務に邁進してまいります。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

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2020/01/02

153-0051

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2019/12/31

FM NACK5 拓郎・幸ちゃん THE ALFEEは拓郎の命の恩人1990 10 10 ON AIR

FM NACK5 拓郎・幸ちゃん THE ALFEEは拓郎の命の恩人1990 10 10 ON AIR


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2019/12/30

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第28話 小室等 フォーライフ設立

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第28話 小室等 フォーライフ設立

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2019/12/26

J-POPの歴史「1986年と1987年、新しい扉が開いたロック元年」 田家秀樹

J-POPの歴史「1986年と1987年、新しい扉が開いたロック元年」 田家秀樹


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音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語るスペシャルマンス。様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本特集を、5週にわたり記事にまとめてお届け。第4回目となる今回は、新しい扉が開きロック元年と言われた、1986年と1987年。
こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、1986年9月に発売になったTHE ALFEEのシングル「ROCKDOM-風に吹かれて-」。86年11月に出たアルバム『AGES』からお聴きいただいています。ROCKDOMという言葉は、ロックそしてフリーダムという2つの言葉から作った高見沢(俊彦)さんの造語ですね。アルバムタイトルの『AGES』というのは、世代とか時代、そういう意味があります。彼らにとっては初めてのコンセプトアルバムでした。今日の前テーマはこの曲です。先週、80年代の中間点を過ぎました。そこからさらに新しい世界、新しい扉が開いていった。そんな2年間です。

どんな新しい扉が開いたかといいますと、1つはライブですね。ロックのコンサートが一気に大規模化しました。先週初めて国立競技場がコンサートに使われた「ALL TOGETHER NOW」の話をしましたね。そして吉田拓郎さんがつま恋で3回目のオールナイトをやった。その両方のライブに登場していたのが、このTHE ALFEEです。で、THE ALFEEが86年の8月3日、東京湾のベイエリアで行なった野外コンサートが「TOKYO BAY AREA」。史上初めての10万人コンサートだったんですね。アンコールで初めて披露されたのが、「ROCKDOM-風に吹かれて-」でした。俺たちの時代を忘れないで。1969年のことをそう歌っています。
70年代はみんな自分のことで精一杯で、自分たちの時代がどうなっているとか、自分たちの青春を次の下の世代にどう歌うか全然余裕がなくて必死だったわけですね。でも80年代に入って、みんなそれぞれ花が開いて余裕もできて、自分たちの青春ーー60年代70年代のことを今の若い人たちに向けてこんなふうに歌いたいという想いが出てきた。この歌もそんな1曲です。10万人という数を初めてみたのがこのコンサートですよ。すごかったですね。フラットな会場でしたので、1番後ろにいると、はるか先にステージがあったという記憶があります。今だから明かしますが、帰りが混雑しそうだなとアンコール最後まで待たないで、これを聴きながら帰った覚えがあります(笑)。80年代後半、見たことのないコンサートが次々に行われた時期でした。
そんな時代の主役の1組をご紹介します。HOUND DOG、1986年8月発売「ROCKS」。
HOUND DOG / ROCKS
HOUND DOGの功績とは?
ヴォーカル大友康平さん、ギター八島順一さん、西山毅さん、キーボード蓑輪単志さん、ベース鮫島秀樹さん、ドラムブッチャー(橋本章司)さん、日本のロックの大衆化、広がりの上で、HOUND DOGの功績は大きかったですね。86年から88年にかけて彼らはツアー「Bloods LIVE Concert Tour 1986-1988」を行いました。足掛け3年、203本ですよ。すごかったです。1年中どこか旅をしてライブをやっていましたね。
85年、86年に西武球場がありました。大阪球場もやりましたね。そして武道館を15日間やったんですよ。これはおもしろかったですよ。僕らは取材陣でしたから、行けた日、行けなかった日で星取表を作ったんです。「俺、8勝7敗」とか「俺、6勝9敗」とか、そういうことをみんなでおもしろがっていました。僕は8勝7敗でした(笑)。ツアーの間に伝説のイベント「BEAT CHILD」がありました。「広島ピースコンサート」もあったんですね。HOUND DOG、拳を振り上げるロックの形を作りましたね。87年ロック元年と呼ばれました。HOUND DOG、残念でしたね。1番見せてはいけないものを見せて終わってしまった。そんな感じです。
尾崎豊 / Freeze Moon
1985年11月28日に発売になった3枚目のアルバム『壊れた扉から』の中に入っていました。この発売日は10代最後の日でした。11月14日、15日に代々木のオリンピックプール第一体育館、いまの国立第一競技場で「LAST TEENAGE APPEARANCE」というライブがありました。10代最後のライブでした。この曲の、なんだったんだこんな暮らし、なんだったんだこのリズム、っていうところが衝撃的でした。自分の歌の中で自己否定してしまう。すごいなと思った記憶があります。代々木の「LAST TEENAGE APPEARANCE」の打ち上げのシーンが鮮烈でした。彼は「音楽業界に革命を起こします」って言ったんです。19歳ですよ。彼の純粋な気持ちがその後、いろんな形で彼が裏切られたと思う場面が出てきたり、いろんなことで猜疑心にかられたりすることがあの結末につながっていってしまうんですけど、このときの尾崎さんは本当に純粋だったと思います。

先週、大阪球場の話をしました。その中で話し損ねたことがあるんです。大阪球場でのライブが終わりました。大阪球場は70年代に西城秀樹さんがやっていましたけど、尾崎さんはデビューしてから最速の、そしてシンガーソングライターとして、もっとも若い球場ライブだったんですね。周りは「よかったよかった」と盛り上がっているんですけど、関係者控え室というか通路のようなところにみんな集まっての打ち上げで、尾崎さんも缶ビールを持って、1人歩み出ていきなり缶ビールを頭からかけて「ミュージシャンはどれだけ歌えば幸せになるんでしょうか」と言ったんです。この話、僕は尾崎さんのことを話すときには触れるようにしてるんですけど、こういう青年は初めて見たという感じがありましたね。ライブにお祭りごとを求めていないんだな、この人はっていう。
「LAST TEENAGE APPEARANCE」の後、86年の1月1日に福岡国際センターでライブをやって、そのあと活動休止してNYに渡ってしまうんです。80年代半ば、NYは劇的な街でしたね。次のバンドもNYに縁の深かったバンドです。86年に解散しました。甲斐バンド、武道館の解散コンサートのライブアルバム『THE 甲斐バンド FINAL CONCERT "PARTY"』から「ラブ・マイナス・ゼロ」。
甲斐バンド、解散コンサートの裏側
「ラブ・マイナス・ゼロ」は、85年に出たオリジナルアルバム『ラブ・マイナス・ゼロ』のタイトル曲ですね。ニューヨーク三部作と言われた3作目です。この3枚の中では1番洗練されているいいアルバムでしたね。「ラブ・マイナス・ゼロ」という言葉は、ボブ・ディランの曲のタイトルにもありますけど、当時のメディアは、自分も含めて、そういう音楽的な評価がちゃんと出来ていなかったとちょっと胸が痛いところもあります。甲斐バンドというと、いまだに「HERO」と言われるものに、甲斐さんは忸怩たるものがあるだろうなと思いながら見ております。
86年3月に最後のアルバム『REPEAT & FADE』が出たんですね。これは2枚組で、メンバー4人がそれぞれ片面ずつをプロデュースするっていう、本当にこれからそれぞれ別の道をゆくことを表したいいアルバムでしたね。で、86年6月23日から武道館5日間解散コンサート『PARTY』をやりました。解散コンサートなんだけどパーティっていう、彼のスタイリッシュな、ちょっと気取ったというんでしょうか、お涙頂戴にならない一つのお手本になったような解散コンサートでしたね。この3日後に黒澤明さんのプライベートスタジオ、黒澤フィルムスタジオでオールスタンディングのシークレットギグというのを行なったんです。これもお客さんに正装で来てくれっていうライブだったんですよ。スタイリッシュでしたね。ゲストに中島みゆきさんと吉川晃司さんが出ました。みゆきさんと甲斐さんが「港から来た女」という曲を一緒にやりました。
甲斐バンドの解散がありました。そして、シークレットギグが終わりました。その2日後が、初めてのBOØWYの武道館だったんですよ。86年は3月に『JUST A HERO』が出て、11月にミリオンセラーアルバム『BEAT EMOTION』が出る。甲斐バンドからBOØWYに流れていった。時代の変わり目に立ち会ったという感覚がすごくありました。甲斐バンドはどこか60年代70年代のウェストコーストだとか、イギリスのロックバンドのビートに影響されているんですけど、BOØWYはそういう感じが一切なかった。ポストパンクになった、ニューウェイブになった、うわー時代が変わった、ビートが変わったというふうに思いました。
今月ずっとそうなんですが、とてもプライベートな80年代なので、登場している人たちがあまり代わり映えしないというと変なんですけど、テレビでいっぱい歌っていた人とか、誰もが知っているヒット曲とは違うひとつの流れになっているのですが、それはご了承ください。ということで86年夏といえば、このアルバムなんです。1986年9月に発売になりました。浜田省吾さん『J.BOY』から「八月の歌」。
さっきNYの話をしましたけど、『J.BOY』のレコーディングは日本で行われて、ミックスダウンはロサンゼルスで行われました。エンジニアがグレッグ・ラダニーさんという、ジャクソン・ブラウンをずっとやっていた人なんです。アルバムは2枚組で、C面に彼のデビュー曲の「路地裏の少年」を軸に70年代の青春をそこに織り込んだ。「路地裏の少年」は、ライブではもっと長いサイズで歌っていたんですね。それをフルコーラスで、まんま入れたんです。そこに未発表だった「遠くへ - 1973年・春・20才」という当時の大学のキャンパスの様子を歌った歌を交えました。でも、1曲目が「A NEW STYLE WAR」。新しい戦争です。今の時代の歌。1986年の時代をに踏まえながら自分たちが過ごしてきた青春を改めてそこに織り込んだアルバムになっています。で、このアルバムが初めて1位になり、5週間1位を記録しました。
浜田さんは広島出身です。被爆二世です。8月になると広島はいろいろな語られ方をしている。常に被害者と書かれることに対しての、広島の人のいろいろな想いがある。日本は戦争の加害者でもあったわけで、広島を被害者という扱いだけでいいのか、そんなことをこの歌の中にも込めているんですね。ロックで戦争を扱っている。80年代に入ってから、そういうメッセージソングが歌われるようになった。この「八月の歌」は、戦争っていうのは加害者と被害者常に両方いて、誰にもどちらの面もあるんだということを歌っている。そういう意味では、とっても画期的な歌だなと思った記憶があります。
また、グレッグ・ラダニーという人はジャクソン・ブラウンをやっていたので、「路地裏の少年」のロングバージョンが流れたときに、ジャクソンの「Lawyers in Love」みたいだなと言ったんです。「Lawyers in Love」っていうのは、ジャクソン・ブラウンの当時の比較的新しい曲だったんですけど、僕らは「路地裏の少年」のほうが先なんだけどな、とはっきり思っておりました(笑)。
中村あゆみ / ONE HEART
中村あゆみの取材で向かったニューヨークでの体験
1986年12月に出たミニアルバム『Holly-Night』の先行シングルが「ONE HEART」ですね。先週、1985年を語ったとき、人生で1番忘れられない1年だったと言いましたけど、実はもう1年ありまして。85年、86年というのがワンセットみたいなところがあるんですね。なんでかというと、これも私ごとですが、86年に40歳になりました。40歳というのは、拓郎さんがひとつの目安にしていたり、70年代に音楽を好きだった人間にとって特別な年齢だったんですね。達郎さんも、インタビューで「40歳になったら現役なんかやっていなくて、レコード会社の部長さんとか裏方で収まっているんだろうな」って、よく話していたんですけど、40をどう迎えるかっていうのがあったんです。僕は40歳になるとき、NYに中村あゆみさんの取材で行くことになった。そしたら、成田空港で尾崎豊さんに会ったんですね。ちょうど帰国していて、またNYに帰るときで、同じ便だった。彼が「オーマイガー」ってアメリカ人みたいに両手を広げて「どこに行くの?」「あゆみちゃんの取材に行くんだ」「じゃあ向こうで会おうよ」っていう会話があって向こうに着きました。
あゆみさんのアルバムのスタジオに入って壁にかかっているゴールドディスクを見て心臓が止まりそうになりました。ジョン・レノンの『ダブルファンタジー』をレコーディングしたスタジオだったんです。エンジニアが『ダブルファンタジー』のアシスタントディレクターだった。インタビューが終わって雑談になって、トム・ペナンツイオという人に1980年12月8日の話を聞かせてくれないかと言ったんです。そしたら彼が「君がいま座っているその椅子にジョンはずっと座っていて、冗談ばかり言っていたんだよ」と。そのあと「じゃあな」ってジョンがスタジオを出て帰って行った何分後かに、そこのテレビのニュースでジョンが死んだと流れていた。ジョン、またこんな冗談を……って言っていたら本当だった、という話を聞いたんです。俺はジョン・レノンが死ぬ直前までいたスタジオで40歳を迎えているんだと思ったときに、人目をはばからず泣いてしまいましたね。
このとき、NYに中島みゆきさんが甲斐よしひろさんのプロデュースのアルバムで来ていたんです。さらにSIONもレコーディングで来てた。SIONと一緒だったのが、この「J-POP LEGEND FORUM」プロデューサーだった加藤与佐雄さんだったんです。与佐雄さんは尾崎さんのラジオ番組「誰かのクラクション」のディレクターでしたから、彼と一緒に尾崎のところに行こうよと言って、尾崎さんが住んでいたアパートに行ったんです。で、尾崎さんが、あゆみちゃんを紹介してよって言いうんで、イーストビレッジの朝までやっているバーに行きました。あゆみさんと尾崎さんが2人で話し込んでいるのを、あゆみさんのマネージャーと僕は遠くで見ているという、そういう夜でした。自分が関わったり、好きだったアーティストたちが偶然にもNYにいて、そこで自分の40才の誕生日を迎えている。音楽に関わっていて本当によかった、自分が間違ってなかったと初めて思えたのがその時でした。帰りの飛行機が燃料不足でアンカレッジに緊急着陸したときはこのまま落ちるんじゃないかと思いました。そのときに中島みゆきさんが作業していたアルバムからお聴きいただきます。
1986年11月発売、中島みゆきさんのアルバム『36.5℃』から「やまねこ」。
プロデュースが、甲斐よしひろさん。ミックスダウンがNYで行われました。ファンの間で、86年当時のみゆきさんは、姫御乱心と言われています。彼らにすればなんでそんなにロックに行きたがるんだろうと思っていた時期なんですね。外国人のエンジニアを起用したり、いろんな試みをしていた時期です。それを一通り経験して瀬尾(一三)さんと出会って、組むようになるのが88年。来週の話ですね。そういう意味ではみんなロックを意識せざるを得なかったという時代でした。「ウィ・アー・ザ・ワールド」があったり、「ライブエイド」があったり、それまでの70年代のロックとは違う新しい意味をそこに求めようとしていました。デジタルの時代になって、スタジオも変わり、レコーディングの方法も全然変わり、それまでの音とはガラリと変わってしまったんですね。そういう音楽を取り込まないと時代から取り残されるんではないか、遅れるんじゃないかということを、みゆきさんは真剣に考えていた。
87年は、ロック元年というふうに言われたんです。もちろんそれまでずっとあったんですけど、ここから新しい何かが始まるとみんなが思っていた。ロックに意味を求めるようになったんですね。それまでと違うロックが俺たちで作れるんじゃないか。その一つが87年の夏に広島で行われた「ピースコンサート」。被爆者支援、10年がかりで養護施設を立て直そうというはっきりした目標があって、それに向けてみんなでお金を集めようという、チャリティコンサートの中では日本であまりなかった形ですね。さらにこれをみんなで提唱した事務所が大同団結していた。マザーエンタープライズ、ハートランド、ジャグラー、ユイ音楽工房、キティミュージックという業界の大手がみんな集まってこれを成功させようとしたんですね。どんなアーティストがいたかというと、マザーエンタープライズはHOUND DOGに尾崎豊、RED WARRIORS、THE STREET SLIDERS、ハートランドには佐野元春さん白井貴子さんがいました。そして若きヒロインがこの人でした。
86年6月発売。年間チャート5位。渡辺美里さん「My Revolution」。
渡辺美里 / My Revolution
伝説のオールナイトイベント「BEAT CHILD」
さっき事務所の紹介の話が途中で終わっちゃいましたけど、ジャグラーはTHE BLUE HEARTS。そしてユイ音楽工房はBOØWYですね。キティエンタープライズからは安全地帯が広島ピースコンサートに出ていましたね。ピースコンサートのフィナーレで美里さんが歌っているとき、後ろに尾崎さんが回り込んで美里さんを抱え上げたというシーンがありました。美里さんは「やめてやめて」とバタバタしながら慌てていた。そんな微笑ましいシーンもありました。それが87年ですね。
美里さんは「My Revolution」がヒットした86年から西武球場のライブを始めたんですね。20年間やりましたよ。世界的に多分あまり例がないでしょうね。そんな87年のハイライトが、8月23日からオールナイトで熊本県阿蘇山の山中、アスペクタという野外劇場で行われた「BEAT CHILD」ですよ。名付けたのが佐野元春さんですね。出演者は、佐野元春さん、白井貴子さん、渡辺美里さん、岡村靖幸さん、HOUND DOG、尾崎豊さん、RED WARRIORS、THE STREET SLIDERS、THE BLUE HEARTS、BOØWY。お客さんが6万7千人です。そして、豪雨だったんですよ。時間降水量70ミリ。山の斜面で何の雨を遮るものもない。そこが濁流と化したんですね。客席が濁流に飲まれて、低体温症で気を失ったお客さんが流されてくるっていう本当に戦場のようなライブだった。
1000人以上が救急車で運ばれましたね。警察がいたんですけど、主催者に続けてくれっていったんです。なんでかというと、斜面の両脇は渓流ですよ。中止してしまって行き場を失ってしまったお客さんがこの谷に飲まれたら死人が出るみたいな感じになってしまって、朝までライブをやってくれと。限界状況ギリギリの中でのライブが続きましたね。一晩中コンサートが続いた最後が佐野さんだったんですね。明け方、客席に湯気が雲のように立ち上っているんです。それはお客さんの体温、湯気だった。今の夏フェスの反面教師でしょうね。それもひとつの新しい波の象徴的な場面だった。そういう新しい波はライブだけではなくて、レコード会社にも形になって現れました。エピックソニーというのがそういう会社ですね。
TM NETWORK / Get Wild
1987年4月に発売になりましたTM NETWORK「Get Wild」。TMのデビューは84年ですね。シングル「金曜日のライオン (Take it to the Lucky)」、そしてアルバムは『RAINBOW RAINBOW』。ずっとお話してきたように、大規模なライブがたくさん行われて、本当にライブシーンが盛り上がった中、彼らはライブをやらない。そういうデビューだったんです。今のライブの機材とか環境では自分たちの音楽は再現できないといっていました。彼らが掲げていたのは、「FANKS」という旗です。パンクとファンク・ミュージックのファンクと音楽ファンのファン、その3つを掛け合わせた造語ですね。小室哲哉さんも造語作りの名人でしたね。
TM NETWORKもエピックでした。エピック、いっぱいいましたよ。佐野元春さん、鈴木雅之さん、渡辺美里さん、TM NETWORK、大沢誉志幸さん、バービーボーイズ、大江千里さん、さらにTHE MODS、みんなエピックですよ。70年代にURCとか、エレックとか、ベルウッドっていうインディーズ系のレーベルがありましたけど、エピックはソニーという大メジャーの中でのロックに特化したレーベルですからね。影響力は70年代のそういうレーベルの比ではありませんでしたね。
TM NETWORKは、コンピュータを使ったダンスミュージックという意味で新しい流れでした。その前にYMOがあって、とっても実験的な形で幕を閉じた。それを継承する形で大衆的なポップミュージックの中に花を咲かせた。これはTMの功績ですね。ただ、年間チャートとかヒットチャートでは、今日ずっとお話してきたような人たちはあまり登場してきていないんです。やっぱり86年87年のシングルチャートはテレビにたくさん出てくる人や演歌や歌謡曲の人たちが頑張っていましたね。86年は桑田さんのソロのKUWATA BANDが「BAN BAN BAN」で4位に入ったりもしている。健闘している人たちもいました。中森明菜さんなんかは、特に87年、そういう中に4曲入れていましたからね。で、87年は桑田佳祐さんが初めてソロで活動を始める。そういう年でもありました。
さて、この87年の年間チャート、「Get Wild」の上にいたのが次の人たちなんですが、このライブの話をしましょう。
BOØWY / Dreamin’
BOØWYの渋公ライブで起きた「ロック史上、劇的な瞬間」
1987年12月24日、BOØWYの渋谷公会堂、アンコール最後の曲「Dreamin’」です。BOØWYは9月に6枚目のアルバム『PSYCHOPATH』を出して、9月16日からツアーに出ていました。ツアーが始まったときから、ひょっとして解散するんじゃないか、という噂がずっと流れていて、ツアーファイナルを迎えてしまったんですね。渋谷公会堂、中で何かが起きているということで集まったお客さん1000人ぐらいが中に入ろうとして渋公の正面玄関が割れたという、そういう出来事がありましたね。実は、このコンサートを僕は見ていないんです。見ていないっていうよりも、見せてもらえなかったと言ったほうが正しいかもしれません。お声がかからなかった。僕はこの日、RCサクセションの武道館。BOØWYは自分たちのインディーズの事務所から始めていてるバンドですから、最初から関わっていた人たちでやりたいというある種誓いみたいなものがあった。僕はちょっと歳が上でしたし、甲斐バンドとか浜田省吾さんとか、そういう人たちを書く機会が多かった。土屋さんというマネージャーがいました。のちに「氷室がソロになるので、これからよろしくおねがいします」とLAST GIGSの後に連絡をくれるんですが、そのとき土屋さんに「俺、渋公見てないんだけどいいのかな」って言ったら、「いやいいんです。田家さんはおじさんだと思っていましたからお呼びしませんでした」ってはっきり言われました。「これからはそういう人たちともお付き合いしたいのでよろしくお願いします」と。BOØWYはそういうバンドでした。
ロック史上、劇的な瞬間っていうのはたくさんありますが、これは映画になっていますしコンプリート版も出ました。こんなに男が泣かされる場面を僕は知りません。アンコールがはじまって、客席も固唾をのんでいる中で氷室さんが口を開きます。その時に、氷室さんは何度も布袋さんのほうを見るんです。「お前、本当にいいのか?」って感じで見るんですけど、布袋さんがその目をそらすんです。これはぜひ映像でご覧ください。今見ても泣きます。その翌日、新聞に解散が発表されるんですね。88年4月4日5日の東京ドームが最後のLAST GIGSになるわけです。その話は来週。
「J-POP LEGEND FORUM」
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。個人的なと最初にも申し上げましたが、かなりどころじゃないですね(笑)。まったく個人的な80年代グラフィティ。まあ、80年代ノートですからね。取材したり、ライブを見たり、インタビューしたり、気になっていたり、そういう人たちの話が中心になっております。
冒頭で80年代が開花期と言いました。開花期そして転換期でもあった。鈴木雅之さんがソロになってデビューしたり、久保田利伸さんがデビューしたのもこの頃です。そうやって花を開いたいくつもの新しいジャンルの音楽の中にファンクという言葉がありました。ファンクっていうのは、70年代には日本のロックの中ではほとんど使われてこなかった。そういう音楽をやっている人たちがいなかったんですね。久保田さんがデビューしたとき、松任谷由実さんが言った言葉があったんですけど、「山下くんが10年かかったところを3年でやった」と。久保田利伸さんの登場によってファンクという言葉が誰でもが使えるようになった、音楽をイメージできるようになった。そういう存在でしたね。89年にFM802が開局したときに、ファンキーミュージックステーションというふうに使っていたんですね。90年かな、大阪のスポーツニッポンで「平成バンド天国」って連載を書いたことがありまして、802の今の社長の栗花落光さんにお話を伺ったことがあったんです。「ファンクってどういう意味ですか?」って聞いたら、彼が「ごっつええやんってことですよ」と言っていて。いやあ、いい答えだなと思った記憶があります。802の開局も、来週ですね。
怒涛の80年代。来週は最終週、88年、89年。昭和も終わります。

 

 

 

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2019/12/25

「音楽と契約した男 瀬尾一三」 吉田拓郎の寄稿文も収録

「音楽と契約した男 瀬尾一三」 吉田拓郎の寄稿文も収録


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2月10日には瀬尾にとって初の書籍「音楽と契約した男 瀬尾一三」が発売されることも決定した。本書は、1969年に音楽活動を始めてから現在までのキャリアをまとめたもので、編曲手法やアーティストコミュニケーションにまつわるインタビューなども掲載。さらに、萩田光雄、松任谷正隆、山下達郎、亀田誠治との対談、吉田拓郎、中島みゆき、中村中による寄稿文も収録される。

 

 

 

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2019/12/23

諸人こぞりて・街を片手に散歩する

 

 

 

 

 

 

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ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第27話 名盤「クリスマス」

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第27話
とうとう初代社長・小室等さん登場!拓郎、陽水、泉谷、そして小室さんが参加した幻の名盤「クリスマス」を語ります。

 

 

 

 

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2019/12/19

J-POPの歴史「1984年と1985年、ニューミュージックから新世代へ」田家秀樹

J-POPの歴史「1984年と1985年、ニューミュージックから新世代へ」田家秀樹

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音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語るスペシャルマンス。様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本特集を、5週にわたり記事にまとめてお届け。第3回目となる今回は、ニューミュージックから次の世代へバトンタッチが行われた、1984年と1985年。
こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、吉田拓郎さん「明日に向って走れ」。1985年7月27日から28日にかけて静岡県掛川市のヤマハリゾートつま恋で開かれた「ONE LAST NIGHT IN つま恋」のライブver.ですね。オリジナルは76年のアルバム『明日に向って走れ』。今日の前テーマはこの曲です。
今週は84年と85年。中間点。劇的な年でした。その中でも、劇的さを作り出した双璧の1つが吉田拓郎さんのイベント「ONE LAST NIGHT IN つま恋」です。拓郎さんにとっては、1975年以来2度目のつま恋でのオールナイト。79年に愛知県の篠島で「アイランド・コンサート・イン篠島」というオールナイトをやったんですが、それを入れると3回目です。この日は開演が7月27日の午後5時、終演が7月28日の午前7時。すごいでしょ? 75年につま恋のオープニングで不滅の名文句「朝までやるよ」と口にしましたが、この日は朝になってもやっていた。こんなことやる人いない、という感じでした。
先週が82年83年編で、そのときに70年代が終わったと申し上げました。だけど、先週も先々週も70年代最大の巨人・拓郎さんの名前は出てこなかったでしょ? 79年に篠島でオールナイトコンサートを終えたあと、80年代をどう迎えるか、いろいろ考えているように見えたんですね。例えば、古い歌はもう歌わないと宣言した。そういう中で、80年の12月8日にジョン・レノンが亡くなったんです。御年40歳でした。80年代に入った拓郎さんが口癖のように言っていたのが、ジョン・レノンが死んだ40までは歌う。当時拓郎さんはインタビューで「俺のやることはもうないんだ。すべてやり尽くしたんだ。この気持ちはお前らに話しても絶対にわかってもらえない」と言っていたんですね。その中でのモチベーションが、ジョン・レノンが死んだ年まではやる、だったんです。
85年夏というのは、拓郎さん30代最後の年でした。70年代の幕を引くんだというふうに言っていましたね。自分で開けた時代を自分の手で閉じる。拓郎さんのバックバンドだった浜田省吾さんがいた愛奴、かぐや姫や猫の再結成、関わったミュージシャンたちが一堂に集まっての一夜の祭り。拓郎引退という噂が飛び交ったりしましたね。そういう85年のお祭り。
さっき双璧と申し上げましたが、もう一つが直前6月15日、国立競技場が初めて音楽のイベントに使われた日がありました。「ALL TOGETHER NOW」。それまでは、芝生が痛むからコンサートには使わせないと言っていた国立競技場が初めて使わせてくれた。主催が民間放送連盟だったんです。特にラジオ委員会というのがあって、そこが放送局を全部束ねていたので、国立競技場もいやとは言えなかった。そういうイベントで、司会が拓郎さんだったんです。そのテーマ曲をお送りします。松任谷由実・小田和正・財津和夫、3人で「今だから」。
松任谷由実・小田和正・財津和夫 / 今だから
この曲は聴いたことがないという方が多いんじゃないでしょうか。これ、CDになってないんです。アナログ盤からお送りしているのでちょっとノイズがお耳に入ったりするかもしれません。「ALL TOGETHER NOW」、出演者すごかったですね。吉田拓郎、オフコース、チューリップ、松任谷由実、サディスティック・ユミ・バンドーーユーミンが入りましたからね。そしてサザンオールスターズ、佐野元春、ラッツ&スター、チェッカーズ、アン・ルイス、白井貴子、南こうせつ、イルカ、さだまさし、武田鉄矢――彼はラジオ体操をやりました。そして、はっぴいえんどが12年ぶりの再結成だったんですね。70年代の世代から80年代世代へのバトンタッチという世紀の豪華イベントでした。もう一つ、旗印があったんです。国際青年年。民間放送連盟が全部集まって主催することと、世界の青年の祭典なんだという事がお役所をウンと言わせました。こういうイベント、もうないんですかね。
84年1月発売、2枚目のシングル、チェッカーズ「涙のリクエスト」
チェッカーズ / 涙のリクエスト
フミヤが語った「週刊明星からディクショナリーまで」の真意
先ほどお話しした「ALL TOGETHER NOW」で、チューリップのピックアップメンバーのステージでピアノの中から登場したのがチェッカーズだったと思います。福岡県久留米市出身のドゥーワップグループ。81年の「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」のジュニア部門、最優秀ジュニア部門。高校生が2人いたんですね。83年に「ギザギザハートの子守唄」でデビューしたんですが、自分たちの音楽性に対して、これは演歌っぽくて嫌だっていうことで拒否した。その話は有名ですね。
80年代のはじめは、松田聖子さんをはじめいわゆる、女性のアイドルがどっと出てきたときで、80年代はいわゆるたのきんトリオー田原俊彦、近藤真彦、そういう3年B組金八先生出身というのが男性アイドルの1つの新しい流れだった。そんな中、チェッカーズはどこにでも出てきたんですね。初めて取材したのが85年の3枚目のアルバム『毎日!! チェッカーズ』のときだったんですけど、そのときの印象がすごく強かった。彼らは週刊明星から、芸能史から、テレビから全部出ていました。アイドルなんだけど、アイドルじゃない。音楽の理屈理論、イメージ、情熱、すべて持っているんですね。僕らはこういう音楽をやりたいんです。でもアイドル扱い全然構わないんですっていうのが、とっても新しい感じがしました。フミヤ(藤井郁弥)さんの当時の口癖がありまして「週刊明星からディクショナリーまで」。1番柔らかいところから1番硬いところまで俺たちは出て行くんだよという、そういうグループでありました。
さて、次の人たちも「ALL TOGETHER NOW」組ですね。
THE ALFEE / 星空のディスタンス
THE ALFEEの17枚目のシングルですね。ALFEEは、デビューしたとき、再デビューしたとき、「星空のディスタンス」を出しているときと、表記が少しずつ変わっているんですね。で、THE ALFEEになっています。再デビューして、これは15枚目のシングルなんですよ。そんなに時間がかかっていたんだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、70年代の不遇でレコードも出せなくて、かまやつひろしさんや研ナオコさんのバックをやっていた。82年に再デビューして、そこからここまでさらに10枚以上のシングルを出し、前作の「メリーアン」で爆発した。ここで、今でも必ずステージで歌うという代表曲が出来上がったんですね。作詞が高橋研さんと高見沢俊彦さんの共作です。もともとの詞は、「燃え上がる! 愛のレジスタンス」だったそうです。でも高見沢さんがどうしても「燃え上がる」は客観的すぎるから、「燃え上がれ」にしてくれと変えたというエピソードがありますね。
THE ALFEEもそうですけど、この頃のアーティストを支えていたのが音楽雑誌でした。みんなテレビにあまり出ませんでしたし、芸能誌からもあまり取材を受けなかった。チェッカーズは別ですけど、みんなラジオと雑誌だったんですね。THE ALFEEは新譜ジャーナルとGBが多かった。84年に新しく創刊したのがPATi・PATiです。GBという雑誌は77年に創刊して、中島みゆきさんとかオフコースとか、フォーク系のアーティストは割と出ていたんですね。チェッカーズがデビューしたとき、GBはチェッカーズをやらないと言ったんです。「これはアイドルだから僕らはやらない」と。それに反発してソニーマガジンズで「チェッカーズいいじゃん」って言っている編集長・吾郷輝樹さんが、俺自分で作るからと始めたのがPATi・PATiなんです。チェッカーズ、尾崎豊、吉川晃司で1年間持たせた。それが創刊当時ですね。吉川晃司さんは84年2月に「モニカ」でデビューして、大判の写真メインの音楽雑誌の全盛期というのが来るんです。GBはTHE ALFEEもそうですけど、彼らの前からこの人たちが看板でした。
オフコース活動再開シングル、84年4月に発売になりました。「君が、嘘を、ついた」
オフコース / 君が、嘘を、ついた
80年代になっても健在だった「ライブの拓郎」「アルバムの陽水」
小田和正さん、清水仁さん、松尾一彦さん、大間ジローさん、4人のバンドの音ですね。81年に武道館10日間コンサートがありました。そのあと、鈴木康博さんが抜けて、こういうメンバーになったんですね。活動再開を決めるまでの間について、小田さんがインタビューで言っていたのは「僕はダンボだった」というセリフ。ダンボって、ディズニーの映画がありましたね。耳の大きいゾウさん・ダンボは自分が窓から飛べるのか飛べないのかってずっと悩んでいる時間があったわけですけど、小田さんは、この4人のメンバーで空を飛べるんだろうかとずっと考えていた。そして84年4月に出た『君が、嘘を、ついた』で活動を再開したんですね。
84年6月にアルバム『The Best Year of My Life』というのが出ました。我が人生、最良の年というタイトルですね。自分の最も素晴らしい年なんだというタイトルのアルバム、翌年85年の4月から再開のツアーが始まりました。初日、覚えてますね。千葉県文化会館。まだ桜が咲いていたな。開演1時間くらい前に会場にいったら、もうお客さんがあふれていて、オフコース4人になってどんなステージをやるんだろうって不安の入り混じった緊張感というのがとても初々しかった。懐かしい思い出です。
井上陽水 / いっそセレナーデ
84年の12月に出た『9.5カラット』、セルフカバーアルバムですね。アルバムチャートは1位、そして陽水さんにとっては『氷の世界』以来2作目のミリオンセラーアルバムでした。70年代にもミリオンセラーを出して、80年代になってもそれだけの実績を残した。セルフカバーアルバムが1位になった前例というのがありました。拓郎さんの『ぷらいべえと』なんですよ。70年代、拓郎・陽水の時代と言われましたが、この2人は80年代になっても健在でありますね。ライブの拓郎、アルバムの陽水。この年のレコード大賞アルバム大賞がこの『9.5カラット』なんですね。カバーアルバムが大賞をとったのはこれが初めてです。シングルチャートのほうでは、84年11月に中森明菜さん「飾りじゃないのよ涙は」が1位になっている。
84年には安全地帯の「恋の予感」も出ました。安全地帯はもともと陽水さんのバックを担当していたバンドなわけで、陽水さんが詞も書いたりしていました。安全地帯は85年6月に出た玉置浩二さんが詞曲を書いている「悲しみにさよなら」が大ヒットして、年間チャートの9位になったんですね。この年の年間チャートおもしろいんです。1位のチェッカーズ「ジュリアに傷心」、2位が中森明菜さん「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」、3位が小林明子さんの「恋におちて -Fall in love-」、4位C-C-B「Romanticが止まらない」、5位もチェッカーズ「あの娘とスキャンダル」、6位中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」、7位も明菜さん「SAND BEIGE -砂漠へ-」、そして8位もチェッカーズ「俺たちのロカビリーナイト」、9位が安全地帯「悲しみにさよなら」で、10位が松田聖子さんの「天使のウィンク」なんです。ニューミュージク、ポップス、ロック系のチャートなんですね。先週、83年のチャートに演歌がたくさんあったという話をしましたけど、激変していく80年代だったんですね。
85年にはもうひとつ劇的なシーンがありました。尾崎豊さんが大阪球場でライブをやったんです。尾崎さんの曲をお聴きいただきます。85年1月に発売になった「卒業」。
尾崎豊 / 卒業
尾崎豊、衝撃的なホールコンサート初日
先週、尾崎さんの「街の風景」をお聴きいただきましたが、あの曲が1曲目だったアルバム『17歳の地図』が、いわゆるレコード会社が決めた最低出荷枚数にも満たない、本当に数が少ないイニシャルだったんですね。でも、84年8月に日比谷野外音楽堂で「アトミックカフェ・ミュージック・フェス’84」という反核コンサートがありました。浜田省吾さんとか、加藤登紀子さんなんかも出ていたんですが、このライブで尾崎さんがPAから飛び降りて骨折したんです。この噂が業界、そして若い人たちの間を駆け巡りまして、尾崎何者? となって、改めて『17歳の地図』がみんなに訊かれるようになった。そして85年3月に2枚目のアルバム『回帰線』が出たんです。これが初登場1位だった。劇的でしたね。
ホールコンサートも始まりました。日本青年館が初日だったんですけど、これが衝撃だったんですね。こんなコンサートをやる若者は初めてみた。何が衝撃だったかって、エンターテイメントという言葉では語れない、自分の中のモヤモヤした何か、衝動、苦しみ、悩みとかを全部叩きつけて塗りたくっているようなステージだった。ステージを這いずり回り、転がりまわり、みたいな。妙な言い方ですけど、そのときに彼は長生きしないなって漠然と思いました。8月25日に大阪球場で10代のシンガーソングライター初めての大阪球場コンサートというのがありました。その前に、週刊朝日という週刊誌で今の音楽シーンを語るみたいな座談会があったんですね。残間里江子さんや山本コウタローさんとかの中に僕も入れてもらって、尾崎ってどうなのって話をコウタローさんが振った。そのとき、朝日新聞の写真部に尾崎豊の写真がなかったんです。つまり、大人は全然知らなかったという例ですね。尾崎さんについては来年1月3日から16日までドキュメンタリーが公開されます。『尾崎豊を探して』。尾崎を撮り続けていた映像監督・佐藤輝さんの未発表、95分のドキュメンタリーです。
85年夏というのは、本当に劇的な移り変わりの年でした。拓郎さんのつま恋があって拓郎引退という噂があって、萩原健一さんがよみうりランドでライブをやって、しばらく萩原さんは音楽から離れる。で、大阪球場で尾崎さんがこういう劇的なライブを行った。2つの終わりと1つの始まりっていう原稿を、僕は『噂の真相』に書いた覚えがあります。
85年6月1日発売、BOØWY の1stシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」。
BOØWY / ホンキー・トンキー・クレイジー
故・佐久間正英氏とBOØWY の出会い
いやぁ、かっこいいですね。85年6月1日発売、BOØWY の1stシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」。アルバムが6月21日に出た『BOØWY』ですね。東芝EMI発売。「ホンキー・トンキー・クレイジー」が出て、アルバム『BOØWY』の間に、あの「ALL TOGETHER NOW」がありました。国立競技場でニューミュージックから次の世代にというバトンタッチの式典が行われているとき、それを横目に、このアルバムとシングルが出たんですね。プロデューサーが佐久間正英さん、レコーディングがベルリンハンザ・スタジオ。もともと徳間ジャパンとビクターでリリースしていたので、決してインディーズではないんですけど、いわゆるメジャーデビュー的な感覚は東芝EMIからですね。そして、プロデューサーに起用された佐久間正英さんが「BOØWYをお願いします」と言われたときに1つ条件を出した。佐久間さんはこの条件を出せばきっと断ることができるだろうということで、ベルリンのハンザスタジオに行きたいと言ったら、「いいですよ」と言われてしまったんです。佐久間さんはここからBOØWY、そして氷室さんとずっと関わることになっていきます。
ここから70年代のはっぴいえんどの重めなウェストコースト風なドラム、ベースのリズムから、ハネるような、布袋さんの足が見えるようなビートに変わっていったんですね。縦ノリのビートバンド。そしてBOØWYも音楽雑誌ですよ。PATi・PATiでしたね。BOØWY があまりにも売れたために、PATi・PATiからBOØWYメインのロック雑誌というのが生まれました。PATi-PATi ROCK’ N’ ROLL。このあとぐらいからアマチュアバンドのコンテストになると、出場者の大半がBOØWYを演奏し、審査員がまたBOØWYかよと呆れた顔をする。そういう時代が来るわけです。世代交代とバンドブーム。その間の中で生まれた名曲です。
サザンオールスターズ / メロディ
いやぁ、屈指の名曲。もしサザンで1曲好きな曲を挙げてくれと言われたら、僕はこれを挙げるかもしれない。この曲が入ったアルバムは9月13日に出た『KAMAKURA』ですね。当初6月の発売だった。そして7月からツアーをやることも決まっていた。でも、レコーディングが延びて全部キャンセルになって、9月発売になりました。曲が増えすぎてしまったんですね。2枚組になりました。レコーディングが終わってテープが工場に届いたのは発売の20日前だった。レコーディング時間数1800時間。なんでそんなに時間がかかったかというと、デジタル化ですよ。いわゆるサンプラーとかデジタルシンセとかドラムマシーンとか新しい機材がたくさん出てきて、それを使いこないたりしているうちに、これだったらもっといろいろなことができるねみたいなことで、どんどん時間が経ってしまった。そういうレコーディングでした。
アルバムの1曲目は「Computer Children」でしたらからね。デビュー当時のサザンオールスターズはアメリカ南部のロックンロールバンド的な、ちょっと肉体派的な若者たちだったんですが、それを卒業しました。そういうコンピューターを扱ったアルバムの中で、シングルカットされたのが、この「メロディ」ですよ。音楽で1番肝心なのはメロディなんだ。彼らの気概みたいなものが伝わってくる、そんな曲だと思いますね。アルバムの中に「吉田拓郎の唄」というのがありましたね。お前の歌が俺を悪くしたっていう。拓郎さん引退という噂を受け取めて、彼らはこういう送る歌を書いたりしました。国民待望の2枚組。国民的ロックバンドという呼び方は最近よく使いますけど、僕はこのサザンの『KAMAKURA』で初めて見た気がしますね。
REBECCA / Maybe Tomorrow
85年11月に発売になった4枚目のアルバム『REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜』の最後の曲ですね。このアルバムの1ヶ月前10月にシングル『フレンズ』が出たんですね。この『フレンズ』が女の子を直撃しました。当時、少女漫画の中に1番たくさん歌詞とかグループ名が吹き出しなんかで出てきたのがREBECCAでしょう。アルバム『REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜』はバンド史上初めてのミリオンセラーアルバム。BOØWY が翌年にミリオンを出すんですけど、BOØWY より一足早かったんですね。男子を直撃したBOØWY と、女子をロックの虜にしたREBECCA。NOKKOさんの書く歌詞と、土橋安騎夫さんのヨーロピアンなちょっとしめった霞がかかったようなメロディがアメリカのシンディ・ローパーなんかとちょっと違う日本的なガールズロックを作りましたね。
85年12月に彼らが初めて渋谷公会堂でライブをやって、そのライブ映像が去年DVDになって、今年完全版が発売になりました。このREBECCAの渋公のライブは素晴らしいですよ。NOKKOさんが何かに乗り移ったかのような、本当に必死な、私の人生はここ変わる、このために私は生きてきたんだ、ここで死んでもいいんだみたいな、そういうパフォーマンスなんですね。今年、89年の東京ドーム、BLONDSAURUSのライブ映像作品も出ましたけど、こちらは完成されたREBECCA。この変わり方が実に劇的で、今見ても当時のライブはこういうライブだったんだってことがよくわかって、貴重な映像であります。
「J-POP LEGEND FORUM」
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。いやあ、今日おかけした曲、いかがでしょうね。みんないい曲だったなあって、聴きながら忘年会気分になって、お酒を飲みたいなと思ったりしました。でも1人でこういう曲を聴いてお酒を飲んでいると悪酔いするんですね。あまりにもいろいろなことを思い出しすぎたり、切なくなったり、愛おしい年だったなと思ったりすると、お酒から抜けられなくなります。
さっき話しましたが、音楽雑誌がいっぱいありましたね。PATi・PATi、新譜ジャーナル、GB、B・PASS、音楽専科、ベストヒット、ARENA37、僕よく書いたのはPATi・PATi、新譜ジャーナル、GB、ベストヒット、B・PASSかな。どこでどのアーティストを書いたかいまだに覚えています。編集長の顔も思い浮かびます。PATi・PATi吾郷さん、新譜ジャーナル大越正実さん、GB塚本忠夫さん、ベストヒット飯名さん。B・PASS小松さん、みんな元気かなって思ったりする年の瀬でありますね。僕は70年代、最初は編集者で、その後、放送作家だったりしました。そして雑誌編集者にまた戻って音楽だけ書くようになったのが83年。尾崎豊さんが出てきて、彼がステージで、俺は教室でカセットテープを聴いていて、先生はやめろと言ったけど俺はやめなかったんだ。やめないでブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウンや浜田省吾や佐野元春を聴いていたんだと叫んでいた。「Scrambling Rock’n’Roll」ですよ。それを聴いて、俺もまだやることがあるなと思ったんですね。こういう世代に何かが伝えられたら、僕は音楽の周辺にいて自分も楽しくやれるし、やれることがみつけられるなと思ったりしました。あの時代の音楽雑誌は本当に懐かしいです。自分の人生1番楽しかった。1番印象深かったのは何年かと言われたら、1985年だったなというふうに今改めて思いながら今週はお別れしようと思います。
来週は86年、87年。やっぱり楽しい2年間でした。
サザンもユーミンも、これから先、いろいろな形で出てきます。あなたと私の忘年会。来週も楽しませていただけたらと。お前が1番楽しんでいるだろうと? そんな時間でもありますが(笑)。

 

 

 

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2019/12/16

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第26話

ザ・フォーライフヒストリアル~ペニーレインで雑談を~ 第26話


先週に引き続き、元ガロ大野真澄さん登場!数多くのヒット曲を手掛けたアーティストから当時のお話を伺います。





1話~25話


 


 


 

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2019/12/14

2019.12.13吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD

2019.12.13吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD

 

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